境界線を守りたい几帳面な僕が、無頓着な同級生と同室になりました。




 


 他人と生活空間を共有することほど、神経をすり減らすことはない。


 そう確信していた僕の予感は、勇気を出して寮の部屋の扉を開けた瞬間、現実になった。





 

 

 まず、二人部屋だというのに、部屋の中に仕切りが全くない。
 部屋の中央に壁もカーテンもなく、左右対称にベッドと机が無遠慮に並べられているだけだった。視線を遮るものは何もない。逃げ場がない。

 その空間に一歩足を踏み入れた瞬間、整理されていない生活の匂いが鼻についた。誰かの気配が、すでにこの部屋を占領している。

 床には脱ぎ捨てられた服。机の上には開きっぱなしの教科書と菓子袋。
 そして——




「お? 転入生?」

 上半身裸、パンツ一枚の無防備な男が歯ブラシをくわえて、頭をポリポリと掻きながら洗面所から現れた。
 
 端正な顔立ちに、鍛え上げられた肉体。無造作に流された髪は、洗ったばかりなのか、ポタポタと水滴を垂らしている。

「俺、同室の月城航(つきしろ こう)。高校2年生で同級生。よろしくな」

 ズンズンと大股で近寄ってきたその半裸男は、爽やかな笑顔で右手を差し出してきた。身長は僕より頭ひとつ分ほど高い。肩幅もある。体格差が激しい。 
 しかも僕との物理的距離は何故か約30センチ。近い、近すぎる。

 僕は反射的に一歩後ずさって目を背けた。ルームメイトは他人に無関心な人であってくれという僕の願いは、完全に打ち砕かれたようだ。キラキラオーラを纏っている彼の存在自体が眩しすぎる。陽キャの脅威レベルが高すぎる。パンツ一枚しか武装していないのに。

「……うっ」

 胃の奥がきゅっと縮む。以前味わってた、あの独特の浮遊感とは違う種類の重圧が、胸にのしかかる。僕はなんとか呼吸を整え、俯いたまま、蚊の鳴くような声で応えた。

「……白倉湊(しらくら みなと)、です。よ、よろしく、お願いします」

 差し出された手は握らない。握れない。未知の領域で怖すぎる。

 すると、月城は特に気にする様子もなく、「よろしく!」と明るく返して、僕の肩をポンと叩いた。その気軽なスキンシップが、また僕の心臓を跳ねさせる。
 やっぱり、彼は僕とは別の生き物だ。

「で、ベッドと机な。俺今まで一人だったから、適当に使ってたけど、左右どっちがいい?」

 パンツ一枚で歯ブラシを口にくわえたまま、月城はベッドを親指で示す。上半身裸なのに堂々とした立ち姿。全裸ではないのだが、このような無防備な姿で目の前をウロウロされるのは、僕の精神的衛生に甚大な影響を与える可能性がある。だが、初対面でそんなことを指摘できる勇気はない。

「あ、じゃあ……右のほうで……」
「了解」
 
 ニコッと爽やかに笑う彼から、少しでも離れたい。物理的な距離を取りたい。月城航の持つ生命力と陽の気を浴び続けたら、白倉湊という陰の者は蒸発してしまうかもしれない。
 僕は靴を脱ぎ、震える手で荷物を運び込んだ。目指すは壁際。角のスペース。光が当たらず、誰にも侵されない聖域。あそこなら、少しだけ心が落ち着く気がした。

 しかし、そんな安息地への道を、半裸のパンツ一枚男、月城が阻む。

「なぁなぁ、湊って呼んでいいか? 俺のことも『コウ』でいいからさ」
「ひぇっ!?」

 突然腕をつかまれて、名前呼びの許可を求められた。出会ってからまだ30分も経っていないのに、この親密すぎる距離感はどういうことだ。心の準備が全くできていないのに、そんなのお構いなしにいきなりこちらの領域に入り込んで来ようとする。多分これが陽キャ人間様の普通の距離感なのだろう。
 無理。限界。拒否反応が全身に出る。

 僕は腕を引っ込めようとするが、意外にも力強い月城の手は離れない。断った後、腕を折られたりしないよな……? どちらにしろ、その後の空気感が恐ろしい。僕は観念して頷くしかなかった。

「う、うん……いいよ……」
「サンキュ! なんか他人とは思えないっていうか、仲良くなれそうな気がするんだよな。よろしくな、湊」

 屈託のない笑顔を向けられて、僕の思考回路がショート寸前になる。会話の内容を理解する余裕もない。
 多分、月城は悪い奴ではないのだ。ただ、光の量が多すぎるだけで。

 その後、月城はドライヤーで髪を乾かしながら、ペラペラとしゃべり続けた。5人兄弟の長男で、弟たちの世話をよくしていたこと、自分の好きなゲームのこと、最近食べて美味しかった弁当のこと、体育祭の種目決めがまだ済んでいないことなど、僕の知らない世界の話を。

 ちなみに彼が半裸だったのは、昨夜ゲームのしすぎで風呂に入り損ねて寝落ちしてしまったため、つい先ほどまでシャワーを浴びていたから、らしい。普段からパンツ一枚で過ごしている裸族ではないようだ。それなら……いいのか?いや良くない。

 荷解きを手伝うと善意100%のオーラで言い出した月城の申し出を丁重にお断りするのに、さらに体力と精神力を使った。

 他人に自分の物を触って欲しくない、自分の領域を侵されたくない。それは僕にとって生理的な嫌悪感に近いものだった。もちろん正直にそれを伝えるような度胸はないので、「迷惑になるから自分でやります」とペコペコ繰り返すだけで終わった。


「湊も大変だよな、親の都合でこんな時期に転校なんてさ。しかも寮暮らしなんて、慣れるの大変だろ?」
「……まあ、そうだね」

 親が海外赴任になり、急遽転校して寮生活をすることになったという僕の事情は、学園から聞いているのだろう。別に嘘ではない。本当の事情は、単なるルームメイトに言う必要はない。

「なんか困ったことがあったら、遠慮なく言えよな。なんでも相談にのるから」
「ありがとう……」

 光属性の君と今こうして同じ空間にいるのが、最大の問題なんだとは口が裂けても言えない。彼の善意は、鋭利な刃物のように僕の心に突き刺さる。

 痛みと疲労が蓄積していくのを感じながら、僕は黙々と少ない荷物を棚に押し込んでいった。
 本を並べるだけの簡単な作業なのに、気が遠くなるほど時間がかかる。月城が動くたびに起こる衣擦れの音や、視線や足音がいちいち気になって、集中できない。
 


「あ、そういえば今日の夕飯、何時頃に行く? 食堂初めてだから一緒に行くだろ?」

 ガタン、と音を立てて月城がベッドに腰掛けた。当たり前のように一緒に行くことになっている。その声はまるで友達に語りかけるように軽やかで、僕を一方的な好意で包み込もうとしてくる。

「あー……っと……」

 咄嗟に断る理由を探したけれど、疲労で思考がまとまらない。一人で食べる方が百倍マシだけど、小心者の僕は「うん」と頷いてしまっていた。 
 胃がキリキリと痛む。



 



 時刻は午後6時過ぎ。
 僕は笑顔の月城に引きずられるようにして、食堂へ辿り着いた。ここに来る途中、何度も声をかけられた。「航!」「お!転入生の子と一緒?」「今日のメニュー見た?」

 月城はその全てに快活に応じていた。彼は間違いなく、学園でトップクラスの人気者なのだろう。その光の輪の中に、僕は強制的に組み込まれようとしている。完全に空気扱いされるのも辛いが、太陽の隣に配置されることもまた、厳しいものがあった。
 最悪な人物のルームメイトになってしまったものだ。

「ほら、湊。好きなの選べよ。今日の日替わりはハンバーグだって。俺は肉食うぜ」
「あ、うん……」

 食堂のおばちゃんたちに笑顔で挨拶しながらトレーを持つ月城の後ろを、俯き加減でトボトボついていく。列に並ぶ間も、他の生徒の興味本位な視線がチクチクと刺さってくる気がした。人気者の主役の後ろを、コバンザメのようにウロチョロしている奴が、何者か気になるのだろう。
 大丈夫。無害な存在として見られるだけだ。意識を閉ざせ。

 なんとか料理を受け取り、月城に連れられて席につく。向かい合って座っている状態になり僕は失敗に気が付いた。正面から来る光の圧が凄い。

「いただきます」

 大きな声ではっきりと挨拶し、月城は箸を取る。箸の持ち方や食事の所作は意外にも洗練されていて、実は育ちがいいのかもしれない。僕も小さく手を合わせて食べ始めた。しかし、緊張で味がわからない。

 


「なあ、君。コイツと同室で大丈夫そうか? 部屋汚えし、かなり無神経だろ?」

 突然話しかけられて顔を上げれば、すぐ隣に見知らぬ男子生徒が座ってきた。首を傾げていると、月城は軽く舌打ちをして文句を言った。

「無神経って失礼だな。俺は人当たりが良いんだよ」
「自分で言うなよ。人付き合いが苦手なタイプだったら、航みたいな図々しいキャラは天敵だろ」
「んなことねぇよな」

 僕の返事を待たずに、二人の会話は続いていく。

「……あぁ、ごめん。自己紹介してなかった。俺は佐々木響、よろしくな」

 眼鏡をかけた、月城と比べると線の細い男子生徒が微笑んだ。口調は穏やかだが、どことなく皮肉っぽい雰囲気がある。

「……白倉湊です」

 曖昧に頷けば、佐々木はすぐに月城の方へ向き直り、また二人で話し始めた。僕の知らないところで、僕の情報がやり取りされている。その居心地の悪さに、ますます身体を縮こませた。

「湊、お前細いから、もっと食えよ」
「航、無理強いするなって」

「だってよ、見た感じガリガリじゃん。心配になる」

 僕の前に座った月城が、勝手に僕の皿に肉の切れ端と野菜を追加しようとする。拒否したかったが、ルームメイトとの関係を悪化させたくなくて、彼の好きにさせていた。箸を動かすことすら億劫になってきた。
 結局、ほとんど味のしないご飯を無理やり飲み込み、月城と佐々木の話を聞き流しながら、長い食事の時間をやり過ごした。

 食後、月城は風呂に行こうと誘ってきたが、固辞した。共同浴場なんて絶対に無理だ。人前で素肌を晒して、見知らぬ人と同じ湯につかるなんて、想像しただけで震えが走る。部屋に備え付けのシャワーで充分だ。

「そっか? じゃあ、今日は俺も部屋のシャワーにするかな」
「え?」
「いや。湊一人にすると、何かあっても気づかないし。心配だから」
「…………」

 僕はどんなお子様だと思われているのだろうか。善意100%なのが、より質が悪い。

「航、あんまり構いすぎるなよ。過干渉もいいところだぞ」

 困惑しているのが表情に出ていたのか、見かねた佐々木が助け舟を出してくれた。月城はハッと気づいた様子で苦笑いする。

「あー、悪い。湊って一番上の弟と雰囲気似てたから、なんか放っておけなくて。ごめん、湊。気をつけるよ」

 頭を掻きながら申し訳なさそうに、素直に謝罪する月城を見て、少しだけ罪悪感が湧いた。彼はただ優しさから言ってくれているだけなのだ。僕が過剰に反応しているだけ。

「いや、大丈夫。気を遣ってくれて、ありがとう」

 小さな声で礼を言うと、月城は安心したように笑った。一方で、佐々木は何故か微妙な顔をしていた。
 

***


 ──眠れない。

 深夜2時。電気は消され、静寂に包まれた部屋の中。僕は布団の中で何度も寝返りを打っていた。

 普段であれば、自室の暗闇の中で本のページをめくるように、穏やかな眠りの海へ潜っていくことができるはずだった。でも今日は無理だ。全く眠れる気がしない。

 原因は明白だ。

 新しい環境で、通路を挟んだ隣のベッドで寝息を立てている月城。今日、はじめて出会った彼の気配が、この狭い空間全体に満ちている。完全な闇の中でさえ、その存在感は消えてくれない。

 昼間のうちにシーツを洗っておくべきだった。月城の匂いが染みついている気がして落ち着かない。昨日までこの部屋を一人で使用していた彼は、もしかしたら、昨夜は僕が寝ているこのベッドで寝ていたのではないか? 想像してしまい、吐き気を催してしまう。
 

「……最悪だ」

 思わず漏れ出た呟きは、自分でも驚くほど掠れていた。

 隣のベッドから微かに衣擦れの音が聞こえた気がして、僕は慌てて口を押さえる。壁に向かって寝ているのではっきりとは分からないが、月城が起きあがった気配がした。もしかしたら、聞かれていたのかもしれない。
 息を殺して耳を澄ますと、足音が遠ざかっていった。どうやらトイレに行ったようだ。ホッとして息を吐く。

 壁際に寄り、布団を被って無理やり目を閉じる。けれど意識は研ぎ澄まされる一方で、逆に眠れなくなる。壁の向こうにある外の景色を見ることもできない。今、この場所での唯一の逃げ場は、この布団の中だけだ。 

 やがて戻ってきた月城の気配に、ビクッと体が強張る。ドアが開閉する音。廊下の仄かな灯りが、天井に細長い影を落とす。自分の心臓の音が、やけに大きく響く。

 不意に布団がめくりあげられ、僕が寝ているベッドに何かが入り込んできた。

「――ヒッ!?」

 思わず悲鳴を上げそうになった。温かい何かが背中に触れ、そのまま抱き締められる形になる。全身が凍り付き、鳥肌が立つ。
 もちろん、侵入者は一人しかいない。

「……寒い」

 月城の低い呟きと共に、更に強く抱き寄せられた。背中一面に彼の体温が広がる。厚い胸板、硬い筋肉、吐息の熱までリアルに感じてしまう。心臓が爆発しそうだ。

「……な、何してるんだよ」

 寝ぼけて隣のベッドと間違えたのだろうか? 小声で抗議するが、月城は既に深い眠りについているようで、返事はない。むしろ僕が動いたことで、眠りが妨げられたとでも思ったのか、腕に力を込められ、更に身体を密着させながら、何故か頭を撫でて来る始末。

「……大丈夫だから、落ち着け。何も怖くない」

 夢の中で、僕が似ているという弟と勘違いしているのか、月城の手つきは優しい。だが、今の僕にとっては拷問以外の何物でもない。
 パニックで思考がまとまらない。逃げたい。叫びたい。だけど、深夜に大声を出すわけにはいかない。それこそ、他の寮生たちの注目を集めてしまう。それはもっと耐えられない。

「月城くん、離して……!」

 精一杯の勇気を振り絞って名前を呼ぶが、当然のように返事はない。
 今まで感じたことのない種類のストレスが、全身を支配する。目の奥が熱くなり、涙が滲む。 

「……」

 耐えろ。朝まで耐えればとりあえず解放される。

 自分に必死に言い聞かせ、僕は固く目を閉じた。身体は強張り、指一本動かせない。月城の規則正しい寝息と心臓の鼓動が、すぐそばで聞こえる。

 

 朝になったら部屋替えを相談しよう。
 
 彼と出会った初日、僕はそんな決意を抱きながら、結局一睡もできないまま夜明けを迎えた。