「いらっしゃいませー!」
自動ドアが開いたと同時に出迎えると、客が一瞬目を丸くした。俺の無駄にデカい声に驚いたのだろう。おまけに図体もデカいし、もしかしたらビビられているかも。そっと肩を竦め、落とすと同時にふーっと長いため息をこぼす。
高2の12月、金曜の夜7時。神奈川県内の、某コンビニ。俺だってこんな時期に、バイトなんかしているはずじゃなかった。俯いた先に少し浮かせた左足が映って、つい下唇を噛みしめる。むしゃくしゃして掻いた髪は、もう坊主の面影もない。
俺こと時田道春は、小学生の頃から野球一筋だった。多くの野球少年と同じく、高校野球で甲子園に行くことが夢だったけれど。高2の夏に先輩たちが引退して、部活内で最高学年になった秋。大事な秋季大会の準々決勝で、一塁ベースを踏む時に骨折してしまった。全治三ヶ月。リハビリをしてもう一度野球をやれるようになれるまでは、さらに数ヶ月かかる。病院の先生にそう言われた時、俺の心までポッキリと折れてしまった。
順調に復帰できたとして、その頃にはすでに三年生だ。そこからレギュラーに入れるなんて甘い夢は、どうしたって思い描けなかった。辞めると言ったらみんな引き止めてくれた。監督や部長の先生は、せめてマネージャーや記録員として残らないかと言ってくれた。でも俺は、首を縦には振れなかった。惨めな思いをしたくなかったからだ。
気遣われるのが居た堪れなくて、部員たちとは話さなくなった。野球ばかりの人生だったから、毎日ふさぎこむだけ。そんな俺に母親がしびれを切らして、バイトでもしなさいと半ば強引にこのコンビニに押しこまれてしまった。店長と顔見知りだったらしく、足のケガでまだ上手く動けないことは了承済み。学校からは遠く、野球部の連中と出くわす心配もないのは都合がよかったけれど。
精算待ちの列が伸びはじめた。近くの駅に電車が止まったのだろう。陳列をしていた店員が、もう片方のレジに入った。ついそちらを見ると目が合いそうになって、俺は慌てて目を逸らす。
バイトの先輩、柚木さん。何回かシフトが被ったことあるけど、正直苦手だ。
「こちらへどうぞー」
客を呼び、バーコードを読みこんでいく。十五分ほど経った頃、ようやく列は解消された。
初めてのバイトなこともあって、最初の頃はレジの操作に手こずったけれど。一ヶ月経って、もうずいぶんと慣れてきた。そんな自分にほっとするような、野球から離れてそれほどの時間が経ったのだと、感傷に浸ってしまうような。
そこまで考えて、ふうっと一瞬頬を大きく膨らませて、天井を仰ぐ。もう忘れたい、それがいいのだ、たぶん。
「時田くん。もうすぐ時間だから上がって。お疲れ様」
「あ……はい。お疲れ様っす」
店長に声をかけられて時計を見ると、あと3分ほどで20時になるところだった。もうこんな時間か。
「柚木くんも上がってー。今日は急にお願いしたのに、ありがとうね」
「いえ、ちょうど暇してたんで」
どうやら柚木さんは、誰かの代わりに急きょ呼ばれたらしい。たしかにシフト表に名前はなかった。退勤時間が一緒になるのは初めてだ。
「じゃあ、お疲れっした」
このまま帰り道まで一緒になりたくない。頭を下げながら制服のボタンに手をかけ、そのままバックヤードへと向かう。ブレザーと上着を着て外へと向かう扉を開けようとした時、
「ねえ、ちょっと待って」
との柚木さんの声が聞こえてきた。俺じゃないって、そう思いたかったんだけど。
「時田くん」
と名前を呼ばれてしまった。無視するわけにもいかず、俺は錆びついたロボットみたいにゆっくりと振り返る。
無造作に結わえられた少し長い髪、左のこめかみの上辺りに金色のメッシュが入っている。両耳にはいくつも開いた派手なピアス。おそらくフリーター。俺の周りにはいないタイプの人間だ。
「……なんすか」
「一緒に帰んない? 前から話してみたかったんだよね」
「えーっと……」
「なんか用事あった?」
「いや、ないっすけど……」
「じゃあ決まりな」
しまった。急いで帰らなければならないと嘘でも言えばよかった。後悔しても後の祭りで、支度をする柚木さんを待つ。2〜3分ほどで、背中になにか大きな荷物を背負った柚木さんが出てきた。
「さっむ」
「やばいよねー、オレ冬苦手!」
12月の夜の外は、骨まで寒さが染みこんでくるみたいだ。冷たい風に体を縮こませながら、駅へ続く道を並んで歩く。
「時田くんってすげー背高いよね。なんセンチ?」
「190です」
「でっか! え、オレと20センチ違うってこと!?」
「……柚木さんは何センチなんすか」
「175くらい」
「じゃあ20センチは言いすぎっすね」
「四捨五入したら20センチじゃん」
「まあ、そうっすけど」
「マジかー。平均くらいなはずなのに、時田くんと並ぶとチビだわ」
話してみたかっただなんて、話題なんてあるだろうかと不思議だった。俺と柚木さんは、きっと真逆の人間な気がするからだ。けれど、柚木さんはずいぶんとおしゃべりらしい。ひっきりなしに喋っている。
それに、ケガのせいでどうしても歩くのが遅い俺に、柚木さんはなにも言わず合わせてくれている。見た目で判断して苦手意識を持っていたことに、罪悪感がじわじわ生まれはじめる。
「俺、電車なんでここで。柚木さんはこの辺すか?」
駅へと到着し、そちらを指差しながら立ち止まる。店長や立地は文句なしだけど、家からも距離があることだけはネックだ。
「うん、この辺。だけど〜……時田くん、特に用事ないってさっき言ったよね?」
「…………? はい」
「じゃあさ、もうちょっと付き合ってくれない?」
「付き合うってどこに……」
なんだか嫌な予感がする。そう思いつつ問い返せば、柚木さんがニヤリと笑う。
「時田くんはカラオケ好き?」
「あ、興味ないっすね」
「わお残念。でも、今日興味でるかもよ」
「は? いやいや、俺は行きませんよ……」
「なあ頼む! 一生のお願い! オレが奢るから! ね?」
「ええー……」
両手をパチンと合わせ、柚木さんは頭を下げた。
なにをそんなに必死になることがあるんだろう。唄いたいのなら、カラオケくらいひとりで行けばいいのに。意外とひとりじゃ行動できないタイプなのか? とてもそんな風には見えないけど。
でも、一生のお願いだなんて重いはずのワードが、いとも簡単に出てきたことで逆に気が抜けてしまった。切り札のはずのそれを初めて話して数分で出せるくらい、俺と柚木さんの関係性は薄いってことだ。じゃあこっちだって、軽い気持ちで乗ればいいのかもしれない。
「俺、カラオケ行ったことないんすよ」
「え、そんな高校生存在すんの?」
「存在しますね、俺が証人です」
「あはっ、たしかに」
「なので、盛り上げるとかできませんよ」
「っ、平気! 盛り上げてほしいわけじゃないから! てかそっちじゃないし!」
「…………? じゃあ、ちょっとだけ」
そっちじゃないってどういう意味だろう。でもとりあえず、盛り上げなくていいのなら楽だ。楽器を振ったり合いの手を入れたりだとかは、俺には向いてない気がするから。
「よっしゃ! 時田くんの気が変わらないうちに行こ。あっちだよ」
「あれ、こっちにありましたよね? カラオケ」
「そっちのが近いけど、向こうのほうに行きたくて」
「…………? そうなんすね」
コンビニのほうに少し戻れば、有名なチェーン店のカラオケがあるのに。俺にはよく分からないが、店舗によって違いがあるのだろうか。
「ここだよ」
「ここ……?」
柚木さんにはこだわりがあるみたいだから、どんな店だろうと構えていたら。なんの変哲もないカラオケで、なんだか拍子抜けしてしまった。
「ねえ時田くん、カラオケ店に入る時は靴脱ぐって知ってた?」
「え、マジすか」
「ううん、冗談」
「やっぱ帰っていいっすか」
「ごめんて! ほら、入ろ!」
カラオケに行ったことがないなんて、バカ正直に言うんじゃなかったかも。ついムッとすると、柚木さんは慌てて中へと俺を誘う。
「お、柚木くん」
「あ……店長こんばんは」
受付のカウンターの向こうから、男性が柚木さんに声をかけた。どうやら顔見知りらしい。
「久しぶりだね。岩崎は元気にしてる?」
「……っ」
紙に必要事項を記入していた柚木さんの、手と表情が一瞬固まった。どうしたのだろう。
「あー、はい。元気ですよ」
「それはよかった。今日はお友だちと?」
「はい」
ちょっと気になったけど、柚木さんはすぐにまた笑った。店長と呼ばれた男性も、嬉しそうに頷いている。
「フリータイムね。例の部屋希望かな?」
「空いてます?」
「空いてるよ」
「よかった。時田くん、ドリンクひとつ注文するかドリンクバーか選べるんだけど、どっちがいい?」
「え? えっと……じゃあ、ウーロン茶で」
ふたりの表情を観察していたからか、返事に間が空いてしまった。そんなに長居する気はないので、一杯だけにしたほうがいいだろう。
「おっけ。じゃあウーロン茶とコーラひとつずつで」
「了解。すぐ持っていくね」
「時田くん、行くよー」
「っす」
手続きが済んだようで、柚木さんの後をついていく。受付の横を通って、奥へと進む。
「ここだよ」
どこか得意げに、柚木さんがひとつの部屋を指差した。そういえばさっき、店長さんが“例の部屋”と言っていたっけ。なにか特別なのだろうか。中に入ってみても、通常のカラオケと違いはないように見える。キョロキョロしている内に、ドリンクはすぐに運ばれてきた。
「まあ座りなよ」
「っす」
言われるがままに、ソファに腰を下ろす。柚木さんはテーブルを挟んだ向かいにある、円筒状の椅子に座った。腰を下ろしたまま椅子をこちらへと引き寄せて、俺の顔をじっと見てくる。
「え、っと……唄わないんすか?」
「うん、オレは唄わない」
「え?」
「時田くん、唄ってみてよ」
「は……? いやいや、俺は唄いませんよ」
「オレ、時田くんの歌が聞いてみたくて来たんだけど」
「ええー……そんなん初耳なんすけど……」
そんなこと、カラオケに行こうと言い出した時には言われなかった。最初から分かっていれば、絶対に無理だと断ったのに。
「だって、言ったら来てくれない気がしたからさあ」
「分かってるじゃないすか」
「ねえ、お願い。一曲でいいからさ」
「俺、歌とか苦手なんで」
「でもカラオケ来たことなかったんでしょ?」
「それはそう、っすけど」
「じゃあ分かんないじゃん。あ、音楽全く聴かなかったりする?」
「結構聴きますね……家にいる時とかはサブスクで流しっぱっす……」
「それはよかった」
「だからって唄えないっすよ」
「なんで? 家で熱唱して下手だって自覚してるとか? もしくは音楽の成績1だったりする?」
「口ずさむくらいはしますけど、熱唱しないし1でもないっす……」
「じゃあお願い! 一生のお願いなんだって! ね?」
「…………」
一体、どうして俺なんかの歌を聞くためにそんなに必死になれるのだろう。駅前でもしていたみたいに柚木さんは必死に手を合わせて、テーブルに肘を乗せてこちらへ身を乗り出している。
全然気乗りしない。今すぐに帰りたい。人前で歌を唄うなんて、考えるだけで恥ずかしい。でも……目の前で一生懸命な顔をしているこの人を、ほっぽって帰るのか? そんなのシンプルに心苦しいし、なにより久しぶりだった。こんな風に、誰かに期待される感覚。骨折をしてしまったあの日からもうずっと、俺を労る悲しげな顔とかそんなのばっかりだったから。みんなの気持ちを背負って打席に立つあの感覚に、今この瞬間はほんの少しだけ似ている。応えたい、なんて思ってしまっている。
「……マジで一曲だけ、でいいなら」
「っ、いい! 全然いい!」
「言っときますけど、絶対下手っすからね」
「うんうん、そんなの気にしないで」
「はあ……」
ここまで来たら、もう後戻りはできない。柚木さんも俺の気が変わらない内にと言わんばかりに、室内に置いてあった機械を手に隣へとやってきた。
「これ、曲を選ぶリモコンね。使い方教えてあげる。まずはここ押してー、アーティスト名か曲名で検索できるから」
「へえ、なるほど……」
指でタップして曲を探すらしい。スマホやタブレットみたいなものだと思えば、簡単だ。ただ、唄うと言ったはいいもののなにを唄うかが決められない。画面を行ったり来たりしているだけなのに、柚木さんがワクワクした顔で見てくるからちょっと気まずい。
「あのー……時間かかりそうなんで、そっちで待っててもらっていいっすか」
「そう? オッケー」
さっき柚木さんが座っていた椅子を指さすと、柚木さんは素直に移動してくれた。コーラを飲みながら、俺の選曲を今か今かと待っている。椅子に片手をつく様子がちょっとあどけない。二十歳は過ぎた年上だろうに、不思議な人だ。
気を取り直して、リモコンに意識を戻す。音楽はよく聴いている、本当に。でも唄うとなると、どうもピンとこない。いや、頭に浮かんだ曲はあるけれど、どうにも躊躇してしまうのだ。
数年前の、夏の甲子園のテーマソング。四人組バンドの曲で、声を張り上げて唄われるこの曲がすごく好きだ。胸のド真ん中にストライクで入ってくる。でも、これを俺は唄えるだろうか。技量的なことはもちろん、それ以上に、心情的に。野球への想いを、日々の練習への気力を後押ししてくれる存在だった。そんな歌を、野球を辞めた俺が?
とりあえず、と曲名で検索をかける。するとそこには、冒頭の歌詞がワンフレーズ書かれていて。それを見た瞬間、喉の奥がぎゅっと狭くなる心地を覚えた。やっぱり唄えない。じゃあなにを唄う? 考えたって延々と決められない気がして、同じバンドの他の曲を適当に選んだ。
「へえ。こういう選曲ね」
そう呟いた柚木さんが、マイクを取って渡してくれた。それを受け取ると、一気に緊張が襲ってきた。音楽のテストでひとりで唄うのだって、すごく億劫なのに。でも腹をくくるしかない。ふうっと一瞬頬を大きく膨らませて、天井を仰ぐ。
音楽が流れはじめる。歌詞が画面に表示されて、息を吸う。あーあ、出だしで突っかかってしまった。恥ずかしくて小さい声しか出ない。声のデカさが俺の数少ない取り柄なのに。
そのまま唄いすすめ、サビに差しかかりそうになった時。柚木さんが
「もっといけるっしょ!」
と声を張り上げた。驚いてそちらを見ると、やけに真剣な目がまっすぐに俺を見ていた。
なんなんだよこの人。派手な格好して、いつもヘラヘラ笑っているのに。まるで俺を見定めるようなその目に、苛立たしさが急激に襲いかかってきた。
「くそっ!」
息継ぎのタイミングで悪態をついて、俺は大きく息を吸った。もうヤケクソだ。どうせ、この一回だけ。どちらにしろ恥をかくなら、俺の無駄にデカい声をぶつけ切ってやる。
「――――!」
丁度いいことに、選んだのは闘いに挑む男の歌だ。共鳴するみたいに、叫ぶように、荒々しく唄う。
1番のサビを唄いきった頃には、呼吸が乱れていた。それをどうにか整えようとする俺の視界に、立ち上がる柚木さんの姿が映った。今度はなんだ? つい訝しむと、ニヤリとした顔で俺を見ながら、
「ビンゴ」
と呟いた。
ビンゴ? どういう意味だ? 呆気にとられているとすぐに2番が始まってしまった。
「ほら、唄って」
唄うように俺へ促しながら、柚木さんはずっと背負っていた大きな荷物を手に取った。中から出てきたのは、ギターだ。一体なにを? つい気になって、画面と柚木さんを交互に見てしまう。
(ちゃんと唄って)
口パクで俺に注意しながら、柚木さんは手を止めない。あっという間に、ギターとカラオケの機械がコードで繋がれた。エレキギター、ってヤツかな。そのギターのストラップを肩に掛けた柚木さんは、二番のサビに差しかかった瞬間――ギターの弦を弾いた。その音は、大きな衝撃と共に俺の体を駆け抜けた。圧倒されて、唄えなくなる。するとすぐに柚木さんが挑発的な目で俺を見る。
お前そんなもんかよ、しょうもないな。
そう言われているみたいで、俺は思わず立ち上がった。そうしたところでこの足では、踏ん張れないと分かっているのに。負けたくない、と思ってしまった。
マイクを持っていた手にもう片手を添え、今日いちばんの声を張り上げる。俺の声と柚木さんのギターが絡み合うみたいに、部屋中に満ちていく。
最後のフレーズを、シャウトするように唄い上げる。カラオケの音源が消える。そして俺の声とギターの音だけが残り、まるで息ぴったりとでも言わんばかりに、全く同じ瞬間に音が消えた。
荒くなった呼吸に、俺は胸を上下する。こういうの、いつぶりだっけ。必死になる感覚はあの日突然途絶えてしまって――ああ、だけど今、こんなにも気持ちいい。
「時田くん」
名前を呼ばれて、ゆっくりと顔を向ける。すると柚木さんが、満足そうに笑っていた。乗せられてしまった、完全に。柚木さんに、柚木さんのギターに。
「時田くんのこと、いい声してるなって思ってた。だからって歌もいいわけじゃないって分かってるけど、どうしても聴いてみたかったんだ」
「…………」
「唄い方は荒削りだけど、それがいい味出してる。ピッチは合ってるし、素人でこの曲を唄いこなせるのはすごいよ。本当に普段唄ってないの?」
「ないっすね……」
「マジかあ。はは! 時田くんすごいよ、もっともっと上手くなれる」
「はあ……」
柚木さんは興奮しているようで、目をキラキラ輝かせている。そんなに褒めてもらえる要素が自分にあったなんて、俺にはよく分からない。だから、ピンときていないというのが正直なところだ。
「時田くん」
「……あ、はい」
いつの間にか俺は首を傾げていたみたいで、斜めの視界で柚木さんが一歩近づいてきた。そして、驚くべき言葉を俺に投げかける。
「オレと一緒に組まない?」
「…………? 組むって、なにを?」
「バンド。まあ、ギターとボーカルのふたりだけだけど。他の音は打ち込みでどうにかするし」
「っ、は? バンド? 俺が? いやいや、無理っす」
「なんで? 音楽好きなんでしょ?」
「好きですけど、それはあくまで聴くほうのことで!」
なんだか妙なほうに話が転がりはじめた。バンドなんて一度も考えたことなかったから、青天の霹靂もいいところだ。ブンブンと横に首を振ってつい大声になっても、柚木さんはちっとも引かない。
「でもさっき、気持ちよくなかった? オレのギターと、時田くんの歌が混ざる感じ」
「っ、それは……たしかにそう、でしたけど」
「やっぱり。オレもすげー気持ちよかったよ。ああいうの……久しぶりだった」
柚木さんはそう言って、なぜか寂しそうに笑った。口角は上がっているのに、眉がしゅんと下がっている。
「……いやでも、俺はマジで無理なんで! さっきのはまぐれで唄えただけだと思うし!」
柚木さんの表情が気がかりで、つい安請け合いしてしまいそうになったのを堪える。バンドなんて無理に決まってる。いちばん好きな野球すら成し遂げられなかったのだから、尚更。
「ふうん、あっそ。じゃあ諦めようかな」
ちょっと態度は悪いけど、納得してもらえたみたいだ。ほっと胸を撫で下ろして、でもそれは気のせいだったとすぐに知ることになる。
「分かってもらえてよかったっす」
「今日のところは、ね」
「……え?」
「覚悟してろよー、って意味ー。よし、じゃあ帰ろっか」
「は!? ちょっと柚木さん!?」
不穏な言葉を残しながら、柚木さんはテキパキとギターをケースにしまった。早く帰ろうと言いつつ扉を開け、そこで俺を待っている。俺がこんな足だから、そうしてくれているのだろう。
身勝手なのか優しいのか、この人のことがちっとも掴めない。ただ、見た目だけの先入観で苦手に感じていたことは、やっぱり訂正だなとこっそり思う。身勝手であれ優しい人であれ、その胸の中に熱いものを持っていることだけは確かなようだから。
「すいません、待たせちゃって」
「いーえー。このくらいどうってことないですよー」
「……俺、バンドやりませんからね?」
「へっ、ケチ野郎」
「はあ!?」
もしかして、優しいはちょっと勘違いかもしれない。ケチ野郎なんて言葉、人がいいなら言わない気がするから。
柚木さんとカラオケに行った後、週末を過ぎて月曜になった。半ば強制的に交換させられたメッセージアプリにも、音沙汰なし。まだあるらしい勧誘に、今のところ遭わずに済んでいるということだ。
昼休み。この時間になると、クラスの友人が弁当片手に俺の席の周りにやってくる。
「数学マジ意味分かんなかったんだけど、道春分かった?」
「俺に聞くなよ……」
バスケ部に入っていて、勉強が苦手な清水。俺も得意じゃないけど、コイツよりはマシだと思う。
「清水も時田も、もうちょっと勉強したほうがいいぞ。俺知らねえからな?」
こっちは太田。帰宅部で、頭がいい。なんで俺や清水とつるんでるのか不思議だけど、中学の時からこの3人でなんだかんだ仲良くやっている。
毎日ふさぎこんでいても、ふたりは変わらずに接してくれている。とことん腐らずに済んだのは、ふたりのおかげだと思っている。
「てか腹減った」
「道春の弁当、今日もでっかいな」
「よくそんなに食べられるよな」
相変わらずデカいままの弁当を開ける。野球を辞めても食欲はこの有様だ。朝練後のおにぎりはなくなったけど。手を合わせ、いただきますをしてからまずはと唐揚げを頬張る。すると、
「時田くん、お客様だよー」
と俺を呼ぶ女子の声が聞こえた。お客様? 不思議に思いつつ顔を上げると、教室の入口のところに見知らぬヤツが立っていた。誰だ? とりあえず女子に手を挙げて礼をし、唐揚げを急いで咀嚼する。
「なんだ、まーた告白かと思ったら男か」
「告られても時田はまたフるんだろうけどな」
「それな。マジ意味分かんねえ」
勝手にあーだこーだ言うふたりを無視して、入口へと向かう。そこにいたのは、ずいぶんと野暮ったい男だった。前髪は目にかかっていて、顔がよく見えない。おまけに後ろ髪も肩につくくらい長い。この高校は学年ごとにネクタイの色が違っていて、俺と同じ二年の青を結んでいるけど。同級生にこんなヤツいたっけ? 一学年に8クラスあれば、そんなものだろうか。
「えっと、誰だっけ。呼び出す相手、俺で合ってる?」
「合ってるよ。金曜ぶりだねえ、時田くん」
「金曜ぶり? ……は? え?」
頭が激しく混乱する。金曜の話をされると、インパクトが強すぎたひとりの顔しか浮かばない。でも柚木さんがこんなところにいるはずがなくて。
改めて見ても、あの特徴的な金メッシュがない。ただ、声はたしかにそっくりだ。ああ、それから、このちょっとニヤついた口元も。
「まさか……いやでもそんなわけ……」
「お、そのまさかをとりあえず言ってみてよ」
「…………」
おちょくられてるみたいで、素直に腹が立つ。口の端っこがひくついているのが自分でも分かる。でもいつまでも、こうしているわけにもいかないわけで。
「……柚木さん? じゃないっすよね?」
おずおずと訊いてみる。すると男は得意げに少し顎を上げた。
「正解。すぐ分かったかぁ」
「っ、はあ!? ちょ、なんでこんなとこいるんすか!?」
「なんでって、この高校の生徒だから」
「いやいや、んなわけ……だってあんた……」
二十歳過ぎてるだろ。そう言いかけて、いや、年齢を直接聞いたわけじゃないなと気づく。
「え、マジで?」
「うん、マジ」
「同級生?」
「同級生」
「敬語で喋ってた意味……」
「面白いからほっといてた。ウケる」
ピースサインをして見せる柚木さん、いや柚木に、俺の体はわなわなと震えだす。そんな俺を知ってか知らずか、
「なあ、そんなことよりさ」
なんて柚木は言う。
「んだよ」
「ただ喋りにきたわけじゃないんだよ。考えてくれた? オレとバンド組む話」
期待に満ちた様子で見上げてくる。そこで俺のイライラは頂点に達した。
「……っ、組むわけねえだろ!」
渾身の大声が、騒がしい昼休みの廊下に響く。廊下のあちこちから何事かと窺う視線が刺さる。その中に野球部のヤツらもいたらどうしよう。肩身の狭い思いに襲われる俺をよそに、柚木は楽しそうに笑っていて。
「なんなんだよこの状況……」
これからの俺の学校生活、面倒くさいことになる気がする。そんな予感に、俺は前髪をくしゃりと握りこんだ。
自動ドアが開いたと同時に出迎えると、客が一瞬目を丸くした。俺の無駄にデカい声に驚いたのだろう。おまけに図体もデカいし、もしかしたらビビられているかも。そっと肩を竦め、落とすと同時にふーっと長いため息をこぼす。
高2の12月、金曜の夜7時。神奈川県内の、某コンビニ。俺だってこんな時期に、バイトなんかしているはずじゃなかった。俯いた先に少し浮かせた左足が映って、つい下唇を噛みしめる。むしゃくしゃして掻いた髪は、もう坊主の面影もない。
俺こと時田道春は、小学生の頃から野球一筋だった。多くの野球少年と同じく、高校野球で甲子園に行くことが夢だったけれど。高2の夏に先輩たちが引退して、部活内で最高学年になった秋。大事な秋季大会の準々決勝で、一塁ベースを踏む時に骨折してしまった。全治三ヶ月。リハビリをしてもう一度野球をやれるようになれるまでは、さらに数ヶ月かかる。病院の先生にそう言われた時、俺の心までポッキリと折れてしまった。
順調に復帰できたとして、その頃にはすでに三年生だ。そこからレギュラーに入れるなんて甘い夢は、どうしたって思い描けなかった。辞めると言ったらみんな引き止めてくれた。監督や部長の先生は、せめてマネージャーや記録員として残らないかと言ってくれた。でも俺は、首を縦には振れなかった。惨めな思いをしたくなかったからだ。
気遣われるのが居た堪れなくて、部員たちとは話さなくなった。野球ばかりの人生だったから、毎日ふさぎこむだけ。そんな俺に母親がしびれを切らして、バイトでもしなさいと半ば強引にこのコンビニに押しこまれてしまった。店長と顔見知りだったらしく、足のケガでまだ上手く動けないことは了承済み。学校からは遠く、野球部の連中と出くわす心配もないのは都合がよかったけれど。
精算待ちの列が伸びはじめた。近くの駅に電車が止まったのだろう。陳列をしていた店員が、もう片方のレジに入った。ついそちらを見ると目が合いそうになって、俺は慌てて目を逸らす。
バイトの先輩、柚木さん。何回かシフトが被ったことあるけど、正直苦手だ。
「こちらへどうぞー」
客を呼び、バーコードを読みこんでいく。十五分ほど経った頃、ようやく列は解消された。
初めてのバイトなこともあって、最初の頃はレジの操作に手こずったけれど。一ヶ月経って、もうずいぶんと慣れてきた。そんな自分にほっとするような、野球から離れてそれほどの時間が経ったのだと、感傷に浸ってしまうような。
そこまで考えて、ふうっと一瞬頬を大きく膨らませて、天井を仰ぐ。もう忘れたい、それがいいのだ、たぶん。
「時田くん。もうすぐ時間だから上がって。お疲れ様」
「あ……はい。お疲れ様っす」
店長に声をかけられて時計を見ると、あと3分ほどで20時になるところだった。もうこんな時間か。
「柚木くんも上がってー。今日は急にお願いしたのに、ありがとうね」
「いえ、ちょうど暇してたんで」
どうやら柚木さんは、誰かの代わりに急きょ呼ばれたらしい。たしかにシフト表に名前はなかった。退勤時間が一緒になるのは初めてだ。
「じゃあ、お疲れっした」
このまま帰り道まで一緒になりたくない。頭を下げながら制服のボタンに手をかけ、そのままバックヤードへと向かう。ブレザーと上着を着て外へと向かう扉を開けようとした時、
「ねえ、ちょっと待って」
との柚木さんの声が聞こえてきた。俺じゃないって、そう思いたかったんだけど。
「時田くん」
と名前を呼ばれてしまった。無視するわけにもいかず、俺は錆びついたロボットみたいにゆっくりと振り返る。
無造作に結わえられた少し長い髪、左のこめかみの上辺りに金色のメッシュが入っている。両耳にはいくつも開いた派手なピアス。おそらくフリーター。俺の周りにはいないタイプの人間だ。
「……なんすか」
「一緒に帰んない? 前から話してみたかったんだよね」
「えーっと……」
「なんか用事あった?」
「いや、ないっすけど……」
「じゃあ決まりな」
しまった。急いで帰らなければならないと嘘でも言えばよかった。後悔しても後の祭りで、支度をする柚木さんを待つ。2〜3分ほどで、背中になにか大きな荷物を背負った柚木さんが出てきた。
「さっむ」
「やばいよねー、オレ冬苦手!」
12月の夜の外は、骨まで寒さが染みこんでくるみたいだ。冷たい風に体を縮こませながら、駅へ続く道を並んで歩く。
「時田くんってすげー背高いよね。なんセンチ?」
「190です」
「でっか! え、オレと20センチ違うってこと!?」
「……柚木さんは何センチなんすか」
「175くらい」
「じゃあ20センチは言いすぎっすね」
「四捨五入したら20センチじゃん」
「まあ、そうっすけど」
「マジかー。平均くらいなはずなのに、時田くんと並ぶとチビだわ」
話してみたかっただなんて、話題なんてあるだろうかと不思議だった。俺と柚木さんは、きっと真逆の人間な気がするからだ。けれど、柚木さんはずいぶんとおしゃべりらしい。ひっきりなしに喋っている。
それに、ケガのせいでどうしても歩くのが遅い俺に、柚木さんはなにも言わず合わせてくれている。見た目で判断して苦手意識を持っていたことに、罪悪感がじわじわ生まれはじめる。
「俺、電車なんでここで。柚木さんはこの辺すか?」
駅へと到着し、そちらを指差しながら立ち止まる。店長や立地は文句なしだけど、家からも距離があることだけはネックだ。
「うん、この辺。だけど〜……時田くん、特に用事ないってさっき言ったよね?」
「…………? はい」
「じゃあさ、もうちょっと付き合ってくれない?」
「付き合うってどこに……」
なんだか嫌な予感がする。そう思いつつ問い返せば、柚木さんがニヤリと笑う。
「時田くんはカラオケ好き?」
「あ、興味ないっすね」
「わお残念。でも、今日興味でるかもよ」
「は? いやいや、俺は行きませんよ……」
「なあ頼む! 一生のお願い! オレが奢るから! ね?」
「ええー……」
両手をパチンと合わせ、柚木さんは頭を下げた。
なにをそんなに必死になることがあるんだろう。唄いたいのなら、カラオケくらいひとりで行けばいいのに。意外とひとりじゃ行動できないタイプなのか? とてもそんな風には見えないけど。
でも、一生のお願いだなんて重いはずのワードが、いとも簡単に出てきたことで逆に気が抜けてしまった。切り札のはずのそれを初めて話して数分で出せるくらい、俺と柚木さんの関係性は薄いってことだ。じゃあこっちだって、軽い気持ちで乗ればいいのかもしれない。
「俺、カラオケ行ったことないんすよ」
「え、そんな高校生存在すんの?」
「存在しますね、俺が証人です」
「あはっ、たしかに」
「なので、盛り上げるとかできませんよ」
「っ、平気! 盛り上げてほしいわけじゃないから! てかそっちじゃないし!」
「…………? じゃあ、ちょっとだけ」
そっちじゃないってどういう意味だろう。でもとりあえず、盛り上げなくていいのなら楽だ。楽器を振ったり合いの手を入れたりだとかは、俺には向いてない気がするから。
「よっしゃ! 時田くんの気が変わらないうちに行こ。あっちだよ」
「あれ、こっちにありましたよね? カラオケ」
「そっちのが近いけど、向こうのほうに行きたくて」
「…………? そうなんすね」
コンビニのほうに少し戻れば、有名なチェーン店のカラオケがあるのに。俺にはよく分からないが、店舗によって違いがあるのだろうか。
「ここだよ」
「ここ……?」
柚木さんにはこだわりがあるみたいだから、どんな店だろうと構えていたら。なんの変哲もないカラオケで、なんだか拍子抜けしてしまった。
「ねえ時田くん、カラオケ店に入る時は靴脱ぐって知ってた?」
「え、マジすか」
「ううん、冗談」
「やっぱ帰っていいっすか」
「ごめんて! ほら、入ろ!」
カラオケに行ったことがないなんて、バカ正直に言うんじゃなかったかも。ついムッとすると、柚木さんは慌てて中へと俺を誘う。
「お、柚木くん」
「あ……店長こんばんは」
受付のカウンターの向こうから、男性が柚木さんに声をかけた。どうやら顔見知りらしい。
「久しぶりだね。岩崎は元気にしてる?」
「……っ」
紙に必要事項を記入していた柚木さんの、手と表情が一瞬固まった。どうしたのだろう。
「あー、はい。元気ですよ」
「それはよかった。今日はお友だちと?」
「はい」
ちょっと気になったけど、柚木さんはすぐにまた笑った。店長と呼ばれた男性も、嬉しそうに頷いている。
「フリータイムね。例の部屋希望かな?」
「空いてます?」
「空いてるよ」
「よかった。時田くん、ドリンクひとつ注文するかドリンクバーか選べるんだけど、どっちがいい?」
「え? えっと……じゃあ、ウーロン茶で」
ふたりの表情を観察していたからか、返事に間が空いてしまった。そんなに長居する気はないので、一杯だけにしたほうがいいだろう。
「おっけ。じゃあウーロン茶とコーラひとつずつで」
「了解。すぐ持っていくね」
「時田くん、行くよー」
「っす」
手続きが済んだようで、柚木さんの後をついていく。受付の横を通って、奥へと進む。
「ここだよ」
どこか得意げに、柚木さんがひとつの部屋を指差した。そういえばさっき、店長さんが“例の部屋”と言っていたっけ。なにか特別なのだろうか。中に入ってみても、通常のカラオケと違いはないように見える。キョロキョロしている内に、ドリンクはすぐに運ばれてきた。
「まあ座りなよ」
「っす」
言われるがままに、ソファに腰を下ろす。柚木さんはテーブルを挟んだ向かいにある、円筒状の椅子に座った。腰を下ろしたまま椅子をこちらへと引き寄せて、俺の顔をじっと見てくる。
「え、っと……唄わないんすか?」
「うん、オレは唄わない」
「え?」
「時田くん、唄ってみてよ」
「は……? いやいや、俺は唄いませんよ」
「オレ、時田くんの歌が聞いてみたくて来たんだけど」
「ええー……そんなん初耳なんすけど……」
そんなこと、カラオケに行こうと言い出した時には言われなかった。最初から分かっていれば、絶対に無理だと断ったのに。
「だって、言ったら来てくれない気がしたからさあ」
「分かってるじゃないすか」
「ねえ、お願い。一曲でいいからさ」
「俺、歌とか苦手なんで」
「でもカラオケ来たことなかったんでしょ?」
「それはそう、っすけど」
「じゃあ分かんないじゃん。あ、音楽全く聴かなかったりする?」
「結構聴きますね……家にいる時とかはサブスクで流しっぱっす……」
「それはよかった」
「だからって唄えないっすよ」
「なんで? 家で熱唱して下手だって自覚してるとか? もしくは音楽の成績1だったりする?」
「口ずさむくらいはしますけど、熱唱しないし1でもないっす……」
「じゃあお願い! 一生のお願いなんだって! ね?」
「…………」
一体、どうして俺なんかの歌を聞くためにそんなに必死になれるのだろう。駅前でもしていたみたいに柚木さんは必死に手を合わせて、テーブルに肘を乗せてこちらへ身を乗り出している。
全然気乗りしない。今すぐに帰りたい。人前で歌を唄うなんて、考えるだけで恥ずかしい。でも……目の前で一生懸命な顔をしているこの人を、ほっぽって帰るのか? そんなのシンプルに心苦しいし、なにより久しぶりだった。こんな風に、誰かに期待される感覚。骨折をしてしまったあの日からもうずっと、俺を労る悲しげな顔とかそんなのばっかりだったから。みんなの気持ちを背負って打席に立つあの感覚に、今この瞬間はほんの少しだけ似ている。応えたい、なんて思ってしまっている。
「……マジで一曲だけ、でいいなら」
「っ、いい! 全然いい!」
「言っときますけど、絶対下手っすからね」
「うんうん、そんなの気にしないで」
「はあ……」
ここまで来たら、もう後戻りはできない。柚木さんも俺の気が変わらない内にと言わんばかりに、室内に置いてあった機械を手に隣へとやってきた。
「これ、曲を選ぶリモコンね。使い方教えてあげる。まずはここ押してー、アーティスト名か曲名で検索できるから」
「へえ、なるほど……」
指でタップして曲を探すらしい。スマホやタブレットみたいなものだと思えば、簡単だ。ただ、唄うと言ったはいいもののなにを唄うかが決められない。画面を行ったり来たりしているだけなのに、柚木さんがワクワクした顔で見てくるからちょっと気まずい。
「あのー……時間かかりそうなんで、そっちで待っててもらっていいっすか」
「そう? オッケー」
さっき柚木さんが座っていた椅子を指さすと、柚木さんは素直に移動してくれた。コーラを飲みながら、俺の選曲を今か今かと待っている。椅子に片手をつく様子がちょっとあどけない。二十歳は過ぎた年上だろうに、不思議な人だ。
気を取り直して、リモコンに意識を戻す。音楽はよく聴いている、本当に。でも唄うとなると、どうもピンとこない。いや、頭に浮かんだ曲はあるけれど、どうにも躊躇してしまうのだ。
数年前の、夏の甲子園のテーマソング。四人組バンドの曲で、声を張り上げて唄われるこの曲がすごく好きだ。胸のド真ん中にストライクで入ってくる。でも、これを俺は唄えるだろうか。技量的なことはもちろん、それ以上に、心情的に。野球への想いを、日々の練習への気力を後押ししてくれる存在だった。そんな歌を、野球を辞めた俺が?
とりあえず、と曲名で検索をかける。するとそこには、冒頭の歌詞がワンフレーズ書かれていて。それを見た瞬間、喉の奥がぎゅっと狭くなる心地を覚えた。やっぱり唄えない。じゃあなにを唄う? 考えたって延々と決められない気がして、同じバンドの他の曲を適当に選んだ。
「へえ。こういう選曲ね」
そう呟いた柚木さんが、マイクを取って渡してくれた。それを受け取ると、一気に緊張が襲ってきた。音楽のテストでひとりで唄うのだって、すごく億劫なのに。でも腹をくくるしかない。ふうっと一瞬頬を大きく膨らませて、天井を仰ぐ。
音楽が流れはじめる。歌詞が画面に表示されて、息を吸う。あーあ、出だしで突っかかってしまった。恥ずかしくて小さい声しか出ない。声のデカさが俺の数少ない取り柄なのに。
そのまま唄いすすめ、サビに差しかかりそうになった時。柚木さんが
「もっといけるっしょ!」
と声を張り上げた。驚いてそちらを見ると、やけに真剣な目がまっすぐに俺を見ていた。
なんなんだよこの人。派手な格好して、いつもヘラヘラ笑っているのに。まるで俺を見定めるようなその目に、苛立たしさが急激に襲いかかってきた。
「くそっ!」
息継ぎのタイミングで悪態をついて、俺は大きく息を吸った。もうヤケクソだ。どうせ、この一回だけ。どちらにしろ恥をかくなら、俺の無駄にデカい声をぶつけ切ってやる。
「――――!」
丁度いいことに、選んだのは闘いに挑む男の歌だ。共鳴するみたいに、叫ぶように、荒々しく唄う。
1番のサビを唄いきった頃には、呼吸が乱れていた。それをどうにか整えようとする俺の視界に、立ち上がる柚木さんの姿が映った。今度はなんだ? つい訝しむと、ニヤリとした顔で俺を見ながら、
「ビンゴ」
と呟いた。
ビンゴ? どういう意味だ? 呆気にとられているとすぐに2番が始まってしまった。
「ほら、唄って」
唄うように俺へ促しながら、柚木さんはずっと背負っていた大きな荷物を手に取った。中から出てきたのは、ギターだ。一体なにを? つい気になって、画面と柚木さんを交互に見てしまう。
(ちゃんと唄って)
口パクで俺に注意しながら、柚木さんは手を止めない。あっという間に、ギターとカラオケの機械がコードで繋がれた。エレキギター、ってヤツかな。そのギターのストラップを肩に掛けた柚木さんは、二番のサビに差しかかった瞬間――ギターの弦を弾いた。その音は、大きな衝撃と共に俺の体を駆け抜けた。圧倒されて、唄えなくなる。するとすぐに柚木さんが挑発的な目で俺を見る。
お前そんなもんかよ、しょうもないな。
そう言われているみたいで、俺は思わず立ち上がった。そうしたところでこの足では、踏ん張れないと分かっているのに。負けたくない、と思ってしまった。
マイクを持っていた手にもう片手を添え、今日いちばんの声を張り上げる。俺の声と柚木さんのギターが絡み合うみたいに、部屋中に満ちていく。
最後のフレーズを、シャウトするように唄い上げる。カラオケの音源が消える。そして俺の声とギターの音だけが残り、まるで息ぴったりとでも言わんばかりに、全く同じ瞬間に音が消えた。
荒くなった呼吸に、俺は胸を上下する。こういうの、いつぶりだっけ。必死になる感覚はあの日突然途絶えてしまって――ああ、だけど今、こんなにも気持ちいい。
「時田くん」
名前を呼ばれて、ゆっくりと顔を向ける。すると柚木さんが、満足そうに笑っていた。乗せられてしまった、完全に。柚木さんに、柚木さんのギターに。
「時田くんのこと、いい声してるなって思ってた。だからって歌もいいわけじゃないって分かってるけど、どうしても聴いてみたかったんだ」
「…………」
「唄い方は荒削りだけど、それがいい味出してる。ピッチは合ってるし、素人でこの曲を唄いこなせるのはすごいよ。本当に普段唄ってないの?」
「ないっすね……」
「マジかあ。はは! 時田くんすごいよ、もっともっと上手くなれる」
「はあ……」
柚木さんは興奮しているようで、目をキラキラ輝かせている。そんなに褒めてもらえる要素が自分にあったなんて、俺にはよく分からない。だから、ピンときていないというのが正直なところだ。
「時田くん」
「……あ、はい」
いつの間にか俺は首を傾げていたみたいで、斜めの視界で柚木さんが一歩近づいてきた。そして、驚くべき言葉を俺に投げかける。
「オレと一緒に組まない?」
「…………? 組むって、なにを?」
「バンド。まあ、ギターとボーカルのふたりだけだけど。他の音は打ち込みでどうにかするし」
「っ、は? バンド? 俺が? いやいや、無理っす」
「なんで? 音楽好きなんでしょ?」
「好きですけど、それはあくまで聴くほうのことで!」
なんだか妙なほうに話が転がりはじめた。バンドなんて一度も考えたことなかったから、青天の霹靂もいいところだ。ブンブンと横に首を振ってつい大声になっても、柚木さんはちっとも引かない。
「でもさっき、気持ちよくなかった? オレのギターと、時田くんの歌が混ざる感じ」
「っ、それは……たしかにそう、でしたけど」
「やっぱり。オレもすげー気持ちよかったよ。ああいうの……久しぶりだった」
柚木さんはそう言って、なぜか寂しそうに笑った。口角は上がっているのに、眉がしゅんと下がっている。
「……いやでも、俺はマジで無理なんで! さっきのはまぐれで唄えただけだと思うし!」
柚木さんの表情が気がかりで、つい安請け合いしてしまいそうになったのを堪える。バンドなんて無理に決まってる。いちばん好きな野球すら成し遂げられなかったのだから、尚更。
「ふうん、あっそ。じゃあ諦めようかな」
ちょっと態度は悪いけど、納得してもらえたみたいだ。ほっと胸を撫で下ろして、でもそれは気のせいだったとすぐに知ることになる。
「分かってもらえてよかったっす」
「今日のところは、ね」
「……え?」
「覚悟してろよー、って意味ー。よし、じゃあ帰ろっか」
「は!? ちょっと柚木さん!?」
不穏な言葉を残しながら、柚木さんはテキパキとギターをケースにしまった。早く帰ろうと言いつつ扉を開け、そこで俺を待っている。俺がこんな足だから、そうしてくれているのだろう。
身勝手なのか優しいのか、この人のことがちっとも掴めない。ただ、見た目だけの先入観で苦手に感じていたことは、やっぱり訂正だなとこっそり思う。身勝手であれ優しい人であれ、その胸の中に熱いものを持っていることだけは確かなようだから。
「すいません、待たせちゃって」
「いーえー。このくらいどうってことないですよー」
「……俺、バンドやりませんからね?」
「へっ、ケチ野郎」
「はあ!?」
もしかして、優しいはちょっと勘違いかもしれない。ケチ野郎なんて言葉、人がいいなら言わない気がするから。
柚木さんとカラオケに行った後、週末を過ぎて月曜になった。半ば強制的に交換させられたメッセージアプリにも、音沙汰なし。まだあるらしい勧誘に、今のところ遭わずに済んでいるということだ。
昼休み。この時間になると、クラスの友人が弁当片手に俺の席の周りにやってくる。
「数学マジ意味分かんなかったんだけど、道春分かった?」
「俺に聞くなよ……」
バスケ部に入っていて、勉強が苦手な清水。俺も得意じゃないけど、コイツよりはマシだと思う。
「清水も時田も、もうちょっと勉強したほうがいいぞ。俺知らねえからな?」
こっちは太田。帰宅部で、頭がいい。なんで俺や清水とつるんでるのか不思議だけど、中学の時からこの3人でなんだかんだ仲良くやっている。
毎日ふさぎこんでいても、ふたりは変わらずに接してくれている。とことん腐らずに済んだのは、ふたりのおかげだと思っている。
「てか腹減った」
「道春の弁当、今日もでっかいな」
「よくそんなに食べられるよな」
相変わらずデカいままの弁当を開ける。野球を辞めても食欲はこの有様だ。朝練後のおにぎりはなくなったけど。手を合わせ、いただきますをしてからまずはと唐揚げを頬張る。すると、
「時田くん、お客様だよー」
と俺を呼ぶ女子の声が聞こえた。お客様? 不思議に思いつつ顔を上げると、教室の入口のところに見知らぬヤツが立っていた。誰だ? とりあえず女子に手を挙げて礼をし、唐揚げを急いで咀嚼する。
「なんだ、まーた告白かと思ったら男か」
「告られても時田はまたフるんだろうけどな」
「それな。マジ意味分かんねえ」
勝手にあーだこーだ言うふたりを無視して、入口へと向かう。そこにいたのは、ずいぶんと野暮ったい男だった。前髪は目にかかっていて、顔がよく見えない。おまけに後ろ髪も肩につくくらい長い。この高校は学年ごとにネクタイの色が違っていて、俺と同じ二年の青を結んでいるけど。同級生にこんなヤツいたっけ? 一学年に8クラスあれば、そんなものだろうか。
「えっと、誰だっけ。呼び出す相手、俺で合ってる?」
「合ってるよ。金曜ぶりだねえ、時田くん」
「金曜ぶり? ……は? え?」
頭が激しく混乱する。金曜の話をされると、インパクトが強すぎたひとりの顔しか浮かばない。でも柚木さんがこんなところにいるはずがなくて。
改めて見ても、あの特徴的な金メッシュがない。ただ、声はたしかにそっくりだ。ああ、それから、このちょっとニヤついた口元も。
「まさか……いやでもそんなわけ……」
「お、そのまさかをとりあえず言ってみてよ」
「…………」
おちょくられてるみたいで、素直に腹が立つ。口の端っこがひくついているのが自分でも分かる。でもいつまでも、こうしているわけにもいかないわけで。
「……柚木さん? じゃないっすよね?」
おずおずと訊いてみる。すると男は得意げに少し顎を上げた。
「正解。すぐ分かったかぁ」
「っ、はあ!? ちょ、なんでこんなとこいるんすか!?」
「なんでって、この高校の生徒だから」
「いやいや、んなわけ……だってあんた……」
二十歳過ぎてるだろ。そう言いかけて、いや、年齢を直接聞いたわけじゃないなと気づく。
「え、マジで?」
「うん、マジ」
「同級生?」
「同級生」
「敬語で喋ってた意味……」
「面白いからほっといてた。ウケる」
ピースサインをして見せる柚木さん、いや柚木に、俺の体はわなわなと震えだす。そんな俺を知ってか知らずか、
「なあ、そんなことよりさ」
なんて柚木は言う。
「んだよ」
「ただ喋りにきたわけじゃないんだよ。考えてくれた? オレとバンド組む話」
期待に満ちた様子で見上げてくる。そこで俺のイライラは頂点に達した。
「……っ、組むわけねえだろ!」
渾身の大声が、騒がしい昼休みの廊下に響く。廊下のあちこちから何事かと窺う視線が刺さる。その中に野球部のヤツらもいたらどうしよう。肩身の狭い思いに襲われる俺をよそに、柚木は楽しそうに笑っていて。
「なんなんだよこの状況……」
これからの俺の学校生活、面倒くさいことになる気がする。そんな予感に、俺は前髪をくしゃりと握りこんだ。



