自分のテリトリーを侵されることは、僕にとって呼吸を止められるのと同じだ。
完璧に引いた境界線の内側だけが、僕がパニックを起こさずにいられる唯一の場所。そうやって一人でいれば、親に期待されることもなければ、失望させることもない。
二度と同じ過ちを繰り返さないために、新しい学校では透明人間になるつもりだった。それなのに。
「お、転入生?」
寮の部屋の扉を開けた途端、上半身裸、パンツ一枚の男が歯ブラシをくわえて、頭をポリポリと掻きながら、洗面所から現れた。
直視してはいけない。
そう本能が告げているのに、無駄に整った顔立ちや、健康的な肌に完璧に割れた腹筋、長い手足が、否応なしに僕の網膜に焼き付いてくる。
にこやかに細められた目が印象的な、破壊力抜群のイケメンだった。
頭がフリーズした。
なぜ半裸? なぜパンツだけ? 人の部屋で?
ここは今日から僕の部屋で——あれ、僕部屋間違えた?
いや、鍵は開いたからここで合っている。
じゃあ、この半裸のイケメンは? まさか。
「俺、同室の月城航。高校二年生で同級生。よろしくな」
相部屋。
脳内で、その言葉がぐちゃぐちゃにこだました。
入学案内には、学生寮は「原則二人部屋」と小さく書いてあった気がする。編入試験のときは何も説明されなかったので、完全個室だと勝手に思い込んでいた。
楽観的に考えていた過去の自分を、今すぐ呪い殺したい。
僕が硬直している間に、同室の彼――月城くんは僕の荷物を「重かっただろ〜」なんて言いながら、いつのまにかテキパキと部屋の中へ運び入れてくれた。
そして、爽やかな笑顔で右手を差し出してきた。
身長は僕より頭ひとつ分ほど高くて、何かスポーツでもやっているのか肩幅も広い。顔が小さくてスタイルがいいので、制服姿ならモデルみたいにカッコよく見えるだろう。パンツ一枚のせいですべて台無しだけれど。
いや、そんなことより。
一番の問題は、今、彼と僕との物理的距離が、何故か約三十センチくらいしかないことだ。近い、近すぎる。
僕は彼の右手から逃れるように、反射的に一歩後ずさって目を背けた。
キラキラオーラを纏った陽キャの脅威レベルがカンストしている。パンツ一枚しか履いてないのに。
グラウンドの真ん中で失敗し、クラスメイトの視線が突き刺さった、あの最悪な記憶の残滓が脳裏をよぎる。
もう二度と、誰かと手をつなぐなんてことはしたくない。
「白倉湊、です。よろしく、お願いします」
差し出された手は無視して、僕は俯いた。他人とのつながりが怖すぎる。
月城くんは特に気にした様子もなく、「よろしく!」と明るく返して、僕の肩をポンと叩いた。その気軽なスキンシップが、また僕の心臓を跳ねさせる。やっぱり、彼は僕とは別の生き物だ。
「で、ベッドと机な。俺今まで一人だったから、適当に使ってたけど、左右どっちがいい?」
パンツ一枚で歯ブラシを口にくわえたまま、月城くんはベッドを親指で示す。
室内は、二人部屋だというのに仕切りが全くない。
部屋の中央に壁もカーテンもなく、左右対称にベッドと机が無遠慮に並べられているだけだった。
視線を遮るものは何もない。逃げ場がない、恐ろしい空間設計に眩暈がしそうだ。
「あ、じゃあ……右のほうで」
「了解」
ニコッと微笑んだ月城くんの笑顔は、太陽のように輝いている。だけど今の僕にとっては凶器に等しい。
「俺、昨日の夜ゲームやりすぎて、共同風呂に入り損ねて寝落ちしてさあ。ついさっきまで部屋のシャワー浴びてたから、こんな格好でごめんな?」
どうやら、月城くんは普段からパンツ一枚で過ごしている裸族ではないようだ。よかった。
僕がほっとして一瞬だけ気を抜いてしまった、そのときだった。
「なぁなぁ、湊って呼んでいいか? 俺のことも『コウ』でいいからさ」
「ッ……!」
突然腕をつかまれて、名前呼びの許可を求められた。喉の奥で息がつまる。出会ってからまだ三十分も経っていないのに、この親密すぎる距離感はどういうことだ。
心の準備が全くできていないのに、そんなのお構いなしにいきなりこちらの領域に入り込んで来ようとする。
多分これが陽キャ人間様の普通の距離感なのだろう。むりむりむり。
僕は腕を引っ込めようとしたけど、意外にも月城くんの手は力強くて離れない。
断った後、腕を折られたりしないよな?
おそるおそる顔を上げると、期待に満ちた黒曜石のような瞳と視線がぶつかった。犬だったらしっぽを全力で振ってる感じだ。陽キャ系大型犬……?
あれ、これ断ったらしょんぼりして落ち込んじゃうパターンじゃないか? それはそれで罪悪感がすごくて、多分僕は耐えられない。
……諦めるしかない。僕は小さく頷いた。
「う、うん……いいよ」
「サンキュ! なんか他人とは思えないっていうか、仲良くなれそうな気がするんだよな。よろしくな、湊」
屈託のない笑顔を向けられて、僕の思考回路がショート寸前になる。会話の内容を理解する余裕もない。
多分、月城くんは悪い奴ではないのだ。ただ、光の量が多すぎて、眩しすぎるだけで。
そのあと、月城くんはドライヤーで髪を乾かしながら、ペラペラとしゃべり続けた。
五人兄弟の長男で、弟たちの世話をよくしていたこと、自分の好きなゲームのこと、サッカー部に所属していて運動は比較的得意なこと、体育祭が近いのに、クラスの種目決めがまだ済んでいないことなど、僕の知らないキラキラした世界の話を。
荷解きを手伝うと善意百パーセントのオーラで言い出した月城くんの申し出を丁重にお断りするのに、さらに体力と精神力を使った。
他人に自分の物を触って欲しくない、自分の領域を侵されたくない。それは僕にとって生理的な嫌悪感に近いものだった。
もちろん正直にそれを伝えるような度胸はないので、「迷惑になるから自分でやります」とペコペコ繰り返すだけで終わった。
「湊も大変だよな、親の都合でこんな時期に転校なんてさ。しかも寮暮らしなんて、慣れるの大変だろ?」
「……まあ、そうだね」
僕は努めて淡々と返した。
親が海外赴任になり、急遽転校して寮生活をすることになったという僕の事情は、学園から聞いているのだろう。別に嘘ではない。
本当の事情は、単なるルームメイトに言う必要はない。
「なんか困ったことがあったら、遠慮なく言えよな。なんでも相談にのるから」
「ありがとう……」
光属性の君と今こうして同じ空間にいることが、最大の問題なんだとは口が裂けても言えない。彼の善意は、鋭利な刃物のように僕の心に突き刺さる。
痛みと疲労が蓄積していくのを感じながら、僕は黙々と少ない荷物を棚に押し込んでいった。
本を並べるだけの簡単な作業なのに、気が遠くなるほど時間がかかる。月城くんが動くたびに起こる衣擦れの音や、視線や足音がいちいち気になって、集中できない。
こんな状態で僕はこの先大丈夫なのか?
「あ、そういえば今日の夕飯、何時頃に行く? 食堂初めてだから一緒に行くだろ?」
ガタン、と音を立てて月城くんがベッドに腰掛けた。当たり前のように一緒に行くことになっている。
その声はまるで友達に語りかけるように軽やかで、僕を一方的な好意で包み込もうとしてくる。
「あー……っと」
咄嗟に断る理由を探したけれど、疲労で思考がまとまらない。一人で食べる方がマシだけど、月城くんの笑顔が曇るのが怖い。
断ったら、きっと彼を傷つけてしまう。自分が弱い。小心者の僕は、いつの間にか「うん」と頷いてしまっていた。
胃がキリキリと痛む。
***
時刻は午後六時過ぎ。
僕は笑顔の月城くんに引きずられるようにして、食堂へ辿り着いた。
ここに来る途中、何度も声をかけられた。
「航!」「お! 転入生の子と一緒?」「今日のメニュー見た?」
月城くんはその全てに快活に応じていた。彼は間違いなく、学園でトップクラスの人気者なのだろう。もしかしたら友だちが百人いるのかもしれない。
その光の輪の中に、僕は強制的に組み込まれようとしている。透明人間になるという僕の計画は、初日にして早くも瓦解の危機を迎えていた。
最悪な人物のルームメイトになってしまったものだ。
「ほら、湊。好きなの選べよ。今日の日替わりはハンバーグだって。俺は肉食うぜ」
「あ、うん」
食堂のおばちゃんたちに笑顔で挨拶しながらトレーを持つ月城くんの後ろを、俯き加減でついていく。列に並ぶ間も、他の生徒の興味本位な視線がチクチクと刺さってくる気がした。
人気者の後ろを、コバンザメのようにウロチョロしている奴が、何者かみんな気になるのだろう。
大丈夫。無害な存在として見られるだけだ。意識を閉ざせ。
なんとか料理を受け取り、月城くんに連れられて席につく。向かい合って座っている状態になる。
しまった。正面から来る光の圧が凄い。もう手遅れだけど。
「いただきます」
大きな声ではっきりと挨拶し、月城くんは箸を取る。箸の持ち方や食事の所作は意外にも洗練されていて、実は育ちがいいのかもしれない。
僕も小さく手を合わせて食べ始めた。しかし、緊張で味がわからない。目の前の皿にあるものがどんな色をしているのかも、認識できないほど頭が麻痺している。
「なあ、君。コイツと同室で大丈夫そうか? 部屋汚えし、かなり無神経だろ?」
話しかけられて顔を上げれば、すぐ隣に見知らぬ男子生徒が座ってきた。首を傾げていると、月城くんは軽く舌打ちをして文句を言った。
「無神経って失礼だな。俺は人当たりが良いんだよ」
「自分で言うなよ。人付き合いが苦手なタイプだったら、航みたいな図々しい奴は天敵だろ」
佐々木くんがサラッと言った言葉に、心の中で、大きく首を縦に振る。
天敵どころか、一方的に食い荒らされる捕食関係だ。
「んなことねぇよな」
月城くんが即座に否定して同意を求めてくる。僕の返事を待たずに、二人の会話は続いていく。
「あぁ、ごめん。自己紹介してなかった。俺は佐々木響、航とは小学生からの付き合い。よろしくな」
眼鏡をかけた、月城くんと比べると線の細い男子生徒が微笑んだ。口調は穏やかだけど、どことなく皮肉っぽい雰囲気がある。
「……白倉湊です」
曖昧に頷けば、佐々木くんはすぐに月城くんの方へ向き直り、また二人で話し始めた。僕の知らないところで、僕の情報がやり取りされている。
その居心地の悪さに、ますます身体を縮こませた。
「湊、お前細いから、もっと肉食えよ」
僕の前に座った月城くんが、自分のお皿から一番いいお肉をひょいっと僕のお皿に勝手に放り込む。
「え? あ、いいよ!」
僕は慌てて境界線を張ろうとしたけど、月城くんはそれを華麗に無視して、「いいから食え。美味いぞー」と僕の頭を撫でんばかりの満面の笑顔を向けてくる。
多分、本人は親切心のつもりなのだろうけど。
「航、無理強いするなって」
「だってよ、見た感じガリガリじゃん。食わせないと心配になる」
僕はお肉が追加された自分のお皿を見て、茫然としていた。一言モノ申したかったけど、ルームメイトとの関係を悪化させたくなくて、そのまま口を噤んでしまった。
なんだか箸を動かすことすら億劫になってきた。
結局、ほとんど味のしないご飯を無理やり飲み込み、月城くんと佐々木くんの話を聞き流しながら、長い食事の時間をやり過ごした。
食後、月城くんはお風呂に行こうと誘ってきたけど、全力で拒否した。
共同浴場なんて絶対に無理だ。人前で素肌を晒して、見知らぬ人と同じ湯につかるなんて、想像しただけで震えが走る。
部屋に備え付けのシャワーで充分だ。
「そっか? じゃあ、今日は俺も部屋のシャワーにするかな」
「え?」
「いや。湊一人にすると、何かあっても気づかないし。心配だから」
「…………」
僕はどんなお子様だと思われているのだろうか。ため息をのみ込み、苦笑いした。
月城くんは下に弟たちがいると言ってたから、本当に世話焼きなんだろう。兄弟のいない僕はこういう扱いが初めてなので、いちいち戸惑ってしまう。
「航、あんまり構いすぎるなよ。過干渉もいいところだぞ」
戸惑っているのが表情に出ていたのか、見かねた佐々木くんが助け舟を出してくれた。
月城くんはハッと気づいた様子で、困惑した表情を見せた。
「あー、悪い。湊ってハルと雰囲気似てたから、なんか放っておけなくて。ごめん、湊。気をつけるよ」
ずっと笑顔で表情豊かだった月城くんが、『ハル』の名前を口にしたとき、一瞬だけ痛みを堪えるような翳りを見せた。その瞳に宿ったのは、隠しようのない喪失感。
だけど次の瞬間には元の朗らかな表情に戻っていて、それが少し不自然に思えた。もしかしたら、彼にも何か抱えているものがあるのかもしれない。
誰だって話したくないことくらいあるだろうから、問い詰めるつもりはないけど、もしかして昔付き合ってた恋人とかなんだろうか? 僕をその身代わりとしてみてるってこと? もし仮にそうだとしたら、ちょっと複雑だ。
ただ、こうやって素直に謝罪の言葉を口にできるあたり、根っこは誠実な人なんだろう。
「いや、大丈夫。気をつかってくれて、ありがとう」
僕はそう言うしかなかった。他人の執着の掃き溜めにされるのは、透明人間でいることよりもずっと消耗しそうでモヤモヤするけど。
月城くんは僕のその言葉を聞くと、安心したように少しだけ笑った。
***
――眠れない。
深夜二時。電気は消され、静寂に包まれた部屋の中。僕は布団の中で何度も寝返りを打っていた。
普段であれば、自室の暗闇の中で本のページをめくるように、穏やかな眠りの海へ潜っていくことができるはずだった。でも今日は無理だ。全く眠れる気がしない。
原因は明白だ。
新しい環境で、通路を挟んだ隣のベッドで寝息を立てている月城くん。今日、はじめて出会った彼の気配が、この狭い空間全体に満ちている。
完全な闇の中でさえ、その存在感は消えてくれない。
「……最悪だ」
思わず漏れ出た呟きは、自分でも驚くほど掠れていた。
隣のベッドから微かに衣擦れの音が聞こえた気がして、僕は慌てて口を押さえる。壁に向かって寝ているのではっきりとは分からないけど、月城くんが起き上がった気配がした。もしかしたら、聞かれていたのかもしれない。
息を殺して耳を澄ますと、足音が遠ざかっていく。どうやらトイレに行ったようだ。ホッとして息を吐く。
壁際に寄り、布団を被って無理やり目を閉じる。けれど意識は研ぎ澄まされる一方で、逆に眠れなくなる。壁の向こうにある外の景色を見ることもできない。
今、この場所での唯一の逃げ場は、この布団の中だけだ。
やがて戻ってきた月城くんの気配に、ビクッと体が強張る。
彼は自分のベッドに戻るかと思いきや、なぜかふらふらとした足取りで、まっすぐ僕のベッドへと近づいてきた。
え、ちょっと、何。
困惑する暇もなく、ガサリ、と迷いのない手つきで僕の布団がめくられる。
「――ッ!?」
悲鳴すら上げられなかった。
潜り込んできた大きな身体が、当然のように僕の背中にぴったりと張り付いてくる。
冷えきった外気を含んだパジャマの冷たさと、その奥にある圧倒的な体温が同時に押し寄せて、全身が凍り付いた。
「……ん、さむ……ハル、そこ退け」
低い呟きと共に、彼は慣れた動作で僕のお腹に腕を回して抱きすくめ、自分の胸元に引き寄せた。
まるで、冷えた身体を温めるための湯たんぽでも見つけたかのような、あまりにも自然で、遠慮のない、自分の居場所を見つけた獣みたいな動きだった。
「……な、何してるんだよ」
寝ぼけて隣のベッドと間違えたのだろうか?
小声で抗議するけど、月城くんは既に深い眠りについているようで、返事はない。
むしろ僕が動いたことで、眠りが妨げられたとでも思ったのか、腕に力を込められ、更に身体を密着させながら、何故か頭を撫でて来る始末。
「……大丈夫だから、ハル。落ち着け。誰もお前のことを怒ってない」
また、『ハル』だ。
そんなに、その『ハル』とかいう奴と僕は似ているのだろうか。
ていうかこの様子だと月城くんは『ハル』と一緒に寝ていたということ?
夢の中でその『ハル』を慰めているのか、僕の頭を撫でる月城くんの手つきは、呆れるほど優しい。だけど、肝心の本人が勘違いされていることに、『ハル』は泣いてるんじゃないだろうか。
月城くんは優しそうにみえて、酷い奴だ。
「月城くん、離して!」
精一杯の勇気を奮い起こして囁いたけれど、当然のように返事はない。
身体を捩らせて逃げようとすれば、逃がさないとばかりにいっそう腕の拘束が厳しくなる。
これ以上の大声を出せば、他の寮生たちに気づかれてしまうかもしれない。それが怖くて、激しく抵抗することもできなかった。
今まで感じたことのない感情が、全身を支配する。目の奥が熱くなり、涙が滲む。
「……」
耐えろ。朝まで耐えればとりあえず解放される。
自分に必死に言い聞かせ、僕は固く目を閉じた。身体は強張り、指一本動かせない。月城くんの寝息と心臓の鼓動が、すぐそばで聞こえる。
けれど、耳元で聞こえる規則正しい寝息や、背中に感じる大きなぬくもりは、ひたすら無害で、どこかひだまりのような穏やかさがあった。
他人の気配がこんなに近くにあるのは恐ろしいはずなのに、僕の警戒心は、その容赦のない温かさの前で完全に迷子になってしまう。
朝になったら、絶対に部屋替えを相談しよう。
彼と出会った初日、僕はそんな強い決意を抱きながらも、その不条理な心地よさに包まれて、いつの間にか深い眠りへと滑り落ちていった。


