会社辞めたあの日のこと。

人を殺すのに刃物はいらない、というのはどこで見た言葉だったか。

「自分で考えなさい」
「なんでそんなことしたの?」

この2つの言葉を繰り返すだけで、簡単に人を壊せるんだと知った。


「おねーさん、ここ空いてます?」

10月の最終金曜日。
駅ナカのカフェでぼーっと外を眺めていると、そう声をかけられた。
ゆっくりと首から上だけ声の主の方へ向けると、えらく綺麗な顔をした青年が立っていた。
まだ新しそうなスーツを見るに、社会人1年目かインターン生か?
いいなあ、私もこの頃は希望に満ち溢れてたんだけどなあ…

「あの」

ぼーっと眺めていると、目の前の綺麗な顔の眉間にシワが寄った。
はっと我に帰る。

「あっすみません、空いてます!」

慌てて椅子に乗せていたバッグを自分に引き寄せる。
いけない、この混んでる店内で椅子に荷物置いてたら迷惑でしょバカ私!

「どーも」

すっと私の隣の席に腰を下ろす彼。
イケメンだけど、ちょっと感じ悪いかなあ…後輩にはしたくないタイプー…
と、勝手に失礼なことを考えていると、彼と視線がぶつかる。

「で、八木さん何その死にそうな顔。辞める時会社ともめたの?」
「は、え!?」

手に持っていたカップを危うく落としそうになって慌ててつかみ直した。
なんとなく温まりたくて買った期間限定のホットラテ。

「な、なんで…」
「いやそんなわかりやすいもん持ってたら」

彼の視線が私の足元に行く。
そういえば、花束と寄せ書きが入った紙袋を置いていた。

3年勤めた会社への最終出社日だった今日、同期や同じ課の同僚から手渡されたものだ。
ご丁寧にでかでかと『八木ちゃんへ』と書かれていて、個人情報もなにもあったものではない。

「ああ…えー…そんな死にそうな顔してる…?」
「通りすがりの他人が興味本位で声かけるくらいには」

興味本位と言いつつ、全く興味なさそうに外を眺める彼。
その横顔が、話すも話さないもお好きにどうぞ、と言っているようで。別に言いたくないのに無理に聞こうってわけじゃないです、という気遣いのように見えなくもない。

「…周りからはきっと円満に退職したと思われてたと思う。
実際、引き継ぎも期間設けてちゃんとしたし。送別会開いてくれて送別品ももらえる程度には、周りともうまくやってたよ」

彼は何も言わないけど、こちらに意識を向けてるのは感じる。

どうせ体が重くて帰れなかったところだ。通りすがりの青年が聞いてくれるなら話してみるのもありかもしれない。
ふーっとゆっくり息を吐いて、続ける。

「人が壊れる瞬間って見たことある?」
「は?」

突然何を、と彼の目が言っている。クールそうに見えて、感情がダイレクトに顔に出るタイプなのかもしれない。意外と表情豊かで面白い。
喉を潤そうと手元のカップに口をつけると、体を温めようと買ったホットラテがすっかり冷えていて驚く。

「最初にいなくなったのは先輩だった」

直属の先輩で、いろんなことを教えてもらった。担当する仕事が増えてパンクした時、相談に乗ってくれたのも先輩だった。
適当なところもあって迷惑も被ったけど、それでも大好きだった。

「笑顔が似合う先輩だったんだけどね。残業中に真っ白な顔してトイレから戻ってきたんだよね」

それまでも目を腫らして戻ってきたことはあったけど、明らかに様子が違った。
心配で、でもなんて声をかけたらいいのかわからなくて。私が落ち込んでる時にいつもお菓子を差し入れてくれる先輩だから、同じお菓子を買ってデスクに置いた。
先輩がどう思ったのかはわからない。

「次の日から会社に来なくなった」

これがもう1年近く前の話だ。昨日のことのように鮮明に思い出せるのに。

「その3ヶ月後、後輩がいなくなった」

初めてできた後輩。懐いてくれて、頼ってくれるのが嬉しかった。
助けてあげたくて、出来る限りのサポートはしたつもりだった。
でも、日に日に顔色が悪くなっていって。

「いなくなる日の直前、一緒にご飯食べに行ったんだけどね。その子、なんて言ってたと思う?」
「さあ…」

カタカタ震えるグラスを握るあの子の手が目に焼きついている。

「どんどん部屋が汚くなっていくんです、って言ってた。片付けたいのに、体が動かないんです、って」

泣きながら言った彼女の言葉が忘れられない。仕事がつらい、と言われるよりもよっぽど切羽詰まって聞こえた。

「その次の週から会社に来なくなった」

眉間にシワを寄せ、手に持ったカップを見つめるイケメンくん。
カフェで見知らぬ女にシラフで絡まれて災難だなあこの青年、と他人事のように思っている自分がいておかしい。

「どっちが休職したって聞いた時も、私、驚かなかったんだよね」
「…なんで?」
「壊れる瞬間を見たから。人が壊れる時って、わかるの。
あ、この人折れたって、わかる」

無言のまま動かない彼に、あえて明るく言う。

「ま、3ヶ月で引き継ぎなしに2人いなくなったらそりゃ残された人に皺寄せがいくのは当然というか。家でサービス残業してる時に、ふっと、次私じゃんって思っちゃったんだよね」

自覚した瞬間の、全身がぞわぞわ泡立つような感覚を思い出してしまう。
顔から温度がなくなっていくのがわかる。

「だから逃げたの、私」

そうだ、私は逃げた。

不思議だ。
誰にも言えなかったのに、驚くほどさらっと言葉が出た。
退職日でハイになってるのか、話し相手がもう出会わないであろう行きずりのイケメンだからなのか。

逃げたなんて思いたくなかった。思われたくなかった。
だからそれらしい退職理由を探して、なるべくチームに迷惑がかからない時期に退職日を設定して、笑顔で退職してきた。
でも、私が逃げたことは私自身が1番よくわかってる。

無言で考えている様子の彼の反応が怖くて、視線を上げられない。
やや間があって、こちらを見た彼がゆっくり口を開く気配を感じて、身構えてしまう。

「それでなんでそんな顔になんの?すっきり辞めて万歳って感じじゃん」
「…へ?」

予想外の彼の言葉に間抜けな声が出てしまった。
反射的に彼を見ると、心底不思議そうな表情を浮かべていた。

「いや、だって…逃げたんだよ?」
「逃げて何が悪いの?」

長めの前髪の隙間から覗く瞳に真っ直ぐ見つめられて、言葉を失う。
なにが、わるい?

「八木さん麻痺してるよ。3ヶ月で2人休職する職場がまともなわけないでしょ。壊れる前に逃げられてよかったねって感想しかないよ俺は」

元職場をばっさり『まともじゃない』と切り捨てられたけど、不快感は微塵も感じなかった。むしろ、胸の中に渦巻いていたドロドロとした気持ちが消え去っていくのがわかる。

そっか、やっぱりまともじゃなかったんだ。

「八木さんがすっきりしないのは、『逃げたから』じゃなくて『逃げたくなかったから』?」

彼の言葉がストンと胸に落ちた。
周囲のざわめきが急に小さくなったように感じる。頭の中がクリアになっていく。
仕事から逃げた罪悪感が体を重くしてるんだと思ってた。
でも、違ったのかもしれない。

「私、仕事は、好きだったの。でも、どんどん、会社に行くのが、怖く、なって…」

気づいたら泣いていた。

「こんな、逃げたくなんか、なかったのに」

妥協でも仕方なくでもない、本当にやりたかった仕事で、入りたかった会社だった。

「悔しいうちは続けるのも選択肢だけど、怖いと思うなら、一旦離れた方がいいよ。
八木さんはまだ壊れてないんだから、またいつかやり直すこともできるよ」

お疲れさま、と彼が私の目の前のテーブルに置いたのは、コアラが描かれた緑色の箱。

先輩がいつもくれたお菓子。
私が最後に先輩に差し入れたお菓子だ。

初対面なのに、この子が言うならそうだろうと信じられるのはどうしてだろう。

「ありがとう」

久しぶりに心から笑えた気がした。
ただでさえ引き継ぎ資料作りで寝不足のコンディション。泣いて化粧はボロボロだろうし、ひどい顔だと思う。
でも、そんな私を見て彼はふっと微笑んでくれた。

「じゃーね」

用は済んだ、と言わんばかりにさっさと荷物をまとめて立ち上がった彼は、カップをひらひらさせながら出口に向かって行く。
スタイルもいいのでめちゃくちゃ絵になる。ずるい。

私はというと、鉛のように重かった体がずいぶん軽くなった気がする。
彼と話したのは時間にして数分程度のことなのに、こんなに違うなんて魔法みたいだ。

「…帰ろ」

明日から有休消化だ。
目覚ましを気にせずにゆっくり寝て、起きたら気になってたカフェのモーニングにでも行ってみようかな。
観れてなかったドラマも溜まっているし、積読の本もたくさんある。
もう社用携帯を気にする必要もないから、久しぶりに映画を観に行ってみるのもいいかもしれない。

すっきり辞めて万歳、と今なら思える気がした。