八重山歌集-地縛霊に捧げるラブソング―【オリジナル版】

第一部

七月二十六日(日)

 夏休み最初の日曜日も、僕は部屋の片づけに追われた。前の晩の女の声は、多少気にはなっていた。女の声は、かなりはっきりと聞こえたような気がしたが、ほぼ一日中部屋にいても、一向に女の声は聞こえてこなかったので、夕方には、やはり気のせいだったのかと思い始めていた。
 女が声を掛けてきたのは、僕が早めの夕食を近所のラーメン屋で済ませて、前の晩と同じようにガラス戸の前に腰を下ろし、三線を構えた時だった。
「すみません。昨夜は驚かせてしまって、済みませんでした」
 申し訳なさそうな声だった。
 前の晩の声が、幻聴ではなかったことがはっきりした。尋常ではないできごとに少々驚いたものの、僕は丁寧に相手に問い返した。
「あの、もしかして、昨夜、声を掛けてきた方ですか?」
「はい、ごめんなさい。脅かすつもりはなかったのです。まさか私の声が聞こえると思わなかったし、歌がとても素敵だったので、つい声を掛けてしまいました」
「そうでしたか」
 言った時点で、僕は恐怖を感じることもなく、事態をすっかり冷静に受け止めていた。それは、たぶん、声の主に邪悪さが感じられなかったこと、前の晩、僕の歌を褒めてくれたこと、そして、僕が数か月前にも不思議なできごとを経験していたことが原因だったのだろう。しかし、やはり相手の正体は気にはなった。
「僕にはあなたの声は聞こえるけれど、姿はまるで見えない。あなたは幽霊なんですか?」
「いいえ、あなたと同じ生きた人間です。幽霊でも、妖怪でも、宇宙人でもありません。私たちは今、不思議な状況に置かれているので、不審に思われるのは分かりますが、信じてください」
 女の言葉には嘘はないような気がした。僕は質問を続けた。
「僕には、あなたの声しか聞こえないけど、あなたの方はどうなんですか?僕の顔とか部屋の様子とか見えるのですか?」
「私には、あなたの顔も部屋の様子も見えています」
「それはちょっと不公平ですね。それで、あなたは今、どこにいるのですか?」
「え、あの、それは、同じ、同じ町内にあるアパートにいます」
 女は少し動揺しているようにも感じられ、その言葉には嘘があるような気もした。話題を逸らそうとしたのか、今度は女が質問をしてきた。
「あの、昨夜の歌の歌詞にあった竹富って、どこにあるのですか。やはり沖縄ですか?」
「沖縄ですよ。八重山諸島って知っていますか?」
「すみません。知りません」
 女の声は少し恥ずかしそうに聞こえた。それならと、僕は八重山について教えてあげることにした。
「八重山諸島は日本の最南端の島々です。西のはずれでもあり、もう台湾のすぐ近くです。八重山諸島で一番大きいのが石垣島で、沖縄本島からは飛行機で一時間かかります。竹富島は、石垣港から船で十五分くらいのところにあるとても小さな島です」
「きっと素敵な島なんでしょうね。どんな所なんですか?」
 女が興味を示したので、僕は竹富の概要について語った。
「竹富島は、島全体がテーマパークみたいな所です。基本的には、全ての家が昔ながらの赤瓦の家です。家は皆、琉球石灰岩という黒い石を積んだ石垣に囲まれています。道には、珊瑚が砕けてできた白い砂が敷かれています。島の集落の中心付近に『なごみの塔』という小さな展望台みたいなものがあって、そこから見る赤瓦の家並みがとても美しいですね。素敵な砂浜もいくつかあります。昼間は人も多いですが、日帰りの観光客がいなくなった夕方からはとても静かです。西桟橋からは夕日が奇麗に見えますし、夜は天の川も見えます。僕が一番好きな島です。まあ、八重山の島々はどこも魅力があって、どの島にもそれぞれのファンがいますがね」
 話している相手の姿が見えないので、反応がつかめないせいもあり、調子に乗って語り過ぎたと僕は思った。あるいは、女は僕の長話に辟易としているかもしれないと反省したが、そうでもなかった。
「他にはどんな島があるんですか」
 僕の話に興味をなくした様子はなく、女が更に聞いてきたので、僕は全ての島の名前を言って聞かせた。
「石垣、竹富の他には黒島、小浜島、新城島、西表島、鳩間島、波照間島と全部で九つの島があります」
「西表島は聞いたことがあります。天然記念物のイリオモテヤマネコがいるところですよね。ヤマネコ見たことがありますか?」
 女も、イリオモテヤマネコが簡単に見られるものと誤解しているようだった。
「ありません。島の人でもめったに見ることはないそうです」
「そうでしたか」
 残念そうに言った後、女は更に問いかけてきた。
「あなたは全部の島に行ったことがあるのですか」
「はい、あります。よく、この三線も持って行くんです。実は、八重山の九つの島、それぞれの歌を作ろうとしているところで、昨夜の歌もその一つです」
「すごいですね。プロのシンガーソングライターなんですか」
 女があまりに驚くので、僕は返答するのが少し恥ずかしくなった。
「まさか、単なる趣味ですよ。本職は、しがない田舎教師ですよ」
「先生ですか。偉いんですね。何を教えているのですか」
「高校で英語を教えています」
「英語の先生なんてカッコいいですね」
 女が、僕のありふれた職業にさえ感心してくれるので、僕は、ますます恥ずかしくなった。
「いいえ、まだ勤め始めて三年目の新米で、今は二年生の担任ですが、いつも生徒に馬鹿にされていますよ」
 女は、何かを考えたようで、少し間をおいてから問いを発した。
「じゃあ、今、あなたは二十四、五才くらいですか」
「二十五歳です」
 言った後、僕は少し躊躇したが、僕には相手の姿が見えないので、思い切って聞いてみることにした。
「あの、本来なら女性に年齢を尋ねるのは失礼だと思うのですが、何しろ僕にはあなたの姿が見えないので、口の聞きかたに少し困っています。あなたはおいくつですか」
「あ、えーと。その、私は」
 女がすぐに答えなかったのは、単にはずかしかったからというだけではないような気がした。
 それから僕は、まだ自分たち二人がまだ、相手の名前さえ聞いていないことに気づいた。僕は、まず自分の名前を名乗ることにした。
「すみません。順番が違っていました。僕たちは、まだ、お互いの名前も知りませんでしたね。僕の名前は山崎純、純は純粋の純です」
「私は玉木真澄、十九歳です。苗字は『王』に点のついた方の『玉』で、『木』は『木曜日』の『木』、『真澄』は真実の『真』、には澄みきった空の『澄』です。近くの工場で働いています」
 先ほど言い淀んでいたのが?のように、女は自分の名前や年齢まで素直に教えてくれた。不思議なもので、相手の素性が少し分かっただけで、急に女のことが身近に感じられるようになった。
「真澄さん、僕たちは大して年齢も変わらないようだから、敬語はやめて気楽に話しませんか」
「そうね、そうしましょう」
 そう言った後、真澄は早速、友達に話すような口調で聞いてきた。
「あの、昨夜の歌のことで聞きたいことがあるだけど、教えてくれる?」
「何だい」
「あの歌って実話なの?」
 僕は、ほんの一瞬だけ回答をためらった。
「まさか、作り話だよ」
「でも、似たような出来事があったとか、ヒロインのモデルがいたとか、そういうことはないの?」
 僕は、すぐに答えられなかった。少しだけ胸が痛んだ。
「ないと言えば、嘘になるかな。もちろん歌だから全てが事実ではないし、色々と脚色はしているけどね」
「ねえ、もし良かったら、その時の話、聞かせてくれないかな」
 僕は少し迷った。その歌ができたいきさつを、誰かにきちんと話したことはそれまで一度もなかった。それなのに、前の晩に知り合ったばかりの、声しか聞こえない相手に、どうして話す気になったのか、自分でも良く分からなかった。でも、本当は、僕はいつか誰かにその話を聞いて欲しいと、ずっと思っていたのかもしれなかった。結局、僕は話すことにした。
「きっかけから話すと、すごく長くなるけどいいかな?」
「うん、聞かせてくれると嬉しい」
 真澄の声からは、興味津々の様子が伝わってきた。
「今から八年前、僕は高校一年の一月に初めて竹富に行って、あの歌を書いたんだ。でも、あの歌の話をするなら、やっぱり竹富に行った経緯から話すべきだと思うんだ」
 僕は覚悟を決めて、竹富に行った経緯から真澄に話し始めた。
 
 二○○六年、つまり約九年前、僕は某有名私立大学の付属高校に入学した。二学期が終わるまで、僕は、ごく普通の高校生活を送っていた。僕がいた1年2組は、男子の学級委員の不動と女子の学級委員の吉沢さんを中心とした仲の良いクラスだった。しかし年が変わり、二○○七年一月、三学期が始まると僕の生活は一変した。僕へのいじめが始まったのだ。
 いじめの首謀者は、なんと学級委員の不動だった。不動は成績も学年でトップ、スポーツも万能で、何かの格闘技も習っていると言う話だった。なかなかのイケメンで、いじめなどとは、まるで縁のなさそうな好青年だった。
 当然、女の子にも人気があったが、不動は誰とも付き合っていなかった。同じクラスの馬場祐子のことが好きだからだという噂があった。その馬場祐子は、僕のガールフレンドだった。
 僕たちは、かなり変わったカップルだった。二人は同じクラスで部活も同じ軽音楽部だった。僕たちが付き合うきっかけは、部活動後のある会話からだった。たまたま僕たち二人が最後に部室に残っていた時、祐子が予想外の質問をしてきた。
「山崎君は海外で生活していたことがあるの?」
 僕は、小学校四年から中学校一年までニューヨークに住んでいたが、そのことは帰国してから誰にも話していなかった。
「どうして、そう思うの?」
 僕は、すぐには本当のことは言わなかった。日本の中学に転校して来た時に、帰国子女であること、英語が話せることは秘密にしておけと担任に言われたからだ。秘密にする理由は単純明快、いじめの対象になりかねないからという話だった。
 聞き返した僕に、祐子は質問の理由を明かした。
「山崎君、教科書を読む時に、わざと上手に読まないようにしてるでしょ。でも、発音が綺麗なんだよね」
「もしかして、馬場さんも帰国子女なの?」
「そうよ」
 意外だった。しかし、僕はその時、得難い仲間を見つけたようで嬉しくなった。
「そうだったんだ」
「うん」
 僕たちはお互いの顔を見て笑った。

 それから、僕たちは少しずつ親しくなり、いつのまにか自然に恋人同士になっていた。しかし僕たちは、それを周囲には秘密にしておいた。幸いにも、学校の誰にも、それは気づかれなかった。
 こんな話をすると誰もが嫌味だと思うだろうが、僕たちは、二人きりの時はいつも英語で話をしていた。二人とも会話力を維持するために英会話教室に通っていたが、二人でいる時に英語で話すのは、会話力の低下を防ぐのには極めて都合が良かった。そして、僕らは、他者が容易に立ち入ることのできない秘密の繋がりを持っているのだという子供じみた自己満足に浸っていた。今から思えば、極めて愚かな行いだった。
 しかし、僕たちは所詮高校一年生だった。僕たちは油断していた。そんなことがいつまでも上手く行くものだと誤解していた。そして、僕は強烈なしっぺ返しを食らうことになった。

 冬休みに、一年生全員が参加するイングリッシュキャンプという行事があった。福島の山の中にある研修施設で、二泊三日を英語のみで過ごすというものだった。
 敷地の中の建物は、まるで魔法使いの少年の映画に出てくるような十八世紀の英国風で、スタッフも全てイギリス人。まるで昔のイギリスにいるような錯覚を起こさせる場所だった。
 僕たちは、クラス内でいくつかの班に分けられ、様々な活動を全て英語でやらされた。僕と祐子、そして不動は同じ班だった。そこで僕たちは、もっと慎重であるべきだった。しかし、日本語禁止で英語のみというルール、まるで昔のイギリスにいるような雰囲気、いつも以上に会話が要求される活動が、僕たちの警戒心を弱めてしまった。
 要するに、僕たちは少し浮かれてしまったのだ。目立たないようにしていたつもりだったが、僕たちの会話力が際立っていることは、徐々に周囲に知れることになった。そして、僕たちは、休み時間も英語で話すという愚をおかしてしまった。
 それは、僕たちがつきあっているという事実を周囲に気づかれるという結果に繋がった。更に愚かだったのは、ばれたのならば仕方がないと開き直って、お土産を一緒に買ったりなど、デートまがいのことをしてしまったことだった。
 極めつけは二日目の夕食の時、学年全員の前で披露したピアノの連弾だった。
 事の起こりは、その日の昼休み、僕たちが食堂にあったピアノで連弾に興じていた時だった。たまたま通りかかった担任の菱山先生が、僕たちの連弾に気づき声を掛けてきた。
「上手いもんだな」
「いや、たいしたことないですよ、僕たち二人とも中学までしかピアノ習ってないんで」
 僕はそう答えたが、菱山先生は感心しきった様子で僕たちに依頼をした。
「今夜は最後の夜だ。せっかくだから、君たちにピアノを弾いてもらって、夕食はディナーショーみたいにしてみないか」
「どうする、祐子」
 僕は祐子の意見を求めた。
「私、やってもいいよ」
 祐子が同意したので僕はあっさりと引き受けた。
「先生、やらせてもらいます」
 僕たちは完全に舞い上がっていた。
 夕食の時の僕たちの連弾は大好評で、僕たちは一躍、学年の誰もが知る話題のカップルになってしまった。僕たちは自分たちの愚かさにまったく気づいていなかった。

 僕たちの愚かな行動は、不動のプライドを著しく傷つけたようだった。学年トップといえど、不動は、僕たちとの英会話力の差を見せ付けられる三日間を過ごした。そして、僕と祐子が、不動の立ち入ることのできない二人だけの世界を築いていることは、好青年だった不動の理性を完全に破壊してしまったようだった。

 三学期が始まると、不動を首謀者とした僕へのいじめが始まった。机に落書きをされる、ゴミを入れられる。持ち物を隠されるなど、陰湿ないじめだった。
 更に、クラスメートからの無視がそれに続いた。目立ちすぎた僕たちに嫌悪感を抱いているクラスメートもいたのだろう、そういう者たちは安易に不動に同調した。僕たちに対して好意的だった者たちも、クラスに強い影響力を持つ不動には逆らえず、ついに僕はクラスメート全員から無視されるようになった。
 不動は好意を抱いていたせいか、祐子にはいじめの矛先を向けなかった。不動のいじめの方向は、もっぱら僕にだけ向いていた。
 それでも、祐子だけは僕の味方だと言ってくれた。しかし、それも長くは持たなかった。ほどなく、僕は祐子から別れ話を切り出された。祐子は、あれこれと別れの理由を並べたが、それは如何にもとってつけたようなものばかりで、何の説得力もなかった。祐子も、あっさりと僕を無視する側に回ってしまった。
 祐子の行動は、僕にとって大きなショックだった。かつて強い秘密の繋がりだと思っていたものが、若さゆえの単なる幻想に過ぎなかったことを僕は思い知らされた。
 それでも、僕は学校に通い続けた。学校に来なくなったら自分の負けだと思った。家族にも先生にも相談はしなかった。一人で乗り切るべきことだ、そして、自分にはそれができるはずだと、自分に言い聞かせて毎日耐え続けた。
 しかし、ある日、ついに糸が切れた。もう、なにもかも、どうでもよくなった。僕はどこか遠くへ行きたいと思った。そして地図を見た。雪の降る北には、さすがに行く気になれなかった。そこで、南を見た。日本の南の果てに、東京から最も遠い場所、八重山諸島をみつけた。そこは、もう台湾に近かった。
 わずかな時間、遠くへ行ったところで、いじめが解決することがないことは分かりきっていた。それでも、僕は、ただ逃げたかった。どこか遠くへ行きたかった。愚かなことをしているという自覚はあったが、結局、僕は、八重山の玄関口である石垣島行きの飛行機に乗っていた。平成十九年一月十八日のことだった。

 飛行機からバスに乗り換え、石垣の市街地に着いた時、街には冷たい雨が降っていた。僕はひとまず、メインストリートである市役所通りにある沖縄そば屋に入った。壁一面に名刺やら、飛行機の搭乗券やら、色々なものが貼り付けられていた。それらを眺めながら僕は途方にくれた。そもそも予定など何も立てていなかった。空はどんよりと曇り、雨が降り続いていた。わざわざ遠い南の島まで来たというのに、僕の心は沈んでいた。どこにも行く気がしなかった。注文した八重山そばを食べ終わっても、僕の行き先は決まっていなかった。
 しかし、さすがに遠くまで来て何もしないのはもったいないと思い、僕は黒島に行ってみることにした。ガイドブックによれば、港に着く手前の海の色がとても綺麗だということだった。実際に目にしたその海は、晴れていたら、さぞ美しいだろうということは容易に想像がついた。しかし、曇天の下では、海はその美しさを見せてはくれなかった。

 港の傍で僕は自転車を借りた。
「雨ですね」と、貸し自転車屋のおばあさんが残念そうに笑った。
 人間よりも牛の方が多いという黒島。オフシーズンで、しかも雨、ほとんど牧場ばかりの島で、人には全くと言っていいほど会わなかった。
 海の灰色は孤独と不安を掻き立てるばかりだった。こんな所で、僕は一体何をしているのだろう。雨の中、自転車をこぎながら、僕はひどく惨めな気分になった。
 用足しのために港に戻ると、もうそれ以上、島を見て回ろうという気持ちが失せた。僕は、石垣で急遽立てた予定を切り上げ、一本早い船で、早々に石垣に引き上げてしまった。

 その夜は、市役所通りから一本北側の細い通りにあるティダヌファハウスという素泊まり民宿に泊まった。二段ベッドが並ぶ相部屋、いわゆるドミトリー形式の部屋だったが、僕の他には宿泊客は無く、ただ、孤独と静けさがあるばかりだった。
 夕食は市役所通りにある店で取った。奮発して石垣牛を食べた。美味しかったのは間違いなかったが、それで気持ちが晴れることは無かった。

 夕食後、僕は早々に眠ってしまった。ひどい夢を見て夜中に目を覚ますと、一人きりの部屋の暗闇が妙に冷たかった。こんなに遠くまで来たのに、悪夢の日常は、僕をしつこく追い回していた。その後、僕はいつまでも寝付くことができなかった。

 翌朝、天気は、やはり良くなかった。どこかに行こうという気も起こらず、僕は、何もしないままにベッドに横たわっていたが、チェックアウトの時間には出てゆかなければならなかった。
 しかたなく、僕は小浜島に渡った。港で自転車を借りたが、僕はすぐに後悔した。小浜島は坂がきつく、普通の自転車で回るのは困難だった。僕は、島一周をあっさり諦めた。
 それでも、何とか島の名所である大岳には登った。長い階段の先の頂上には東屋があって、そこからは与那国以外の八重山の島が全て見えるはずだった。しかし、初めて訪れた上に、視界が霞んでいたので、見えたのか見えなかったのか、どれがどの島なのか、僕にはさっぱり分からなかった。
 結局、小浜島でも、空も心も晴れないままだった。石垣に戻る船の中、いっそ東京に帰ろうか、そんなことさえ思ったりした。三泊四日の八重山の旅も二日目も後半に入ったというのに、僕の心は沈んだままだった。

 転機が訪れたのは、石垣港に戻り、その夜に泊まる竹富島の民宿に電話を掛けた時だった。予約を入れた時、船に乗る前に電話を入れるように言われていた。
「はい、のむら荘です」
 電話から聞こえてきた女性の声が綺麗だと思った。
「今日予約をしている山崎です。四時半の船に乗ります」
「はい、では、港でお持ちしております」
 なぜだから分からなかったが、僕は、その美しい声に妙に惹かれた。一体どんな人なのだろうかと思い、僕は竹富島行きの高速船に乗った。
 高速船を降りて桟橋に立った瞬間に、僕は電話に出た女性をみつけた。いや、見つけたと思った。彼女が持っているボードに書かれた僕の名前が見えたわけでもないのに、この人だと僕は確信した。彼女の周りだけが、なぜか光り輝いているような気がした。
 近づいてみると、僕の直感が間違いでないことが分かった。彼女が持っているボードには、確かに僕の名前が書かれていた。
「山崎です」
 僕が声を掛けると、彼女は綺麗な声で応えた。 
「お待ちしておりました。どうぞこちらに」
 そう言いながら、彼女は僕を駐車場に止めた車の方に案内した。
 彼女の服装は、宿の名前が入った紺のトレーナーにGパンで、極めえてシンプルだった。背中の真ん中辺りまで伸びた美しい黒髪は、後ろで一本に束ねられていた。見栄えよりも働きやすさを優先しているようだった。
 彼女の身長は、百七十四センチの僕より、わずかに低い程度だったので、女性としてはかなり大きい方だった。細身の体はスタイルが良く、手も足もすらりと長かった。
 男の僕から見れば、化粧など何もしていないように見えたが、それがかえって彼女の顔立ちの美しさを際立たせていた。
 十六歳の僕は、出会った瞬間に、すでに彼女に魅入られていた。

 「こちらに荷物を入れてください」
 彼女は、ミニバンの後部のハッチを開いた。言われた通り、僕はそこに自分のリュックを置いた。次に彼女は後部座席のスライド式のドアを開いた。
「こちらにお座りください」 
 僕は黙ってシートに腰を下した。彼女は運転席に着くとエンジンを掛け、とても慎重に車をバックさせた。そして、静かに前進すると、駐車場の出口で緩やかなカーブを描いて左折した。
 すぐに右折して、車が並木道を上り始めたところで、彼女に声を掛けられた。
「竹富は初めてですか?」
「あ、はい」
 彼女にすっかり魅入られていた僕は、応えに少しまごついた。
「この並木、デイゴの木なんですよ。歌の中にも出てくるから、名前くらいは聞いたことがあるでしょう」
「ああ、はい。あります」
「三月の末頃になると、真っ赤な花をつけるんですよ」
「そうですか」
「夕陽が差すと、特に綺麗に見えるんです」
「なるほど、見てみたいですね」
 不思議な気分だった。考えてみれば、旅に出てから二日目になって初めてする意味のある会話だった。家族を除けば、人とこんな風に話をしたのは、いつ以来だろうかと僕は思った。
 車は坂を上りきると、右折して島を一周する周回道路に入った。右側の牧場では、牛たちがのんびりと草を食んでいた。僕が牛を見ていたせいか、彼女が石垣牛の話を持ち出した。
「山崎さん、石垣牛は、もう召し上がりましたか?」
「あ、はい。清水の舞台から飛び降りるような心境でしたけど」
「そうですか。私は一度も食べたことありませんが」
「そうですか」
 そうか、地元の人は食べないのかなどと思っていたら、彼女が次の話題を投げかけてきた。
「一人旅はよくなさるんですか?」
「いえ、初めてです」
「へえ、それでいきなり南の果てまでなんて、随分と大胆ですね」
「なんか、とにかく、できるだけ遠くに行ってみたかったんです」
 そう答えると、彼女は少し不安げな顔をした。
「よく、ご両親が許してくれましたね」
「ああ、うちの父は中学二年の時から一人旅をしていましたから理解があるんです」
 本当のことを言うと、旅に出るが心配するな、というメモを残してきただけだった。僕の言葉を信じてくれてたのか、旅の間、携帯には一度も電話は掛かってこなかった。
 やがて、車は周回道路を左折して集落の方に向かった。すぐに道の真ん中に、一本の木が立っているのが見えてきた。その木は、根元が丁寧に石垣で囲まれていた。通過する時に、彼女が説明をしてくれた。
「これはスンマシャーといって、魔除けです。集落に魔物が入って来ないようにするためにあるんです」
「なるほど」
 僕が応えたそのすぐ後に、車はのむら荘に到着した。
 門のすぐ先に、壁を作るように背の低い細い木が植えられていた。「ひんぷん」という魔除けだということは、ガイドブックを読んで知っていた。その向こうにあるのは、赤瓦の上でシーサーが睨みを利かす古い母屋だった。母屋と通路を挟んで左手には、食堂と厨房、宿の主一家が住む住居を兼ねた建物があった。その建物からは、母屋の前に向けてトタン屋根が伸びていて、その下にはベンチやテーブルが置かれた談話スペースが設けられていた。
 道路側には、片側に三人位が座れるテーブルがあった。道路画の壁には、海辺から見た夕陽の絵が描かれていた。すぐ近くの西桟橋から見た風景だとは後から知った。絵の上には、等間隔でいくつかのシャコ貝の殻が並んでいて、その中には電球が組み込まれていた。それらは、夜になったら良い雰囲気を作ってくれそうだった。
 それと反対側の母屋の軒下には、二人掛けのテーブルがあり、両側に白いプラスチックの椅子が置かれていた。談話スペースの真ん中には、食堂のある建物の裏手に回るドアがあった。
 僕は、彼女に導かれるまま、まずは談話スペースの道路側の席に腰を下した。彼女は、僕の前に座ると宿帳を差し出した。
「これにご記入ください」
 彼女に言われて、僕は必要事項を記入した。
「山崎さんは東京からですか」
「はい」
「私も東京出身なんですよ」
「そうですか。こちらの方ではなかったんですね」
「はい、ただのスタッフというか、居候のようなもんですね。ああ、申し遅れました。私は柏木奈々、奈々って呼んでください」
「僕は山崎純です。」
「あの、山崎さんじゃなくて純君って呼んでいい?」
「はい、そうしてください」
「じゃあ、純君よろしくね」
「はい、奈々さん、こちらこそよろしく」
 奈々さんと少し距離が縮まったような気がして、僕は嬉しかった。
「じゃあ、お部屋はこちらになります」
 奈々さんが案内してくれた部屋に、僕は荷物を運び込んだ。そこは母屋にある小さな部屋だった。母屋の大きな部屋は門の方を向いていたが、僕の部屋は食堂のある建物の方を向いていた。
 僕は畳みの上に寝転んで天井を見上げた。旅に出てから、初めて落ち着いた気分になった。

 とりあえず、大きなリュックの中身を出すと、僕は談話スペースに戻った。そこにいれば、また、奈々さんと話ができるかもしれないと思ったからだ。
 談話スペースの真ん中まで来た時、奈々さんが、門前で誰かに捕まっているのが目に付いた。相手は外国人の若いカップルだった。彼らが英語を話しているらしいことも、奈々さんが対応に困っていることも、すぐに気がついた。
 しかし、僕は彼らに関わりたくなかった。英語を話したくなかった。ニューヨークでの小学校時代は、英語ができないことに苦しんだ。反対に、今度は英語ができることで苦しむ羽目になった。その結果、英語など自分の中から消えてしまえばよいのにと思ったりもした。だから、僕は、この場もだんまりを決め込んで、目の前の出来事は無視するつもりだった。
 だが、奈々さんが僕に気がつき、ちょっと困ったような表情を見せた瞬間、僕は門外へと歩き出していた。奈々さんの前でカッコ良いところを見せようとしているだけのような気がした。また、同じ過ちを繰り返すのか。自分でも馬鹿だと思った。
「奈々さん、僕、通訳しましょうか?」
「ええ、純君、英語が話せるの?」
「ああ、ちょっとだけ」
 それを聞いて、奈々さんはほっとしたような表情を浮かべた。
「ありがとう、助かるわ」
 僕はカップルの男性に用件を尋ねた。彼らは港までの帰る途中に道に迷い。予定していた船の時間が迫り、困っているという話だった。僕は、彼らが持っていた地図を借りて、港までの行き方を奈々さんに尋ね、それを彼らに伝えた。無事に船に間に合いそうだと知った彼らは、笑顔で周回道路の方に消えて行った。
「純君、ありがとう。本当に助かったわ」
「いいえ、どういたしまして。彼ら、船に乗り遅れそうだったから、すごく感謝していました。」
 僕が門の中に戻り、道路側のテーブルの手前の方に座ると、奈々さんは僕の向かいの奥の方に座ってくれた。
「純君、すごいね。まだ高校一年生なのに英語ペラペラなんだね」
「別にすごくなんてないですよ。小学校四年から中学校一年までニューヨークの公立学校にいましたから、当たり前です。それだけいれば、誰だって話せるようになりますよ。英語なんて所詮ただの道具です。自転車みたいなもんですよ。才能なんて必要ありませんから」
 僕の、自分を卑下したものの言いように、奈々さんは少し顔をしかめた。
「純君は、自分の英語力をタナボタで手に入ったみたいな言い方をするけど、それは違うと思うな」
「どう違うんですか」
「だって、小学校四年生だったら最初、向こうで相当苦労したんでしょ。苦労して手に入れた宝物なんだから、大事に使った方がいいよ。純君のためにも、他の人のためにもね」
「他の人のためですか?」
「そうよ、今だって、立派に他の人のためになったのよ。純君がいなければ、私は何もできず困り果てたままだったし、彼らも船に乗り遅れてたかもしれないじゃない」
 不意に、僕の中で別の世界が開けたような気がした。奈々さんの言葉は、僕に新しい視点くれた。すでに過去のことだから忘れかけていたが、英語を身につけるための苦労を、確かに僕は経験していた。
 そして、もうひとつ、自分の英語力を他の人のために使うということを、それまでまったく考えたことがなかったことに気づかされた。
「奈々さん、ありがとうございます。なんか新しい世界が開けたような気がします」
「純君、大袈裟だな」
「大袈裟じゃないです。」
 そうだ、英語は確かに苦労して手に入れた宝物だ。そして、一度は使い方を誤ったが、宝物も使い方次第なのだと、僕はようやく気がついた。いや、気づかせてもらった。

 夕食の手伝いがあるからと、奈々さんが席を立った後も、僕はそこに腰を下ろしたままだった。背後に足音がしたので振り返ると。母屋と食堂に挟まれた通路の先から、一人の老人が歩いてくるのが目に付いた。
 老人は頭がすっかり禿げ上がっていてメガネを掛けていた。右手に持った杖を頼りに、ゆっくりとこちらにやってきた。老人は、僕の横を通り過ぎて向かいに座ると、テーブルの上にあった新聞を広げたが、気が変わったのか僕に話しかけてきた。
「お客さんはどちらからですか?」
「東京です、もしかして、こちらのご主人ですか?どうも、お世話になります」
 僕は軽く頭を下げた。
「いやあ、もう息子に全て任せてますから、隠居の身ですよ」
「そうでしたか、ご隠居さんは・・・」
「オジイで構わんよ」
「ああ、じゃあ、オジイは、お歳はいくつになられたんですか?」
「歳はいくつだったかな。生年月日は大正十四年一月一日です」
 思ったより高齢だったので僕は驚いた。
「大正十四年生まれですか、すごいですね。僕の祖父と一緒ですね。もう亡くなってしまいましたが」
「そうでしたか、それは残念なことで、ところでお客さんは、まだ学生さんかな」
「はい、高校一年生です」
 高校一年生と聴いて、オジイは少し感心した様子だった。
「ほう、昔は高校生の一人旅も普通だったが、最近は珍しいですな」
「そうらしいですね。父は中二の時から一人旅をしていたと、良く自慢をしてました」
「そうですか、じゃあ、血筋かも知れませんな」
 オジイは、そう言ってから思い出したように尋ねた。
「ああ、そう言えば、まだ名前を聞いてませんでしたね」
「山崎純です。純って呼んでください」
「じゃあ、純君、竹富は初めてかな?」
「はい、着いたばかりで、まだ何も見ていませんが、のむら荘が良い宿だったので安心しました」
「それはどうも」
 そう答えたオジイは、どこか嬉しそうだった。人の好さそうなオジイと、もう少し話してみたいと僕は思った。
「こちらは、いつから宿をやっておられるのですか」
「沖縄が本土に復帰してすぐだから、何十年になるのかな?」
 沖縄の本土復帰がいつだったか、僕は正確には覚えていなかった。だが、かなり昔だということは間違いがなかった。
「そんな昔からですか」
「復帰当時は、島には宿なんてなかったから、観光客の中には、キャンプをする人も多かったんだけど、色々と問題もあってね。それで民宿や旅館ができて、キャンプは禁止になったんだよ。うちは、最初にできた民宿のうちの一軒さ」
「なるほど、古い歴史があるんですね」
 感心しきりな僕に、オジイが聞いてきた。
「純君は、他の島はもう、回ってきたのかな?」
「はい、黒島と小浜島に行ってきましたが、天気が悪くて」
「それは残念だったね。まあ、ここは小さな島だから、のんびりしてゆくといいですよ」
 そう言うと、オジイは新聞に目を戻した。

 それからしばらくして、夕食の時間がやって来た。畳敷きの細長い食堂には、片側三人がけくらいのお膳が三台並んでいたが、料理は一番道路側のお膳に、四人分が用意されているだけだった。四人分の料理の真ん中には、ご飯を入れたお櫃と泡盛のボトル、氷に水、そして麦茶らしきものが置かれていた。料理が並んでいるお膳の後ろには、厨房へ続くドアと食器の出し入れに使うのであろう小窓があった。
 僕が一番乗りだったので、僕は母屋に面したドア側の端の席に座り、周囲を見回した。
 壁や襖には、所狭しと写真やら葉書やらが貼られていた。中にはすっかり色あせてしまったものもあり、宿の歴史の長さと、人気の高さを伝えていた。
 そうしているうちに、年配のご夫婦が来て、ご主人の方が僕の正面に座り、奥様がその隣に並んだ。最後に来て僕の隣に座ったのは、ワイルドな風貌の三十台半ばくらいの男性で、どこかアーティスト風の人だった。
 全員が席に着くのを見計らって、僕の正面の男性が自己紹介をした。
「初めまして。山田です、僕は博孝、隣が妻の理恵子です。親父の後を継いで会社をやってましたが、今は息子に譲って、まあ気楽な身分です。ああ、あと、あなたのお隣は日野さんです。彼はプロのカメラマンです」
「日野です。よろしく」
 日野さんは軽く会釈をした。
「初めまして、山崎純です。純って呼んでください。東京から来ました。高校一年生です。」
 お互いの紹介が済むと、理恵子さんがお櫃の蓋を開けた。
「純君は若いから、ご飯はたくさん召し上がる?」
「いえ、僕は少なめで結構です」
「日野さんはどうなさる?」
「ああ、俺は大盛りで」
「あなたは?」
「私は普通にしてくれ」
「はい、わかりました」
 それから、理恵子さんは四人分のご飯、更には三人分の泡盛の水割りまで用意してくれた。僕には麦茶を注いでくれた。
「じゃあ、まずは乾杯しよう」
 博孝さんが声を掛けた。
「乾杯」
 僕たちは声を揃え、グラスを合わせた。
「それじゃあ、頂きましょうか」
 今度は理恵子さんが声を掛けた。
「いただきます」
 また、みんなの声が揃った。
 なんだか、久しぶりに家族で食事を始めたような気分になった。

 食事が始まるとすぐに、博孝さんが感心したように言った。
「純君はすごいね。まだ高校一年生なのに一人旅ができるなんて。うちの孫なんか部屋にこもってゲームばかりだ。純君の爪の垢でも飲ませてやりたいもんだ。」
「いや、別にすごくなんてないです。」
 逃げてきたのだとは言えなかった。
「ところで、純君は、もういくつかの島を回ってきたのかな?」
 日野さんが尋ねてきた。
「はい、黒島と小浜島に行ってきました。でも、天気が悪くて」
「そうだね。このところ天気には恵まれていないね」
「天気さえ良ければ綺麗な海が見られたんでしょうね」
「そうだね。俺は黒島の港から見える海の色が好きなんだ。空よりも青く見える海がなんか現実離れしているというか」
 日野さんの意見に同意するように博隆さんが話に乗ってきた。
「確かにあそこの海はすごいな。特に・・・」
 博隆さんが話し出すのを遮るようにして理恵子さんが僕の方に話を振った。
「ところで、純君、小浜島では大岳には登ったの?」
「はい、登りました。でも、他の島はよく見えませんでした。」
「そうなの。それは残念だったわね。私は個人的には大岳の隣にある西大岳の方が好きなの。景色も向こうの方がいいと思うし、階段も短いから行くのも楽だしね。今度いらしたら是非、行ってみるといいわ」
「はい、そうします。ところで山田さんたちも日野さんも、よく、ここに来られるんですか」
 最初に答えたのは理恵子さんだった。
「私たちはね、若い頃、ここで出会って結婚したのよ。今の宿のご主人の義男さんがまだ高校生だった頃の話ね。」
「そんな昔からですか」
「俺は十年位前からかな、ここは居心地が良いからな」
 日野さんも答えてくれた。
「そうなのよね、何か心が安らぐのよね、ここは」
 理恵子さんの話を聞いて僕は思い出した。
「ああ、それです。僕も口コミにあった『安らぎ』という言葉に惹かれて『のむら荘』を選んだんです」
「それは正解だったね。俺も結構色々な宿に泊まっているけど、ここくらい安らげる所は、そうそうないよ」
 日野さんが自分の体験を話してくれた。
「日野さんはね、プロのカメラマンだから世界中飛び回って写真を撮っているのよ」
理恵子さんが教えてくれた。
「いやあ、まだまだ注文された写真を撮っているだけですからね。早く自分の写真集とか出してみたいもんだよ」
 日野さんは照れたように頭を掻いた。

 その後、僕は山田さんご夫妻と日野さんから八重山の話をたくさん聞かせてもらった。そして、僕はそれらの島々を是非訪れてみたいと思うようになっていた。
 しかし、それ以上に僕は彼らとの会話に安らぎを覚えていた。日野さんと山田さんご夫妻は旧知の仲であるにもかかわらず、僕には分からないような話は決してしなかった。八重山について色々と教えてくれながらも、いつも僕を話の中心に置こうとしていた。
 本来、仲間であるはずのクラスメートが僕を無視しているというのに、会ったばかりの赤の他人の僕に彼らは実に優しかった。僕にはそれがひどく嬉しかった。

「じゃあ、そろそろ片付けましょうか」
 夕食が済むと理恵子さんが声を掛けた。日野さんも僕たち四人の茶碗やお皿を重ね始めた。食器を運ぶのがのむら荘のしきたりのようだった。僕もそれに習った。博孝さんが四人分の食器を戻すために厨房に続く小窓を開けた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
 厨房からオジイの息子の義男さんの声が返ってきた。
 理恵子さんが用意されていた付近でテーブルを拭き始めたので、僕も、もう一つあった布巾を取って手伝った。
 テーブルの上がすっかり片付いた頃、厨房に続くドアを開けて義男さんが現れた。
「では、ゆんたくは、ここで八時からですから。ああ、強制ではありませんが、山崎さんも良かったら参加してくださいね」
「ああ、はい時間があれば」
 僕は何だかよく分からないまま適当な返事をしていた。
 義男さんが厨房に戻った後、僕は理恵子さんに尋ねた。
「あの、ゆんたくって何ですか」
「まあ、おしゃべりの時間ね。ここの場合はお酒も飲めるわよ。三線も聴けるし、歌ったり、最後は少し踊ったりするの。純君も是非参加してね」
「はい、参加させてもらいます」
 今度は本気で答えていた。
 そして、僕たちは食堂を出て、それぞれの部屋に戻った。

 夕食の後、僕はシャワーを浴び、八時ちょうどに食堂に着いた。山田さんご夫妻と日野さんは既に来ていて、夕食の時と同じ席に座っていた。四人の間には、やはり先ほどと同じように泡盛や氷が用意されていた。僕が席に着くと、理恵子さんは黙って三人分の泡盛を注ぎ始めた。僕には麦茶を注いでくれた。
 そこに厨房の方からオジイと奈々さんが入ってきた。二人は僕の左側のテーブルの端の方に座った。理恵子さんは二人の分も泡盛を注いでグラスを二人の前に並べた。オジイは僕たちの顔をちらりと見てから、ゆんたく開始の挨拶をした。
「みなさん、今日も集まってくれてありがとうございます。義男は今日、会合があって出かけておりますので、今日は、私と奈々ちゃんでやらせてもらいます。では、みなさんグラスを持って」
 僕たちはそれぞれにグラスを掲げた。
「それでは、今日の出会いに乾杯しましょう、では乾杯」
「乾杯」
 僕たちも声を揃えた。
「それじゃあ、まずは自己紹介から」
 オジイが司会を始めた。
「ああ、オジイ。それは、もう夕食の時に済んでいるんです」
博孝さんが報告をした。
「そうですか、じゃあ、さっそく歌いましょうかね、日野さん、歌集を取ってくれんかね」
「はい」
 日野さんは立ち上がると、オジイたちが座っているのとは反対側の壁際に置かれた棚から人数分の歌集を取り出してきて僕たちに配った。日野さんにとっては毎度のことという様子だった。
 歌集は手作りのもので、表紙にはオジイやのむら荘の建物、それにハイビスカスやブーゲンビリアの写真が載っていた。
「じゃあ、まずは1ページ。やっぱり『安里屋ゆんた』からかな。奈々ちゃん、よろしくね」
 オジイが声を掛けると、奈々さんは立ち上がり後方のテレビの台の下から三線のケースを持ってきた。再び席に座り直すとケースから三線を取り出し、右手の人差し指に三線の演奏に使う爪の様な道具をつけた。それから左手で三本ある糸を巻きながら、自分の耳だけで音を合わせていった。ごく何気ない仕草なのに僕にはそれがとても美しいもののように感じられた。
 奈々さんが歌おうとしている「安里屋ゆんた」は、かつて竹富に住んでいたクヤマという絶世の美女の歌だということはガイドブックを読んで知っていた。
「じゃあ、始めます」
 奈々さんがイントロを弾き始めた。その瞬間に鳥肌が立った。初めて聴く生の三線の音は僕の心に波を立てた。しかし、それはまだ、ただの細波に過ぎなかった。イントロに続く奈々さんの歌声が響き始めた時、僕は津波のような大波に飲まれ、一瞬息が止まった。
 糸を押さえる左手と、それを弾く右手の動きが艶やかだった。僕の目は、歌う奈々さんの姿に釘付けになっていた。まるで伝説のクヤマがそこにいるような気がした。僕が呆けているうちに歌は終わってしまった。他の人たちが拍手をした時、僕はやっと我に返った。
「次は純君も歌える歌にしましょうね。だから次は純君も一緒に歌ってね。じゃあ、十七ページ」
 奈々さんの言葉に、僕は頬が火照るのを感じた。奈々さんに見とれていたことに気付かれたような気がした。僕は慌てて十七ページを開いた。
 そこに載っていたのは、確かに僕も歌える歌だった。奈々さんの歌声に自分の声を重ねることは冒涜以外の何物でもないような気がしたが、みんなで歌ってみると、それはとても楽しかった。
 それから、奈々さんは、次々とみんなが歌えそうな歌を選び、僕たちは一緒に歌った。こんな風に楽しい時間を過ごしたのは久しぶりだと僕は思った。

「さて、みんなで歌うのも良いけど、そろそろ奈々ちゃんのソロと三線をしっかりと聴かせてほしいな」
 頃合を見計らっていたように博孝さんが言い出した。
「俺も、そろそろ聴きたいと思ってたんだ。」
 日野さんも同調した。
「じゃあ、リクエストにお答えしてやらせてもらいます」
 奈々さんは糸を巻き直すと次の曲のイントロに入った。それは少し悲しげなメロディーだった。イントロに続く歌は沖縄方言ではなく、歌詞の内容は全て理解できた。八重山を離れて十二年になるという望郷の歌だった。東京出身の奈々さんにとって八重山は異郷の地だったが、歌に込めた思いは、何の不自然さも感じさせることなく僕の心に染み渡っていった。僕は一音も聴き逃すまいと奈々さんの歌と三線に耳を傾けた。
 望郷の歌が終わると、次のリクエストをしたのは理恵子さんだった。
「奈々ちゃん、次は徳之島の闘牛の曲を聞かせてくれないかしら」
「ああ、あの速弾きの曲か」
 博孝さんが感慨深げに言った。
「純君、これは中々見ものだよ」
 日野さんの言葉に期待が膨らんだ。
「じゃあ、やらせてもらいます。」
 奈々さんは三線を構えて演奏に入った。その途端に僕の体に電流が走った。僕は、一度も見たことのない闘牛の様子が見えたような気がした。奈々さんの演奏の迫力は、牛同士がぶつかり合う戦いの激しさそのものだった。奈々さんの左手は三線の竿の上をものすごい速さで上下し、指は軽やかに踊っていた。右の人差し指についたバチは左手の動きに一瞬たりとも遅れることなく糸をはじき続けていた。ピアノとギターの経験のある自分には、奈々さんの演奏のすごさが身にしみて分かっていた。僕は更に強く奈々さんに惹かれていった。

「じゃあ、最後はカチャーシーを踊って締めます」、オジイがゆんたくの終わりを告げた。僕は、それが残念でならなかった。もっともっと奈々さんの歌声と三線を聴いていたかったからだ。
 オジイがカチャーシーの踊り方を教えてくれた。
「純君は初めてだったね。まあ、簡単だよ。男は両手をグーにしてそれを頭の上で左右に向けてからだを揺らすだけだから、じゃあ、みんな立って」
 山田さんご夫妻と日野さんが立ち上がり、やや遅れて僕も続いた。奈々さんがにぎやかな曲を弾き始め、歌がそれに続いた。山田さんご夫妻と日野さんは上手に踊っていた。僕は、なんとかそれを真似しようとしたがあまり上手くいかなかった。ただ、それでも楽しかった。その時、僕は東京のことなど何も考えていなかった。

 食堂での宿公式のゆんたくが終わった後、場所は庭の談話スペースに移ったが、僕たちのゆんたくは、まだ続いた。オジイは自室に引き上げたが、奈々さんは付き合ってくれた。僕たちは夕食やゆんたくと同じ席順で座っていた。
「やあ、相変わらず奈々ちゃんの三線は・・・すごいね」
 博孝さんはだいぶ泡盛が回ってきたようだった。
「とんでもない。まだまだ、ひよっこですよ」
「いや、そんあことはないと思うな」
 日野さんも博孝さんと同意見だった。
「純君は何か楽器は弾かないの?」
 理恵子さんが僕に話題を振ってきた。
「中学まではピアノを習ってました。今はバンドでギターを弾いてます。ああ、『弾いてた』かな。バンド解散しちゃったんで」
 それは嘘だった。単に自分以外のメンバーが全員同じクラスだったので、のけ者にされただけだった。
「それは残念ね。なら、いっそ三線を弾いてソロになってみたら」、
 理恵子さんが意外な提案をした。
「でも、そう簡単には弾けるようになりませんよ。」
「ピアノやギターが弾けるなら上達も速いんじゃないかしら」
 理恵子さんの言うことには一理あったが、まだそんな気にはなれていなかった。
「いや、僕には無理ですよ」
 そう言った後、僕は奈々さんに予想外の言葉を浴びせられた。
「あら、若いくせに随分と消極的なのね、山田さんのご主人は六十を過ぎてから三線を弾き始めたのよ」
 僕は、何だか先生に叱られたような気がした。僕が少し困った顔をしたのに気づいたか、理恵子さんが冗談めかして話題を博孝さんの方に向けた。
「この人ね、奈々ちゃんに影響されて三線始めたのよ。本当に下手くそで勘弁してほしいわ」
「何を言うか、お前の歌だって奈々ちゃんに比べたらひどいもんじゃないか」
「あなたの下手な三線に合わせいてたら、上手く歌えるわけないじゃない。それに奈々ちゃんと私を比べてどうするのよ。奈々ちゃんはプロデビューの誘いがあったくらいなんだから」
「本当なんですか?」
 僕は驚いて奈々さんの方を見た。
「まあね」
 面倒臭そうに答えると、奈々さんは泡盛のグラスを口に運んだ。
「その話、断ったんですか」
 僕は更に尋ねた。
「うん」
「どうして断ったんですか」
 僕は理由が知りたいと思った。
「そういうのってなんだか自分には向いてないような気がしたの」
「なんかすごくもったいないような気がしますが」
「奈々ちゃんはね、芸能界みたいな場所が嫌いらしいんだよ。」
 日野さんが奈々さんの心情を代弁した。
「でも、もったいないな。奈々ちゃんみたいな人がこんな島に埋もれているなんて、三流だけど、芸術家のはしくれとして本当にそう思うよ」
 日野さんは心底もったいないと思っているようだった。
「僕はただの高校生ですが、僕も奈々さんの歌はもっとたくさんの人に聴いてもらうべきだと思います」
 僕も、日野さんに加勢した。
「みんな、おだて過ぎよ。そんなに言われるとなんか、みんなの前で弾きにくくなっちゃうな」
 奈々さんは、言いながら泡盛をグラスに注いだ。
「それは困る。奈々ちゃんの歌と三線はここに来る楽しみの一つなんだから」
 博孝さんが少し慌てた。
「この人ったら、いい歳をして奈々ちゃんにぞっこんなんだから。私がもっと若かったら、とっくに離婚しているところだわ」
 理恵子さんがチクリと一刺しを入れた。
「いや、それも困る」
 博孝さんは少し困ったような顔をした。
「純君は、うちの主人みたいな馬鹿になっちゃだめよ」
 理恵子さんの言葉に僕は返す言葉がなかった。博孝さんが馬鹿ならば、僕はすでに超のつく大馬鹿だった。
 そんな風にして、初めての竹富の夜はゆっくりと更けていった。それはそれまでに過ごしたことのないような優しい夜だった。

 その晩は久しぶりに良く眠れた。翌朝、気分よく目が覚めたが、外はまだ暗かった。真冬なのに加えて、日本の最西端に近い竹富では、日の出が東京よりもかなり遅かった。
 太陽が顔を出した頃に、僕は、まだ静まり返ったままの宿の門外に出てみた。オジイの奥さんらしき女性が白砂の道を竹箒で掃き清めていた。天気も良く、真冬だというのに寒さはまったく感じられなかった。それはまるで高原で迎える夏の朝のような、すがすがしい朝だった。

 朝食は八時に始まった。席順は昨夜と同じで、同じように理恵子さんがご飯やお茶の用意をしてくれた。僕たちはその日の予定などを話しながら楽しく朝食を取り、昨夜と同じように後片付けをした。
 食後のコーヒーを飲んでいると、厨房に続くドアから義男さんが出てきた。
「今日は皆さん連泊だから、宿代の清算はなしですが、港にお送りする必要のある方はいらっしゃいますか?」
 義男さんの言葉を受けて、日野さんが乗りたい船の時間を伝えた。
「僕は石垣に用があるので、十時十五分の船に乗ります」
「はい、日野さんが十時十五分ね。他の方は?」
「僕は今日、島を見て回るつもりなので必要ありません」
 僕がそう言うと、博孝さんも同じように答えた。
「僕らも必要はないよ」
「わかりました。じゃあ、ごゆっくり」
 義男さんは厨房の方に引っ込んでいった。
「ああ、純君、覚えておくといいわ。ここではね、このタイミングで宿代の支払いをして、帰りの船の時間を言うことになってるから」
 理恵子さんが教えてくれた。
「ありがとうございます」
 礼を言いながら、僕は少し寂しい気分になった。旅は、もう明日で終わりだと気づかされたからだ。

 朝食後、僕は談話スペースでガイドブックを見ながら少し途方にくれていた。竹富をどこからどう回ろうか、何も決まっていなかったからだ。いつの間にか気温がすごく上がっていた。昨日までが嘘のように空が晴れ、夏と言って良いほどの天気になっていた。奇跡的な陽気だと僕は思った。
 しかし、奇跡はそれに留まらなかった。奈々さんは宿の奥の方からやって来ると、まるで僕の心を見透かしたように言った。
「純君、島を案内してあげるから、ついてきて。ああ、今日は夏みたいに暑いからT-シャツに短パンで十分だよ」 
 まったく予想もしていなかった展開に、僕は一瞬自分の耳を疑った。奈々さんはTシャツにハーフパンツという夏らしい服装をしていた。シャツとパンツから伸びた長い手足が妙に眩しかった。
「じゃあ、僕、寝巻き代わりに持ってきたシャツとパンツに履き替えてきます」
「早くしてね。急がないと、なごみの塔が混んじゃうから」
 僕は慌てて部屋に戻り、着替えをした。部屋を出て靴を履こうとしたら、奈々さんに止められた。
「靴なんかじゃなくてサンダルにしたほうがいいわよ。ちょっと待ってね」
 奈々さんは宿の奥の方からビーチサンダルを持ってきてくれた。
「はい、これ履いて」
「ありがとうございます」
 僕は靴下を脱いで部屋の中に放り込むと、用意してもらったサンダルを履いた。
「じゃあ、自転車で行こうね、自転車は駐車場の奥にあるからついてきて」
「はい」
 奈々さんは門を出るとすぐに右に曲がった。そして、右手にある駐車場の奥に向かった。僕も後に続いた。車の後ろに貸し出し用の自転車が並んでいた。
「どれでも、好きなものを選んで」
 奈々さんの言葉通りに、僕はサドルの高さが高めになっているものを選んだ。奈々さんの後について宿の前の道に戻った途端に、僕たちは島の若い男と出くわした。
「奈々ちゃん、そいつ誰ね」
 男は不機嫌そうだった。
「ああ、従兄弟の純君。小さい頃から可愛がっていた子なんだけど、遊びに来てくれたの」
「ああ、純です。奈々さんがいつもお世話になっています」
 僕はとっさに口裏を合わせた。男は相変わらず不機嫌そうだった。
「じゃあ、行こうか」
 そう言って自転車を漕ぎだした奈々さんに僕はついていった。

 しばらくすると、奈々さんがくすくすと笑い出した。
「純君、嘘が上手いのね」
「勘弁してくださいよ。冷や汗がでましたよ」
「まあ、この先も、従兄弟ってことにしておいてね。そうしないと色々と面倒なことになると思うから」
 奈々さんは少しズルそうな顔をした。
「奈々さん、もてるんですね」
「島には若い女が少ないから目立つだけよ」
 そんなやり取りをしながら、僕たちは真っ白な細い道を自転車で進んだ。道の両側には、琉球石灰岩を積み上げてできた黒い石垣が続いていた。家々の赤瓦の屋根は、夏のような日差しを浴びて青い空に映えた。迷路のような竹富の道を、奈々さんと二人で自転車を漕ぎながら、僕は八重山に来て初めて、旅人になれたような気がした。
 
 集落の中を一通り回った後、僕たちは島の中心部にある公園のような場所にたどり着いた。そこには、えらく急で細い階段のついた小さなコンクリート製の塔が建っていた。
「あれが、なごみの塔よ。この島の観光名所の一つ。登ってみましょうね」
 奈々さんは、一旦、塔の前を通り過ぎて、近くの自転車置き場に向かった。そこに僕たちは自転車を並べて置き、塔の方に戻った。僕は奈々さんの後について行ったが、
塔の台座の部分の階段を上り、いよいよ塔そのものの下まで来ると、先に行くように言われた。
 言われるがままに僕は階段を上り始めた。階段は人一人がやっと通れるほどの幅しかなく、まるで梯子を上っているようで少し怖かった。僕の後を奈々さんがついてきた。僕はすぐに塔の上の展望スペースのようなところに着いたが、そこは人間一人がやっと立てるぐらいの広さしかなかった。僕は後から上ってきた奈々さんに、塔の展望スペースの手すりに押し付けられるような格好になった。
 奈々さんの胸が僕の背中に当たっていた。
 眼下には美しい赤瓦の町並みが広がり、奈々さんは僕の背中側から右手を伸ばして、あれこれと解説をしてくれた。しかし、十六歳の僕は、背中に当たる奈々さんの胸の感触ばかりが気になって、言葉は全て耳を素通りするばかりだった。

 塔の階段を下まで降りると、なぜだか僕はほっとした気分になった。
「純君、あそこが赤山カフェ、私のお気に入りの場所なの。後で行こうね」
 奈々さんは、細い道を挟んで塔の後ろ側にある家の二階を指差した。二つある窓の向こうにはテーブルが並んでいて、そこからも赤瓦の町並みが見下ろせそうだった。

「次はこっちよ」
 なごみの塔の階段の下から南側の道に戻ると、奈々さんは自転車置き場の方に歩き始めた。また自転車に乗るものと思いついて行ったが、奈々さんの行く先は自転車置き場ではなく、その向かいの小さな店だった。店に入る奈々さんの後に僕も続いた。入ってすぐの所にアイスクリーム用の冷凍庫があり、中には主にアイスキャンディーが並んでいた。しかし、奈々さんのお目当てはアイスキャンディーではなく、視線は冷凍庫の後方に置かれた棚に向けられていた。そこには如何にも手作り風のドーナツのようなものが並んでいた。
「竜子さん、竜子さん」
 奈々さんが呼ぶと、店の裏手に続くドアからお婆さんが店に入ってきた。
「あら、奈々ちゃん、とうとうボーイフレンドができたの?島の男がみんな、がっかりするね」
「違うわよ、これは従兄弟の純君、遊びに来てくれたの」
 奈々さんは、また嘘をついた。
「純です。奈々さんがいつもお世話になっています」
 僕も仕方なく付き合った。
「あら、そうなの血筋かしらね、なかなかのイケメンじゃないの」
 竜子さんに褒められて照れくさそうにしている僕を面白そうに見ながら、奈々さんは棚からドーナツのようなお菓子の袋を取り上げた。
「これもらうわね。」
 奈々さんはそう言った後に、店内の冷蔵庫からペットボトルの飲み物を二つ取り出して僕に渡した。
「じゃあ、これ、おまけしようね」
 奈々さんが、代金を払うと、竜子さんは「波照間産黒糖」と書かれた袋もお菓子と一緒にレジ袋に入れて奈々さんに差し出した。
「竜子さん、いつもすみません」
「いいの、いいの、従兄弟さんのおみやげに持たせてあげて」
 僕は竜子さんに深々と頭を下げてからお礼を言った。
「すみません。じゃあ遠慮なくいただきます」
「竜子さん、じゃあ、またね」
 そう言って外にでた奈々さんの後に続き、僕も店を出た。
 店を出るとすぐに、奈々さんは店の前のベンチに腰を下ろした。
「座って。おやつの時間にしましょう」
 言われた通りに僕はその隣に座った。僕が持たされていたペットボトルを二人の間に置くと、奈々さんは丸いお菓子の入ったビニール袋の封を開いた。その中から一つを取り出すと、それを僕にくれた。
「これがサーターアンダーギー、沖縄風ドーナツといったところかな。竜子さんの作るものはね、島の人やリピーターの旅行者の間では有名で、すぐ売り切れちゃうの。だからラッキーだったね」
 僕は手の中のそれを少し眺めてから噛りついた。確かにおいしかった。
「あと、こっちの飲み物は、沖縄でよく飲まれているさんぴん茶ね」
 奈々さんに言われて僕はキャップを開け、一口飲んでみた。少し渋めの味はサーターアンダーギーの甘さと相性が良かった。

 僕たちが店の前で穏やかなティータイムを過ごしていると、左手からガイドブックで見た乗り物がやって来た。水牛車だった。水牛の頭の左右から、それぞれ一本ずつ突き出た長い角はまるで一つの弓のように見えた。水牛が引く車は三角の屋根を持った長屋のような形をしていた。車の先頭にいる御者は三線を爪弾きながら「安里屋ユンタ」を口ずさんでいた。
 水牛車が目の前をゆっくりと通り過ぎてゆく様を、僕はじっと眺めていた。この島の時の流れは都会よりも遅い気がした。
「水牛車、乗ってみたいの?」
 不意に奈々さんが尋ねた。
「いいえ、見ているだけいいです。なんか料金も高そうな気がするし」
「乗ってみようよ」
 突然、奈々さんが立ち上がった。
「え」
 あっけに取られている僕に構わずに、奈々さんは自転車置き場の方に歩き出した。
「早くおいで。私と一緒なら顔パス。お金はいらないから」
 促されて、僕は奈々さんの後を追った。

 奈々さんの後を自転車で追ってゆくと、水牛車の駐車場のような場所に着いた。管理事務所のような所に入って行く奈々さんの後に僕もついて行った。
「おじさん、おはよう」
 奈々さんが声を掛けると、奥の机の向こうに座っていた中年の男性が応じた。
「ああ、奈々ちゃん。珍しいね。お連れさんはボーイフレンドかい」
「違うわよ。従兄弟の純君、遊びに来てくれたの」
「純です。奈々さんがいつもお世話になっています」
 嘘が何だか板についてきたような気がした。
「水牛車に乗せてあげたいんだけど、いいかな」
「ああ、もちろん。次の便に乗せてあげるから、ちょっとそこで待っててね」
 僕たちは示された事務所のソファーに並んで腰を下した。
 しばらくしてから、僕たちは水牛車の前に案内された。後ろの小さな階段から狭い車に乗り込むと、僕たちは前の方に並んで腰を下した。僕たちに続いて何人かのお客さんが乗り込んできた。最後に御者のおじさんが僕たちよりも前に座ると、水牛車はゆっくりと動き始めた。
 
 水牛車は石垣の間を縫うように緩やかに進んだ。
「純君、この水牛はね。とても頭がいいのよ」
 奈々が教えてくれた。
「本当ですか」
「純君、内輪差って分かる」
「はい、交通安全教室で習いました。車の後輪は前輪よりも内側を通るから交差点では歩行者や自転車は気をつけないといけないと教わりました」
「そう、それ。この水牛は内輪差をちゃんと分かっていて、指示しなくても大回りして角を曲がるんだよ、ほら、ほら見ててごらん」
 すぐに水牛車が交差点に差し掛かった。確かに御者のおじさんが何もしないのに、水牛は大回りをして綺麗に狭い道を曲がってみせた。
「ほら、すごいでしょ」
「本当だ」
 僕が感心していると、奈々さんは更に続けた。
「水牛はね、コースも全部覚えているの。何処で曲がるか、何処で解説のために止まるか、みんな頭の中に入っているのよ」
「すごいんですね、ところで、この水牛車、これから海を渡るんですか?」
 僕の質問に奈々さんは軽く笑った。
「ああ、それは西表島の水牛車ね。西表島の水牛車は浅瀬を渡って、沖にある由布島に行くんだけど、ここの水牛車は町中を回るだけよ」
「そうなんですか」
「がっかりした?」
「そんなことありません。奈々さんと一緒に乗れてすごく嬉しく思っています」
 本音だったが、奈々さんにはからかわれた。
「純君、どんどん嘘が上手くなるね」
「嘘なんかついてません」
 僕は少しむきになっていたように見えたのかもしれない。
「そう、だったら乗せてあげた甲斐があったな」
 言いなが、ら奈々さんはおかしくて仕方がないという顔をしていた。
 そんなやり取りをしている間に、御者のおじさんが三線を取り出して「安里屋ユンタ」を歌い始めた。
 聴き慣れてきた歌が耳に優しかった。車が揺れると時々、奈々さんの肩が僕の肩に触れた。奈々さんの髪からは甘い香りがした。黒い石垣、赤瓦の家、ハイビスカスの紅に、ブーゲンビリアの赤紫、そして時折覗いてみる奈々さんの横顔。感じるものの全てが愛おしかった。ゆっくりと進む水牛車の速度と反比例して、都会でのことが猛スピードで遠くなっていった。

「じゃあ、一度宿に戻ろうか」
 水牛車を降りた後、奈々さんは宿の方に自転車を漕ぎだした。宿に着くと、奈々さんは談話スペースにある扇風機の電源を入れた。戦闘機のプロペラのような大型の扇風機が轟音を立てた。
「ちょっと休んだら、次はカイジ浜に行こうね」
 奈々さんは、母屋に近い白いプラスチックの椅子に腰を下した。僕もその向かいに座った。
「真冬に扇風機回すなんて、ここに来て初めてだな」
 奈々さんが呟いた。
「地球温暖化の影響ですかね?」
「さあ、分からないけど、本当に夏みたいね」
「そうですね。でも、昨日までみたいな天気じゃなくて嬉しいです。やっと南の島に来たっていう実感が湧きました。来た甲斐がありました」
「そう、よかったわね」
 奈々さんの顔もどこか満足げだった。
 山田さんご夫妻もどこかへ出かけてしまったのか、宿はひっそりとしていた。僕たちは、しばらく黙って扇風機の風に吹かれていた。沈黙は決して不快ではなかった。無理に言葉で沈黙を埋めようと焦ることもなかった。僕は、ただ奈々さんの傍にいるだけでよかった。

「じゃあ、そろそろカイジ浜に行こうか」
 しばらく休んだ後、奈々さんはそう言って立ち上がると通路を奥の方に歩いていった、そして、すぐに綺麗に畳んだブルーシートとトートバッグを持って帰って来た。その後、ブルーシートをトートバッグの中に入れると思い出したように言った。
「ああ、そうだ、三線も持っていかなくちゃ」
 今度は食堂の中に入って三線のケースを持ち出してきた。その後、先ほどの宿の自転車置き場に行くと、奈々さんは自転車の前籠にブルーシートと三線のケースを押し込んだ。二人して自転車を宿の前の道に出すと、奈々さんが注意をしてくれた。
「道が少し悪いから気をつけてね」
「はい」
 僕は奈々さんが漕ぎ出すのを待ってその後に続いた。日差しは熱かったが、体を通り過ぎてゆく風が気持ちよかった。

 周回道路を横切り、次の交差点を左に折れた。道はわずかだが上り坂だった。奈々さんの言う通り道はかなり荒れていた。奈々さんは路面のくぼみを避けながら自転車を進めた。僕も奈々さんの真似をして後に続いた。
 ほどなくして、コンドイ浜の入り口が見えてきたが、奈々さんはそこを素通りして、さらに先を目指した。僕も、その後を追った。
 やがて前方の道の果てに、深い緑で覆われた自転車置き場が見えてきた。僕たちは、そこに自転車を止めて、カイジ浜の方に歩き始めた。
 濃い緑のアーチの向こうに美しい色をした海が見えた。短い坂を下ると、見たこともないような海がそこにあった。
 海の向こうには、西表島がでんと控えていて、その手前で小浜島が小さくなっていた。西表島から海を隔ててすぐ右側に、無人島のカヤマ島がちょこんと控えていた。海は青や薄いエメラルドグリーン、水色や紺と、様々な色のグラデーションを描きながらカイジ浜に至っていた。
 奈々さんは右手に進むと、木陰の方に歩き出した。まるで座ってくださいと言わんばかりに木陰に横たわる流木を目指していた。僕は黙って奈々さんについていった。
「まずは、のんびりしようね」
 奈々さんはトートバッグからブルーシートを取り出すと、それを広げて、流木の前に敷いた。それからトートバッグを枕代わりにしてシートの横になった。僕が固まっていると、奈々さんに言われた。
「何やってんの。純君も隣で横になりなよ。気分がいいよ」
「ああ、はい、でも」
 僕が照れていると更に言われた。
「さっさと、しなさいよ、そこに立たれてると邪魔だから」
「はい、分かりました。」
 僕は仕方なく、奈々さんの隣に腰を下した。
「あのさあ、そこに座られてると、そっち側の海が見えないんだけど」
「あ、はい」
 僕が、まだ躊躇しているときつい一言を食らった。
「女の子の私が純君を押し倒さないといけないわけ?」
「いえ、とんでもない」
 僕は観念して奈々さんの隣に横になった。
 真昼間とはいえ、人前で女性の隣に寝転んでいるのは、十六歳の僕には余りにも照れくさかった。一度は奈々さんの方に目を向けたが、やはり目のやり場に困った。仕方なく、僕は奈々さんとは反対側の海に視線を向けた。その先にはコンドイ浜の白砂が細い砂州のように沖に向かっているのが見えた。夏のような日差しが降っていたが、僕たちのいる木陰は湿気もなく実に快適だった。奈々さんから顔を背けているうちに、僕はいつの間にか眠りに落ちていた。

 鼻のあたりがむずむずして、僕は目が覚めた。すると奈々さんの顔がすぐそこにあった。奈々さんが何かを僕の鼻の上に乗せたのだと気づいた。
「うわー」
 僕は慌てて鼻の上のそれを払い落とした。貝殻が砂の上に転がった。しかし、やがて、そこから足が生え、それはノロノロと歩き始めた。ヤドカリだった。
「何するんですか」
 僕は叫んだ。
「それはこっちの台詞よ」
「何がいけないんですか。僕、何も悪いことしてませんよ、言われたとおり横になってただけじゃないですか」
「横になれとは言ったけど、私を放っておいて爆睡しろなんて言ってないわよ。私が純君の彼女だったら、振られてるところよ」
「心配しなくても、もう振られてますよ。いや、捨てられたというか」
「もしかして、それでこの島に来たわけ?」
 確かに、それは理由の一部ではあったが、そうは言えなかった。
「ちがいますよ。そんなんじゃありません」
「そうよね、昭和生まれの私と違って、純君は平成生まれだものね」
 少し気になる一言だった。
「ええ、私と違ってって、まさか奈々さん、そういう理由でここに来たんですか」
「純君、女性にそんなこと聞いていいと思ってるの」
 奈々さんは怖い顔をした。
「ごめんなさい、忘れてください」
「馬鹿ね、冗談よ。そんなロマンチックな理由じゃないわよ」
 そうは言ったものの、奈々さんの顔は少し寂しそうに見えた。なんとなく気まずい雰囲気になったので、僕は立ち上がった。カイジ浜は星の形をした砂粒が取れる所だと思い出し、それを理由にした。
「僕、星の砂を探してきます」
 そう宣言すると、ビーチサンダルを履いて奈々さんの元から離れた。白い砂浜の上にしゃがみこんで、掌を砂に押し付けるということを何度かしてみたが、星の砂はいっこうにみつからなかった。
「馬鹿ね、そんなところを探してもないわよ」
 背中から奈々さんの声がした。
「もっと波打ち際の方よ。平たい石の窪みに砂が溜まっている所があるでしょう。そういうところを探すのよ」
 僕は言われたとおり、探してみたが、やはり見つからなかった。星の砂の浜というのは、実は嘘ではないかと思い始めていた。
「純君、こっちに来てごらん」
 また、背中から声がした。僕は振り向いて奈々さんいるところまで行った。
「純君、手を出してごらん」
 僕は言われた通り右手の掌を奈々さんの前に差し出した。すると、奈々さんは僕の掌にいくつかの星の形をした砂粒を並べていった。
「ほら、これが星の砂よ」
「本当だ。綺麗ですね」
 僕が答えると、奈々さんはティッシュペーパーを取り出した。そして、その上に砂粒を集めると、綺麗に畳んでそれを僕にくれた。
「おみやげに持って返るといいわ」
「ありがとうございます。大切にします」
「何を大袈裟なことを言っているの。たかだか砂粒よ」
 奈々さんは、あきれたように言うと流木の方に戻っていった。僕は、もらったものをとりあえず短パンのポケットにしまって奈々さんの後を追った。

 木陰の流木の所にたどり着くと、奈々さんはブルーシートを畳んでトートバッグの中にしまった。それから流木に腰を下すと僕に声を掛けた。
「じゃあ、ここらは三線タイムね。私の右側に座って」
「はい」
 僕は言われた通り奈々さんの右側に座った。
 奈々さんは三線を取り出すと糸を巻いた。僕は奈々さんの何気ない仕草をじっと見つめていた。
「じゃあ、歌おうね」
「はい」
 僕が答えると、奈々さんはイントロを弾き始めた、もはや馴染み深くなった「安里屋ゆんた」だった。歌の部分に入ると、僕も奈々さんに声を合わせた。
 歌が終わると奈々さんが僕の方を見た。
「どう、こうやって綺麗な海を見ながら歌うと気分が良いでしょう」
「そうですね。嫌なことなんか、みんな忘れちゃいますね」
「そうでしょ」
 奈々さんは嬉しそうに次の曲のイントロに入った。僕も良く知っているバンドの歌だった。
 その後、奈々さんは次々と色々な曲を弾いていった。一緒に歌えるものもあったが、僕には歌詞の意味がまるで分からない沖縄の民謡もあった。僕が歌える歌えないは大きな問題ではなかった。珊瑚礁の美しい海を前にして、奈々さんの三線に耳を傾けているだけで、心が静かになった。これは本当に現実の出来事なのだろうか、もしかして、狐か狸にばかされているだけで、目が覚めたら、あの、おぞましい教室にいるのではないか。そんなことさえ考えたりもした。でも、奈々さんは確かに隣にいた。

 更にしばらく歌い続けた後、奈々さんは手を止めた。
「ちょっと歌い疲れたから一休みするね」
 奈々さんは三線のケースから小さな飲み物の容器を取り出すと蓋を開け、中身を口に運んだ。その容器は映画などでよく見られるものだった。カウボーイや海賊がポケットから取り出してウィスキーを飲むあれだ。フラスクという名前は後から知った。
 奈々さんは更に二口目に移った。三線を抱えたままフラスクから酒を飲む奈々さんは、まるで映画のヒロインみたい見栄えがよかった。
「あの、中身やっぱりお酒ですよね」
 僕が尋ねると、奈々さんは迷わずに答えた。
「中身はスコッチよ」
「まさかストレートってことはないですよね」
「そうよ、私、ウィスキーはストレートでしか飲まないから」
 カッコよすぎる答えだった。
「でも、ウィスキーをストレートで飲む人って、僕のイメージでは人生終わってる奴っていう感じなんですが」
「ああ、それは当たってるかも。私、確かに人生終わってるかな」
「いいえ、奈々さんのことを言ってるわけじゃありません」
 僕は慌ててそう言ったが、奈々さんは僕の言ったことなど気にしていなかった。
「馬鹿ね。別に怒ってなんていないわよ。純君って本当に真面目ね。でも真面目すぎると、いつかプツンと切れるわよ」
 笑えない話だった。
「ねえ、純君も飲んでみる」
 奈々さんは、いたずらっぽく笑いながらフラスクを僕の方に差し出した。
「いえ、僕、未成年ですから」
「この島には警察なんていないわよ」
「そういう問題じゃないと思います」
「ああ、でも私との間接キスは嫌かな?」
  明らかに子悪魔の挑発だった。しかし愚かな僕はあっさりとそれに負けた。僕は奈々さんの手からフラスクを奪い取ると一気に煽った。途端に口の中から食道まで火がついた。僕は飲んだスコッチを吐き出すと、激しく咳き込んだ。
「何を無茶なことしてるのよ」
 奈々さんが僕の背中をさすってくれたが、簡単には咳は収まらなかった。
「ああ、純君、ごめん。これ、六十九パーセントの強い奴だったの忘れてた」
 ウィスキーのアルコール濃度は四十五パーセントくらいだという知識は僕にもあった。
「そんな強いウィスキーあったんですか」
 僕は咳き込みながら尋ねた。
「ああ、限定品って奴ね。じゃあ、お返しに、私も純君と間接キッスということで」
 奈々さんはフラスクから更にスコッチを口に運んだ。もしかしたら、島の男でさえ奈々さんを相手にしたら飲み負けるかもしれないと僕は思った。そして、こんな風にして、奈々さんは言い寄ってくる島の男たちを蹴散らしてしまう魔性の女なのかもしれないという想像が頭をもたげた。僕は、奈々さんのちょっと悪魔的な側面を見たような気がした。

「ねえ、純君も弾いてみる?」
 僕が落ち着くと、奈々さん三線を僕の方に向けた。僕は不意を突かれたような気がして、すぐに言葉が出てこなかった。
「ギターやピアノが弾けるなら、そんなに難しくないと思うよ」
「そんな、無理ですよ」
「何もしないうちに諦めちゃうの?」
 奈々さんの言葉は真剣味を帯びていた。決して三線のことだけを言っているのではないような気がした。
「じゃあ、やってみます」
「いい心構えじゃない、じゃあ基本的なことだけ教えてあげるわね。」
 それから、奈々さんは三線の弾き方の基本を丁寧に教えてくれた。

「じゃあ、弾いてみて」
 一通り説明が済むと、奈々さんは、僕に三線とバチを手渡した。僕はバチを指につけて三線を構えた。
「じゃあ、まずドレミファソラシドレミファから」
 奈々さんの言葉を受けて、僕はたどたどしく、それを繰り返した。奈々さんは、、アドバイスを交えながら辛抱強くそれに付き合ってくれた。ギターを弾き慣れている僕にとって、三線は同じ種類の楽器だったから徐々にコツが掴めてきた。
 しばらくすると、奈々さんは僕の上達振りに感心したように言った。
「うん、やっぱり想った通り。純君には才能があるわ」
「そんなことすぐ分かるんですか」
「うん、分かる。昨夜、純君の歌を聴いていて思ったの。これは理屈じゃなくて勘だけどね」
「そういうもんなんですか」
「そういうものよ」
 僕には、自分の才能の有無など分かりようがなかったが、奈々さんは確信しているようだった。
「じゃあ、試しに『安里屋ゆんた』弾いてごらん」
「え、楽譜もないのにですか」
 僕は少々戸惑った。
「純君、もう『安里屋ゆんた』歌えるでしょう」
「歌えます。歌詞は完全には覚えていませんが」
「純君なら歌える歌は弾けると思うよ。まあ、さすがにスラスラとはいかないとは思うけどね。」
「まあ、確かにピアノやギターなら、キーはともかくとして、メロディーラインぐらいはコピーできますが」
「そうでしょ。三線も基本は同じよ。やってみて」
「わかりました。やってみます」
 僕は、どうにかして三線で「安里屋ゆんた」のメロディーラインをコピーしようとした。初め、それはまったく上手くいかなかったが、徐々に指が動き始めた。もちろん、ギターやピアノの経験がなければ、そうはいかなかっただろう。
 たどたどしい僕の演奏に、奈々さんはきちんと声を合わせてくれた。それが僕に力をくれた。最後まで、決してすらすら弾けるようにはならなかったが、ある程度は形になった。
「ほら、やっぱり諦めずにやればできるじゃない」
 確かに奈々さんの方が正しかった。ただの三線の弾き方ではなく、何かもっと大切なことを、僕は奈々さんに教わったような気がした。
「今日初めて三線を手にした人には見えないわね。後は練習を積むだけね」
 奈々さんはどこか嬉しそうだった。
「ありがとうございます」
 僕は指からバチを取り、まずバチを、それから三線を奈々さんに返した。奈々さんは受け取ったそれらをケースに収めようとした。その時僕は、少し前から思っていたことを口にした。
「あの、奈々さん、もしかして、オリジナルソングとか作っていませんか」
「どうしてそう思うの」
「いえ、なんとなく勘というか」
「作ってるわよ」
「あの、聴かせてもらえませんか、奈々さんの作った歌」
「他人に聴かせるほどのものじゃないわよ」
 奈々さんにしては消極的なものの言いようだった。
「そんなことないと思います。僕はとても聴いてみたいと思ってます」
「そうね、純君がそこまで言うならば、聴いてもらおうかしら」
「お願いします」
 奈々さんは少し考えた様子を見せた後、口を開いた。
「いくつかあって少し迷ったんだけど、ここで歌うならやっぱりカイジ浜の歌がいいかな」
「へえ、この浜の歌があるんですか。楽しみですね」
「たいした歌じゃないけどね」
 奈々さんは、言いながら三線の糸を巻き始めた。僕は奈々さんが歌い出すのを固唾を飲んで見守った。
 やがて、夏のような日差しが作った木陰に、静かに三線の音が響き始めた。それは沖縄風の曲ではなく、どこか悲しげなメロディーだった。イントロが終わりに近づき、歌が始まろうとする頃になると、奈々さんの瞳は遠くを見つめていた。手前の海よりも、対岸の西表よりも、その向こうの雲よりも、奈々さんは遠くを見ていた。奈々さんが歌い始めた途端、僕はその美しい声に引き込まれた。僕を絡め取っていた穢れた世界は姿を消して、僕は歌の中の美しい世界に何処までも深く落ちていった。奈々さんは歌の中で、猫になりたいと願っていた。

 もし、もう一度生まれ変わるなら
 私はカイジ浜の猫になりたい
 あなたの好きなこの場所にずっと
 一日中、一年中、たたずんでいたい
 白く輝く砂にまみれて
 青く煌く海を見ていたい
 都会の暮らしも胸の痛みも
 みんな忘れカイジ浜の
 猫になりたい

 もし、この浜の猫になれたら
 今は遠いあなたの傍に行きたい
 あなたと気づかず、私と気づかれず
 指でそっと耳の後ろ撫でられてみたい
 浜に寝転ぶあなたの横で
 小さく丸くなって眠りたい
 あの日の笑顔も昨日の涙も
 みんな忘れカイジ浜の
 猫になりたい

 奈々さんが歌い終わっても、僕はすぐに元の世界に帰って来ることができなかった。何も言葉が見つからなかった。これは実話なのか?などとは決して聞けなかった。そして僕は、実在するのかさえも分からない歌詞の中の「あなた」に嫉妬していた。
「どうだった」
 奈々さんに問われて、ようやく僕は我に返った。
「なんというか、言葉にできないくらい良い歌でした」
「大げさね。でも気に入ってくれたなら良かったわ」
「実は、僕もいつか自分のオリジナルソングを作りたいと思っていたんです。こんな歌が作れたらいいなと思いました」
「こんな後ろ向きの歌は、ウィスキーをストレートで飲むような人生終わってる奴が作るものよ。純君は、もっと明るい歌を作りなさい」
 奈々さんは少し寂し気に笑った。視線は僕ではなく、遠くに向いていた。
 そんな奈々さんの横顔を見ていたら、湧いてきた思いがあっさりと口から出た。
「あの、奈々さん、僕にも歌の作り方を教えてくれませんか?前から、いつかは作ってみたいと思っていたんですけど、回りには作っている人がいなかったから、なんかきっかけがなくて」
「いいわよ、じゃあ、とりあえず、今日のことを歌詞にしてみて。夜までの宿題よ」
「奈々さん、なんだか先生みたいな口ぶりですね。」
「そんなことないと思うけど」
「もしかして、竹富に来る前は先生をしてたとか」
 奈々さんの表情が急に厳しくなった。
「純君、こんど今みたいなこと言ったら二度と口聞かないから」
 奈々さんは冗談めかして言ったが、その言葉は冗談ではないような気がした。
「待ってださい。奈々さんにまで無視されたら、僕、生きていけませんよ」
「純君って、もしかして周りから無視されてるの?」
 図星だったが、そうは言えなかった。
「いえ、そんなことありません。なんという言葉の綾っていうか」
「まあ、いいわ。とにかく書いてみて」
「はい、やってみます」
 そんな風にして、僕は初めて歌を作ることになった。

 その後、僕たちは一度宿に戻り、昼食を食べに出かけた。
「八重山そばは、もう食べたって言うから、タコライスのお店にしてみたわ」
 奈々さんに連れてこられたのは、ビーチというお店だった。お店の建物には厨房しかなく、食事を取るスペースはなかった。芝生の庭にはいくつかのビーチパラソルの着いたテーブルが用意されていて、食事は全て屋外で取るという形式だった。僕たちは入り口近くのガジュマルの木の下に席を取った。
 奈々さんは厨房の脇に設けられた注文窓口に行くと二人分の注文をした。
「昌枝さん。こんにちは」
「あら、奈々ちゃん、いらっしゃい」
 奥の方から奈々さんと同年代の女性が顔を出した。
「タコライス二つお願いね」
「はい、少しお待ちくださいね」
 昌枝さんは、注文を取ると奥に下がっていった。

「タコライス二つお待たせしました。」
 しばらくして、注文窓口とは反対側に設けられた窓口から、昌枝さんの声が響いた。
「私が取ってくるね」
 奈々さんは立ち上がると、二人分のタコライスを席まで運んできてくれた。
「タコライスも沖縄のソウルフードだからね」
「はい、ガイドブックにもそう書いてありました」
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
 僕たちは一緒にタコライスを食べ始めた。石垣のすぐ向こうを水牛車が通り過ぎて行った。夏のような天気は相変わらずで、白いテーブルの一部はその日差しを浴びて美しく輝いていた。だが、パラソルとガジュマルの木の陰は、僕たちにとって快適な空間だった。タコライスも美味しかった。

「じゃあ、こんどは僕が食器を下げてきますね」
「ああ、ありがとう」
 僕は、先ほど奈々さんがタコライスを受け取った窓口の方に向かった。
「ごちそう様でした」
 返却台と書かれた所から、ふと厨房の中を覗くと2枚の大きな写真が目に付いた。一枚は黄色っぽい野良着のような物をきた女性たちが、何か空手の組手のようなことをしていた。もう一枚には、艶やかな宮廷風の着物を着て踊る二人の女性が写っていた。その二枚の写真の両方に奈々さんの姿があった。
 僕は席に戻ると、すかさず奈々さんに尋ねた。
「厨房の中の写真、両方、奈々さんが写ってますよね」
「ばれたか、ここに連れてきたのは失敗だったかな」
 奈々さんは苦笑いをした。
「あの写真を撮った時の話、聞かせてもらえませんか」
「仕方がないわね。じゃあ、現場に行きましょうか」
 奈々さんは店の出口に向かい、僕も後に従った。

 奈々さんは、ビーチからすぐ近くの芝生が敷かれた公園のようなところに僕を連れて行った。
「あそこにお社が見えるでしょう。世持御嶽よ。島の神様が祀ってあるの」
 奈々さんは、敷地の奥の小さな建物を指さした。
「竹富にはね。本当にたくさんお祭りがあるんだけど、一番大きなものが秋に行う種取り祭りなの」
「どんなお祭りなんですか」
「祭事自体は一週間近く続くんだけど、見所は最後の二日間に渡って行われる奉納芸能ね」
「神様に歌や踊りを捧げるわけですね」
「その通り。この時は、小学生からお年寄りまで、私みたいな余所者も含めて島中の人が芸の担い手になるの。観光のお客さんもたくさんいらっしゃるわ」
「僕も見てみたいですね」
「いつか来てみるといいわ。ああ、でも、のむら荘は、古くからの常連さんが毎年欠かさずいらしていて、新規の予約は受け付けていないから泊まれないけどね」
「人気があるお祭りなんですね」
「そうよ」
 奈々さんは芝生の中に歩みを進めた。
「お社の前にテントの骨組みが見えるでしょう。あそこに舞台や客席が作られるの。向こうで演じられるのが舞台の芸能、琉球王国風の衣装を着て踊る琉舞とか、神様の行列が出てくる踊りとか、コント風の寸劇とかね」
 奈々さんは更に続けた。
「この芝の上で行われるのが庭の芸能、踊りは舞台上と違って庶民的なものね。後は棒術、棒術は簡単に言えばチャンバラね」
「じゃあ、さっきの写真に写っていたの黄色っぽい着物の写真は庭の芸能なんですね」
「そう。腕棒って書いて『うでぃぼう』って読むんだけど、棒術の女性バージョンね」
「男性の棒術とはどう違うんですか」
「男性の棒術はね、大体は、完全に一対一でやるの。それと武器を使うの。棒だったり、鎌だったりするんだけど、必ずとい言っていいほど足を払う攻撃があって、それをジャンプして避ける動作があるの」
「なんか面白そうですね」
「女性の腕棒は、一対一の動きが基本なんだけど、それを何組かの集団でやるの。女性は武器を持たず素手で戦う、だから腕棒。まあ、空手の組み手みたいに見えたでしょう」
 話を聞いて、僕は奈々さんの腕棒を実際に見てみたいと思った。
「あの、奈々さん、腕棒やって見せてくれませんか」
 奈々さんは、少し迷ったようだったが、僕の頼みを聞いてくれた。
「ちょっと恥ずかしいけど、純君の頼みならしかたないわね」
 僕から少し離れて構えに入ると、奈々さんの表情が変わった。それまで見せたことのない鋭い視線が、奈々さんのすぐ目の前にいるはずの敵役に向けられていた。それから拳を突き出したり、相手と肘を絡めた様子で回ったりという、戦闘の動作が続いた。一連の動作が一息つくと「ひよ」と掛け声をかけ、また次の動作に入った。そういった流れが数回続いた。
 僕の目は奈々さんに釘付けになっていた。腕棒を舞う奈々さんに、僕はそれまでとは別の美しさを見出していた。敵を見据えるその瞳には、守るべきものを守るためなら戦うことも辞さない強さが宿っているような気がした。
「素晴らしいですね。僕、見とれてしまいました」
「そう、じゃあ、やった甲斐があったわね」
「あの、ついでと言っては何ですが、もう一枚の写真にあった琉舞も見せてもらえませんか」
 僕の言葉を予想していたのか、奈々さんは半ば諦め、また半ば呆れたような様子で歩き始めた。
「いいわ、じゃあ、ついてきて」
 奈々さんは、先ほど教えてくれた舞台があるべき場所に僕を連れて行った。
「本番ではね、ここが舞台の中心ね。客席はそっちだから、純君はそっちから見てくれる」
 奈々さんは客席があるべき方向を示し、僕はそれに従った。
「琉舞はさっきの昌枝さんと二人で踊ったの、そっちから見ると昌枝さんが右で、左が私ね」
 言ってから、奈々さんは舞台の左後ろに下がった。
 歩き出す準備に入った途端にまた、奈々さんの表情が変わった。奈々さんの瞳からは目の前の風景が消えていて、一人だけで宮廷の雅の世界に入り込んでいるような気がした。微かな鼻歌で伴奏を奏でると、奈々さんはゆっくりと前に歩き始めた。奈々さんはTシャツに短パンという姿なのに、僕は奈々さんが艶やかな衣装を身にまとっている様な錯覚を覚えた。
 奈々さんは、ゆっくりとした歩みで舞台の中央あたりまで来たが、やや左側に留まった。そして僕からすると右側にいるはずの昌枝さんと動きを合わせて優雅な舞を見せた。ゆっくりと回ったたり、手を伸ばしたりという、一つ一つの仕草に心を惹かれた。左斜め上の虚空を見つめる瞳はどこか憂いを帯びていて、心の中に深い悲しみを抱いているように見えた。
「お粗末さまでした」
 奈々さんの言葉で、僕はふと我に返った。その言葉を聞くまで、僕は奈々さんの作り出す雅の世界に引き込まれていた。
 奈々さんは本当に不思議な人だった。腕棒を演じていた時の奈々さんからは凛とした強さを感じたが、琉舞を舞う奈々さんからは抱きしめたら壊れてしまいそうな存在の儚さが感じられた。相反する二つのものが矛盾することなく、その美しい体の中にあることが、僕には不思議でならなかった。

 世持御嶽から宿に戻り、談話スペースで一息つくと、奈々さんが次の行動の提案をしてきた。
「じゃあ、次は海を見に行こうね」
「海ってもう、見たじゃないですか」
「うん、そうね。でもこれから行くのは、とっておきの場所なの。まあ、とにかくついてきて」
「分かりました」
「ああ、タオルだけは、忘れずに持って行ってね」
「はい」
「じゃあ、行こうか」
 奈々さんは、先ほどと同じトートバッグを持って歩き始めた。僕も小さなリュックを持って後に続いた。タオルはすでにカイジ浜に行った時に入れてあった。
 僕たちは自転車にまたがりコンドイ浜を目指した。夏のような日差しは相変わらずだったが、手足を通り過ぎてゆく風も相変わらず優しかった。ほどなくして、僕たちはコンドイビーチの入り口に到着した。
 道の両側の木々が作り出す濃い影の先には、白い砂浜が見え、その先には西表の山がそびえていた。左手に見える石垣に沿って自転車置き場が設けられていた。僕たちはそこに自転車を止めた。
 コンドイビーチは砂浜が広く、開放感のあるビーチだった。木陰の近くまで波が寄せてくるカイジ浜とは対照的だった。しかし、海はすっかり潮が引いていて、はるか遠くまで白い水底が顔を出していた。
 コンドイ浜は、竹富島では唯一の海水浴が楽しめる場所でもあった。古めかしいが清潔感のあるトイレや更衣室、シャワーや足の洗い場などが整備されていた。もちろん、真冬だから海水浴を楽しむ人の姿はなかった。
 奈々さんは、自転車の籠からトートバッグを取り出すと海の方に歩き出した。
「夏になるとね、この浜には海水浴のお客さんがたくさん来て、ビーチパラソルが並ぶのよ」
「僕、海水浴はあまり好きじゃないですね。人が多いじゃないですか」
 僕は奈々さんの隣を歩きながらつまらないことを言った。
「まあ、多いといって東京人の感覚からすると夏でもガラガラよ。なんだ、この寂れた浜はって感じ」
「そうなんですか」
 奇麗な浜なのに人が少ないというのは意外だった。
「うん、あと、一度ここで泳いでしまうと、とても湘南あたりの海で泳ぎたいとは思わなくなるみたい」
 それはよくわかる気がした。
「そうかもしれませんね。でも、奈々さん、海を見に行くって言いましたけど、海なんてほとんど見えないじゃないですか」
 奈々さんの真意を測りかねている僕をからかうように、奈々さんは笑みを浮かべた。
「沖の方まで行くのよ。そこからとても綺麗な海が見えるわ」
「なるほど」
 奈々さんは、波打ち際に近づくと海面の様子を確かめながら左手のカイジ浜の方向へ歩き続けた。僕は、ただ奈々さんについていくだけだった。
「じゃあ、ここから海に入るわよ」
 しばらくして、奈々さんが宣言した。
「ええ、泳ぐんですか」
 僕は少々驚いた。
「まさか、いくらこの陽気でも、海水浴は無理。歩くだけよ」
「良かった。凍死するかと思いましたよ」
「大袈裟ね。じゃあ、ついてきて。足元に気をつけてね、石や珊瑚の欠片もあるし、ナマコもいるからね」
「わかりました」
 僕の答えを確認すると、奈々さんは海に足を踏み入れた。僕もその後に続いた。気温は夏のようだったが、水温の方は冬の海そのものだった。初め低かった水位も徐々に深くなり、僕たちは短パンの裾をまくらなければならなかった。
 白い海を生まれて初めて見た。真っ白な砂の水底まで見える澄んだ海は、正に白い海だった。その信じられないような美しい海の中を、奈々さんがゆっくりと歩いてゆく。より長く見えるようになった奈々さんの足に目を奪われ、一度転びそうになった。僕はどうしようもなく十六歳だった。
 やがて再び水深が浅くなり、僕たちは白い砂の大陸に上陸した。目の前には、見渡す限りの白い平野が広がっていた。
 奈々さんは、左手に見える黒島の方向に歩いていった。海はその方向に向かって潮が引いていっているようだった。そちらの方向だけ、まだ、わずかに水が残る部分があり、砂も濡れていた。僕たちは、たまにぶつかる水溜りを横切りながら歩き続けた。そして、とうとう僕たちは白い世界の果てに到着した。
 水深が極めて浅い白い海は、少しずつ青みを増して左手の黒島の方に続いていた。極めて平らな黒島は、空と海の青に挟まれて少し霞んで見えた。右手に目を向けると、西表、小浜、カヤマ島、そして石垣と、八重山の島々がずらりと並んでいた。砂の大陸の延長である浅い海は、まるでどの島にも歩いていけそうに見えた。
 振り向いてみると、左手のコンドイビーチも、右手のカイジ浜も、砂の大陸の遥かかなただった。小さな人影が見えなくもなかったが、ほとんど無いに等しかった。
 空の青、沖の海の緑、砂の白、目に見える世界の全てが美しかった。そして、その美しいものだけがある世界には、僕と奈々さんの二人しかいなかった。
「ここにこんなに綺麗な海があること、あまり知られていないのよ」
 奈々さんの言葉を聞いて横を向くと、奈々さんは遠くを見つめていた。
「そうですか、なんかもったいないですね」
「うん、でも、その方が良いと思うのよね。ほら、だって、こんな綺麗な景色を独占できるって素敵だと思わない?」
「そうですね。僕もそう思います」
 本音だった。穢れたものなど何一つないその場所に、僕はいつまでも二人きりでいたいと思っていた。しかし、それは叶わぬ夢だと知らされた。
「でもね、ここには長くはいられないのよ。もうすぐ、ここは海の底に沈んでしまうの。あと少しで干潮だから、その前に少し余裕を持って戻らないといけないの。服が濡れるぐらいですめば良いけど、下手すると他所の国まで流されてしまうかもしれないわ」
「そうですか、残念ですね」
 言葉通り残念極まりなかった。そして、その後の奈々さんの言葉は更に切なかった。
「ほとんどの人が知らなくて、わずかな時間しか姿を現さない。ここって、少し不思議の国みたいでしょ」
「そうですね。」
「でも美しいものだけがある世界には、いつまでもいられない。いつかは現実に帰らなければならない。ちょっと寂しいよね」
 ちょっとではなかった。僕は次の日には、美しい島に、そして奈々さんに別れを告げなければならなかった。
「じゃあ、戻ろうか」
 奈々さんが波打ち際を右手に歩き始めた。僕はその背中を追った。砂の大陸を大回りして、僕たちはコンドイビーチに戻った。自転車に乗りビーチを去る前に、僕はもう一度沖に目をやった。僕たち二人だけの美しい世界は、もうすぐ海の底に沈んでしまうのかと思ったら、たまらなく寂しくなった。
 夏のような日差しを投げかけていた太陽も、そろそろ西に傾き始めていた。

 陽がかなり傾き、赤瓦の屋根が、更に赤みを増した頃、僕は朝に行ったなごみの塔の裏にあるカフェに連れて行かれた。店の前に置かれた看板には既に「閉店」の文字が掲げられていた。
「あれ、もう閉まってますね」
 僕の言葉を無視して、奈々さんは右側にある外階段を上り始めた。
「大丈夫よ。ついていらっしゃい」
 僕は言われたとおり奈々さんの後を追った。奈々さんはなんの躊躇もなくドアを開け店内に入っていった。僕もそれに続いた。店の中には、もう客は一人もいなかった。
 沖縄出身の歌手のものらしきポピュラーソングが三線の伴奏で静かに流れていた。店のインテリアは基本的に白で統一されていた。元は民宿の二階だったらしいその場所は、天井や壁など、ところどころ、わざとコンクリートがむき出しになっていた。店の中央の床には、浅くて狭い溝があり、そこには真っ白な珊瑚のかけらが敷き詰められていた。
 赤山カフェという名にちなんで、椅子の背もたれなど所々ポイントを絞って赤い色もちりばめられていた。
 入って左側の窓側の席は、なごみの塔と赤瓦の町並みに面していて、店の特等席という感じがした。奈々さんは、迷わずに奥の方の窓側の席に向かい、左側の椅子に腰を下した。僕は黙って、その隣に座った。流れていた歌が終わり、別の歌が流れ始めた。やはり、優しい沖縄の香りがするポピュラーソングだった。どうやら店のBGMは、そういう歌を集めているようだった。
 僕たちが席に着くとすぐに、厨房から五十代に見える女性が顔を出した。
「あら、奈々ちゃん。そろそろ来ると思ってたわ」
「ああ、理恵さん、いつもすみません」
「ああ、その子が、噂の奈々ちゃんの彼氏ね」
 理恵さんは何やらとても嬉しそうに見えた。
「違うわよ、彼は、ただの従兄弟よ」
 奈々さんは反論したが、その言葉は、あっさりと理恵さんに跳ね返された。
「そう言ってるらしいけど、島の人は、誰も信じてないわよ。奈々ちゃんがデートしてるって、島中の噂よ。島の若い男連中ときたら、もう大変。ついさっきまで、ここで、ああでもない、こうでもないと大騒ぎ。そろそろ、あんたが来る頃だと思ったから、閉店の時間だって追い出したところよ」
「そうだったの。助かったわ。じゃあ、理恵さん、いつものお願いね。純君は何にする?今度は泡盛でも飲んでみる?」
 奈々さんの悪魔の様な提案を、今度はあっさり却下した。
「冗談言わないでくださいよ。ああ、僕はアイスコーヒーをお願いします」
「はい、承知しました。」
 理恵さんは、注文を書き留めると厨房に下がっていった。
 理恵さんの姿が見えなくなったところで、僕は奈々さんに謝った
「すみません、僕のせいで、すごいことになっているみたいですね」
「純君は気にしなくていいわよ、みんな勝手に騒いでいるだけだから」
 奈々さんはあきれ顔だった。
「でも、なんか僕、恨みを買いそうですね」
「みんな、そこまで馬鹿じゃないわよ」
「そうだといいんですが」
 学校でのいじめのことを思い出し、僕は少し不安になっていた。
「お待ちどうさま」
 しばらくすると、理恵さんが注文した飲み物を運んできた。僕のは、もちろんアイスコーヒーだったが、奈々さんの下に運ばれてきたのは生ビールのジョッキだった。
「いつものって生ビールなんですか。ちょっとカッコよすぎますよ」
「別にかっこなんてつけてないけど」
 奈々さんはジョッキを手に取ると、三分の一くらいを一気に飲み干した。
「ああ、やっぱり暑い日の生ビールは最高ね。ああ、純君も飲んでみる」 
 奈々さんは懲りずに悪魔の提案を繰り返した。
「遠慮しておきます。さっきので懲りました」
「さっきのスコッチと違って、沖縄のビールは水みたいなものよ。ああ、やっぱり私との間接キスは嫌なのかな」
「もう、その手にはのりませんよ」
 僕の反応が面白くて仕方がないという顔をして、奈々さんは変なことを勧めてきた。
「純君、真面目すぎるな。私だって未成年がお酒を飲むのは良いことじゃないと思ってるけど、時と場合ってあると思うの。せっかくこんな南の果てまで来たんだから、純君も自分の殻を破ってみるのもいいんじゃない」
 そんなことをしたら、あなたに何をするかわかりません、とはさすがに言えなかった。奈々さんは、ため息をついて窓の外を見つめた。僕も同じように窓の外の景色に目を移した。
 なごみの塔から見るよりは少し低かったが、夕陽を浴びた赤瓦の家並みは、朝よりも美しく思えた。日帰りの観光客はすでに島を出ていた。残されたのは、島の住民と、わずかばかりの宿泊者だけだった。すでに島は静けさに包まれ始めていた。
 僕と奈々さんは、それからしばらく黙って窓の外を見ていた。僕たちは夕陽と静けさが織り成す島の情景をひたすら眺め続けていた。
「ここね、私にとって世界一心が静かになる場所なんだ」
 不意に奈々さんが口を開いた。奈々さんは窓の外の景色をみつめたままだった。
「なんとなく、わかるような気がします。僕もこの店がすごく気に入りました」
「そう、じゃあ、ひいきにしてあげてね」
 奈々さんは僕の方を見ないまま、そう答えた。
「奈々ちゃん、ちょっとお使い頼まれてくれない」
 少しすると、厨房の方から理恵さんが声を掛けてきた。
「もちろん、何をすればいいの」
 奈々さんは立ち上がり、厨房の手前のレジの方に歩いていった。そこで何かメモのようなものを受け取ると、出入り口のドアの方に向かった。
「じゃあ、行ってくるね」
 奈々さんは、そう宣言すると、足早にドアの向こうに消えていった。僕は一瞬、奈々さんが、このまま帰ってこないのではという何の根拠もない不安に駆られた。
 一人残された僕は、さっきまで奈々さんが座っていた席を眺めた。右手から差し込んでくる夕陽が、白い椅子の上に音もなく降り注いでいた。
 奈々さんと過ごした一日が終わりに近づいているのだと、僕は不意に気づかされた。少し息が苦しくなった。
 その時、奈々さんが好きだと言っていた歌が流れてきた。それは昨夜も、そしてカイジ浜でも歌ってくれた歌だった。その歌を、奈々さんと一緒に聴けなかったことが、なぜか妙に悲しくて仕方がなかった。

「ただいま」
 十分と経たないうちに、奈々さんが元気にドアを抜けてきた。僕を捕らえていた不安はあっさりと解消した。
「ごめんね。一人で寂しかった」
 奈々さんは、再び僕の隣に腰を下した。
「寂しいっていのうとは、ちょっと違うかもしれませんけど、奈々さんが座っていた席に夕陽が差しているのをみたら、何だか切なくなりました」
 奈々さんは軽く音を立てて両手を胸の前で合わせた。
「純君、今の言葉もらうね。なんか、歌が書きたくなったわ」
 僕の言葉の何がそれほど気に入ったのか、僕にはさっぱりわからなかった。
「なんかよく分かりませんけど、奈々さんの好きなようにしてください」
「そう、じゃあ遠慮なくいただくわね」
 そう言った後、奈々さんは二杯目の生ビールを注文した。
 その後、奈々さんは、指を折り歌詞の語数を数えながら、小さな声で鼻歌を歌い始めた。しばらくそれを繰り返した後、僕の顔を見た。
「ねえ、ところで、私がいない間、純君は何をしていたの?」
 奈々さんが聞いてきた。
「別に何も。しいて言えばアイスコーヒーを飲んでいました」
「それだけ、何かもっと他のことはしてなかったの?」
「していません。ああ、ただ、奈々さんのいない間に、奈々さんの好きな歌が流れてきて、ああ、もったいないと思いました」
 僕の答えに反応した様子が、奈々さんの表情にうかがえた。
「うん、それいいね。それも、もらおう」
 それからまた、奈々さんは先ほどと同じように指を折りながら鼻歌を歌うという手順を繰り返した。
 奈々さんは歌を作りながら、また窓の外のどこか遠くを見つめていた。カイジ浜で、猫になりたいという歌を歌っていた時と同じだった。奈々さんは、やはり、僕ではない誰かに向けて歌を作っていた。僕は、また、その誰かを妬ましく思いながら奈々さんの横顔を見ていた。
 
 しばらくすると、奈々さんは、「できた」と呟いた後、席を立った。そして、店の隅に置かれていた三線を手に取ると、戻ってきて、僕の隣に腰を降ろした。手早く調弦を済ませると、僕の方に顔を向けた。
「じゃあ、歌うね」
 言うなり、奈々さんはイントロを弾き始めた。スローテンポで、やや悲しげなメロディーは、店内や窓の外の情景と溶け合っていた。やがて、イントロが過ぎ、奈々さんは歌い始めた。
 
 赤い瓦の竹富の
 古い町並み見下ろせる
 宿の二階を造り替え
 目立たずにある白い島のカフェ
 窓の向こうのなごみの塔は
 あの日のままにそこにあるけど
 窓際の席、僕の隣は
 今日は夕陽が差しているだけ

 白で満ちてるこのカフェの
 床は珊瑚が敷いてあり
 今日も優しいOKINAWAN
 POPの歌がそっと流れてる
 君が愛したあの歌が今
 行き場なくして店を彷徨い
 僕は小さくため息ついて
 冷えたビールを一人飲み干す
 
 イントロを弾き始めた時に、奈々さんの心から、また僕が消えてしまったことには気づいていた。それでも、奈々さんの歌は僕の心に突き刺さった。
「ねえ、どうだった」
 感想を求められたので応じた。
「正直言って好きになれません」
 僕はとっさに本音を吐いてしまい、すぐに後悔した。
 奈々さんは、決して怒ってはいなかったが、僕の返答が不思議でならない様子だった。
「どうして?そんなにひどい歌だった?」
 僕は慌てて、好きになれないと思った理由を説明した。
「ああ、ごめんなさい。歌そのものは、すごく良かったというか、良すぎるぐらいでした。だから尚更、辛くなりました」
「どういうこと?」
「歌の歌詞が自分の未来だと思いたくなかったんです」
 僕の答えに対して、奈々さんは何も言わなかった。そしてまた、窓の外を眺めた。僕もまた、窓の外の赤瓦の町並みに目を向けた。言葉をなくした僕たちの目の前で、夕陽は少しずつ、その色を失っていった。

 赤山カフェを出て、のむら荘に戻ると、僕は談話スペースで、持ってきたメモ帳を広げて、奈々さんに出された作詞の宿題に取り掛かった。夏のように暑い一日には、あまりにも色々な出来事があり過ぎて、とても、全てを語ることはできなかった。だから、まずは語るべきことを絞ることから始めた。絞り込みが済み、どうにか歌詞を書き始めた頃、夕食の時間になった。
 宿泊客は増えも減りもせず、昨夜と同じ顔ぶれだった。昨夜同様に楽しい夕食の時間が終わると、僕は、また談話スペースに腰を下ろし、夕陽の絵と向き合って、作詞の宿題に取り掛かった。初めて取り組む作詞という作業は、決して簡単ではなかったが、なかなか面白いものだった。そして、ゆんたくが始まる前に、どうにか詞は完成した。とはいえ、出来上がった詞は自分でも稚拙に思えて、とても奈々さんが合格点をくれるとは思えなかった。さんぴん茶を飲みながら、メモ帳とにらめっこをしていると、後ろから奈々さんに声を掛けられた。
「純君、宿題はできたの?」
「ああ、やっぱり奈々さん・・」
 言いかけて口をつぐんだ。奈々さんに無視されたくはなかった。僕は手元にあったメモ帳を開いて、それを奈々さんに差し出した。奈々さんは、僕の隣に腰を下して真剣に僕の書いた歌詞に目を通した。
「う~ん、純君、今までに歌詞を書いたことあったの?」
「いえ、初めてです」
「まあ、初めてにしては、そんなに悪くないと思うわ。元号まで日付が入っている歌なんて、他にないと思うから斬新だとアイディアだと思うわ。どうして、こんなにご丁寧に日付を入れたの?」
「いえ、たぶん、僕にとって歴史的な日付になるだと思ったので」
「ちょっと大袈裟な気がするけど」
「いえ、ちっとも大袈裟じゃありません」
 奈々さんは少々呆れたような顔で講評を続けた。
「まあ、いいわ。それは別として、問題点がいくつかあるから言っておくわ」
「どこでしょうか」
 何を言われるのだろうかと、僕は身構えた。
「そうね。一番、二番の最後に出てくる『夏のような日』という表現は、もっと別の言い方にするべきだと思うわ」
「どういうことですか」
 僕にはそうする理由がわからなかった。
「つまりね、日常会話と同じ表現では、歌詞としては面白くないということ」
 面白くないと言われても、僕はただ途方に暮れるだけだった。
「どうすればいいんでしょう」
「それは自分で考えなさい。純君の歌なんだから」
 このまま突き放されては溺れてしまいそうだった。僕は、藁をもすがる思いで懇願した。
「じゃあ、何かヒントをもらえませんか」
「そうね、『夏のような日』は、歌詞としてはあまりにも子供っぽい表現だし、もっと簡潔でインパクトのある言葉に変えるの。純君は真冬の大都会から、まるで別世界のようなこの島に来たわけでしょう。しかも、島の人さえあまり経験しない夏みたいな日を体験した。だからそういう非現実的な雰囲気を伝えられるような七文字の言葉を探すのよ。もしかしたらそれは、歌のタイトルにできるかもしれない」
「すごいアドバイスですね。やっぱり奈々さんは・・・」
「何、何が言いたいの」
 奈々さんが怖い顔をした。
「いえ、何でもないです」
 やはり僕は無視されたくなかった。
「あと、二番の星の砂の件だけど、男女の立場を逆転させた方が良いわね。女の子が探し当てた砂を男がもらうのは、ロマンチックじゃないでしょ」
「でも、それは現実じゃないし」
 僕がそう言うと、奈々さんは、また呆れたような口調で話し始めた。
「純君、歌詞は君の日記じゃないのよ。現実である必要なんかないの。多くの人が共感できる美しい物語であるべきなのよ。もちろん作り手の純君の思いが欠片も残っていない歌詞を書いたら、良い歌詞にはならないと思うけどね。だから、自分だけの思いは、こっそりと少しだけ忍ばせるようにするのよ」
 奈々さんの話には説得力があった。
「分かりました。自分の思いが完全に消えない範囲で、現実と虚構の折り合いを上手くつければいいわけですね」
「そういうことね。ああ、ごめんね。でも、これは私の持論だから、他の人は私とは全く違うことを言うかもしれないわね。大体において、物語性はほとんどなくて、抽象的だけど素晴らしい歌詞を書いている人はたくさんいるものね。残念だけど、私にはそういう歌詞の書き方は教えられない。でも取りあえず、この歌はそういう方向性で作ってみて。たくさん歌を作って、色々な人の意見を聞いているうちに、純君自体の持ち味は自然にでてくると思うから」
「はい。頑張ってみます」
 僕の言葉に小さく微笑むと、奈々さんは、またメモ帳をのぞき込んだ。
「ところでこの歌、二番で完結していないから、三番が必要ね。どうするつもり?」
 痛い所を突かれたと思った。
「わかりません。この旅が終わらないと書けないような気がします」
 頼りない言葉を吐き、また叱られそうだと思ったが、そうはならなかった。
「そう、まあ、それで良いと思う。どんな歌詞になるのか楽しみね。ところで、私、曲の方については何も言わなかったけど、何か考えはあるの?」
「いいえ、今のところ全く」
「ふ~ん、全くねえ」
 奈々さんは少し考えてからアドバイスをくれた。
「そう。それならば、沖縄風のメロディーしてみたらどうかしら。歌詞の雰囲気にも合うと思うわ。純粋な沖縄音階にしなくても沖縄らしさは出せると思うわ。三線の伴奏も似合いそうね」
 そこまで言って奈々さんは確認を入れた。
「純君は、たぶん、コンピューターに音符打ち込んで鳴らしたりできるよね?」
「はい、やれます」
「それならば、本物の三線での録音は無理にしても、コンピューターを使えば、それらしい音は出せるはずよ。純君なら頭に浮かんだメロディーを楽譜にするのは、それほど難しくはないはずだから、メロディーさえできれば後は楽ね」
 簡単に言ってくれるなと思った。
「そのメロディーを作る方が、歌詞を書くより難しいと思いますが」
「そうかしら。この歌詞なら、スローテンポで、しっとりとした切ないメロディーにしかなりようがないでしょう。それを、なんとなく沖縄風に歌おうとすれば、自然と形になると思うけどな」
「そう簡単にゆくでしょうか」
 僕にはそうは思えなかった。しかし、奈々さんはやれると信じているようだった。
「まあ、とにかくやってみることね。別に締め切りがあるわけじゃなし。のんびりとやればいいのよ。でも、純君には才能があるから、きっといい歌になると思うわ」
「ありがとうございます。できあがったら是非、聴いてくださいね」
「うん、そうだね」
 そう言ったものの、奈々さんは、できるまでずっと待っているとは言ってくれなかった。

 その後のゆんたくも、昨夜同様に盛り上がり、とても楽しかった。しかし季節外れの暑さのせいか最後のカチャーシーを踊ると微かに汗が滲んだ。
 ゆんたくの後は、談話スペースに場所を移したが、話はつきることがなかった。奈々さんも、泡盛を飲みながら話の輪に加わっていた。
 やがて、夜も更けて山田夫妻と日野さんが部屋に戻ったタイミングで奈々さんが提案をしてきた。
「ねえ、純君、西桟橋に行ってみない?」
 今頃になって何故?と思ったが、せっかくのお誘いを断る理由など何もなかった。
「はい、行きます」
「じゃあ、ちょっと待っててね」
 奈々さんは立ち上がり、裏手に続くドアを抜けると、小さなレジ袋を持って戻ってきた。
「暗いから、純君も懐中電灯を持ってね」
 奈々さんは、談話スペースの棚に置かれた懐中電灯を二つ取り出すと、その一つを僕に差し出した。
「じゃあ、行きましょうか」
 奈々さんに言われて、僕は立ち上がり、門を出てゆく奈々さんの後を追った。
 スンマシャーを通過して、夜遅くまでやっている「ゆうひ食堂」を通り過ぎると、街灯が途絶えた。それから、周回道路を横切ると闇が更に濃くなった。両側の墓地を通り過ぎるのが少し怖かったが、周回道路の一つ外側の道に出るのにたいして時間は掛からなかった。そこから西桟橋へ下る坂は、まるで魔界へ続いている様な気がした。一人では決してこの先には進めないと思った。懐中電灯の明かりを頼りに、僕たちは短い坂を下った。
 西桟橋には昼間も来ていた。西桟橋は、対岸の西表や小浜島の方向にまっすぐに伸びていて、夕陽の名所でもあった。日没の時間には多くの人が集まる場所だった。残念ながら日没の頃は、日が沈む西表の向こうは厚い雲に覆われていて綺麗な日没を見ることは叶わなかった。
 星もない夜の西桟橋は、そこにあることがどうにか見て取れる程度だった。
「ちょっとここで待っててね」
 桟橋の袂にたどり着くと、奈々さんはすぐに先へ進もうとはせずに、右手の砂浜に下りていった。それから、浜辺でかがみこむと、小石を集めて、持ってきたレジ袋の中に放り込んでいった。一体何をするつもりなのか、僕には見当がつかなかった。そもそも星も出ていないこんな夜に、どうして奈々さんが僕を桟橋に誘ったのか、その理由は、まだ聞いていなかった。
「ごめんなさい、お待たせしました」
 奈々さんは戻ってくると桟橋の先の方に歩き始めた。
「じゃあ、桟橋の先まで行きましょう。海に落ちないように気をつけてね」
「はい」
 僕は、懐中電灯で足元を照らしながら奈々さんの後に続いた。
 対岸の西表と小浜には小さな明かりも見えたが、僕たちが歩く桟橋は闇に包まれていた。懐中電灯があっても、先に進むのはかなり怖かった。もし、左右どちらかの海に落ちたら、真っ暗な海の底に引きずりこまれて、二度と陸に戻ることはできないような気がした。
 実際には、桟橋の左右は満潮でも十分に足が着く程度の深さしかなかったので、そんなことになるわけがないことは分かりきっていた。しかし、それでもなお、そういう恐怖を拭い去ることができなかった。
 当然ながら、星もない真冬の桟橋に、僕たち以外に人はいなかった。やがて、僕たちは無人の桟橋の一番先までたどり着いた。
「純君、こっち側に来て」
 奈々さんは桟橋の右側の縁に立った。僕は言われた通りに、奈々さんの右隣に並んだ。
「懐中電灯を消して」
 言われたとおりにすると、僕たちは完全な闇に囲まれた。僕は不意に背筋が寒くなった。
「どうしたの?怖いのかしら」
「別に怖くなんてないです」
 僕は見栄を張った。
「わ!」
 奈々さんが、急に僕を突き飛ばすふりをした。
「おお」
 僕は少しのけぞってしまった。まんまとはめられて少し悔しかった。
「なんだ、やっぱり怖いんじゃない」
「勘弁してくださいよ、もう」
 いたずらが過ぎると思った。
「純君、頼りないわね。本当だったら、私を守ってくれるくらいじゃないとね」
「あの、こんなことをするために僕をここに連れてきたんですか?」
「まさか。純君に見せたいものがあったのよ。まあ、絶対に見られるという保証はないんだけどね」
 それから、奈々さんは持ってきたレジ袋の中に手を差し入れた。
「じゃあ、水面を良く見ていてね」
 奈々さんが海中に小石を投げ込むと、海中のあちらこちらに小さな光が現れてすぐに消えた。まるで海の中に蛍がいるようだった。
「何ですか?今のは」
 思わず僕は尋ねた。
「夜光虫よ。もう一度やるから、よく見ておいてね」
 奈々さんは、改めてレジ袋から小石を取り出すと、それをまた海に投げ込んだ。同じように小さな光があちこちに現れた。
「夜光虫はね。振動に反応するの。だから、こうやって小石を投げ込んだりすると光るのよ」
 奈々さんが更に小石を放り込むと夜光虫がそれに応えた。
「私ね、カヌーのインストラクターさんに聞いたんだけど、夜、ボルネオの森の中の川をカヌーで漕いでゆくと、上にも横にも下にも、光るものがあるんですって」
 不思議な話だと思った。
「どういうことですか」
「空には星、森には蛍、水中には夜光虫。そんな景色いつか見てみたいわ」
 奈々さんは、そんな光景を頭の中で思い描いているようだったが、僕はつまらないことを言ってしまった。
「僕には無理かな」
「どうして?」
「英語の通じない所と、水道水の飲めないところには行きたくないんです」
 奈々さんは、僕の言葉に呆れるのを通り越して怒ってさえいるようだった。
「そんなふうに夢を壊すみたいなこと言わないでほしかったな。嘘でもいいから、『いつか僕が連れて行ってあげます』ぐらいの台詞が聞きたかったのに」
 それから、奈々さんは残りの小石を次々と海中に投げ入れた。その度に淡い光が現れたが、小石が尽きると、それも絶えた。
 
 最後の光が海中から消えてしばらくすると、奈々さんが質問を向けてきた。
「ところで純君、星は好きかしら?」
「好きですけど、東京では、ほとんど見られませんよね」
「そうね、でも、ここだとよく見れるのよ」
「そうでしょうね」
 僕が想像した西桟橋から見る星空の様子を奈々さんが話してくれた。
「夏はね、昼間みたいにブルーシートを持ってきて、この桟橋の上に寝転んで星を見るの。ちょうどこの上に天の川が見えるわ」
「天の川、見てみたいですね」
 僕には天の川をきちんと見た記憶がなかった。
「そう、じゃあ、夏にまた来るといいわ」
「はい、必ず来ます」
 僕は、勝手に奈々さんと共に桟橋の上で寝転んで天の川を見るつもりになっていた。
「でも、冬の方が空気が澄んでいて、星は見えやすいんじゃないんですか」
 僕は素朴な疑問を奈々さんにぶつけた。
「純君も知っているわよね。地球は平べったい銀河系の端の方にあるのは」
「はい、知っています」
「夏はね、地球からは銀河系の中心の方が見えるの。中心の方向には星が密集しているから天の川が綺麗に見える訳。冬は、反対に銀河系の外側の方が見えるんだけど、そちら側は星がまばらにしかないから天の川は見えにくいんだって」
「詳しいんですね」
「全部お客さんの受け売りよ」
「でも、なんかすごくためになりました」
「そう。あと八月はね、流れ星も多いのよ。五分も見ていれば見つかるわ。願い事を言っている間なんかないけどね」
 奈々さんの口調は少し悲しげだった。
「夏に来たら、一緒に天の川が見られますよね」
「さあ、どうかしらね」
 奈々さんの声にはあまり元気がなかった。
「僕、頑張ってバイトして夏にもまた来ます。あ、その前に春にも来ます」
「なんかやっと少し、前向きな言葉が出てきたわね。でも、勉強も疎かにしないでね」
 最後の一言を聞いて僕は思った。
「奈々さん、なんかやっぱり・・・」
 僕は言いかけてやめた。真っ暗な海に突き落とされそうな気がしたからだ。
「そろそろ帰りましょうか」
 奈々さんは、再び懐中電灯のスイッチを入れると来た道を引き返した。僕も黙ってそれに続いた。

 桟橋の袂から短い坂を上ると、人の世に帰って来たような気がした。お墓の脇を通り過ぎたあたりで奈々さんが立ち止まった。
「純君、懐中電灯消してみて」
 奈々さんに言われたとおりにすると、途端に闇が再び濃くなった。
「草むらの中を見てごらんなさい」
 僕は道の脇によって草むらに目を凝らした。そこでは、よく注意して見ないと気づかないくらい小さな白い光がいくつか点滅を繰り返していた。
「見えた?蛍」
「はい、僕、初めて見ました。でも蛍ってもっと大きいものかと思ってました。それに飛ばないんですね」
「私も飛ぶのは見たことないわ」
 ふと疑問がわいた。
「ところで、竹富には川はないですよね。蛍はどうやって暮らしているんですか」
「これもお客さんの受け売りなんだけど、日本の蛍の九十パーセントは、生まれてから死ぬまで陸で暮らしているんだって。源氏蛍や平家蛍が有名だから、日本人のほとんどは蛍の幼虫はみんな川で暮らしていると思い込んでいるらしいってお話だったわ」
「なるほど、そうだったんですか。」
「じゃあ、戻りましょうか」
 道の先方に向き直って、奈々さんが懐中電灯のスイッチを入れようとした時だった。右側の草むらか一匹の蛍が飛び立った。蛍はどこか危なげな動きで道を横切ると道路の左側に消えていった。
「飛んだね」
 奈々さんがつぶやいた。
「はい、飛びました」
「私、初めて見たわ」
「僕も、なんか、感動しました」
 蛍が飛ぶのを見た。世の中で起こっている様々なことと比べれば、取るに足りない些細な出来事だったが、それを奈々さんと一緒に見ることができたことが、僕はすごく嬉しかった。小さな秘密を奈々さんと共有できたような気がした。

 予期せぬ事件は、その少し後に起こった。周回道路を横切り、まだ営業していた「ゆうひ食堂」の入り口に差し掛かった時だった。僕の右側を歩いていた奈々さんが、何かにつまづいて転びそうになった。とっさに僕は左腕で奈々さんを抱きとめた。
「ありがとう」
 そう言った奈々さんの顔が、僕の顔の間近にあった。僕は不意に奈々さんにキスしたいという気持ちに襲われた。もし、あと十秒その状態が続いていたら、僕は奈々さんにキスをしていただろう。しかし思わぬ事態により、それは解消した。
 一人の男が食堂から出てきたのだ。年は三十くらいだろうか、坊主頭でがっしりとした体格をしていた。如何にも島の男という印象だった。男は僕たちに気づくと声を荒げた。
「なんだ、奈々じゃねえか。お前、島中の男をコケにしておいて、そんなガキといちゃついてるとは、一体どういうつもりだ」
 男は足をふらつかせながら、僕たちの方に向かってきた。かなり酔っているようだった。
「この子は私の従兄弟よ。それに、私は人をコケにした覚えなんてないわ」
 奈々さんの言葉は火に油を注いでしまったようだった。
「なんだと」
 男は、よろけた足取りで奈々さんに詰め寄ろうとした。その瞬間、僕は反射的に男の前に立ちはだかっていた。
「奈々さんに何をするつもりですか」
「何だ、このクソ餓鬼」
  男は僕に迫ってくると、両手で僕の両肩を掴み僕を左側になぎ倒した。僕の体はみごとに地面で一回転してしまった。地面に倒れた僕に更に蹴りでも入れようとしたのか、男がもう一度僕に迫ろうとした時、奈々さんが僕と男の間に割って入った。その姿に腕棒を演じる奈々さんの姿が重なった。
「この子はね、のむら荘のお客さんでもあるのよ。うちのお客さんに怪我でもさせたらオジイが黙っちゃいないわよ。あんた、島にいられなくなるわよ」
 奈々さんは声には相手を圧倒する勢いがあった。
 男は苦々しい表情を浮かべ、捨て台詞を吐いた。
「お前、綺麗な顔してるくせに、汚ねえ手を使いやがるな」
 そう言い捨てて、男はふらふらと集落の中心の方に消えていった。
「大丈夫?」
 奈々さんが、倒れたままの僕に手を差し出した。その手を取って僕は立ち上がった。
「すみません。奈々さんを助けるつもりで逆に助けられちゃった。なんか、すごくかっこ悪いですよね」
 本当に情けないと思った。
「そんなことないよ。あんなゴツイ男に立ち向かったんだから、かっこ良かったよ。
弱そうに見えるけど、いざとなると純君、強いんだね。見直したわ」
 そう言われても、何の慰めにもならなかった。
「奈々さんの方が強いじゃないですか。ゲームに出てくる女性格闘家みたいに見えました」
「私は強くなんかないわよ。うちのオジイ、ああ見えて実は島の実力者なのよ。そのことをちょっと利用しただけよ。『虎の威を借る女狐』なんて思ったんじゃないの、あいつ」
 ただの狐ではなく女狐と変えるあたりに奈々さんの教養の高さを感じた。
「奈々さん、うまいこと言いますね」
「そう、純君みたいなエリートに言われると嬉しいわね。さあ、帰りましょう」
「はい」

 宿に戻ると、シャコ貝のランプも、すでにスイッチが切られていた。
「ああ、もう消灯の時間過ぎちゃったね」
 奈々さんの言葉は、僕を寂しい気分にさせた。夜が終わるのがあまりにも惜しかった。そんなことを思っていた時、僕は、ふと庭に漂う甘い香りに気づいた。
「なんか良い香りがしますね」
 つぶやいた僕の言葉に奈々が答えてくれた。
「ああ、これね。ヤコウボクの香りよ」
 ヤコウボク、聞いたことのない単語だった。
「ヤコウボクって何ですか」
「『夜香る木』って書いて夜香木。純君、こっちに来てごらん」
 奈々さんは手招きして、僕を談話スペースとは反対側の壁のほうに連れて行った。奈々さんと肩を並べて木の前に立つと、甘い香りが強くなったような気がした。
「これが夜香木。小さな白い花がついてるでしょ。これが香りの元。でも、花は一夜限りで、明日になったらみんな散ってるわ。なんか儚いよね」
 夜香木の香りに包まれた奈々さんの横顔を僕は見つめた。一夜限りの花の香りは僕の心をざわつかせた。奈々さんの肩を抱き寄せたいという強い衝動に駆られた。そして、乳飲み子のように奈々さんの胸にすがりたいという欲望が頭をもたげた。しかし、僕は、心を惑わせる花の香りに、かろうじて耐え切った。そして、僕は当たり障りのない台詞を口にした。
「今日は、奈々さんとたくさんお話ができて楽しかったです。今日が終わっちゃうのって、なんか寂しいですね」
 そう言うと奈々さんに名前を呼ばれた。
「純君」
 奈々さんは僕の方を向いて、まっすぐに僕を見つめていた。
「君、本当に話したいこと、まだ何も話していないんじゃない」
「え?」
 僕は心の中を見抜かれた気がした。
「君、十六歳でしょ。まだ子供なんだよ。私はもう、立派な大人。だから、もっと甘えてもいいんだよ」
「甘えてもいいって?」
 心臓の鼓動が一気に速くなった。
「溜まっているもの、全部、南の島に吐き出していっちゃいなさい」
 奈々さんが僕の手を取った。
「おいで、私の部屋に」
 奈々さんは僕の手を引いて歩き始めた。僕は、まるで母親に手を引かれて歩く幼子のように、されるがままに、奈々さんの部屋に連れて行かれた。
 それから、僕は夜明けまで奈々さんの部屋で過ごした。

 朝が来ると、奈々さんは、それまでのことが嘘だったみたいに、ただの宿のスタッフに戻っていた。朝食をテーブルに並べているところを見たきりで、その後、一切、奈々さんは僕の前に姿を現さなかった。
 仕方なく、僕は残された時間で、もう一度、島を巡ってみることにした。しかし、奈々さんと訪れたどの場所も、一人で行くと寂しさが募るばかりだった。
 
 午後、いよいよ、のむら荘を発つ時間になった。僕は談話スペースで車が来るのを待っていた。義男さんが車を門の前に付けて僕を呼んだ。
「山崎さん、じゃあ行きましょうか」
 すると、食道がある建物の裏手に続くドアの向こうから、急いで駆けてくる足音が聞こえた。ドアを開けて出てきたのは奈々さんだった。
「義男さん、私が行きます」
「そうかい、じゃあ、よろしく。山崎さん、また来てくださいね」
「はい、必ず来ます。お父様にもよろしくお伝えください」
「はい。では、お気をつけて」
 義男さんは、そう言うと裏手に続くドアの向こうに去っていった。
「行きましょうか」
 奈々さんが僕に声を掛けた。
「はい」
 僕はリュックを肩に掛けて車の後部に回った。奈々さんがハッチを開けてくれ、僕は荷台に自分のリュックを置いた。なぜか、そこには奈々さんの三線のケースも置かれていた。
 奈々さんは、一昨日とは違って、二列目ではなく、助手席のドアを開けていた。僕が乗り込むと、奈々さんは運転席に回ってエンジンを掛けた。車が動き出すと、たまらなく切ない思いがこみ上げてきた。陳腐極まりない表現だが、正に夢のような二泊三日だった。そして、僕は不快極まりない現実に戻ろうとしていた。
 車はスンマシャーを通り過ぎた。そして、昨夜、島の男と対峙した食堂の前もあっさりすり抜けた。外周道路との交差点を右に曲がり、車は一路、港に向かった。
 不意に、奈々さんが昨日の奈々さんに戻った。
「約束だからね。帰ったら必ず、ご両親と担任の先生に相談するのよ。絶対になんとかなるから」
 奈々さんの口調は強かった。
「はい、必ず相談します」
 僕は、そう答えるしかなかった。
「すぐは解決しないかも知れないけど、来年度も同じクラスっていうのは絶対ないから、最悪でも、あと三ヶ月足らずの辛抱だから頑張るのよ」
「はい、頑張ります」
 奈々さんは更に僕を鼓舞した。
「純君は、昨夜、あんな怖そうな奴に立ち向かえたんだから、本当は強いんだよ。必ず何とかなるわ」
「はい、なんとかやってみます。」
 そう答えた後で、僕は気になっていたことを聞いてみた。
「奈々さんは、どうして僕にここまでしてくれたんですか」
 答えが返ってくるまで少し時間が掛かった。
「純君が、寂しそうな目をしていたから。船から降りてきた時から、純君は寂しそうな目をしていた。私の弟もね、同じような目をしていたの。気づいいてたのに、私は弟を助けられなかった。助けられなければいけない立場にいたのにね。だから、なんとなく、純君のことを放っておけなかったの」
 奈々さんは、もう生まれ変わらなければ弟さんに会えないのだと僕は悟った。そして、生まれ変わっても弟さんに合わせる顔がないと思っているだろうことも。だから、奈々さんは猫になりたかったのだ。多くの人が共感できるラブストーリーの歌詞の中に、奈々さんは自分にしか分からない悲しみを忍ばせていたのだと、僕はようやく気づいた。
 そのあと、すぐに車は港に着いてしまった。
 
 奈々さんは車を桟橋のすぐ近くに止めると後部のハッチを開けた。僕も車から降りて後ろに回った。
「じゃあ、元気でね」
 奈々さんが僕のリュックを取り出した。僕はそれを背中に担いだ。とうとう、別れの時が来てしまった。しかし、もちろん僕は、それきりで終わらせるつもりなどなかった。
「奈々さん、携帯の番号教えてくれませんか」
 僕の言葉に答える奈々さんの声は小さかった。
「教えない」
 奈々さんは少し悲しそうな顔をしたように見えた。
「どうして教えてくれないんですか?」
「純君、君はね、私のことなんて追いかけちゃダメよ」
 少し俯いて、奈々さんはその先を続けた。
「私のことは、南の島の綺麗な思い出にしておいて」
 納得のいかない話だった。
「そんなの嫌です。僕、また、すぐに会いに来ますよ」
  僕の必死の叫びは、あっさりと奈々さんにかわされた。
「無駄よ。私たちは今日でお別れ。私ね、八重山を卒業することにしたの。ずっと迷っていたんだけど、純君に会って、はっきりと分かったの。私が生きるべき場所は、やっぱりここじゃないって」
「そんな、そんなの悲しすぎますよ」
 僕も、奈々さんにとって何者かになれたとは思えても、悲しみが薄まるものではなかった。
「純君の気持ちには応えてあげられないけど・・」
 奈々さんは言いかけて、荷台から三線のケースを取り出すと、それを僕の目の前に掲げて見せた。
「代わりにこれをあげるわ」
「もらえませんよ。大切なものなんでしょう」
「いいのよ、そもそも、もらい物だし。私は、もう、八重山を卒業するんだから」
 奈々さんは真剣な表情でその後を続けた。
「純君には、これからもっと八重山を好きになって欲しい。三線も、もっと上手に弾けるようになって欲しいな。そして、いつか、純君が作った歌を他の人にも聴かせてあげて」
 奈々さんの願いが僕の胸に突き刺さった。しかし、僕には奈々さんの願いに応えられる自信がまるでなかった。
「そんな、僕には無理ですよ」
「そんなことはないわ。君には絶対に才能がある。私には分かるわ。君の未来はこれからなのよ、その気になれば何だってできるわ」
 奈々さんは、まっすぐに僕の目を見つめていた。その目が、早く受け取れと言っていた。僕は両手で奈々さんの三線を受け取った。
「でも、こんな別れ方って、ひどすぎますよ」
 奈々さんの表情が少し険しくなった。
「甘えていいっていったけど、それは昨日までよ」
「でも」
 僕が未練がましい言葉を吐くと、奈々さんの表情が更に険しくなった。
「山崎様、この度は、のむら荘をご利用いただき、どうもありがとうございました。またのご利用をお待ちしています」
 もう何も言うなという奈々さんの思いが痛いほど伝わってきた。
「これ、大切にします」
 僕が少しだけ三線のケースを持ち上げて見せると、奈々さんは寂しそうに笑った。
 その後、奈々さんは荒っぽくハッチを閉めた。運転席に乗り込むと乱暴に車をバックさせ、急発進して駐車場の出口に向かった。タイヤが軋むほどの急カーブで左に曲がると、あっという間に奈々さんの車は視界から消えた。

 その後、どうやって空港に着いたのか、僕には、ほとんど記憶が無かった。荷物を預ける前に、僕はベンチに座り、膝の上で三線のケースを開いてみた。奈々さんの香りがするような気がした。それから、宿の食堂で、庭で、そしてカイジ浜で、三線を弾く奈々さんの面影が浮かんだ。
 同時に、すぐにでも竹富に帰りたい、奈々さんに会いたいという気持ちが心の中で大きく渦を巻き始めた。僕はケースを閉じて、空港の出口に歩き出そうとした。
 その時、もう一人の僕が言った。
『それは奈々さんがしてくれたことへの裏切りだ。そんなお前を奈々さんは受け止めてはくれないぞ』
  その通りだった。
  僕は三線のケースを閉じ、それを両手で強く握り締めた。そして、歯を食いしばって、竹富に帰りたいという思いを無理やりねじ伏せた。
  その時、ケースの中の三線が、聴いたことのない沖縄風のメロディーを奏でたような気がした。しかし、それは僕の頭の中で生まれたメロディーが三線の音を求めただけなのだと、すぐに気が付いた。子供っぽいと言われた「夏のような日」を超える七文字の言葉が、自然にメロディーに重なった。歌が全てできたわけではなかった。しかし、全く手つかずだった三番の最後のフレーズが出来上がっていた。

 平成十九年一月二十日
 今はもう返らない
 幻の夏
 
 そこまで話したところで真澄が遠慮がちに言ってきた。
「とっても良いお話ね。私、泣きそうになっちゃった」
 姿は見えないが、真澄の目には涙が滲んでいるような気がした。
「ありがとう。長い話に付き合ってくれてありがとう」
 僕が素直に感謝していると、真澄が聞いてきた。
「ひとつ質問していい?」
「いいよ」
 何だろうかと思った。
「いじめは、どうなったの」
 てっきり奈々さんとのことを尋ねられると思った僕は少々拍子抜けをした。
「ああ、そうだね。そっちの話は、まだ、していなかったね。実は意外な展開になったんだ」
 僕は、その後の話を続けた。

 八重山から戻った次の朝、僕はいつも通りに学校に登校した。その日の放課後には担任の先生に相談に行くつもりだった。父には、すでにいじめのことは打ち明けていて、早々に三者面談をしてもらおうという話になっていた。しかし、事態は思わぬ方向に向かうことになった。

 その朝、僕が後ろのドアから教室に入ると、前の方にはただならぬ気配が漂っていた。最前列の席に座る祐子の机の前に、不動とその取り巻きが並んでいた。
「もう一度チャンスをやる。これさえ書けば昨日のことは忘れてやるよ」
 不動は、なにか薄くて四角いものを祐子に突きつけていた。
「いくらなんでも、私、そんなことまでしたくない」
 祐子は机に突っ伏した。
「お前もあいつと同じ目に合いたいのか。お前ら、もう別れたんだろ。だったら、いいじゃねえか」
 不動は更に迫った。
「そんなの関係ない。いくらなんでも、こんなのひど過ぎるよ」
 祐子は泣き出しそうだった。
 近づいてみると、四角いものの正体が分かった。それは色紙だった。そこには僕の冥福を祈るクラスメートの言葉が並んでいた。いわゆるお葬式ごっこという奴だった。
「さっさと書けって言ってんだよ」
 不動が更に迫った時、僕は自分でも予期せぬ行動に出ていた。僕は不動の前に立ち、彼の目を睨みつけていた。不思議と恐怖は感じなかった。
「なんだ山崎、とっくに自殺でもしたかと思ったから、こいつを用意してやったのに、怖くて死にそこなったか」
 不動が睨み返した。しかし僕は怯まなかった。
「こいつはありがたく頂戴しておくよ」
 僕は不動の手から色紙を取り上げた。
「証拠物件にもなるしね」
「なんだと」
「男の僕ならともかく、女の子にまでこんなことをして、みっともないと思わないのか」
「てめえ、喧嘩売るつもりか」
 不動の顔が紅潮した。
「まさか、君と喧嘩して勝てるなんて思ってないよ。僕は、ずっと我慢してきたけど、もう我慢するのは止めることにしたんだ。こんなことは今日限り止めてくれないかな。そうすれば、今日までのことは水に流すよ。でも、続けるならば、君は将来を棒にふることになるよ。僕の父は教育委員会に勤めていて、うちの副校長とはクラスメートだ。もし、こんなことを続けるならば、君はこの学校にいられなくなるよ」
 僕の言葉を受けて、不動の怒りが頂点に達した。
「嘘言ってんじゃねえよ」
 不動が右の拳を振り上げた瞬間、予想外のことが起こった。不動が一番親しくしている野上が不動の拳を両手で押さえていた。
「不動、もう止めようよ。お前だって本当は、もう止めたいんだろう。悪かった。本当は、俺が最初からお前を止めるべきだったんだ。でも、止めなかった。反省してるよ」
 意外な展開に、不動の目は焦点を失った。
 その野上の言葉に女子の学級委員の吉沢さんが反応した。吉沢さんは自席から立ち上がると不動の右肩に手を置いた。
「不動君、体育祭や球技大会の時のあなたは、とってもかっこ良かったよ。それに、君は立派なクラスのまとめ役でもあったじゃない。私、昔の君に戻って欲しいな。そして、私の好きだった一年二組を返してよ」
 不動は虚ろな目で周囲を見回した。そして、周囲の空気の変化に気づいたようだった。しかし、不動は、まだ、プライドを捨て切れなかった。
「お前ら、臭い青春ドラマみたいなこと言ってんじゃねえよ」
 吐き捨てると、不動は教室から出て行った。その日、不動は結局、教室には戻ってこなかった。

 一時間目が終わり、休み時間になると、祐子が僕の所にやってきた。
「山崎君、さっきはありがとう。山崎君が別の人になったみたいで驚いたけど、かっこ良かったよ」
「そんなことないよ。ちょっと人まねをしただけさ。『虎の威を借る女狐』って奴さ」
「ええ、どうして女狐?」
 裕子は不思議そうな顔をした。
「ああ、狐、狐だよね」
 裕子の反応を見て、僕は少し慌てた。
「でも、不動君をやりこめちゃうなんてすごいね」
 裕子が、今までと違う視線で僕を見ていているのに気付いた。でも、裕子の言っていることは的を得ていないと僕は思っていた。
「違うよ。不動を動かしたのは僕の脅しなんかじゃない。野上と吉沢さんの言葉だよ」
「そうかしら」
「ああ、間違いない」
 僕は本心でそう思っていた。
「山崎君は本当に優しいんだね。裏切った私のことまで助けてくれて」
 一瞬、僕は次の言葉に迷った。しかし、その後、言うべき言葉はきちんと言えた。
「そのことは、もう気にしないでいいよ。これからも、ずっと友だちでいてくれると嬉しいな」
「友だち・・・そうね」
 祐子は少し寂しそうに笑うと自分の席に戻っていった。

 翌日、不動は坊主頭で学校にやってきた。誰一人、理由を尋ねるものはいなかった。そして、僕へのいじめはぴたりと止んだ。
 その後、クラスは少しずつ元に戻り始めた。しかし、戻らないものもあった。僕と祐子が恋人同士に戻ることはなく、不動はいつまでも髪を伸ばそうとはしなかった。クラスで先頭に立とうとすることもなくなった。そのまま、クラスは三月の修了式を迎えた。

 その日、僕は日直だった。一人きりになった教室で日直日誌を書いている時だった。僕は自分の横に立つ人影に気づいた。不動だった。
「山崎、悪かったな」
 ぎこちなく言うと、不動は足早に出口に向かった。
「不動」
 僕が呼び止めると、不動は足を止めたが、振り向こうとはしなかった。
「不動、そろそろ髪を伸ばしたらどうだ。坊主頭、似合わないよ」
 顔は見えなかったが、不動が苦笑いをしたような気がした。
「お言葉に甘えて、そうさせてもらうよ。じゃあな」
 結局、振り向かないまま、不動は教室から出て行った。その日以来、不動も祐子も僕にとって過去の人になった。二年生になると、僕たち三人はそれぞれ別のクラスへと散っていった。

「もうひとつ聞いていい」
 いじめの話に区切りが着くと、真澄は次の質問を繰り出した。
「いいよ」
「奈々さんのことはきちんと思い出にできたの?」
「ああ、できたと思うよ。すぐにという訳にはいかなかったけどね。その後、ちゃんと何人かの女性と付き合ったよ。それぞれに、良い思いでがあるよ。残念ながら、みんな別れてしまって、今は一人だけどね」
 僕がそう言うと、少し間を置いてから真澄がリクエストをしてきた。
「ねえ、純さん、昨日の歌、もう一度聴かせてくれない?純さんの話を聞いたら、もう一度聴いてみたくなっちゃった。」
「いいよ」
 僕は三線をケースから取り出し、座布団の上に座ると糸を巻いた。そして、イントロを弾き始め、歌に入った。

 竹富の古い宿屋で会った君と共に
 島巡る自転車の旅始めた冬の朝
 赤瓦の古い家が並ぶ町並みを
 駆け抜けるT-シャツに降る
 夏色の日差し
 平成十九年一月二十日
 冬の日に訪れた幻の夏

 カイジ浜でほんの少し僕が探し当てて
 君の小さな掌に並べた星の砂
 様々な色に煌く珊瑚礁の海を
 飽きもせず君と見ていた
 冬の昼下がり
 平成十九年一月二十日
 波の上、蝶が舞う幻の夏

 三線の音色に合わせ君と歌った夜
 カチャアシー踊れば肌に微かに滲む汗
 夜香木の花が香る庭に舞い込んだ
 蛍火のように儚き
 束の間出会い
 平成十九年一月二十日
 今はもう返らない幻の夏

「本当に良い歌ね。」
 真澄が褒めてくれた。
「ありがとう」
 礼を言うと、真澄は僕の心の中を見透かしたように言ってきた。
「やっぱり奈々さんは、今も純さんの心の中にいるのね」
「そうだね。決して忘れることはないだろうね。でも、それはそれ。僕は他の女性を奈々さんと比べてみたりすることはないし、いつかまた、誰かのことを好きになりたいと思ってるよ」
 僕の言葉を、真澄は一体どんな表情で聞いているのだろうかと思っていたら、真澄が次の言葉を投げかけてきた。
「奈々さんも、完成したこの歌、聴きたかったでしょうね」
「どうかな、でも、もし聴かせたら、また、厳しい批評をされそうだな」
 僕の言葉を真澄は強く否定した。
「そんなことないよ。私だったら、聴いたらきっと泣いちゃうと思う」
「そうかな」
「そうよ。間違いない。いつか聴いてもらえるといいね」
「そうだね」
 僕は改めて手にした三線を見つめた。八重山を卒業して、奈々さんは今、どこで何をしているのだろうかと僕は思った。何をしているにしても、「自分が生きるべき場所」に戻って、きちんと生きていることを僕は疑っていなかった。
「もう一つ質問があるんだけど」
 真澄は少しためらっていたようだった。
「ええ、まだ質問があるの」
「うん、純さんは、奈々さんとの出会いは、ただの偶然だと思う?」
 僕にすれば、思いもよらぬ意外な質問だった。
「ああ、確かに奇跡みたいな出会いだったけど、別に運命だとか、そんな風に思ったことはないな」
 僕の答えに真澄は少し不満そうだった。
「そうかなあ。私は二人の出会いは、偶然にしてはできすぎているような気がするの」
「そんなことはないと思うけどな」
 真澄は相変わらず不満そうだった。
「純さんは、何か純さんを導く不思議な力みたいなものを感じたことはないの?」
「ないよ」
「えー。そうなの」
 呆れるように言った後、なぜか不満げな様子が消えて、真澄はどこか夢のような自説を持ち出してきた。
「私はね、奈々さんの弟さんが、二人を引き合わせてくれたような気がするの」
「ええ、それは考えすぎじゃないかな。僕はそんなことを感じたことはないよ」
 随分と突飛なことを考えるものだと思った。しかし、真澄は、まだ自説を捨てがたいようだった。
「じゃあ、純さんは、どうやって、のむら荘にたどり着いたの?」
「ネットの口コミだよ。なんとなく『安らぎ』という言葉に惹かれたような覚えはあるけど、どんな内容だったかよく覚えていないくらいだから、真澄さんの言うように何か特別なものに引き寄せられたとは思えないな」
「そうなんだ」
 真澄は、まだ、あきらめきれない口ぶりだった。
「うん、だから僕たちの出会いは奇跡的ではあっても、運命とか、導きとは無関係だと思うな」
 真澄は、僕の主張をまだ疑っていた。
「本当にそうなのかしら」
「そうだと思うよ」
「まあ、純さんがそう言うならば、そうなのかもしれないね。二人の出会いは素晴らしいものだったんだから、きっかけなんてどうでもいいことかもね」
 ようやく真澄も諦めたようだった。
「ああ。出会えたことが重要なんだから、それで良いと思うよ」
「そうね」
 自分を納得させるようにそう言ってから、真澄は、今夜はこれでお開きと伝えてきた。
「じゃあ、私、今日はこれで失礼させてもらうわ。明日も仕事だから」
「そう、じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 真澄の声はそこで途切れた。僕も、そろそろ眠ろうかと思った。

 布団に入ってから、僕は急に先ほどの真澄の言葉が気になり始めた。気になりだすと、上手く寝付けなかった。布団から起き上がると、パソコンの電源を入れ、ネットにつなぎ、八年前に見た宿の口コミを探した。僕を導いた何か特別なものがあるとしたら、その手がかりは、そこにしかないように思えた。口コミを探すのに、それほど時間は掛からなかった。口コミの内容はこうだった。
 
 のむら荘は、宿の人も、集まる旅人も、皆、心の優しい人ばかりです。
あなたの望む安らぎが、そこにあるでしょう。
 そして、あなたもまた、誰かの安らぎになることでしょう。

 食事やゆんたくで、暖かい交流が生まれる。今も変わらないのむら荘の雰囲気をよく伝える文章だった。その詩的な表現には多くの旅人を惹けつけそうな美しさがあったが、僕にだけ強く何かを訴えているようには思えなかった。
 やはり、真澄の勘違いだろうと思った時、口コミにリンクが貼ってあることに気づいた。クリックしてみると、口コミの投稿者のものと思われるブログにつながった。しかし、最新の記事は口コミよりも三年も前のもので、しかもブログの閉鎖を告知する内容だった。口コミの投稿者は、どうして三年も前に閉鎖したブログへのリンクを貼ったのか、僕にはその意図が分からなかった。僕は改めて閉鎖の告知を読み直してみた。

 -ブログ閉鎖のご案内-
 この度、一身上の都合でブログを閉鎖することになりました。今日まで僕の拙い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。僕は今日、この場所を去りますが、皆様の末永い健康をお祈り致しております。

 読み返してみると、遺書めいた文章だと思った。そして心に波が立った。
 僕は恐る恐る、その前の記事を開いてみた。その途端、全てが明らかになった。

 記事の見出しは「姉とカイジ浜へ」
 
 記事の冒頭には、ツーショットの写真が貼られていた。見覚えのある流木に高校生ぐらいの少年が座っていた。彼は、その手に三線を抱えていた。そして、彼の右隣には、僕が知っているよりも少し若い奈々さんが座っていた。