あなたを追って、その先で

 学校から歩いて30分ほどだろうか。僕は家に着いていた。

 なにも帰りたいと思ってこんな場所にわざわざ戻ってきたわけじゃない。

 僕は少し躊躇いながらも扉の鍵を開けて、自分の部屋に急いで向かう。

 階段を上がりきって向かって左のその部屋は、机とベット以外の何もなく、悲しいほど何も置かれておらず、もの寂しいというよりは、空間そのものが別離している感覚に陥る。

 歩くたびに鳴るフローリングの音を聞きながら机に置いてある万年筆を持った。

 それを持っていたハンカチで包んで、空っぽの学生鞄に入れる。

 これ以外にここにいる意味など無い。

 僕はポケットに入れられた、目新しいスマホを机に置く。

 なんとなく、そうしたかった。今思えば、あなたから連絡が来るかもしれないのに、ここで手放すのはリスクが高すぎたようにも思う。

 そそくさと家を出て、肩にかけた鞄を力強く握って。

 ふと、郵便受けが視界に入った。その中に、何かがあるのだ。

 僕は躊躇わずにそれを取る。何かの封筒のようで、差し出し先は、この地よりずっと北部だ。

 封を開け、目に映すと、唖然とした。

 あなたの筆跡がある。

 それは今までの詩だった。紛れもなくあの日々を共に過ごした、あの時間があった。

 何十枚かの紙。その中に、僕が見たことのない詩があった。

 題名はいつも通り無い。ただ、それはいつもの詩以上に、日記のようにも見えた。

 そうだ。僕の行ったことのない場所が書いてある。

 知らないカフェ。古通り。僕は見たくないものを見たような気持になりながら鞄の中に慎重に紙を入れる。

 より決心した。僕は、行かなければならない。

 あなたの、あなたが、あなたと……

 あなたに会いたいんだ。

 *

 ゆっくりと電車が走る。いつかあなたと乗ったこの電車は、また同じようにふざけた快晴であり続ける。

 ひとつ、紙を取り出した。古い紙で、昔の湿気のせいか酷く脆く書きづらい。

 あの日、あの時のあなたのように足を組んで筆を走らせる。

 書いているのは、日記である。あなたの残された全てのように真似をした。

 また会った時、あなたに全部を伝えるのは難しいだろうから。

 褪せないように、色をつけ続けるのだ。

 ふと、筆が止まる。目の先に、鞄から滑り落ちたあなたの日記が舞う。

 拾い上げて、筆をしまって、それとなく読んでみた。

 何も変わることがないのに、見たことがあるのに、それをじっと見つめる。

 列車が走るのをやめない内に、それを読みながら思い出している。

 そうだ、この日は確かにあなたが僕にカフェに連れて行ってくれた初めての日だ。

 記憶の輪郭を整えていく。その度、あなたの顔や声が揺らめいている。

 もうすぐあなたは消えてしまう。ゆっくり思い出しながらそんな風に想像した。

 瞼の裏に、あなたと向かい合って座った窓際の席を映し出す。

 その日は確か、突然電話をあなたがかけて、カフェに行こうと誘ってくれたんだ。

 僕は緊張してぎこちない歩き方になっていただろう。だからあなたは少しだけ笑ったんだ。

 いざメニューを開いたところで何が良いのか、なんて分かるはずなくて目に入ったカプチーノを頼んだ。

 あなたはそんな僕を見て、感心したように唸ってから同じようにカプチーノを頼んで。

 あなたは詩を書きながら、目を見ずに僕に言う。

「ここのおすすめはカプチーノなんだ」と。

「たまたま選べたってこと?」と僕が聞く。

「そうだ。だからびっくりしたよ」とあなたは言う。

 図らずともお揃いという状況に、僕は少し頬を緩めた。

 あなたも少しは喜んでくれていただろうか。

 変わらず筆は走り続ける。僕の靄がかった心なんて知りもしないで。

 肘をついたまま、あなたは手を止めることはない。僕はあなたを囲む背景を見ている。

 それは心が震えるような小さく薫る珈琲の匂い。体を包むように鼻腔を刺激している。

 それは窓から差し込んだ斜陽のように。

 それは鳥の囀りさえかき消すような陽だまりの真ん中で。

 僕とあなたは、ここにいる。いつもはどこか朧げに映ったあなたでさえ、今ははっきり見える。

 僕にとってこの場所は、そんな特別な場所だった。

 気づけば机の上には空っぽのティーカップとこの万年筆が置かれている。

 あなたは外を見ている。それは古い記憶故の美化なのか、それとも。

 僕にはどうしても。最後の別れ人の姿を見ているように感じた。

 電車が、止まった。

 終点を告げるアナウンス、空気が流れ出るように開いたドア。

 降りたのは僕1人だった。

 次に乗る電車は30分で来る。ホームのベンチは冷たいのに、なんとなく安心する。

 足を組んで、また紙を取り出す。これは多分、さっきの少し後。ちょうどあなたと初めて下校した日だ。

 あの日は夕立が降っていた。