八重山歌集-地縛霊に捧げるラブソング―【オリジナル版】


第二部

七月二十七日(月)
 
 仕事を終え帰宅すると、僕は、また昨夜と同じようガラス戸の前に腰を下ろした。三線のケースも目の前に用意はしたが、中身は取り出さずに真澄が声を掛けてくるのを待った。きっと、また真澄が声を掛けてくるに違いないと僕は思っていた。
「こんばんは、純さん。お仕事お疲れさまでした」
 真澄は、僕の予想、いや期待を裏切らなかった。 
「真澄さんも、お疲れさまでした」
 姿の見えない相手と話すのは、やはり少し勝手が違った。視線のやり場に少々迷った。ともあれ、僕は、まず昨夜、真澄と別れてからネットで調べたことを真澄に報告した。
「やっぱり、そうだったのね。」
 真澄の声には、僕の話に驚いたような様子はまるでなかった。もう、その件には興味はないといった調子で早々に歌のリクエストをしてきた。
「今日も、純さんの歌、聴かせてもらえるかな?」
「ああ、喜んで」
 社交辞令ではなく、本音だった。僕は、本当に真澄に聴いて欲しいと思っていたのだ。
「今日は、鳩間島の歌を聴いて欲しいんだけど、いいかな?」
「もちろん。ああ、でも、その前に鳩間島が、どんな島か教えて」
「うん、そうだな」
 僕は、ガラス戸の近くに置いてあったままの八重山のフリーペーパーを開き、地図で鳩間島の位置を示した。
「鳩間島は西表の北にある小さな島で、歩いても1時間で一周できるんだ。初めて行った時は、まだ、定期船もなくて、西表島からシュノーケリングのツアーに参加したから行けたんだ。島の頂上に灯台があってね、灯台の下で見る景色が素晴らしいんだ。島全体が見渡せて、西表も良く見える。空の青も、海の青もとても綺麗なんだ」
「純さんは、その島に何度も行っているの?」
 僕は、真澄にとっては想定外の答えを返した。
「いや、二回しか行ったことがないんだ。もう二度と行けないかもしれない」
「どうして、行けないの?」
 当然のことを真澄は聞いてきた。
「悲しいというか、切ない思い出があるんだ」
「ああ、その思い出話、歌より先に聞きたいな」
 声が弾んでいた。真澄の好奇心が一気に高まったのがわかった。
「そうだね、実は僕も、歌う前にその話を聞いてもらった方が良いと思っていたんだ。話、長くなっても構わない?」
「大丈夫、暇だから」
 真澄は昨晩と同じ返答をしてきた。真澄は僕が期待した通り、鳩間島に関する話をしっかりと聴いてくれるようだった。
 奈々さんの話もそうだったが、鳩間島にまつわる物語を、知り合ったばかりの、しかも姿も見えない相手にしようとしているのは、やはり不思議な気もした。
 鳩間島にまつわる物語、それは奈々さんにまつわる物語とは違い、その全貌を長く自分の心にだけ秘めていたものではなかった。だが、そこには、ほんの少しだけ僕が誰にも話したことがないことがあった。僕は、そのことを真澄に、いや、姿の見えない真澄にこそ聴いて欲しいと思っていた。
「鳩間島の思い出を話すには、僕の姉さんのことから話さないといけないんだ」
 そう告げてから、僕は、まず、姉のことを語り始めた。
 
 僕には、容子という五歳年上の姉がいた。僕が初めて八重山を訪れた時、姉は女子大で国文学を学ぶ三年生で、国語の教師を目指していた。
 姉は、派手な顔立ちの美人というわけではなかったが、弟の僕から見ても美しい女性だった。面倒だからと言って、いつも髪は肩にようやく届く程度の長さにしていた。癖がまったくなくサラサラの黒髪は艶があって綺麗だった。やや童顔の姉には、美人という名詞より、「かわいらしい」、「愛らしい」という形容詞が似合うような気がした。
 それゆえに、姉は小学生の頃から男に追い回される存在だった。家族で繁華街を歩いている時に、子役やモデルのスカウトに声を掛けられたことも一度や二度ではなかった。僕が小学校一年生の時、姉を巡って男子が争奪戦を繰り広げているところを目撃した。私立の女子中学に通い始めてからは、通学途中に押し付けられたらしいラブレターを破いて、ゴミ箱に捨てているのもよく目にした。まだ幼かった僕が、それらの意味することに気づいたのは、もちろん、ずっと後になってからのことだが。

 子供の頃の僕にとって、五歳の年の差は大きな違いだった。僕が幼稚園の砂場ではしゃいでいた頃、姉は、すでに中学受験の準備をしていた。しっかり者の姉から見ると、僕は如何にも頼りなく見えたのだろう。姉は僕をとても可愛がってくれた。そして、僕も母親以上に姉に甘えていた。
 小学校二年生の時、こんなことがあった。その日、近くの神社で夏祭りがあり、家の傍の桜並木には露店が並んでいた。僕は姉に手を引かれて歩いた。初めて見た姉の浴衣姿は、女性を意識する年でもない僕にすら眩かった。
 姉と違って計画性のない僕は、早々に親からもらったお小遣いを使い果たしてしまっていたが、つい杏飴の露店の前に立ち止まってしまった。姉は、すぐに状況を察したようだった。自分の巾着から財布を取り出すと、「はい」と言って杏飴の代金を僕に握らせた。
「お母さんたちには内緒よ」
 姉は、唇の前に人差し指を立てて見せた。その時食べた杏飴の甘酸っぱさは、今でも忘れられない。

 僕が小学校四年生、姉が中学三年生の時、父親の仕事の都合で僕たちはニューヨークに移り住んだ。僕も姉も公立の学校に通い、約四年間を過ごした。
 頭が良く、英語の勉強にも熱心だった姉は、中学二年の終わりには、すでに二級程度の英語力があった。だから、姉はすんなりと現地の中学に適応した。しかし、何の準備もなく、いきなり現地の小学校に放り込まれた僕にとって、学校は地獄以外の何物でもなかった。
 よく泣いて帰った。そんな時、姉は、いつも僕を抱きしめて言ってくれた。
「大丈夫よ、英語なんてすぐに分かるようになるから、心配しなくていいよ」
 姉は、よく僕に英語を教えてくれた。宿題も、いつも手伝ってくれた。気高く、優しく、美しい姉は、その頃の僕にとっては正に天使のような存在だった。
 思春期の初め、僕は心身の変化に大きく戸惑った。そのせいで、少々辛い思いも経験した。しかし、春の風に飛ばされて宙に舞った心は、幸いにも変な方向に飛ばされることはなく、無事に元の位置に着地することができた。

  僕が中学生になり、英語も普通に話せるようになると、さすがに小学生の時のように姉に甘えることはなくなった。しかし、成長するにつれて、僕は、姉のことについて、それまで気づかなかった色々なことに気づくようになった。
 高校三年の終わり頃になっても、姉の周囲には男の気配がまるで感じられなかった。小さい頃から男に追い回されていた姉は、恋愛に関してはひどく臆病だった。追いかけてくるものからは逃げたくなるというのは自然な心理だったし、昭和生まれで、純日本風、インドア派で日本語の小説にどっぷりとはまっている姉にとって、ニューヨーカーたちは眼中になかったのかもしれない。
  姉は、ほとんど外に出かけることはなく、女友達が家に遊びに来ることも少なかった。しかし、梨花さんという、近所に住む日本人の同級生だけは、よく僕らの家に来ていて、僕も梨花さんとは言葉を交わすようになっていた。

 それは僕たちがニューヨークを去る日が近づいた秋のことだった。学校帰りに、僕は近所の公園のベンチに腰を下ろす梨花さんの姿を目にした。梨花さんは手にチェーン店のコーヒーショップの紙コップを持っていた。僕は梨花さんに声を掛けることにした。聞いてみたいことがあったのだ。
「こんにちは。梨花さん」
「あら、純君。お久しぶりね」
 梨花さんは小さく手を振り笑顔で答えてくれた。
「あの、隣に座ってもいいですか?」
「もちろん。座って、座って」
  梨花さんが快く応じてくれたので、僕は梨花さんの隣に腰を下ろした。
「あの、聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「何かしら?」
 僕は単刀直入に尋ねた。
「うちの姉、学校では普通に人付き合いできてるんですか?」
「ぜんぜん普通よ。どうして」
 梨花さんは、僕の質問はまるで見当違いだという顔をしていた。
「いや、うちの姉、ほとんど外に出かけないし、友達が来ることも少ないんで、ちょっと気になって」
「まあ、お姉さんのこと心配しているなんて、良い弟さんね」
 梨花さんは、そう言ってコーヒーを一口飲んだ。
「いや、そんなことないです。」
 僕は少し照れたが質問を続けた。
「あと、ボーイフレンドとかいる気配がないんですけど。どうなんでしょう?」
「うーん、それは確かにいないわね」
 梨花さんの返答は思った通りだった。
「うちの姉、こっちでは、もてないんですか?」
「とんでもない。容子に近づいてくる男なんて腐るほどいるわよ」
 梨花さんの答えに僕は半分安心し、半分不安になった。
「でも、容子はそういう男たちには、いつも背を向けて逃げちゃうのよね」
 やはり、姉はニューヨークに来ても変わらないのかと思った。
「そうですか。日本にいた時と同じですね。でも、そろそろ好きな人ができてもいいんじゃないかと思うんですが」
「いるわよ、容子には好きな人が。その子も日本人よ。」
 それは意外な答えだった。僕はその真相が聞きたくなり、また質問をした。
「でも、その男の子にはガールフレンドがいて、片思いってことですか?」
「違うのよ。二人は両思いなのよ」
「じゃあ、どうして付き合わないんですか?」
 僕には理解しかねる話だった。梨花さんは、そんな僕の気持ちを理解してか、二人の様子を詳しく教えてくれた。
「二人とも日本語の小説が好きでね、ランチタイムの時とか、よく小説の話をしているのよ。傍目には恋人同士にしか見えないくらい。でも、その男の子、とても繊細でね。ちょっと気が弱いところがあるの。だから、容子に告白できずにいたのよ。容子も、自分から告白できるタイプじゃないからね。純君にも、それはよく分かるでしょ」
「確かに、それは良く分かります」
 あの姉に、女の子の方からの告白などできるわけがなかった。
 梨花さんは、コーヒーをまた一口飲むと、ため息混じりに話し始めた。
「そこでね、私がその男の子をたきつけたのよ。『容子が君のことを好きなのは、私が保証する。絶対に断られないから告白しなさいって』ね。そして、告白の段取りもしてあげたの」
「それで、その男の子は告白したんですか?」
「したよ」
「じゃあ、なんで付き合ってないんですか?」
「容子、その子にも背を向けて逃げちゃったの」
 ありえないと思った。
「何で、訳がわかりません。両思いだったんでしょ」
「そうよ、私も訳が分からなかったんで、容子に理由を聞いて呆れたわ」
「うちの姉、なんて言ったんですか?」
 梨花さんは姉の口調を少し真似して、その男の子に告げた言葉をそのまま僕に伝えてくれた。
「『あなたのことは好きですが、もうすぐ日本に帰る自分には、あなたとお付き合いする資格はありません。でも、これからも友だちのままでいてください』って言ったて言うのよ、容子の奴」
「馬鹿ですね。うちの姉」
 開いた口が塞がらなかった。
「馬鹿よね、本当に。先のことなんて考えず、目の前の気持ちに素直になればいいのにね」
「そうですよね」
 そう言いながら、僕は、確かに姉が言いそうなことだとも思った。
 梨花さんは、また一口コーヒーを飲んでからつぶやいた。
「容子に振られた男の子も可哀そうよね。私、たきつけた人間として、責任感じちゃった」
「その男の子、どうしたんですか?」
「ショック受けて、三日間、学校に来なかったの」
「あちゃー。で、その後、二人はどうなったんですか?」
 梨花さんは残りのコーヒーを全部飲み干してから答えた。
「私と容子が学校の廊下にいたら、その子が来るのが見えたの。容子は飛んでいって『病気でもしたの?大丈夫?』って、まるで二人の間には何事もなかったように言ったのよ」
「そうしたら、その男の子、どう答えたんですか?」
 梨花さんは、今度は男の子の口調を真似して成り行きを説明してくれた。
「『もう、僕に話しかけないでくれ。君といると辛いんだよ』って言って、逃げるようにしていなくなっちゃた」
「それを見て、姉はどうしたんですか?」
「最初は、ただ呆然としてたわね。その後、ちょっと壁の方に向き直ってたから、少し泣いてたのかもしれない」
「泣きたいのは、その男の子の方だと思いますが」
「そうよね。」
 そう言って梨花さんは、また、ひとつため息をついた。

 そのニューヨークの恋が、姉にとってトラウマになったことは疑いの余地がなかった。日本に戻り、女子大に通い始めてからも、姉の周りには男の気配がまるでなかった。近づいてくる男がいなかったとは思えないので、いつも背を向けて逃げていたに違いなかった。
 中には好きな男もいたかもしれない。しかし、好きだった人を傷つけた過去のある自分には恋をする資格などないと思い込んでいたのだろう。とにかく、姉は恋愛にはひどく臆病だった。

「素敵なお姉さんなのね、でも、お姉さんと鳩間島はどう繋がるの?」
 姉のことを一通り話し終えたところで真澄が尋ねた。
「ああ、ごめん。前置きが長くなってしまったね。初めて鳩間島に行った時は、姉も一緒だったんだ。まだ、長くなるけど、聞いてくれる」
「うん、聞かせて。でも、その前に少し時間の流れを整理してもらってもいいかな、昨夜から色々な話を続けて聞いたから、少し戸惑っているの」
 真澄の要望は至極当然のことだった。そこで、僕は、言われた通りに時間の流れを整理してあげた。
「ああ、そうだね。まず、僕が初めて竹富に行ったのが二○○七年の一月。ひょんなことから姉と八重山に行くことが決まったのが二月。不動と和解した修了式が三月の二十五日。僕が三線を担いで、姉と二人で八重山に旅立ったのが、その翌日の三月二十六日。だから、その時、僕はもうすぐ高校二年生、姉はもうすぐ大学四年生になるという春休みだったんだけど、これで分かってもらえたかな?」
「うん、良く分かった。続きを聞かせて」
 真澄が、そう言ったので、僕は姉と鳩間島へ行くことになったいきさつを語り始めた。

 話は再び八年前、つまり僕が高校一年生の時に戻る。二○○七年、二月、それは僕へのいじめが終わり、クラスがほぼ元通りに戻った頃のことだった。僕は春休みの旅費ほしさに、姉の部屋に借金を申し込みに行った。実は、1月に竹富に行った時も旅費は姉から借りていたのだ。奈々さんが、もう、竹富にいないことは分かっていた。それでも僕は、もう一度、八重山を訪れてみたいと強く感じていた。まだ、行ったことのない島を訪れ、今度は珊瑚礁の海もシュノーケリングで覗いてみたかった。

「え、また?この前の分も1円も返してないのに?」
 借金を申し込むと姉は少し不機嫌な顔をしてみせた。
「頼むよ。どうしても、また、八重山に行きたいんだ、春休みに。姉さんだけが頼りなんだ」
「さて、どうしようかしら」
 姉は少し考えた様子をみせてから続けた。
「純がどうしてもというなら、考えてあげてもいいわ。でも、条件があるの」
 実を言うと、前回も姉からは条件を付けられていた。それは「家族を悲しませるような使い方はしない」というものだった。
「貸してくれるなら、どんな条件でものむよ」
 今度はどんな条件を付けられるのかと僕は少し警戒した。姉は少しズルそうな顔をしたので、僕は身構えて姉の言葉を待った。
「私も一緒に連れて行ってくれるなら貸してあげる。あなた、この前に八重山に行ってから、急に元気を取り戻したじゃない。中古の三線まで買って来てさ」
 僕は奈々さんのことは誰にも話していなかった。三線は中古を買ったと嘘をついていた。一瞬びくっとした表情をみせてしまった僕をからかうように姉は言った。
「それほどパワーをくれる所って、興味が湧いたの。春休み前に家庭教師のバイトも辞めて、四年になったら教員採用試験の勉強に専念することにしたけど、その前に息抜きも必要だし、私も八重山でパワーをもらうのも悪くないと思ったの。でも、自分であれこれ調べて予定立てるのも面倒だしね。あなたにプランを任せてくっついて行くだけなら楽だし。どう、この条件で」
 どんな条件を出されるのかと身構えていた僕は肩透かしを食らった。
「え、もっと条件厳しいかと思った。そんなんで良いなら喜んでやるよ」
「じゃあ、準備は全て任せたから、予約とかちゃんと取りなさいよ。あと、私の荷物も持つのよ」
「了解しました。すべて、こちらでやらせて頂きます」
「よし、よし。では良きに計らえ」
「畏まりました姉上様」
「ふむ。では下がってよろしい」
「はは」
 そんなくだらないやり取りをした後、僕は姉の部屋を出た。飛び上がりたいような気分だった、これで、また行ける。そう思った。
 今度の旅は一人になりたいわけではない。姉と初めての旅というのも悪くない。姉は免許も持っているので、石垣島をレンタカーで回ることもできる。姉の条件は、荷物持ち以外は、僕にとって不利なことはなく、むしろ喜ぶべきことだった。

 姉との二人旅は楽しかった。竹富島では、もちろん、のむら荘に泊まった。一月には天気に恵まれなかった黒島と小浜島も、今度は暖かく僕を迎えてくれた。最南端の波照間島も訪れることができた。
 僕たちは、どの島でも民宿に泊まった。たいていの民宿は、のむら荘と同じように食事は他の旅人と並んで食べる形式だったし、ゆんたくも、しばしばあったので、どこの民宿でも姉はもてた。
 しかし、姉は近づく者全てに背を向けて逃げた。梨花さんが言った通りだった。しかし、驚いたことに、姉は男性を上手くかわす術を身に着けていた。適当に相手に話を合わせながらも、いつも早い段階で、すでに将来を誓い合った架空の彼氏の話を始めた。
 本来、この旅行は、彼氏と来る予定で予約したものだったと言ってのけた。英語教師を目指す彼氏が、両親の強い勧めで急にアメリカにホームステイに行くことになり、仕方なく弟の僕と旅に出たという話をまことしやかに語った。
 お互いの両親の間でも、もう結婚の了承は取れていて、僕も先方の両親と、すでに顔を合わせていることになっていた。僕は、その話がでる度に口裏を合わせるはめになった。
 次々と男を引き付けては絶望の淵に叩き落す、我が姉ながら、結構な悪女だと僕は思った。
 
 旅が終わりに近づき、最後に泊まったのが西表だった。西表には三泊して、民宿が主催する二つのツアーに参加した。最初のツアーでは、シーカヤックを漕いでマングローブの川を進んだ。カヤックを降りてから坂道を登り、ピナイサーラの滝の上から鳩間島を眺めた。帰りは滝つぼで泳いだ。
 次の日のツアーはシュノーケリングツアーのツアーだった。小さな珊瑚の骨格が積みあがってできたバラス島や、当時は定期船のなかった鳩間島にも上陸するというもので、いつかは全ての島を訪れたいと思っていた僕にとっては打ってつけのツアーだった。
 僕たちは、民宿が漁港の近くに建てた小屋でウェットスーツを身につけ、ボートに乗った。その日の参加者は僕たちを含め六人。小学生の男の子と、その両親、あと一人は二十代半ばに見える割とイケメンの男性だった。
 その男性は、親子連れとは言葉を交わしていたが、僕たちには話しかけてこなかった。午前中のシュノーケリングの時は、一人で黙々と泳いでいた。姉に近づくチャンスはいくらでもあったのに、彼にはその気がまるでないようだった。姉に話しかけようともしない若い男性は、その旅の中では極めて珍しい部類に入った。
 午前中のシュノーケリングの後、ボートは鳩間島の港に入港した。そこは如何にも寂れた漁港という感じで、建物らしいものはほとんどなかった。
「坂を上って、灯台の下でお弁当を食べると良いですよ」
 宿のスタッフは、そう言って僕たちに弁当を配った。僕たち六人は、その薦めに従って、ウェットスーツを着たまま細い坂道を登った。
 定期船のない島の集落は、春休み中だというのにひっそりとしていた。店らしきものもほとんどなかった。島民は、観光とはおよそ無縁の暮らしをしているように見えた。
 あっという間に集落を通り過ぎ、僕たちは森の中の道を灯台の下へと向かった。「鳩間中森」という文字が刻まれた石塔を見えたので、宿のスタッフに言われた通りにそこで左に折れた。そして、きわめてあっさりと、僕たちは島の頂上の灯台の麓にたどり着いた。
 灯台の少し右側に、お城の土台の部分のミニチュアのようなものがあった。「物見台」という表示があった。僕たちは物見台の上で昼食を取ることにした。そこからは小さな島の全域がぐるりと見渡せた。灯台は物見台の少し下から空に向かって伸びていた。物見台の上はそれほど広くなかったので、僕たちは自然と身を寄せ合うように腰を下ろした。西表の逆側に親子連れが並び、僕たちは彼らと背中合わせに西表の側に座った。寡黙な若い男性と僕の間に姉が座る格好になった。
 海も空も青く美しかった。空と海の狭間のような場所で僕たちはお弁当を食べた。鳩間島に来られてよかった。僕は心底そう思った。その旅が翌日でで終わるのが残念でならなかった。
 お弁当を食べ終わり、僕は海を見ながらふとつぶやいた。
「綺麗だな」
 僕がふとつぶやくと、姉が無粋なことを言った。
「私に感謝しなさいよ。私のお陰で、この景色が見られたんだからね。お金、なるべく早く返してね」
「姉さん、空気が読めてないよ。こんなところでお金の話なんてしなくたっていいじゃないか。それに、姉さんは家庭教師のバイトで稼いだお金、ほとんど使っている様子もないから、大金持ちじゃないか」
 姉は如何にも不満げに言い返してきた。
「人聞きの悪いこと言わないでよ。家庭教師のバイトはね、お金のためじゃないの、将来、教師になるための経験を積むためにやってたのよ」
 姉の話が聞こえたのか、家族連れのお父さんが話しかけてきた。
「お嬢さん、先生になりたいのかい?だったら、隣の人にアドバイスをもらうと良いよ、その人、学校の先生だから」
 姉は、右隣の若い男性の顔をまじまじと見た後で遠慮がちに尋ねた。
「あの、教員をやっていらっしゃるんですか?」
「はい、都立高校で国語を教えています。名前は村川茂樹です」
 丁寧な言葉遣いからして、誠実な人という印象を僕は受けた。姉はやや戸惑いながら自分たちの名前を伝えた。
「私は山崎容子、こっちが弟の純です」
「容子さんに純君ですか。お二人は仲が良さそうですね。僕は一人っ子なので羨ましいです。容子さんは今、何年生ですか。それと、何の教科を教えたいんですか?」
 村川と名乗った男性は姉にアドバイスをしてくれるようだった。姉は少し緊張気味に答えた。
「学年は三年です。教科は国語で、六月に教育実習をするんですけど、ちょっと不安なんです」
「教育実習、懐かしいですね。大変な思いもしたけれど、充実していました。経験者としては、不安に思う気持ちも分かりますが、大丈夫です。『案ずるより産むが安し』というやつですね」
 彼の言葉には姉の不安を和らげようという配慮が感じられた。
「私、都立大岩高校で実習をするんですけれど、どういう学校かご存知ですか?」
 姉の質問に対して彼は少し不思議そうな顔をした。
「あれ、容子さんは大岩の卒業生ではないんですか?」
「はい、私たち、いわゆる帰国子女で、四年間ニューヨークにいたんです。ですから大岩高校は教育委員会に紹介して頂いたんです」
「なるほど」
 彼は姉の言葉に小さくうなずいた後、大岩高校のことを丁寧に教えてくれた。
「大岩は偏差値的には中堅校です。同僚に大岩から転勤してきた人がいますが、人懐こい生徒が多く、落ち着いた学校だと言っていましたね。僕も一度、練習試合の引率で行ったことがありますが、見ず知らずの僕にも笑顔で挨拶をしてくれる生徒たちばかりで、良い学校だなと思いましたね。あなたのような方が実習でいらっしゃったらきっと人気者になりますよ」
 彼のものの言いようは、やはり不安を抱いている姉に対する優しさが感じられた。
「からかわないでください。村川さん」
 姉は少し顔が赤いように見えた。めったにないことだった。
「からかってなんていませんよ。ところで、容子さんは、なんで国語を選んだのですか?四年もニューヨークにいたなら英語も達者だと思いますが」
 もっともな質問だった。英語なら、まず採用試験の合格は間違いなしだ。僕ならば、そうするだろうと思った。彼の質問に対する姉の答えは少し僕を驚かせた。姉にしては珍しく、男性に対して自分のことを妙に素直に話したのだ。
「私、昔から日本の小説が好きでしたから。英語には英語の良さがありますが、私は日本語の方が好きなんです。英語を知ってから益々、日本語の素晴らしいところが見えてきて、ああ、教師になるなら、やはり国語だなって思ったんです」
「確かに、文豪と呼ばれる人たちの中には大学で外国文学を学んでいた人も多いですよね」
「そうですね、夏目漱石も英文科でしたしね」
 それから二人は、しばらく文学談義を交わしていた。そして、僕は気がついた、姉の様子が、やはり、いつもとは違うのだ。適当に相手の話に合わせているわけではなく、姉は真剣に彼の言葉に耳を傾け、自分の言葉もきちんと伝えようとしていた。
 いつもなら架空の彼氏の話を切りだす頃合はとうに過ぎていた。姉のそんな様子を見ながら、僕は初めて姉の別の顔を見たような気がした。
 『国語教師』という共通項を持つ二人は、明らかに惹かれあうものを感じていた。恋愛に臆病な姉にとって、この出会いは千歳一隅のチャンスだと僕は思った。しかし、もし彼には既に相手がいたというオチがついてしまったら、姉は、ますます臆病になるだろう。そういう事態は避けなければならないと思い、二人の話を遮らないようにタイミングを見計らって僕は尋ねた。
「村川さんは」
「茂樹でいいよ。純君」
「じゃあ、茂樹さんは結婚してたり、彼女がいたりするんですか?」
「なんて失礼なことを聞くのよ」
 姉は拳骨で僕の肩を叩いた。そして、すぐさま謝罪の言葉を口にした。
「すみません、馬鹿な弟で」
「あはは、別にいいですよ。純君、僕は独身で彼女もいないよ。というか、振られたばかりでね。実は、この旅行は二人で来るはずだったんだ。でも、振られて、ドタキャンされてたんだ。既に休暇も申請して、旅行届も出していたし、キャンセルしてもお金はほとんど返ってこない。それなら一人で行こうと思ったんだ」
 姉はひどく恐縮した様子で更に謝罪を繰り返した。
「本当にすみません。つらいお話をさせてしまって」
「気にしないでください。僕が話したくて話したんですから」
 茂樹さんは妙に爽やかな顔をしていた。
 僕は胸をなでおろした。話の内容からして茂樹さんに女がいないのは確実だ。後は何とかして、二人の関係が育つよう手を貸すだけだ。姉に任せておいたら二人の関係が進展しないのは見えている。さあ、どんな手を使おうかと僕は考えた。
 僕は、まず、まず二人の元から離れて二人がより話しやすいようにしようと思った。
「僕は少し、灯台の下の方に行ってみますね」
 そう言って、僕は一人で物見台を離れた。灯台を通り過ぎて、その前の鉄柵にたどり着いた時、思わず息を飲んだ。眼下に見える鳩間の海があまりにも美しかったからだ。特に港を守る防波堤の内側の水の色は、とてもこの世のものとは思えなかった。敢えて言うならば、明るく輝く濃い水色といったところだろうが、そんな言葉で言い表せる色ではなかった。わざわざ二人を置いてきたものの、やはり、この海は二人にも見てもらうべきだと僕は思った。
「姉さん、茂樹さん、こっちに来てみてください。海がすごく奇麗ですよ」
 僕は大声で二人を呼んだ。茂樹さんが声を掛けたようで、姉も重そうな腰を上げて、二人で僕のところまでやってきた。そして、二人は肩を並べで眼下の鳩間港を見下ろした。
「うわあ、本当だ、すごい奇麗な海だね」
 茂樹さんは、えらく感動した様子だった。
「本当に奇麗ですね。」
 姉も素直に茂樹さんに同意した。
 さすがに、すぐに僕だけがその場を離れるのは不自然だったので僕もそこに残った。あまりにも海が美しかったので、二人のために妙な小細工をする気も失せた。そうして、僕たち三人は、しばらく言葉もないままに灯台の足元で鳩間港を見下ろしていた。その光景は、きっと僕たち三人にとって決して忘れられない景色になるような気がした。

 それから、僕たちは一緒に坂を下り港に戻った。ほどなくボートは出港して、午後のシュノーケリングポイントに向かった。
 ポイントに着くとスタッフが海に潜り、ロープでボートを固定した。スタッフは海から上がると参加者に声を掛けた。
「それでは、皆さん用意してください」
 僕と姉と茂樹さんはフィンを足につけ、シュノーケルの着いたマスクを、まずは頭に着けた。
「純、あなた、私の傍を離れたらダメだからね」
 姉が不安げに言うと茂樹さんが反応した。
「容子さんはシュノーケリングが得意ではないのですか?」
「私、今日、初めてやったんです。純に旅の予定を任せておいたら、このツアーを予約していて驚きました。全く泳げない訳ではないんですけど、フィンが上手く使えなくて」
「そうですか、じゃあ、僕たちが力を貸しましょう」
 茂樹さんはそう言うと、ロープの先に小さな浮き輪のようなものが着いた用具を手にとってスタッフに尋ねた。
「あの、これ借りていいですか」
「どうぞ、ご自由にお使いください」
 スタッフが快諾したので、茂樹さんは、その用具を僕たちの所に持ってきた。
「容子さん、この浮き輪みたいなものに掴まってください。僕と純君でひっぱりますから」
「そんな、とんでもない。村川さんは、どうぞ、自由になさってください」
 茂樹さんの提案に対して姉は明らかにうろたえていた。いつも凛とした姉にしては珍しい慌てようだった。
「いいんですよ。一人で泳ぐより三人の方が楽しいから」
 素晴らしい提案だと僕は思った。この機を逃す手はなかった。だから、僕は姉の説得にかかった。
「姉さん、折角、茂樹さんが助けてくれるって言ってくれているんだから、素直に好意に甘えなよ」
「でも、ご迷惑だわ」
 口元は綻んでいるくせに、出てきた言葉は裏腹だった。
「じゃあ、僕が先に海に入りますから、二人は後から来てください」
 茂樹さんは、姉の遠慮を無視するように用具を持って海に入った。少しボートから離れると、用具を海面に浮かし、僕たちが来るのを待っていてくれた。僕は姉よりも少し速く泳いで、茂樹さんが持っているロープの箇所の少し下を掴んだ。姉はノロノロと泳いでくると、浮き輪のような部分に掴まった。
「村川さん、すみません。よろしくお願いします」
 相変わらず遠慮がちな言葉を吐く割には、姉は嬉しそうだった。
「じゃあ、行きますよ」
 茂樹さんが声を掛け、僕たちは姉を引っ張って泳ぎ始めた。
 姉がきちんとついて来られているか確認するために振り向くと、茂樹さんは左の人差し指を上に向かって二、三度突き上げてから水面から顔を出した。水面から顔を出せという姉への指示だった。
「容子さん、普通のバタ足のようにフィンを水面から出してはダメです。フィンは水面から出さないようにして水中で動かしてください」
「わかりました」
 姉は少し恥ずかしそうに答えた。 
「じゃあ、行きましょう」
 茂樹さんは、そう言うと、再び水面に顔をつけ、僕と一緒に姉を引っ張っていった。
 海の中は色とりどりの珊瑚や魚で溢れていた。珊瑚はもちろん、魚も見たことのないものばかりで、如何にも熱帯魚という感じのカラフルなものが多かった。
 水面で屈折した光は、波まかせに珊瑚の表面をせわしなく動き回り、まるでネオンサインを見ているようだった。海の中では珊瑚も魚も、みな光り輝いていた。
 ふと茂樹さんが泳ぐのを止め、姉の方に向かって手招きをした。姉が追いつくと、茂樹さんはある一点を指差した。そこにはイソギンチャクがあり、その中に小さな赤い魚が隠れていた。茂樹さんは、また、先ほどのように、姉に水面から顔をあげるようにジェスチャーをした。
 姉が顔を上げるのを待ってから、茂樹さんが説明をしてくれた。
「あのイソギンチャクの中にいるのがカクレクマノミです。アニメの主役になった奴です」
「あれが、カクレクマノミですか」
 姉は茂樹さんの説明に感心した様子だった。
「カクレクマノミはイソギンチャクと共生しているんですよ」
「村川さん詳しいですね」
 他人に尊敬の眼差しを向ける姉を初めて見たような気がした。
「いやあ、前に宮古島でシュノーケリングをした時に聞いたんです。受け売りですよ。じゃあ、今度はあっちに行ってみましょう」
 茂樹さんがそう促して、僕たちは、また姉を引っ張って泳ぎ始めた。僕たちは西表の海を堪能し、瞬く間に時は流れ、シュノーケリングの終了時間がやって来た。
 ボートに戻り、フィンとマスクをはずすと、姉は茂樹さんにお礼を言った。
「村川さん、本当にありがとうございました。お陰でとても楽しかったです」
「どういたしまして。僕の方こそ、一人で泳ぐより、ずっと楽しめました」
 茂樹さんは嬉しそうに笑った。
 やがて、ボートが動き出すと、かなりの寒さを感じた。ウエットスーツを着て海の中にいるうちは良かったが、海から出てしまうとボートが切る風は、僕たちを震えさせた。にもかかわらず、シュノーケルリングの感想などを語り合う僕たちの間には、極めて暖かな空気が流れていた。

 港に着き、小屋でスーツを脱いで着替えをしながら、僕も茂樹さんにお礼を言った。
「茂樹さん、姉を助けてくれて、どうもありがとうございました」
「いやあ、本当に君たちと一緒で良かったよ。一人だと暗くなりそうだったからね」
 茂樹さんは、ずっと明るく振舞ってはいたが、やはり本当は傷ついているのだと分かった。しかし、僕たちといることが楽しいと感じてくれているということは十分に脈があるということでもあった。チャンスだと思った。そして、すぐに僕は次の手を思いついた。
「あの、良かったら今日の夕食、一緒に食べませんか。僕が席をキープしておきますから」
「それは嬉しいな。喜んでご一緒させてもらうよ」
 茂樹さんは嬉しそうに答えてくれた。
「でも、旅先で知らない男と仲良くしていたなんて、後で容子さんの彼氏にばれたら、やきもちを焼かれそうだな」
「姉に、彼氏なんていません。というか、いたこともありませんよ」
「ええ、嘘だろ。あんなに綺麗なのに?」
 茂樹さんは派手に驚いた。
「茂樹さん、姉が綺麗だと思いますか?」
「もちろん。とても綺麗だと思うよ」
「そうですか。そう言ってもらえると僕も嬉しいです。」
 どうやら茂樹さんも姉のことを気に入ってくれているようだった。僕は夕食がすごく楽しみになった。

 宿の夕食は六時からだった。
「姉さん、早く食堂に行こうよ。」
 僕は姉を急かした。席取りは重要だったからだ。
「そんなに急かさなくてもいいじゃない。席が無くなる訳でもあるまいし」
 姉は不機嫌な顔をした。しかし、僕は、のんびりしている訳にはいかなかった。端の方に席を取り、他の宿泊客が絡んでこないようにしなければならなかった。
 僕と姉は部屋を出て食堂に向かった。運良く、まだ他の宿泊客は誰も来ていなかった。長く繋げられたテーブルが二列あって、すでに料理がテーブルの上に並んでいた。
「向こうの端に座ろうよ」
 僕が声を掛けると、姉は素直に僕の後をついてきた。僕と姉はテーブルの一番端に向かい合って座った。まずは首尾良く最善の席を確保することができた。後は、僕の隣の席を死守して茂樹さんが来るのを待つだけだった。
 まもなく、他の宿泊客が次々と食堂に入ってきた。その中に、茂樹さんの姿があった。
「茂樹さん、こっち、こっち」
 僕は、茂樹さんに大きく手を振り僕の隣の席を示した。僕に気がついた茂樹さんは僕の隣までやってきた。シャワーを浴び、白いポロシャツに着替えた茂樹さんは、さっきより男前に見えた。僕はすかさず立ち上がり、僕は姉の正面の席を示した。
「ああ、茂樹さんはこっちに座ってください」、
「失礼します」
 茂樹さんが腰を下ろしたところで、僕は反対側に回り、姉の隣に座った。僕の行動を見て、姉は少し怪訝そうな表情を浮かべたが僕は無視した。これでガードは完璧だ、まずは計画通りことが運んだと僕は思った。
「純君が夕食を一緒に食べようと誘ってくれたので、遠慮なく来てしまいました」
 茂樹さんは照れ笑いを浮かべた。
「すみません。純が大きな声でお呼びしたりして。恥ずかしかったんじゃありませんか」
 姉が僕の方を睨んだ。
「そんなことはありませんよ。でも、本当に良かったんですか?容子さん、純君と水入らず食べたかったんじゃありませんか?僕が邪魔をしたようで、申し訳ないな」
「そんなことはありません。純が我儘を言って、すみませんでした」
 侘びを言いながらも、姉の顔はどこか嬉しそうだった。どうして、夕食をご一緒できて私も嬉しいです、と素直に言えないのだろうかと僕は思った。
「まあ、とにかく食べようよ」
 僕が声を掛け、みんなで「いただきます」をした。
「でも、村川さん、今日は本当にお世話になってしまって、お礼のしようもありません」
 食事が始まると、姉は改めて感謝の意を伝えた。
「とんでもない。二人と一緒に泳げて、お礼を言いたいのは僕の方ですよ」
「本当に助かりました。」
 姉は更に礼を言い続けた。どうして、私もとても楽しかったです、という台詞が出てこないのかと、僕は姉の発言にいらだってしまった。
 とは言うものの、姉と茂樹さんは、今日の出来事や文学談義などで話が弾んでいた。僕は完全に蚊帳の外だったが、むしろ、それが嬉しかった。よしよし、ことは上手く運んでいる。僕は満足しながら夕食をたいらげた。
 食事が終わる頃、茂樹さんが姉に尋ねた。
「お二人は、明日はどういう予定ですか?」
「朝、石垣に渡って、レンタカーで石垣を回った後、夕方の飛行機で東京に帰ります」
 姉は極めて事務的に返事をした。もう少し可愛らしい言い方ができないものかと僕は思った。
「そうですか、僕は、石垣にもう一泊する予定ですが、明日はレンタカーで石垣を回るので、どこかでまた、顔を合わせるかもしれませんね」
 茂樹さんのその言葉を聞いて、僕は瞬時に名案を思いついた。
「あの、茂樹さん、レンタカー代は僕たちが払いますから、茂樹さんの車に僕たちも乗せてもらえませんか?僕、実は姉の運転が心配で」
「何を言っているのよ、純、そんなのご迷惑でしょ」
 姉は僕をきつく睨み、それから茂樹さんに詫びを言った。
「すみません。純が馬鹿みたいなことばかり言って」
「いえ、そうさせてくれると僕も嬉しいな。一人で回るより楽しそうだし。容子さんさえ良ければ、そうさせてくれませんか」
 茂樹さんの申し出に姉はかなり動揺したようで、すぐに次の言葉が出てこなかった。
「私は別にかまいません」
 姉の表情はどこか嬉しそうな表情に変わっていたのに、返答は相変わらずそっけなかった。『こちらこそ、よろしくおねがいします。石垣も一緒に回れてうれしいです』ぐらい、なぜ言えないのかと僕はあきれ果てた。
「じゃあ、決まりですね、僕、予約キャンセルしちゃいますね」
 僕は、すぐに携帯を取り出すとキャンセルの電話を入れた。
「ああ、容子さん、純君、料金のことですが、もう払ってあるのでいいですよ。それに、サラリーマンの僕が学生さんたちからお金を取るなんてみっともないですから」
 そう言って茂樹さんは笑った。
「それでは申し訳なさ過ぎます」
 姉の言葉を聞いて茂樹さんは更に笑った。
「いいんですよ。僕をかっこ悪い男にさせないでください」
「すみません。本当にご好意に甘えてばかりで」
「そんなに謝らないでください。僕は、今日、すごく楽しかったし、明日も、すごく楽しみですよ」
「そう言っていただけると、私も嬉しいです。」
 姉もほんの少しだけ進歩したかと、その時、僕は思った。
 夕食が済んで、僕たちは一緒に食堂を出た。このまま茂樹さんを逃がしてしまう訳にはいかないので、僕は次の手を打った。
「茂樹さん、あの、僕の三線聴いてくれませんか。それと、見て欲しいものがあるので僕たちの部屋に来てくれませんか」
「純、なんで次から次へとご迷惑なお願いばかりするの」
 姉は僕の肩を小突いたが僕は怯まずに続けた。
「僕たちは、今日が八重山最後の夜だから、なんか八重山っぽく楽しみたいと思ったんだよ。姉弟の二人だけで歌ったり話したりしたら、ゆうたんくにならだいだろう。だから、茂樹さんにも参加してもらおうよ」
 姉は茂樹さんの方をちらっと見た。
「村川さん、ご迷惑でしょ」
 本当は来て欲しいくせに、相変わらず姉は素直ではなかった。
「そんなことありませんよ。どうせ、することもありませんし。純君の三線、聴いてみたいし」
「じゃあ、是非。僕たちの部屋こっちですから」
 僕は、茂樹さんの手を引っ張って僕たちの部屋まで連れて行った。
 茂樹さんを部屋に通すと、僕は座布団を二つ並べた。
「姉さんと茂樹さんはこっち座ってください」
 姉と茂樹さんは座布団に腰を下ろした。正座して並ぶ二人は、やはりお似合いに見えた。
「ああ、二人とも、もっと楽にしてください」
「そうかい。じゃあ失礼して」
 茂樹さんは足を崩して胡坐をかいたが、姉は正座のままだった。僕は、二人の向かいに自分用の座布団を敷いた。ケースから三線とチューニングマシンを取り出すと僕も座布団の上に座った。
「最近は自分の耳だけでも糸を巻けるようになってきたんですけど、今日は茂樹さんに聴いてもらうので、マシンを使いますね」
 僕は三線の糸を巻き終えてから八重山の民謡を一曲歌った。
「純君、一月に始めたばかりとは思えないな。才能があるんだね」
 茂樹さんが褒めてくれた。
「純が一月に八重山から帰ってきてから、練習でずっと下手な三線を聴かされて、私は迷惑しているんですよ」
 姉は僕をけなした。
「じゃあ、今度は有名な歌いきますから、良かったら、二人も一緒に歌ってください」
「わかった。努力しみるよ」
 茂樹さんは快く応じてくれた。
 僕は、石垣島出身の有名バンドが歌っている歌を演奏し始めた。若くして亡くなった兄のことを歌った有名な歌だった。歌い始めると、茂樹さんも一緒に歌ってくれた。茂樹さんにつられたのか、姉も小さく歌を口ずさんでいた。一曲弾き終えると、また茂樹さんが褒めてくれた。
「すごいな。とても始めたばかりとは思えないな。」
「なんか、練習しているうちにコツが分かったっていうか、自分が歌える歌なら手が勝手に動くようになりました」
「純君は才能があるんだね。声も綺麗だし、歌にも心がこもっているね。」
「純は、おだてるとつけあがりますから、あんまり褒めないでください」
 姉は憎たらしいことを言った。
「いえ、おだててなんていませんよ。本当のことです。じゃあ、純君、次の曲を聴かせてくれないか」
「喜んで」

 僕たちは歌ったり話したりと沖縄風にゆんたくを楽しんだ。そして、僕は頃合を見て次の手を打つことにした。僕は座布団から立ち上がり、自分のバッグから「幻の夏」の歌詞を書いたノートを取り出して座布団に座りなおした。
「あの、茂樹さん、こっちに来て、これみてくれませんか」
「へえ、何かな」
 茂樹さんは、僕の横にやってきて腰を下ろすと、ノートを覗き込んだ。僕は茂樹さんに講評を頼んだ。
「初めて書いた歌詞なんですけど、プロの意見を聞きたくて」
「あはは、僕は国語の教師だけど、作家じゃないからプロじゃないよ。それに、容子さんだって国文科なんだから、容子さんに見てもらえばよかったのに」
「いや、姉には見せたくないんです。」
「何よ、それ」
 姉は僕に不機嫌そうな顔を見せた。姉を少し蚊帳の外に置いてやきもちを焼かそうという作戦は、どうやら上手くいっているようだった。茂樹さんは、僕が書いた歌詞を真剣に読んでくれた。
「いいね、純君は作詞の才能もあるんだね。僕なんかが意見を言うべきじゃないよ」
「そんなことありません。気づいたことがあったら、是非教えてください」
「そうだな、敢えて言えば、この形容詞のここの部分、『い』じゃなくて『き』に変えると良いかもしれないな」
 茂樹さんの指摘は的を得ていた。『蛍火のように儚い』よりも『蛍火のように儚き』の方が間違いなく良かった。
「なるほど、確かにそっちの方が良いですね。ありがとうございました。」
「どういたしまして」
 茂樹さんがそう言ったところで、僕は作戦を次の段階に移した。
「僕、ちょっとトイレに行ってきますね」
 僕は、そのまま二人を部屋に置き去りにして外にでた。僕はトイレには行かず、ロビーのソファに腰を下ろした。自分がいない間に二人の関係が深まることを期待していた。『星を見に行きませんか?』など言って、姉を外に連れ出してくれたら良いのになどと、あれこれと想像を巡らし、ニヤニヤとしながら作戦の成功を祈った。
 しかし、五分もしないうちに僕は失望を味わった。
「あなた、こんな所で何しているのよ」
 知らぬ間に、僕の前に姉が仁王立ちしていた。
「あれ、茂樹さんは?」
「ご自分の部屋にお帰りになったわよ。あなたがいなくなってすぐに」
 姉があまりにも怖い顔をしていたので、さすがに僕も少し慌てた。話題をそらすのが賢明だと思った。
「ところで、携帯番号とか交換しておいてくれた?そうしておくと便利だし」
「してないわよ。どうせ明日は宿の車で上原港まで一緒に行くんだから必要ないでしょ」
 姉の顔が更に怖くなった。
「いやあ、そういう問題じゃないと思うんだけど」
「じゃあ、どういう問題なのよ」
 僕は追い詰められて言葉に詰まった。
「それは、つまり」
「とにかく、部屋に戻って、もう寝なさい」
 姉は、僕を残してすたすたと行ってしまった。茂樹さん、どうしてもう一押ししてくれなかったんだろう。恋に臆病なところは姉に通じるところなのか。
 僕が部屋に戻ると、姉はすでに寝ていた。僕も布団を敷き横になった。今回の作戦は失敗したが、まだまだ明日がある、考えているうちに眠りに落ちた。
 
 翌朝、僕たち三人は宿の車で上原港に着いた。昨日、僕たちが出会った鳩間島が間近に見えた。
「姉さん、鳩間島、よく見ておくといいよ。茂樹さんと出会った場所。あの灯台の下だよ」
「あなた、臭いドラマの見すぎなんじゃないの」
 姉は、相変わらず僕に対しては不機嫌そうな態度を示していた。
「そうですね。あの灯台の下でしたね。ここからは少し遠いけど」
 茂樹さんは、僕に同調すると鳩間島をじっと見つめた。姉も、なんだかんだ言いながら感慨深げに島を見ていた。

 石垣行きの高速船の中では、僕が窓側に座り、その隣に姉、姉の隣に茂樹さんが座った。窓の外では、昨日渡ったバラス島や鳩間島がどんどん小さくなっていった。隣では、姉と茂樹さんが小声で話し合っていた。二人が、思い出の鳩間島に何度も戻ってくるような関係になることを、ただ、ひたすら祈りながら、僕は窓の外を流れてゆく八重山の海をいつまでも眺めていた。

 石垣港に着くと、茂樹さんが予約していたレンタカーの会社から迎えの車が来ていた。レンタカーの会社に着き、茂樹さんが手続きを済ませ、いよいよ出発の時がやってきた。
「僕は後ろに乗るから、姉さんは助手席に座って。免許持っているんだから、茂樹さんのナビをしてあげて」
 僕は、さっさと後部座に寝転び姉の侵入を防いだ。姉は渋い顔を見せながら助手席に座った。茂樹さんが運転席に着きハンドルを握った。
「じゃあ、出発しましょう」
 そう言って、茂樹さんはゆっくりとアクセルを踏んだ。
 車はあっという間に市街地を抜け、最初の目的地である玉取崎に向かった。右手に見えてきた石垣の海もまた、美しいという以外の形容しかできないものだった。僕は海側に体を移して黙って海を見ていた。前で二人が楽しげに話しているのが、僕はすごく嬉しかった。

 玉取崎の駐車場から、僕たちは展望台に向かって歩いた。姉と茂樹さんの二人は、ずっと語り合いながら歩いていて、どう見ても付き合いの長いカップルにしか見えなかった。僕はわざと少し遅れて二人の後をついていった。遊歩道の脇には真っ赤なハイビスカスが花を付けていた。
 頂上の東屋からの眺めは素晴らしかった。北側には石垣島の一番細い部分が間近に見えた。糸の先に付いた風船のように、細い部分の先端にはこんもりとした山がくっついていた。細い部分の右側は、波一つ立っていない綺麗な水色の浅瀬で、白い砂が透けているようだった。沖に目を移すと、珊瑚礁の一番外側、リーフエンドに立つ白波の曲線が北から南へと続いていて、石垣島が珊瑚礁に囲まれた島であることを明確に示していた。
 僕たちは、しばらく並んで島の北側を眺めていた。この後に行く予定の平久保崎は前に見える山の向こうだった。茂樹さんはデジカメで次々と風景を写真に収めていた。姉も自分のデジカメで同じことをしていた。
「茂樹さん、僕がシャッターを押しますから、姉と並んでください」
 差し出した僕の手に、茂樹さんはカメラを渡してくれなかった。
「ごめん、折角の美人とのツーショットのチャンスだけど遠慮しておくよ。僕は、自分を写真の中にいれるのが好きじゃなくてね」
 僕の言葉をやんわりとかわすと、茂樹さんは姉の方に言葉を向けた。
「ああ、じゃあ二人の写真を撮りますから、容子さんカメラ貸してください」
「お願いします。」
 姉は素直にカメラを渡した。僕は素直に姉の隣に並んだ。
「いきますよ。はい、チーズ」
 茂樹さんがシャッターを押し、僕と姉は同じ写真の中に納まった。
 玉取崎では、まだ気がつかなかったが、やがて、僕は気がつき始めた。姉と茂樹さんは、互いに相手のカメラには映らないようにしていた。そのことは、徐々に僕を不安にさせた。

 二つ目の目的地である平久保崎は石垣島最北端の地だった。駐車場から歩いてすぐに、僕たちは灯台の下にたどり着いた。そこは地球が丸いことを再確認できる場所だった。岬の右手は太平洋、左手は東シナ海だった。岬のすぐ先には無人島がひとつぽっかりと浮かんでいた。宮古島と石垣島の間にある多良間島も微かに霞んで見えた。
 灯台の右側に見える海は特に美しかった。スカイブルーに輝く水面の所々に黒く見える所があり、そこには珊瑚があるらしかった。シーカヤックが二艘、こちらにやって来るのが見えた。灯台のすぐ近くでタンデムのモーターパラグライダーが旋回を繰り返し、やがて右手に遠ざかっていった。どうやら、パラグライダーを体験できるショップがあるようだった。
「ここ、ハワイよりも綺麗だわ」
 そんなことを言って、オバサンたちが僕らの後ろを通り過ぎて行った。
 灯台の反対側は岩山のようになっていた。「危険登るな」という看板があったが、岩山の上には、いくつかの人影があった。
ふと、考えが浮かんだ。僕がこの岩山に登っても二人は追いかけては来ないだろう。二人きりにするチャンスだと思った。
「僕、ちょっと、あの上に登ってくるよ」
 僕は二人の反応を待たずに登り始めた。
「立ち入り禁止って書いてあるじゃない。やめなさいよ」
 姉は予想通りの反応を示したが僕は無視した。
「大丈夫だよ、心配しなくてもガキじゃないんだから、ああ、それから、姉さん、この灯台、恋する灯台っていう愛称がついているらしいよ」
「なに馬鹿みたいなこと言っているのよ」
 姉は憤慨したが、僕は構わず登り続けた。危険は全くなく、僕はあっさりと頂上にたどり着いた。そこから見ると地球は更に丸みを増して見えた。
 灯台の下に、茂樹さんと姉の姿が見えた。二人で今、何を話しているのだろう。僕のことを気にしている様子は全くなかった。二人は並んで海を見ていたが、その間には恋人未満の微妙な距離があった。茂樹さん、姉さんの肩を抱き寄せてくれればいいのにと思った。しかし、最後まで、その微妙な距離が縮まることはなかった。

 最後の目的地、川平湾に行く途中に、僕たちは旨いと評判の食堂に立ち寄った。ひどい時には二時間待ちもあると聞いていたが、僕たちはなんなくテーブルに着くことができた。
 その食堂は、ソーキそばが旨いことで有名だった。ソーキとは豚のあばらの辺りの肉を甘い汁で煮込んだもので、沖縄の伝統的な料理だった。沖縄では、そばと言えば、ややラーメンと似た沖縄そばのことを意味し、日本そばではなかった。
「僕はやっぱり、ソーキそばにします。」
 僕が先陣を切ると、茂樹さんが姉に尋ねた。
「容子さんはどうしますか。僕は純君と同じでソーキそばにします」
「私も同じもので、ああ、でもサイズは小にしておきます」
 三人の注文が決まったので、僕は店員さんに声を掛けようと思ったが、不意に欲が出た。せっかく評判の店に来たのにソーキそばだけではもったいないような気がした。
「ああ、あとトンカツも美味しいらしいんです。みんなでシェアしませんか」
 僕は追加の注文の提案をした。
「いいね、そうしよう」
 茂樹さんが賛同してくれたところで僕は店員を呼んだ。
「すみません、ソーキそば普通が二つと小が一つ、それとトンカツの単品をおねがいします」
「ソーキそば普通が二つに、小が一つ、トンカツの単品、以上でよろしいですか」
「はい」
 僕が答えると、店員のオバサンは厨房の方に注文を伝えに行った。
 しばらくして、僕たちの料理が運ばれてきた。そばの上のソーキは軟骨までトロトロに煮込まれていて、それは美味だった。そして、ソーキの汁が八重山そばのスープに浸みて極上の味を引き出していた。
 トンカツは、やけに大きくて平べったかった。中身の肉は赤身を帯びていて、本州で出てくるトンカツの肉とは明らかに違うものが使われていたが、ソースとの相性も良く、これもまた、素晴らしい味だった。
 僕たちは、ほとんど喋ることなく、食べることに集中してしまった。日頃、どちらかと言えば小食の姉さえ、そばを全部食べ、トンカツも少し食べていた。僕たちは大いに満足して食事を終え、幸福感に浸っていた最中に不測の事態が起こった。
「君たちと、食事ができるのも、これが最後だね」
 茂樹さんの言葉に姉はうつむき、僕はその場を取り繕うような言葉を見つけることができなかった。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
 茂樹さんが立ち上がり、僕と姉は後に続いた。

 車を発車させると、茂樹さんは好きな映画の話を始めた。姉もそれに興味を示し、先ほどの一瞬の気まずい沈黙は、とりあえず尾を引くことはなかったように思えた。そして、車は川平湾に向かって石垣島の西海岸を南下して行った。

 川平湾では、特産の黒真珠のアクセサリーを売る店の近くの駐車場に車を止め、遊歩道を歩いた。右手に見える浅瀬はスカイブルーに近い色をしていた。やがて、左手の高い所に東屋が見えてきたので、僕たちはそこに登っていった。そこは川平湾を少し上から見下ろせる場所だった。
 川平湾は細長い入り江で、中央には濃い緑で覆われた小島があった。その小島の水際は濃いエメラルドグリーンだったが、湾内には青というか緑というか、とにかく様々な色や濃さが混在していた。グラスボートが頻繁に行き交う川平湾は、珊瑚の種類が非常に多いことでも有名な石垣島随一の観光名所だった。
 東屋でしばらく海を眺めた後、僕たちは浜に降りた。珊瑚の骨格が砕けてできた真っ白できめの細かい砂を踏んで、僕たちは湾の外側の方に向かって歩き続けた。ギザギザと小さな穴の集合体、スポンジに濃い茶色のペンキを掛けて固めたような琉球石灰岩の崖が作る日陰をみつかったので、僕は一休みすることを提案した。
 僕はリュックからブルーシートを取り出して砂浜に広げた。シートは奈々さんの真似をして用意してきたものだった。僕と茂樹さんはシートの両端に横になった。姉は横にはならず、僕たちの間で体育座りをしただけだった。
 川平湾に着いてからの僕たちは、いつの間にか、かなり口数が減り、ついには黙って美しい海を見つめるだけになっていた。三人それぞれが、旅の終わりの切なさをかみ締めていたのかもしれなかった。
 もはや、二人のために繰り出せる作戦は何もなく、僕自身の旅の終わりの切なさと、姉と茂樹さんの距離を縮めることのできない焦りがない交ぜになって、ひどく心が落ち着かなかった。
 茂樹さんと姉が、互いに好意を抱いていることは明らかだった。しかし、どうすれば二人がそれぞれの気持ちを素直に表すことができるのか、考えても、考えても、何も浮かんで来なかった。姉が恋愛に臆病なのは周知の事実だ。だから、姉の方から気持ちを伝えるなんてありえないことだ。そんなことは分かりきっていた。だが、茂樹さんは、どうして、こうまで自分の気持ちを伝えようとしないのか、僕には、その理由がまるで分からなかった。このまま二人がすれ違ってしまうなんて、僕にはどうしても耐えられなかった。
「そろそろ、行きましょうか」
 腕時計を覗き込んだ茂樹さんが起き上がった。
「はい」
 答えた姉の声は消え入りそうなほどに弱々しかった。
 差し込む西日の反射がやけに眩しかった。旅は正にエピローグを迎えようとしていた。この旅もまた、寂しい結末を迎えるのだろうか。真っ白な砂浜を歩きながら、僕はそんなことを考えていた。

 空港へ向かう車の中、姉は終始俯いていた。時折、茂樹さんが掛けてくれた言葉にも、空ろな返事を返すばかりで、とうとう最後は無言になってしまった。
 車窓の景色が海から街へと変わる頃、姉は、ただ下を向いていた。泣かないように必死でこらえている様な姿が痛々しかった。
 そして、ついに車は石垣空港の駐車場に到着してしまった。茂樹さんが真っ先に車を降りて、トランクから僕たちの荷物を出してくれた。
「ゲートまで見送らせてください」
 そう言った茂樹さんの言葉を押し返すように姉が言った。
「いいえ、もう、ここで結構です。本当にお世話になりました。村川さんも、どうぞお元気で」
「いいえ、こちらこそ。お陰さまで良い旅ができました。実習と採用試験、頑張ってくださいね。上手くいくようにお祈りしています」
「ありがとうございます」
 姉はスーツケースを引いて空港入り口に歩き出そうとしていた。二人とも素直な気持ちを伝えないまま、この出会いを束の間の旅の出会いにしてしまうつもりのようだった。ダメだ、それじゃダメだ。僕の心が強く叫んでいた。
「姉さん、悪いけど、先に行っててくれないか。僕、茂樹さんに、ちょっと話があるんだ。いわゆる、男同士の話って奴。だから、先に行っててよ」
「分かったわ。でも、早くしてよ。飛行機に乗り遅れるわけにはいかないからね。それじゃあ、私、先に失礼させて頂きます」
 姉は茂樹さんに一礼すると空港の入り口に向かって歩いて行った。決して振り向かないという姉の強い意志を、その背中が伝えていた。僕は茂樹さんの方に向き直って、意を決して最後の手段に出た。
「茂樹さん、どうして、姉を追いかけてくれないんですか?姉は、今、きっと泣いてると思います」
 茂樹さんは喉につかえた言葉を絞り出すように言った。
「できないよ、僕には」
 茂樹さんの顔は苦痛に耐えているようだった。
「どうしてですか。姉は絶対に茂樹さんのことが好きです。茂樹さんも、そうなんじゃないんですか?」
 茂樹さんは僕の質問に答えるのが辛そうだった。
「容子さんは、とても魅力的な女性だ。たぶん、今まで僕が出会った中で一番ね」
「だったら、なぜ?」
「僕には、その資格がないからさ。容子さんには、僕なんかよりずっと素敵な男性がすぐに現れるよ」
 返ってきた茂樹さんの答えに僕は納得がいかなかった。
「資格って何ですか。人を好きになるのに資格なんて必要なんですか?」
「初めに言っただろう。振られたばかりだって。そんな男が容子さんに近づこうなんて、失礼極まりないじゃないか」
「姉は、そんなこと、決して気にしないと思います。茂樹さんが、次々と女に手を出すような人じゃないことは、僕も姉もよく分かっているつもりです」
「いや、僕には、やはり、資格がないよ。それに大事な時期を迎えている学生さんに、社会人の僕が交際を申し込むなんて常識外れじゃないか」
 どうすれば現状を打開できるのか僕は考えた。そして、僕は奈々さんとのことを白状してしまうことにした。それが茂樹さんの気持ちを動かしてくれることを祈って。
「茂樹さん、僕は無視と嫌がらせのいじめに合ってたんです。ガールフレンドも僕を無視する側に行ってしまいました。それが原因で、一月に竹富に行ったんです。そこで、素敵な女性に出会って、すぐに好きになってしまいました。でも、彼女は、そんなことは全部承知で僕の気持ちに応えてくれました。本当は、この三線も、彼女にもらったものなんです」
 僕は三線のケースを茂樹さんの前に持ち上げて見せた。
「彼女のお陰で僕は立ち直ることができました。人を好きになるのに資格なんていらないと思います。新しい恋をするのに、早すぎるなんてこともないと思います」
「そう簡単にはいかないよ」
 茂樹さんは頑なだった。
 それでも、僕は話し続けた。引き下がるわけにはいかなかった。
「姉は昔からずっと男の人に追いかけられていました。だから、男性恐怖症のところがあるんです。そのせいで長い間、男性を好きになれませんでした。ニューヨークで、やっと好きな男性に出会いましたが、素直になれず、相手の男性を傷つけてしまいました。そのことがトラウマになって、姉は日本に帰ってからも、男性と付き合いませんでした。姉は、自分は男性を好きになる資格がないと思っている節があるんです。でも、やっと、好きだと思える男性に出会えたんです。茂樹さんに出会えたんです。もし、このまま茂樹さんと別れてしまったら、姉は一生、自分の気持ちに蓋をしてしまうかもしれません。このままだと、教育実習にも、採用試験にも集中できないと思います。もし、茂樹さんに、ほんの少しでも姉を愛しいと思う気持ちがあるなら、姉を救ってやってくれませんか。弟の僕では、どうすることもできません。姉を救うことができるのは茂樹さんだけなんです」
「容子さんは強い人だから、きっと大丈夫だよ」
 とってつけたような茂樹さんの言葉を僕は退けた。
「いいえ、姉は、本当は弱虫です。強そうに振舞っているだけです」
 そして、僕は更に茂樹さんに訴えかけた。
「それに、僕がここまで頼んでいるのは、姉のためだけじゃありません。もし、このまま姉と別れたら、茂樹さんも絶対に後悔します。僕は茂樹さんも好きだから、二人に後悔してほしくないんです」
 僕の言葉に、茂樹さんは少し考え込んだ後、辛そうに答えた。
「そうだろうね。いつかきっと後悔するだろうね。一生消えない心の傷になるかもしれない、でも、やはり、今の僕には自分の気持ちを伝える資格があるとは思えないんだ。どんなに苦しくてもね」
 その言葉を聞いたら、僕は、もう茂樹さんの心を動かす言葉を見つけることができなかった。
「純君、そろそろ行かないと、本当に飛行機に乗り遅れるよ」
 茂樹さんが腕時計を覗いた。僕は最後通告を突きつけられたような気がした。そして、僕は、最悪の事態を想定して用意しておいた小さな紙の切れ端に、最後の望みを託すことにした。僕は、それを茂樹さんの手に無理やり掴ませた。
「姉の携帯の番号です。掛けてやってくれませんか。姉が飛行機に乗る前に、携帯の電源を切る前に。東京に着いてからでは手遅れになると思います。どうか、お願いします」
 僕は深々と頭を下げてから、荷物を持って空港の入り口へと走った。
 
 手荷物検査のゲートをくぐると、僕は姉の姿を探した。姉は端の方の席で虚空を見つめていた。この場所から、すぐに竹富に帰りたいと思ったあの日の自分が、姉に重なって見えた。茂樹さんの所へ駆け戻りたいという気持ちを、姉は必死に抑えているような気がした。
「遅くなってごめんね」
 僕は姉の隣に腰を下ろした。
「いいわよ、間に合ったから」
 怒ったようなものの言いようだったが、姉の言葉には力がなかった。そして、しばらく沈黙が続いた。黙っているのが辛くなって、僕は姉に声を掛けた。
「なんか、長いようで、あっという間だったね」
「そうね」
 姉は、答えはしたものの、如何にも心ここにあらずという感じだった。
 その時、姉の小さなショルダーバッグのポケットの中で携帯が鳴った。「キタ!」と僕は確信した。しかし、姉は電話に出ようとはしなかった。
「どうしたの、姉さん。携帯鳴ってるよ」
「いい、今、なんか出たくないの」
 姉は泣きそうな顔をしていた。
「大切な電話だったらどうするんだよ。たとえば教育委員会からとか」
 僕は必死に姉に訴えかけた。僕の言うことももっともだと思ったのか、姉は渋々と携帯を取り出したが、やはり出ようとはしなかった。
「やっぱり出ない。知らない携帯の番号からだし」
「もう、どうしようもないな」
 僕は姉から携帯をむしり取って応答のボタンを押した。
「何やってるのよ、あんた」
 姉が怒るのを無視して僕は電話に出た。
「あ、純です。今、姉に変わりますから」
 僕は携帯を姉に返しながら強く祈った。
「姉さん、茂樹さんからだよ。話、ちゃんと聞いてあげて。それから、姉さんも素直に気持ちを伝えてあげて。ここはニューヨークじゃないんだから」
 姉は携帯を受け取ると、ゆっくりとそれを耳に当てた。
「お電話変わりました。容子です。・・・・・いいえ、私、そんなこと気にしていません。・・・・・お気持ちとても嬉しいです。・・・・・はい、じゃあ、また東京で。・・・・・はい、お電話お待ちしています。・・・・・はい、じゃあ、失礼します」
 姉は携帯を畳むと一瞬、天井を見上げた。さっきまでの沈んだ顔が、ゆっくりと笑顔に変わっていった。その頬に一筋、涙がつたっていた。十六年も一緒に暮らしてきたのに、僕は、その時初めて姉の本当の笑顔を見たような気がした。

 真澄は、そこで話が終わったと思ったようで質問を投げかけてきた。
「鳩間島の話は絵に書いたみたいな美しい話で、悲しい思い出には、つながらないと思うんだけど」
「そうだね。でも初めに言っただろう、鳩間には二回行ったって」
「なるほど。話には、まだ続きがあるのね。じゃあ、続きを聞かせて」
 真澄が、まだ興味を持ってくれていたことに僕は少し安心した。本当に聴いて欲しかったことは、二度目の鳩間への旅のことだったからだ。

 東京で再会した後の姉と茂樹さんの交際は、順調のようにも不調のようにも見えた。姉は、旅行はおろか、朝帰りもしなかった。デートの日も早い時間に家に帰ってきた。まだ、茂樹さんの部屋に行ったことがないと聞いてあきれたのは、出会ってから十ヶ月近くがたった頃のことだった。僕の感じでは、二人はまだ恋人らしいことは何もしていないようだった。
 しかし、たまに三人で食事をしたりすると、あの八重山の旅の時のように二人はお似合いのカップルのように見えた。
 姉は茂樹さんの助けもあり、無事に教育実習を終え、採用試験にも合格した。そして、二人が出会ってから、もうじき一年という二○○八年二月、都立高校への就職も決まった。
 お祝いに三人で食事がしたいという茂樹さんの誘いがあり、僕たちは洒落たレストランで姉の就職祝いをした。乾杯が済むと、茂樹さんが僕の方に話を向けた。
「純君も、もうすぐ高校三年生だね、教育学部に進学するって聞いたよ」
「はい、茂樹さんたちの影響もあるかもしれませね。でも、僕は英語の教師になるつもりです。英語は僕にとって苦労して手に入れた宝物ですから」
 奈々さんの言葉にも影響されていたが、そのことはもちろん言わなかった。
「いつ決めたんだい?」
「去年の秋です。」
「そうか、僕たちにできることがあったら力を貸すよ」
「はい、面接対策とか、よろしくお願いします。」
 僕は茂樹さんに軽く頭を下げた。その後は、食事をしながらの楽しい会話が続いた。
 その食事を、僕はただの就職祝いだと思っていた。しかし、僕は食事が終わる頃、茂樹さんから思いもよらぬ話を聞かされた。
「純君、君は僕たちの縁結びの神だから、最初に報告するけど、実は、僕たち婚約したんだ」
 僕は思わずナイフとフォークを落としそうになった。
「まじですか。ああ、茂樹さん、おめでとうございます。姉さんも、おめでとう」
「ありがとう」
 二人はそれぞれに笑顔で礼を言った。二人ともとても幸せそうに見えた。
 青天の霹靂とうはこういうものかと思った。恋愛に臆病だった姉が、交際一年未満で婚約とは、あまりの変わりようではないか。
「それで、式はいつ挙げるの?」
 僕は姉の方を見て尋ねた。
「四年後になると思うわ」
 平然と言ってのけた姉の言葉に僕はあきれ返った。姉は国語教師になるというのに「長すぎた春」という言葉も知らないのかと疑った。
「どうして、そんな先になるの」
 僕が更に尋ねると、姉は何の問題もないと確信した様子でハキハキと答えた。
「都立高の新規採用者は、四年で異動になるの。最初の一年は担任はなしで、二年目から担任になって、卒業生を出したら異動というのが、普通のパターンなのよ。だから、最初の四年間は仕事に専念したいの。とても、結婚生活との両立なんて無理だから式は四年後にしたの」
 僕は開いた口が塞がらなかった。姉は、そんなに待たされる男の気持ちなどまるで分かっていないようだった。相変わらず二人は、僕の助けがないと先に進めないのかとため息が出そうになった。僕は、すぐさま姉の愚かな計画を打ち砕く提案をした。
「あの、お二人に提案があるんですけど、いいですか?」
「ほう、どんな提案だい」
 答えたのは茂樹さんの方だった。
「式とか同居とかは四年後にするとして、とりあえず籍を入れるというのはどうですか?」
 僕の提案に姉は明らかに不機嫌な顔をした。
「純、あなた、相変わらず馬鹿みたいなことばかり言うのね」
「馬鹿なのは姉さんの方だよ。茂樹さんは待ってくれると思うけど、僕なら、いや大抵の男なら、四年も待たされたら他の女に目がいっちゃうな」
「あなたと茂樹さんを一緒にしないでよ」
 姉の顔色は不機嫌の色を濃くした。しかし、僕は姉の反応には構わずに続けた。
「茂樹さんより、むしろ姉さんの方に問題が起こるんだよ。あまり認めたくないけど、姉さん、もてるだろう。独身のままでいると、近寄ってくる人も多いと思うよ。姉さんに振られる人たちも可哀想だし、姉さんだって、その度に気を使うことになるのは面倒だと思うよ」
「余計なお世話よ」
「茂樹さんは待たせておいて、その間に次々と他の男を絶望させるなんて、ひどいと思うけどな」
「私を悪女みたいに言わないでよ」
「いやあ、結構な悪女だと、実は昔から思ってたんだ」
 本音ではあったが、冗談めいた僕の言葉に姉の怒りが頂点に達した。
「あなた、私に殴られたいの」
 そこで僕は口調を真面目な物に変えた。
「姉さん、そんなことより、もっと大切なことがあるよ。籍さえ入れれば、同居してなくても立派な夫婦だ。大手を振って茂樹さんの部屋にも泊まれるし、旅行だって行けるよ。茂樹さんだって、その方が嬉しいんじゃないかな?」
 そこで、黙っていた茂樹さんが口を開いた。
「容子さん、君さえ良ければ、僕もそうしてほしい」
「え!」
 姉は茂樹さんの反応にえらく驚いていた。僕は、すかさず追撃を入れた。
「姉さん、断る理由無いよね」
「な、無い」
 姉は、まんまとしてやられたという顔をしていた。
「じゃあ、決まりだ。ああ、茂樹さん、今、うちの両親、毎週土日には家にいますから、挨拶はいつでも大丈夫ですよ」
「そうか、じゃあ早々に挨拶に行くことにするよ」
 予想外の展開に自分だけが置いていかれたように、姉はただただ狼狽えていた。
「でも、茂樹さん。この展開、石垣のレンタカーの時と全く同じパターンじゃないですか?」
「そうだ、その通りだ」
 笑い合う僕たちを交互に見ながら、姉は迷子になった子供のようにオロオロとしていた。

 茂樹さんは、父に殴られることも無く、あっさりと挨拶は終わった。三月中の吉日を選んで、二人は入籍を済ませ、姉は最初から村川容子として教壇に立つことになった。
 姉は学生時代と同じように実家から通勤し、基本的には家事は全て母に任せ、仕事に専念した。週末はいつも茂樹さんの部屋で過ごし、月曜の夜に家に帰ってくるという生活が続いた。八重山のような遠方に赴くことはなかったが、近場の一泊旅行には、よく二人で出かけていた。そんな日常が淡々とだが、ささやかな幸福を伴って過ぎ、四年の時が流れた。

 そして、二○十二年三月、姉は最初の卒業生を出した。四月には転勤で別の学校に移り、六月、ようやく二人は式を挙げた。その時、僕は大学の四年生で、教育実習が間近に迫っていた。
 そして七月、二人は、僕の家の近くにマンションを借り、やっと同居にたどり着いた。八月には新婚旅行でヨーロッパに行った。
 それからの約一年は二人にとって最も幸せな時期だった。いつしか、姉の顔を見る度に「後は赤ちゃんだけね」というのが母の口癖になっていた。これから二人は子供を作り、明るく幸せな家庭を築いてゆくのだろうと誰もが思っていた。しかし、二人には残酷な運命が待ち受けていた。
 二○十三年九月、職場の定期健診がきっかけで姉の体に癌がみつかったのだ。それから長い闘病生活が始まった。
 二○十四年三月、休職中だった姉は職場復帰の目処が立たず教師を辞めた。その頃、教員二年目の終りを迎えた僕は、次年度の1年生の担任の就任が決まっていた。

 茂樹さんは姉のために様々な治療法を探し回り、病院も何度か変えた。有効だという話を聞くと、保険適用外の高価な治療も姉に受けさせた。茂樹さんは、ご両親からも随分とお金を借りたようだった。しかし、姉の体が回復に向かうことはなかった。徐々に弱ってゆく姉の姿を見るのは心が痛んだ。しかし、僕にはどうすることもできなかった。できる限り頻繁に見舞いに行く、僕にできることはそれしかなかった。
 
 姉の願いを初めて聞いたのは、姉が、まだ相部屋の病室にいる頃だった。ベッドの脇に置かれた丸椅子に腰を下ろしていた僕に、姉は静かに自分の願いを語り始めた。
「私、早く家に帰りたいな。それから、あの場所にも帰りたい」
「あの場所って、どこのこと?」
「鳩間島の灯台の下」
「あそこは姉さんにとって『行く』場所じゃなくて『帰る』場所なの?」
「うん、だって茂樹さんと出会った場所だから」
 姉は、ふと窓の外のどこか遠くに視線を向けていた。
「なんだ、のろけてるの?」
「違うわ。もっと真剣な話。私ね、あそこから、もう一度歩き出したいの。もっと良い奥さんになりたいし、教師にも戻りたいな」
「じゃあ、治療がんばらないとね」
「そうね」
 姉の答えは心なしか虚ろに聞こえた。
「純、この話、茂樹さんには内緒にしておいてね」
 姉はそう続けた。
「うん」、とだけ僕は答えた。
 茂樹さんを困らせたくないという姉の思いが僕には痛いほどよく分かったが、その時の姉にとって、その願いは、まだ希望だったのか、すでに叶わぬ夢だったのか、僕には知る由もなかった。

 新しい歌ができる度に、僕は、それを姉の携帯に入れていった。昔と違って、姉はいつも僕の歌を褒めてくれた。
「うん、これも、いい歌ね」
「ありがとう」
「一度、生で聞きたいな、あなたの歌」
「病院じゃ無理だよ」
「ところで、純、鳩間島の歌は、まだ、出来ないの」
 姉は、しばしば鳩間島の歌を早く作れと僕を急かした。
「ごめん。まだ、出来ていないんだ」
「早くしてよね」
 姉は少し寂しそうにつぶやいた。
 僕は、何度か鳩間島の歌を作ろうとした。当然、それは姉と茂樹さんの歌以外にはなりえなかった。しかし、あの時の幸せな思いでの歌は、その頃の姉にはあまりにも不似合いだった。
 そして、同時に僕は不安を抱えていた。鳩間島の歌を聴いたら、姉は安心して逝ってしまうような気がしていた。僕は鳩間島の歌を作れなかったのではなく、作らなかったのかもしれなかった。

 姉と茂樹さんは、お互いの前では決して涙を見せなかった。たぶん、それは無言のままに出来上がった約束だったのだろう。でも、僕は茂樹さんが泣いているのを良く知っていた。
 ある時、こんなことがあった。それは姉が相部屋から個室に移ってすぐのことだった。僕はいつものように姉のベッドの脇に丸椅子を置いて座っていた。姉はベッドを起こして僕と話をしていたが、急に妙な宣言をした。
「もう、こんなの止める」
 姉は被っていたウィッグを外すと、それを僕に投げつけた。抗癌剤の副作用で、艶があって美しかった姉の黒髪は綺麗に無くなっていた。僕はどう反応したらよいのか途方にくれた。
 そこに茂樹さんが入ってきた。姉は直前の僕とのやり取りが嘘だったかのような笑顔を浮かべて茂樹さんに声を掛けた。
「ねえ、茂樹さん、どう、この頭?時代劇に出てくる尼さんみたいで素敵じゃない?」
 姉は、まるで新しい髪形にはしゃいでいる女子高生のようだった。
「どれどれ、ああ、なんかつるつるしてて手触りが良さそうだね」
 茂樹さんの反応は明るかった。そして茂樹さんは姉のそばにやってくると右手で姉の頭を撫で回した。
「おお、つるつるで何か気持ちいいな」
 そういった後、不意に姉の頭のてっぺんにキスをした。
「何よ?純もいるのに、恥ずかしいじゃない」
 姉は嬉しそうに笑っていた。
「いいじゃないか、僕たち夫婦なんだし」
 茂樹さんはそう言い返した。
「もう、僕の前であんまりのろけないで下さいよ」
 僕も二人に調子を合わせた。そうしなければいけないような気がした。
 
 面会時間の終わりが近づいた頃、茂樹さんが腕時計を覗いた。
「純君、そろそろ帰ろうか。車で来たから、送っていくよ」
「ありがとうございます。じゃあ、姉さん、またね」
 僕たちは丸椅子から立ち上がった。
「二人とも気をつけて帰ってね」
 姉の声に送られて僕たちは病室を後にした。
 駐車場に着き、僕は助手席に乗り込んだ。隣を見ると、茂樹さんはハンドルにもたれかかったままで、車を発車させる気配がなかった。微かな嗚咽が僕の耳に届いた。茂樹さんは泣いていた。ハンドルにもたれ掛かったまま、身動きも取れないまま泣いていた。僕は見かねて茂樹さんに声を掛けた。
「僕が運転しますよ」
 僕は助手席から車外に出ると運転席の方に回り、ドアを開けた。
「すまないね、純君、取り乱して」
 茂樹さんはハンカチで涙を拭いながら、助手席に回った。僕は運転席に乗り込むと、茂樹さんと姉のマンションに車を走らせた。到着するまでの間、茂樹さんはずっと泣いていた。
「じゃあ、僕、ここから歩いて帰ります」
「本当にすまなかったね」
 茂樹さんは、どうにか平静を取り戻したように見えたが、部屋に入ったら、また泣き出してしまいそうな気がした。
 その日、姉は何かを察したのだろう。次に面会に行くと、僕は姉から面会シフト表なるものを渡された。そこには僕、茂樹さん、そして両親が面会可能な、時間割が組まれていた。姉は僕たちが病室で顔を合わせないようにしていた。

 僕は、姉が泣いているのも知っていた。姉は、僕の前では感情の起伏が激しかった。怒ったと思ったら急に泣き出し、泣いていると思ったら急に怒りだした。両親や茂樹さんの前では晒せない思いを、姉は全て僕にぶつけてきた。姉は、まるで情緒不安定な女子中学生になってしまったかのようだった。

 こんなことがあった。ある日、僕が見舞いに行くと、姉はひどく不機嫌だった。起こしたベッドから僕を睨みつけると、信じられないような言葉を吐いた。
「何しに来たのよ。私の無様な姿を笑いに来たの」
「なんで、そんなこと言うんだよ」
 悲しかった。怒りなど湧いてこなかった。姉は更に僕にひどい言葉をぶつけてきた。
「禿になった女を見て、優越感にでも浸りたいの。僕には髪があって悔しいだろうとか思っているんでしょう」
「そんな訳ないじゃないか」
 僕がそう答えると、姉は、今度は急に泣き出した。
「もう、来ないでよ。あなたの顔なんて見たくもないわ。あなたなんて生まれてこなければ良かったのよ」
 僕は返す言葉が見つからなかった。この状況にどう対処すればよいのか、何も考えが浮かばなかった。
「みんなあなたが悪いのよ。あなたさえいなければ、私が茂樹さんと一緒になることはなかった。あなたが茂樹さんを不幸にしたのよ」
 泣きながら怒り狂う姉の言葉は支離滅裂で、理性を失っていた。
「私、あなたを殴らなければ気がすまないわ。純、こっち来なさい。」
 姉に命じられるままに僕は姉の下に歩みを進めた。
「ここに頭を出しなさいよ」
 姉は自分のお腹の辺りを指で示した。僕は丸椅子に腰を下ろすと、言われたとおり自分の頭を姉の前に差し出した。
 姉は僕の後頭部を右の拳で殴り続けた。僕はただ、されるがままにしていた。やり場のない怒りの強さと裏腹に、すでに強さを失った姉の拳は悲しいほどに痛くなかった。

 その次に見舞いに行くと、姉は僕の顔を見るなり泣き出した。
「純、この前は御免ね。ひどいことを言って御免ね」
「気にしてないよ」
 僕はそう言って、いつものように丸椅子に腰を下ろした。
「本当に御免ね、殴られて痛かったでしょう」
「全然、痛くなかったよ」
「嘘よ、嘘でしょ」
「本当だよ」
「御免ね、あなたに八つ当たりしたりして」
 姉はひたすら僕に謝り続けた。
 その日、姉は泣いてばかりで、ほとんど会話にならなかった。僕は、ただ、黙って姉の傍にいることしかできなかった。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
 僕が立ち上がると、姉は僕の腕に両手ですがり付いてきた。
「待って、まだ帰らないで、もう少し私の傍にいて」
「いいよ」
 そう言ったものの、僕は次の言葉を捜すことが出来なかった。
「御免ね、私の方が年上なのに、あなたに甘えてばかりで」
 姉は、また謝った。
「大丈夫、昔は今の何千倍も僕が姉さんに甘えていたから、姉さんが、どれだけ甘えても、絶対にチャラにはならないから」
 僕がそう言うと、姉はいつかの願いを口にした。
「私、家に帰りたい。あの場所にも帰りたい」
 それからというものは、僕が帰ろうとする度に同じことになった。
「私、家に帰りたい。あの場所にも帰りたい」と姉は呪文のように繰り返した。僕は姉が手を離してくれるまで、いつも黙って傍にいることしか出来なかった。
 姉の願いが、すでに叶わぬ夢であることは、僕も姉も、悲しいほどによく分かっていた。

 そして、とうとう、その日がやってきた。二○十五年四月二日、つまり、約四ヶ月前のことだ。
 その日、僕は見舞いに来て欲しいという電話を姉からもらった。その日は、姉が作った面会シフト表には含まれていない日だった。僕はよく見舞いに行っていたが、来て欲しいと言われたのは、その日が初めてだった。
 個室のスライド式のドアを開けて、僕は少し驚いた。最近はベッドを起こすことはほとんどなくなっていた姉がベッドを起こしていた。そして、あの日に宣言をして以来一度も付けたことのないウィッグを姉は付けていた。
 僕はいつものようにベッドの脇の丸椅子に腰を下ろした。
「どうしたの、姉さん、ウィッグ付けるの止めるって宣言したのに」
「今日はね、なんだか朝から気分が良くてね。たまにはお洒落してみようかなって思ったの」
「それ、悪くないと思うよ」
 僕がそう言うと姉は嬉しそうに笑った。
「そう、良かった」
 その日の姉は泣きもせず、怒りもせず終始穏やかで、病気になる前とまるで変わらなかった。僕たちは久しぶりに和やかな会話をして時を過ごした。だいぶ時間が経った頃、姉は一瞬戸惑った後、意外なことを僕に言った。
「純、あの三線、本当は女の人からもらったんでしょ」
「なんだ、茂樹さんばらしちゃったのか」
「違うわよ。茂樹さんから聞いたんじゃない。姉の、いや女の勘って奴ね」
「何、それ?」
「あなた、旅に出る前は、子供の頃から私に甘えてばかりの頼りない男の子っていう顔してたのに、大人の顔になって帰ってきた。私ね、かわいい弟を取られたような気がして、ちょっと悔しかったの」
 僕は少し困った顔をしていたのだろう。その顔が面白くてしかたがないという様子で姉は話を続けた。
「それでね、あなたが二回目にお金を借りに来た時、また、その人に会いに行くつもりだなって思ったの。私は、その人がどんな人なのか見てみたかったの。だから、ああいう条件をつけたんだけど、その人、いなかったよね」
 姉は確認を取るように僕の顔色を見た。
「ああ、いなかった。僕と会った後、すぐ島を出たらしいよ」
「その人、今、どうしているのかしら」
 姉は、奈々さんのその後にも興味があるようだった。
「知らない。携帯の番号も教えてくれなかったから」
「どうして?」
 姉の問いかけには妙な真剣さが滲んでいた。
「どうしてって、僕も聞いたんだ。そうしたら、『私のことは南の島の綺麗な思い出にしておきなさい』って言われたんだ」
 姉は、やや間を置くと少し羨ましそうにつぶやいた。
「その人、かっこいいね」
「うん、かっこいい人だった」
 それから、姉は少し躊躇したように見えたが、意を決したように話し始めた。
「純、私ね、あなたにすごく感謝しているの。あの日、あなたがあんなに真剣になってくれなかったら、私と茂樹さんは一緒になることができなかった。あなたが甘えさせてくれたから、たくさん泣かせてくれたから、茂樹さんとは、ずっと笑顔でいられた。あなたが私の弟で良かったって、ずっと思ってたの」
 子供のころからいつも頭が上がらなかった姉に、初めて褒められたような気がした。
「そこまで褒められると、なんか気持ち悪いな」
「ううん、本当のこと。いつか伝えたいと思っていたんだけれど、照れくさくて、ずっと言えずにいたの。でも、伝えられて良かった」
 その言葉に、僕は何かひっかかるものを感じた。しかし、それを姉に問いただすことは僕にはできなかった。だから僕は少し別の方法を取った。
「茂樹さんには、もう伝えたの?ずっと言えなかったこと」
「うん、伝えたよ。素直に全部伝えられた」
「そう、良かったね」
「うん、良かった」
 悲しいことに、僕の想像は間違っていないようだった。ならば僕もと思った。少し迷ったが、僕も姉には言っていなかったことを伝えることにした。ずっと言いたかったこととは少し違ったが、伝えるべきだと思った。
「姉さん、僕はね、姉さんと逆のことを思ってた時期があるんだ」
「逆って、どういう意味」
 姉は少し首をかしげた。
「姉さんが、僕の姉さんじゃなければいいのにって、思っていたんだ」
「どういうこと、それ?」
 不思議そうに僕を見る姉に、僕は少し照れながら秘密を明るみに出した。
「血がつながってなければいいのにって、思ってた時期があるんだ。だって、姉さんは僕の初恋の人だから」
 姉は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに、それは笑顔に変わっていった。
「この期に及んで愛の告白?でも、なんか嬉しいな」
「いやあ、思春期の初めの、ほんの少しの間の話だよ。今は、自分に姉さんと同じ血が流れているのが嬉しいよ。今は、ただの弟として姉さんのことが好きだよ」
「おだてても、お小遣いは出ないわよ」
 冗談めかした姉の言葉に、僕はふと遠い昔のお祭りの日のことを思い出した。
「昔、お祭りの時に、お小遣いくれたよね。『お母さんたちには内緒よ』って言って」
「あなた、そんなこと良く覚えているわね」
「だって良い思い出だもの」
 僕のその言葉を聞いた後、姉は少し照れたような笑みを浮かべながら妙なことを言った
「ねえ、純。今度生まれ変わったら、恋人同士になって結婚しようか」
「それも、悪くないかもしれないね」
 僕が真顔で言うと、姉は急に正気に戻ったような顔をした。
「なんか私たち馬鹿みたいね」
「そうだね」
 そんなやり取りをして、僕たちは思わず笑い出してしまった。ああ、姉とこんな風に楽しく笑い合ったのは一体いつ以来だろうと僕は思った。こんな時間がもっと続けばよいのにと思う気持ちに水を差すように病院のアナウンスが流れた。
「間もなく面会終了の時刻になります。面会者の方は退出のご準備をおねがいします」
 残念ではあったが、仕方なく僕は帰宅する旨を姉に伝えた。
「もう、そんな時間だったんだね。じゃあ、僕は帰るね」
 丸椅子から立ち上がろうとする僕を姉の手が引き止めた。しかし、それは、いつものような強引な引き止め方ではなかった。そして、姉はまるで女子中学生のように顔を赤らめて、おかしなことを言った。
「ねえ、純、私たちってニューヨーカーだよね」
「ええ~、元だと思うけどな、ニューヨークに住んでいたのは随分昔の話じゃないか」
「いいじゃない、元でも」
 姉は少しためらった後、冗談めかして言った。
「純もニューヨーカーなんだから、アメリカ映画に出てくるようなカッコいい男の子みたいに、大好きなお姉さんに『おやすみのキス』くらいしてくれてもいいんじゃない」
 姉は少し唇を前に出すと目を閉じた。
「そうだね。」
 僕は丸椅子から立ち上がり、ごく自然に自分の唇を姉の唇に重ねた。それは、それまでの人生の中で、最も軽く、甘く、そして悲しいキスだった。
「おやすみ、姉さん、良い夢を見てね」
「うん、見られそうな気がする」
 姉の笑顔は、本当にそう信じているように見えた。
「じゃあね」
 僕がそう言ってドアの方に向かい、取っ手に手を掛けた時だった。
「純」
 姉が僕の名を呼んだ。振り向くと、姉は透き通った瞳で僕を見つめていた。
「純、ありがとう。さよなら」
 姉が「さよなら」と言った。いつもなら、「じゃあ、またね」、という所で「さよなら」と言った。姉の瞳には、もう憂いも、未練も、悲しみもなかった。それは死を悟った者の瞳だと僕は思った。
 姉の「さよなら」には、僕も「さよなら」で答えなければならなかった。でも、僕は、すぐにその言葉を口にすることができなかった。姉は、まっすぐに僕をみつめたまま、僕の「さよなら」をじっと待っていた。僕は喉の奥から無理やり最後の言葉を引きずり出した。
「さよなら、姉さん、大好きだよ」
 僕はドアを開き廊下に出てから、もう一度後ろを振り向いた。姉は限りなく優しい笑みを浮かべていた。そして、僕は取っ手を引いて姉の姿をドアの向こうに消し去った。その姿が、僕が見た最後の生前の姉の姿だった。

 それから、わずか四時間後、日付が四月三日になった直後、姉は静かに息を引き取った。あまりにも突然の出来事で、誰一人臨終に立ち会うことはできなかった。
 僕が両親と一緒に病室に入ると、すでに来ていた茂樹さんが大声で泣いていた。姉の体にすがり付き、「容子、容子」と叫び続けながら、ただただ泣いていた。号泣という言葉は、こういう涙のためにあるのだと僕は思った。
 茂樹さんがどうにか落ち着きを取り戻したところで、僕たちは医師から姉の最期についての説明を受けた。姉の死は末期癌の患者の容態の急変とは言いがたいという話だった。姉の心臓は全く何の前触れもなく突然停止したというのだ。それと同時に、呼吸その他の全ての身体機能が停止し、突然死と言っても良い最期だったと僕らは聞かされた。
 その話を聞いた時、僕は数時間前の自分が間違っていたことを思い知らされた。あの姉の澄んだ瞳は、死を悟った者の瞳ではなかった。それは死を決意したものの瞳だったのだ。姉は僕や茂樹さんに、伝えるべきことを笑顔で伝え、一人で静かに旅立つ道を選んだのだ。
 姉は、よくある難病もののドラマのような臨終シーンを演じたくなかった、そして、僕たちに演じさせたくなかったのだ。勝手な思い込みだと人は言うだろうが、そんなことはどうでも良かった。僕には姉の死に顔が何よりの証拠に思えた。姉の死に顔はこの上なく美しかった、微かに笑みを浮かべているようだった。僕は何の疑いも無く信じた。姉は短かったが幸せだった人生に感謝し、なすべきことをなし終えて、良い夢を見ながら旅立ったのだと。

 姉が亡くなったというのに、僕は不思議と泣かなかった。それは、姉の死に顔があまりにも美しかったせいかもしれなかった。良い夢でも見ているかのように、微かな笑みを浮かべている姉の死に顔は、生きている時と変わらずに美しかった。閉じた瞼の下で、その目が、もはや何も映していないことも、その耳に僕たちの言葉が届くことがないことも、その頬が僕たちの手の温もりを感じることがないことも、悲しいほどに分かっていたのに、死してなお美しい姉の姿は、僕にそれを受け入れさせてくれなかった。

 通夜が過ぎ、告別式が終わり、いよいよ棺を閉じる段になっても、涙はこぼれてこなかった。不謹慎だと言われるかもしれないが、白い衣に身を包み、花に埋もれた姉の姿は、本当に綺麗だと思った。
 姉を乗せた霊柩車が実家近くの桜並木に差し掛かった。そこは、お祭りの時に、姉が両親に内緒でお小遣いをくれた場所だった。青空から柔らかな日差しが降り注いでいた。できすぎたドラマのように花吹雪が舞っていた、それは美しかった姉の旅立ちへの餞のように思えた。
 姉の体が、いよいよ荼毘に付される直前、最後のお別れの時に見た姉の顔が呼び起こしたものも、「悲しい」というよりも「美しい」という思いだった。姉の棺が重たい扉の向こうに消えても、なお、涙はこぼれてこなかった。
 しかし、涙はまるで夕立のように突然降ってきた。それは姉の遺骨が僕たちの前に運ばれてきた直後のことだった。姉の体が横たわっていたはずのその場所には、茶色がかった砂と石の小さな砂漠があるばかりだった。あれほどまでに美しかった姉の姿は、もはや見る影も無かった。かつて姉であったものの向こうに、火葬場の入り口のドアがあった。そのガラス越しに小さな桜の木が見えた。傾きかけた春の日差しを受けて、桜の花びらが音も無く風に舞っていた。
 その時、今まで溜まっていた涙が堰を切ったように一気に零れ落ちた。僕の両膝は無様に床に崩れ落ちた。両手を床につき、僕は赤ん坊のように泣き続けた。床に次々と涙が零れ落ちた。止めることができなかった。いや、止めようという意識すら起こらなかった。
 どれほどそうしていたのか、僕には見当もつかなかった、僕のせいで骨上げが始められないことなど頭の隅にもなかったが、ふと、僕の両肩に触れる手に気づいた。茂樹さんだった。
「純君、僕と一緒に姉さんの遺骨を拾ってやってくれないか。僕たちにできることは、もう、それぐらいしかないんだから」
 茂樹さんに促され、僕はようやく立ち上がった。しかし涙が止まることはなかった。火葬場の職員がお決まりの説明を始めた。
「こちらが喉仏でございます」
 職員が掲げて見せた姉の喉仏は、今も「家に帰りたい、あの場所にも帰りたい」とつぶやいているような気がした。

 全てが終わり、火葬場の入り口でタクシーを待つ茂樹さんに僕は付き合った。
「さっきは取り乱してすみませんでした」
 その時になるまで、僕は茂樹さんに詫びの一つも言えないでいたのだ。
「いや、気にしなくていいよ」
 茂樹さんの言葉は優しそうでもあり、悲しそうでもあった。やがて、やって来たタクシーに、姉の遺骨を抱いて茂樹さんは乗り込んだ。
「純君、色々ありがとう。じゃあ、またね」
 茂樹さんは無理して笑顔を作っていた。
 タクシーは緩やかに発進すると、先ほどの小さな桜の木が放つ桜吹雪の中を去っていった。愛する人に抱かれ、姉はようやく待望の我が家への帰宅の途についた。

 それから約一ヵ月後、つまり、約三ヶ月前に、僕はゴールデンウィークを利用して八重山を訪れた。八重山の旅は僕にとって諸刃の剣だった。海の色や、料理に、酒、そして、旅人たちとの語らいは僕の心を癒してくれた。
 しかし、八年前に姉と訪れた場所に来ると、僕の心は悲しみで埋め尽くされた。鳩間島という文字を見るたび、そして言葉を耳にする度に胸が痛んだ。

 ある晩、石垣のゲストハウスで一緒になった旅人たちと居酒屋で飲んでいる時だった。僕の短パンのポケットの中で携帯が震えだした。僕は店の外に出て携帯を開いた。着信の表示には茂樹さんの名前があった。僕は、すぐに応答のボタンを押した。
「もしもし、純です」
「やあ、純君、久しぶりだね。お義母さんから聞いたんだけど、君、今、八重山にいるんだって」
「はい、今、石垣の宿で会った人たちと飲んでいるところです」
「そうか、邪魔して悪かったね。実は、僕も今、石垣に着いたところなんだ」
 意外な話だった。
「それなら、これから一緒に飲みに行きますか?」
「いや、今夜は遠慮しておくよ」
 茂樹さんは少し躊躇した後に僕に尋ねた。
「純君、明日は、もうツアーの予約とか入れてしまったかな?」
「いいえ、何も予定は入れていません」
 僕の答えを聞いて、茂樹さんはほっとしたように電話の本題を切り出した。
「そうか、じゃあ、明日一日、僕に付き合ってくれないかな?」
「いいですよ。どこで待ち合わせましょうか?」
 茂樹さんの答えは、最初から決めてあったようにすぐに返ってきた。
「九時に離島ターミナルまで来てくれないか?」
「いいですよ。ああ、海を正面にして左側にダイビングショップのオフィスがありますから、その近くのベンチに座っていて下さい」
「分かった。そうするよ」
 茂樹さんは了承した後、少し間を置いてから、やや不安げな声で尋ねてきた。
「ところで純君、今回も三線を持って来てるかな?」
「はい、持って来ました」
 僕の答えに安心したのか、茂樹さんの声が少しだけ明るくなった。
「そうか、良かった。悪いけど、明日、三線も持ってきてくれないかな?」
「いいですよ」
「じゃあ、また明日」
「はい、失礼します」
 電話を切り、僕は携帯をポケットにしまった。不思議だった。姉の死の後始末で忙しいはずの茂樹さんが、なぜ、突然に八重山を訪れたのだろうか。そして、僕を呼び出して何をしようとしているのか、まるで見当がつかなかった。

 翌朝、僕は時間通りに離島ターミナルに着いた。約束した場所に座っている茂樹さんの後姿にはすぐに気づいた。しかし、ベンチの前に回った時、一瞬息が止まった。茂樹さんは膝の上に姉の遺骨を抱えていた。
「茂樹さん、お早うございます」
 僕は茂樹さんの隣に腰を下ろした。
「やあ、お早う。すまなかったね、急に呼び出したりして」
 茂樹さんの声はどこか元気がなかった。
「いいえ、気にしないでください」
 僕の言葉を聞いた後、茂樹さんは今日の目的を明らかにした。
「実は、納骨をする前に、姉さんを鳩間島に連れて行ってあげようと思ってね。『家に帰りたい、あの場所にかえりたい』というのが姉さんの願いだったから」
 その姉の願いは、茂樹さんには内緒にしておいてほしいと言われていたものだった。
「いつから知ってたんですか」
「最後の日に聞かされた。ずっと伝えたいと思っていたことがあるって言われて。それを聞いて、僕は退院の準備をするって約束したんだ。結局、間に合わなかったけどね」
「そうでしたか」
 間に合わなかったというのは少し違うような気がした。
 それから、茂樹さんは少し弱気な声で僕に頼んだ。
「なんとなく、一人で行く勇気がなくてね。純君、僕と一緒に鳩間島に行ってくれないかな?」
 僕も一緒に行っていいものなのだろうかという思いがちらっと頭をかすめたが、僕は同行を了承することにした。
「分かりました。ご一緒させていただきます」
「ありがとう、じゃあ、これ」
 茂樹さんは、僕に鳩間島行きの往復のチケットを手渡した。そして、僕たちの巡礼の旅が始まった。

 十時四十分、高速船が鳩間島の港に到着した。あの日、寂れた漁港に過ぎなかった港はすっかり様子が変わっていた。高速船用の浮き桟橋ができ、小さいながらも小奇麗な待合室も建っていた。宿やツアーの送迎の車も何台か来ていた。それは、八年前のあの日には見かけなかった光景だった。
 灯台へ続く細い坂道も、わずかだが様相を変えていた。あの時は、観光とはまるで縁のない場所にしか見えなかったが、真新しい看板や矢印も見られ、宿や店の数も増えたようだった。
 僕たちの姿は人目を引いた。茂樹さんが抱く姉の遺骨は、ゴールデンウィークの南の島には不似合いだった。特に島の住民には奇異に見えたのが明らかだった。小さな島だから、住民の生き死にには誰もが精通している。島民でもない茂樹さんが、なぜ、遺骨を抱えて島に来たのか、島民は皆、いぶかしく思っていたに違いなかった。
 集落を抜けると、そこからは、あの日のままの鳩間島だった。鳩間中森の石塔を見つけ左に折れると、僕たちは山の頂上の灯台の下にたどり着いた。
 それから、僕たちは、まず灯台の左側の柵の方に向かった。あの日、三人で黙って見つめた港の海の色は、変わることなく青く奇麗だった。茂樹さんは、胸元に抱えていた姉の遺骨を肩に担いだ。僕には、茂樹さんが姉に語り掛けている言葉が聞こえたような気がした。僕は海を見つめたまま茂樹さんに声を掛けた。
「姉さんは、やっと、帰りたいと言っていた場所にたどり着いたんですね」
「ああ、こんなに小さな姿になってしまったけどね」
 それきり、お互いに言葉が途切れた。それから、僕たちは、しばらくずっと鳩間の海を見つめ続けていた。海の青も、空の青も、あの日と同じように美しかった。しかし、僕と茂樹さんの間に姉はいない。それ以外は、あの日と何一つ変わっていないような気がした。
 西表島の方を眺めながら、僕は思った。姉と一緒に一番上まで登ったピナイサーラの滝はどのあたりだろうか、茂樹さんと一緒に泊まった宿はどのあたりだろうか、姉をひっぱって泳いだ海はどのあたりだろうか。分かるわけもなかった。
 どれくらいそうしていたのか、時間の感覚がなかった。
「純君、じゃあ、あっちに行ってみようか」
 茂樹さんに声を掛けられて、僕はようやく我に返った。そして、僕たちは、あの日一緒に昼食を取った物見台に上った。腰を下ろして落ち着くと、茂樹さんが僕に頼んだ。
「純君、姉さんに君の歌を聴かせてやってくれないかな。一度は生で聴きたいって言っていたからね」
「はい、わかりました」
 僕は三線をケースから取り出して糸を巻いた。
「茂樹さん、僕の作った歌を歌う前に、あの宿で一緒に歌った歌を歌いませんか?たぶん姉は茂樹さんの歌も聴きたいはずです」
「ああ、そうかもしれないな」
 茂樹さんの言葉を受けて、僕は三線を弾き始めた。そして、僕たちは、あの宿で一緒に歌った歌を全て歌った。あの日と違うのは、そこに姉の声がなかったことだ。

「じゃあ、ここからは僕のオリジナルの歌を歌いますね。」
「ああ、楽しみだな」
 そして、僕はそれまでに作った八重山の歌を全て歌った。僕の歌の歌詞の中には姉と共に訪れた場所もあり、時々涙がこぼれそうになった。茂樹さんは黙って僕の歌に耳を傾けてくれた。
「ありがとう、純君。どれも皆、良い歌だね。姉さんもきっと喜んでいると思うよ」
 全ての歌を歌い終わった時、茂樹さんがそう言ってくれた。
「そうだと良いですね。」
 僕には、姉に届いているという確信はなかった。
「でも、鳩間島の歌は、まだ、出来ていないんだね」
 茂樹さんが少し悲しげにつぶやいた。
「すみません。姉にも、せがまれていたんですが、どうしても鳩間島の歌はできませんでした」
「そうか、できた時には僕にも聴かせて欲しいな」
「はい、頑張ってみます」
「期待しているよ」
 茂樹さんが言った直後だった。僕は信じられない声を耳にした。
「御免ね、純、茂樹さんと二人きりにしてくれないかな?」
 姉の声だった。
 僕は茂樹さんの方を見たが、茂樹さんには姉の声が聞こえた様子は見られなかった。僕は、一人でこの場所を離れる言い訳を少し考えてから茂樹さんに声を掛けた。
「茂樹さん、僕、せっかく遠くまで来たので、島を回ってみたいんですが、構いませんか?」
「もちろんだよ、歌も歌ってもらったから、姉さんの願いは、もう叶っただろうし、行っておいで」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 僕は三線をケースに収めて立ち上がった。
「それじゃあ、港で会おう」
「はい、失礼します」
 僕はゆっくりと物見台の石段を下り始めた。物見台を離れ、しばらく歩くと、ふと気になって茂樹さんの方を振り返った。そして、僕は一瞬、自分の目を疑った。
 茂樹さんの隣に姉が座っていた。まるで、あの時と同じように。茂樹さんは黙っていたが、姉は茂樹さんの言葉に答えるように嬉しそうに頷いたりしていた。僕に気づいた姉が小さく手を振った。その唇が「ありがとう」と動いたように見えた。僕は二人に背を向けて集落の方へ坂を下りていった。

 一時間もしないうちに、僕は島を一周していた。小さな島だが、いくつもの美しい浜辺があった。あの日は、灯台と港を往復しただけだったので、初めて見る景色ばかりだった。たぶん、あの日にはなかったであろう、宿やお店がいくつか目に付いた。
 僕は竹富島のカイジ浜のように木陰のある浜をみつけ、そこにブルーシートを敷いて横になった。西表島が間近に見えた。珊瑚礁に守られた浅瀬は薄い水色をしていた。白く見える部分もあった。
 横になって海を見ながら、僕は二人のことを思った。二人は今、どんな気持ちで時を過ごしているのだろうと考えた。茂樹さんには、姉の姿も見えず、声も聞こえないようだった。でも、茂樹さんは、きっと心の中で姉に向かって言葉を掛けていたのだろう。 
 そして、その心の声が姉には聞こえていたのだ、あんなに嬉しそうに、頷いたりしていたのだから。
 いつの間にか僕は眠りに落ちていた。茂樹さんとあの場所で過ごす姉は、僕の夢の中には出てきてはくれなかった。

 日が傾き始めた頃、港の待合室にいると、茂樹さんが姉を抱いて戻ってきた。
「茂樹さん、お疲れ様。二人きりで、たくさん話ができましたか?」
「ああ、声には出さなかったし、もちろん答えなどなかったけれど、姉さんは、隣で僕の心の声を聞いていてくれたような気がしたよ」
「そうですよ、だって姉さん、すごく・・・」
 言いかけた言葉を僕は飲み込んだ。「すごく嬉しそうにしていたから」と言うつもりだった。でも、僕は姉さんの声を聞いたことも姿を見たことも、茂樹さんには黙っていることにした。そうしなければいけないような気がした。僕は、すぐさま別の言葉を用意した。
「茂樹さんの心の声はきっと姉に届いていたんだと、僕もそんな気がします」
「そうだと良いね」
「そうですよ、きっと届いていますよ」
 僕たちはお互いの顔を見て少し笑った。

 十六時十五分、高速船は鳩間島の港を出港した。その時、僕たちは、まだ船室に入らず船尾にいた。ふと灯台を見上げると、姉があの場所から僕たちに手を振っていることに気づいた。
「茂樹さん、馬鹿げたお願いをしても良いですか?」
「なんだい」
「僕と一緒に、手を振ってやってくれませんか。姉があの場所から手を振ってくれているような気がするんです」
「ああ、そうかもしれないね」
 僕が、あの場所に向かって手を振ると、茂樹さんも付き合ってくれた。もし誰か見ている人がいたら、見送る人もない方に手を振っている僕たちは、変な奴らに見えたかもしれない。しかし、そんなことはどうでもよかった。僕には分かっていた。僕たちが手を振っていることを姉も感じ取っていると。

 船が防波堤を超えた時、僕は、姉が手を振るのを止めたことに気づいた。僕が手を振るのを止めると茂樹さんも手を止めた。そして、僕は知った。あの場所から、空と海の狭間のあの場所から、姉がもう一度歩き出したことを。海を行く僕たちとは逆に空の方へと。

 話が終わると真澄の小さな声が聞こえた。 
「確かに、悲しくて、切ない思い出ね」
「ずっと誰かに聞いて欲しかったんだ。でも、誰にでも聞かせられる話じゃないし。真澄さんならば、きっと素直に信じてくれると思ったんだ」
「ありがとう。話してくれて」
「いや、礼を言いたいのは僕の方だよ」
 話して良かったと僕は心底思った。感慨深げな僕の様子を見てか、少し間を置いてから真澄が尋ねた。
「それで、鳩間島の歌はいつできたの?」
 その問いを受けて、僕は歌ができた時の気持ちを語った。
「姉さんが旅立ったと思った途端に、頭の中でメロディーが流れ出したんだ。姉の死を歌にするなんて不謹慎だと思ったんだけど、メロディーは止まらなかった。言葉も次々と浮かんできたんだ。素人だけど、物書きの性なのかと思った。僕の意思とは関係なく、歌がどんどん勝手にできていったんだ。そうして、船が石垣に着く前に歌は完成していた。ひどい話だよね。」
「そんなことないよ」
 真澄の言葉はひどく優しく聞こえた。
「ありがとう、そう言ってくれると、なんか少し救われた気がするよ」
 それから、僕の少し沈んだ様子を気にしてか、真澄は遠慮がちに聞いてきた。
「歌の題名は、なんていうの」
「鳩間島巡礼」
「聴かせてくれる?」
「うん」
 僕はケースから三線を取り出して糸を巻いて、前奏に入った。「鳩間島巡礼」はスローテンポな三拍子の曲で、メロディー的には盛り上がりに欠けるが、僕自身は出来栄えに満足していた。今なお、不謹慎だという思いは完全には消えていなかったが。
 すでに事情を知っている真澄は別だが、何の前置きもなしに聴くと、一番の最後と二番の繋がりが不自然な感じがするはずだ。二番には不可能と思われる描写があり、最後は意外な展開がある。ああ、そういうことだったのかと、最後まで聴いて初めて分かる、そんな仕掛けのある歌詞になっていた。僕は前奏に続けて歌に入った。

 鳩間島に定期船がまだ無かったあの頃
 島に渡るシュノーケルのツアーで会った二人
 お弁当を食べるために皆で坂を上り
 君のそばに腰下ろした白い灯台の下
 空の青と海の青が向き合うその狭間で
 語り合って惹かれあった日から既に八年
 島で芽生え街で育ち、愛は花つけたけど
 今年四月、桜と手を取り合い共に散った
 
 あの日語り合った場所にもう一度帰りたい
 願っていた君を連れて二人最後の旅へ
 定期船で島に渡り、時の流れ感じて
 君を抱いて坂を上り灯台の下に着く
 何もかもが移ろう中、今もあの日のままの
 青い空と海の色が君にも見えるだろう
 帰りたいと言った場所にやっとたどり着いたね
 君の姿、悲しいほど小さくはなったけど

 ラララ、ラララ
 ラララ、ラララ
 ララララララ、ララララララ
 ラララ、ラララ
 ラララ、ラララ
 ララララララー

「どうだった。」
 歌い終えて僕は尋ねた。
「良かった。良すぎた」
 少し黙り込んでから、真澄は、また話し始めた。泣き出しそうな声だった。
「あの、誤解しないで聞いてね」
「うん」
「私、お姉さんが羨ましい。生きている時も、死んでからも、こんなに、純さんや、ご主人に愛してもらえているお姉さんが羨ましい。私なんて、私なんて・・・」
 そう言ったきり真澄の言葉は途絶えた。僕は、この近くのアパートで真澄は一人で泣いているのだろうと思った。しかし、僕にはハンカチ一つ貸してやることもできなかった。