眉間に皺を寄せながら「何か、それ、凄いね」と言うアメコの表情を読み取り、私は「確かに人よりも老化のスピードは遅いかもしれない」と言った。彼女は首からぶら下がる金色のネックレスの十字架を摘まんで見せた。
「ほら、ほら」
「馬鹿じゃないの」
「大蒜はどうなの」
「さっき食べたパスタに入ってた」
「じゃあ、肌が弱くなったから、陽の光にだけ気を付けていれば良いのね」
「まあね、あとさ、自動ドアが開かない時があるんだよね、私、半分死んでるのかなって」
「黒い服着てるからでしょ。私も自動ドア、開かない確率結構高いよ」
そう言ってから彼女は、私にある提案をした。
「その宿ではさ、スペイン語を使ってたんだよね、私さ、友達にスペインのアーティストが居るから、ちょっと調べて貰おうか。はっきり言って、変だよ、その話」
私は諦めにも似た表情を作り「十年も前の話だし、何か出てくるかなあ」と、ゆっくりと鼻息を吐き出しながら少しの間考えた後、彼女の申し出を受け入れることにした。アメコのスマートフォンが鳴る。「あ、もしもし、お世話になっております。ええ、ええ、はい、すぐ行きます」と彼女は普段よりも高い声色で対応して、通話を切った。
「御免、お世話になってるギャラリーのオーナーが来ちゃった」
「あ、行って、行って」
またね、と言ってアメコは速足で階段を下りて行った。
* * *
翌週、私は東北自動車道を北に向かって車を走らせていた。私のスケジュールアプリには「ねぷた祭りが終わる八月八日以降に弘前に行くべし」と記されている。目的地は弘前城を囲む道路沿いに佇む、明治時代から続く老舗の旅館だ。「石渡旅館」はその長い歴史の中で重ねられた数度の増築により館内は迷路の様相を見せ、建物自体もその建築方法と合わせて当時のままに保存されており、多くの建築家達が宿泊する場所となっていた。また嘗て板垣退助らが常泊していたという歴史もあり、今では文化財として登録されていた。
愛車のデイズに乗り、長い距離を自動運転モードで走らせながら、私は学生時代を振り返っていた。アメコにアンドラ公国での体験を話した影響もあったのだろう、度々過去の記憶を思い出しては検証を始めてしまう。高速道路のカーブの形状を認識しハンドルを握り続けている自分の意思とは別に、何処かにある思考の余白に過去の映像を再生させている。今は「石渡旅館」の館長であるイシワタリが登場していた。
* * *
イシワタリは大学時代からの友人だった。彼と出会ったのは全くの偶然で、二十歳のある朝、滝野川にある実家から最寄り駅である板橋駅に向かう途中で、四車線ある国道十七号線を渡る横断歩道で赤信号が青に変わるのを待っていた時の出来事だった。小学生の頃、親戚から貰った使い古しのローラースケートを履いてこの信号に差し掛かった処、靴底の爪先に付いているブレーキのゴムが取れてしまい赤信号で止まることができず、猛スピードで走り抜ける車の列に飛び込んでしまう寸前に身体を後ろに倒し、後ろ手に尻餅を付いて身体を止めて九死に一生を得たことがあった。親指から数センチ先を車のタイヤが通り過ぎて行く。その時以来、この信号機の横に立つといつも緊張してしまい、時には鳥肌を立ててしまう。そんな場所で後ろから来た青年から唐突に声を掛けられた瞬間、私は電気を流されたように少し飛び跳ねてしまった。
「あの、板橋駅って、この道であってますか」
「あ、はい、合ってますよ」
「すみません、板橋って初めてなので、ちょっと良く分からなくて」
「私も板橋駅に行きますから、一緒に行きましょう」
横断歩道を渡った先には商店街がある。この通りでは小学生や中学生時代の友人達と度々顔を合わせることがあった。もし隣の青年と並んで歩いている処を見られたら、この狭い町内ではモモカが恋人と朝一緒に登校している、などと噂されるのは嫌でも想像が付いた。私は商店街の右側に平行して走っている狭い路地へと青年を促して、いつもより少し遠回りをして駅へと向かわなければならなかった。
「麻雀はやったことないな」
「あれ、結構頭使いますよ」
私達の会話は次第に映画の話題になり、アンドレイ・タルコフスキーの作品について話し合った。美術大学の友人達以外で、この映画監督を知っている人間に会ったのは初めてだったかもしれない。「やっぱり東京は凄いですね、皆タルコフスキー知ってるんですね」とイシワタリが言ったので、私は慌てて否定した。
「違う違う、普通の人は知らないと思うよ、私、美術大学に行ってるから、たまたまそういう映画に興味がある人が沢山居るから」
二人で一緒に埼京線に乗った。イシワタリは池袋で東武線に乗り換えるのだという。私は当時、大学の有志数人でグループ展を開いていたので、彼にダイレクトメールを一枚手渡した。
「京橋のギャラリーで展示してるから、もし興味があったら来て」
「あ、絶対行きます」そう言ってイシワタリは池袋駅のホームの雑踏の中に紛れてその姿を消した。数日後、彼は大学の数人の友人達を連れてギャラリーに現れた。暫くの間、腕組みをしながら私の絵を観ると「良いですね」と言った。
* * *
私が描いた絵は五センチ四方の真四角の白いタイルが百枚程、規則的に並べられているという単純なモチーフの油絵で、それを「昭和の銭湯の壁」や「時代遅れのミニマリズム」などと評する人も居た。幼少期から私はモザイクタイルの壁など、一定のルールに従い規則的に配置された状態に愛着を持つ傾向があり、普段から自宅の本棚に収納されている本もサイズ別に常に整理していなければ気が済まず、挙句の果てに父親のCDコレクションもジャンル別、アルファベット順に勝手に並べ変えては呆れられていた。アメコは笑っていたけれど、それは最早私の性癖とも言えるその性質をキャンバス上に表現したものだ。
ギャラリーには所謂「論客」という人間が屡々現れて、作品のコンセプトを尋ねてくる。そんな人間達に対応する為に私もそれなりの理論武装を用意していたのだけれど、そもそも文章や言葉で表現出来るのであれば、小説や論文でも書けば良い、というのが私の持論だった。美術は他の物に変換出来るものではない。これはアメコも同じ意見だった。結局アメコは噛み付いてくる「論客」達に対して理論武装を披露することに飽き飽きし、次第に網膜に映る物質的な物と、眼には見えない何物かを同時に捉えるという行為に没頭し始め、結果的に煙の動きを追う油絵を描くようになった。
学生当時、私には定期的に購読していた美術雑誌があった。毎月発行されるその本の中では毎回持ち回りで数人の美術評論家達が日本語を捏ね繰り回し、数ページにも渡る難解な文章を作り上げては競うように論評を発表し続けていた。若い時分の貧しい読解力のせいもあったのだろう、私は彼等の文章を読む度に暗号を解読するような、また眩暈にもに似た感覚に襲われて毎回辟易とさせられていたのだけれど、この美術の世界で生きて行く為には必要な知識なのだと諦めて文字の羅列を追い続けていた。しかしその中で一人だけ、私にも理解し得る文章を書く評論家が居た。ユーモアも交えたその評論文は、美術に興味の無い人間でも一度は美術館やギャラリーに足を運ばせる気にさせるかもしれない、優しく魅力的なものだった。私はグループ展に参加した時に、その評論家に手紙を書き、私の絵を観て欲しいと訴えた。
ギャラリーに現れた評論家は頭頂部が禿げ上がり、背が高く棒のように痩せた年配の男だった。彼は私の絵を鑑賞した後、稚拙ながらも懸命に捻りだした理論武装を頷きながら聞き、眼鏡の奥の優しい眼を緩やかな虹のカーブの形に曲げながらメモを取り続けた。幾つかの質問を私に投げかけた後で「良いですね」と言った。以来、数回に渡り開催されたグループ展に評論家は毎回訪れてくれるようになった。購読していた美術雑誌にも私と作品についてのコメントが小さく、僅かに一言だけだけれど掲載されると、眼を掛けてくれていたギャラリーのオーナーも、その記事を読むと喜びを表してくれた。私は「美術村」の住人になったのだ。
* * *
三年生の年末のある日、インターネットのニュースで評論家の訃報の記事を見付けた。癌だった。私の絵筆は止まってしまった。彼が亡くなったという事実に衝撃を受けたというよりも、いつの頃からか私は自分自身の表現を追求せず、その評論家に気に入られるような作品を描いていたことに気が付いてしまったのだ。更に言えば、私には元々表現したいことなどは何も無い、ただ「変わり者」と思われたいが為に元々得意としていた美術の授業の延長として美術大学に進学し、その結果として「アーティスト」と呼ばれる、何者かに成ろうとしていただけだ。
四年生の春、懇意にしていたギャラリーのオーナーが事故で亡くなった。最早私は何も描く気が起こらなくなり、大学四年間の集大成である筈の卒業制作は近所の家で飼育されている犬を適当に描いた百号の油絵を提出した。卒業制作展では私の絵の前を、あたかも透明な空気を用いた作品が展示されているかのように誰もが通り過ぎて行く。辛うじて「美術村」に残ったゴシック・ロリータ・ファッションのアメコの周りと、その作品の前には人集りができていた。
大学の裏手には四畳半程の広さの焼却場があり、いつもキャンプファイヤーの如く炎が起ち昇っていた。そこでは作品制作に使用された大量の廃材が常に燃やされ続け、木材に含まれる水分やこびり付いた樹脂などが急激に加熱されて圧力が高まり、時折破裂音を発している。卒業制作展が終わると、私は百号の油絵をその大学裏の焼却場に持って行き、投げ入れた。「いいのかい」と言う年老いた焼却場の管理人に、私は「いいのよ」と答えた。老人は焼却物を効率よく燃やす為に長い鉄の棒をリズミカルに炎の中に差し入れて空気を入れる。全てが焼き尽くされ灰となったのを見届けると、私は大学を卒業した。
* * *
イシワタリから連絡があったのは二十五歳の春のことだ。当時勤めていたデザイン会社に私宛でメールが届いていたのだ。私をデザイナーとして指名した、旅館のホームページとパンフレットの作成依頼だった。彼は大学卒業後、官公庁に就職していたのだけれど、弘前の実家で旅館を経営していた父親が病に倒れ、急遽代々続く老舗旅館の五代目として帰郷することになったのだ。
その翌月、私はイシワタリの元へ向かった。大鰐弘前インターチェンジを降りた後、弘前城方面へと車を走らせる。日本家屋風の大きな屋敷を思わせる外観の「石渡旅館」の正面で待ち構えている石造りの門柱を抜けた奥にある玄関の扉は、摺り硝子に家紋の入ったスライド式になっている。右側の扉を横に流して開けると、床のレールと扉の車輪との摩擦で起こる振動で硝子が細かく震えて音を立てた。
玄関で出迎えてくれたイシワタリは、笑顔で私の為に用意した宿泊部屋まで案内してくれた。フロントがある歴史を感じさせる古い建物と、後年増築されたと思われる宿泊部屋が存在する建物を繋げる渡り廊下に当たる部分には枯山水があり、その上に架かる小さな太鼓橋を渡る構造になっていた。イシワタリは英語の他、フランス語とスペイン語が堪能で、ガイドやサポートができる為か旅館には多くの外国人観光客が宿泊しており、度々廊下ですれ違った。珍しそうに太鼓橋の写真を収めようとスマートフォンのシャッターを切っているグループも居る。
「遠かったですよね、わざわざありがとうございます」
「あ、全然大丈夫です。何か、凄いですね、これって明治時代の建物なんですよね、凄く綺麗ですね」
「毎朝拭き掃除をして磨いてはいるんですけど、結構修復しなければならない処もあって、友達の大工にメンテナンスしてもらっているんですよ。お疲れでしょうから部屋でゆっくり休んでください。打ち合わせは夜か明日でも大丈夫ですかね」
「あ、私は何時でも大丈夫ですけど、あ、やっぱり、明日でも大丈夫ですか」
「じゃあ明日にしましょう。今晩の夕食はこちらでご用意しましょうか」
「あ、いえ、少し寄りたい処があるので、今夜は外で済ませます」
了解です、と言って部屋のアメニティを一通り説明し終えた後、イシワタリはフロントに戻って行った。
* * *
その晩は弘前に住む美術大学時代の友人と会う約束をしていたのだ。旅館から信号を二つ隔てた、隣の町内にあるファミリーレストランで、私はサキと会った。大学生時代の四年間、多くの時間を共に過ごした彼女は、友達というよりも私にとっては最早家族に近い存在だった。滝野川の実家から東京の郊外にある大学までは片道二時間を要したこともあり、私は学校の近くに下宿していた彼女のアパートに転がり込み、殆どそこから通学していた。一週間の内、四日は彼女の部屋で生活していた為、私の両親がアパート代を半分支払うと提案したのだけれど、彼女はそれを丁寧に断った。それどころか、彼女は合鍵を作り、それを私に預けてくれたのだった。
サキは幼少期から他人の感情に対し極めて敏感で、会話中の空気の変化や相手の些細な表情の歪みすら見逃さなかった。彼女の繊細な感覚は、時に彼女自身を深く傷つけていた。普段はテレビ番組を観ない彼女は、ある日偶然ニュース番組に映る悲惨な事件の報道を眼にしてしまい、それ以降、数日間部屋から出られなくなってしまったこともある。インターネット上のネガティヴな記事や炎上、怒りに満ちたSNSの投稿にも、彼女の心は過剰に反応してしまう。
一学年の頃は、そんな彼女に私も戸惑いながら付き合っていた。テストや重要な授業があるにもかかわらず、布団から出られないサキの手を取り大学へ連れて行き、教室の席に彼女がなんとか着席するのを確認してから、自分の講義へ向かう。そんな事が何度も続いた。今思えば、あの時期の彼女の両親もまた、東京で一人暮らしをしていた彼女の精神的な支柱として私を頼りにしていた節があったのだろう。実際、夏休みや年末になると、毎年のように弘前のサキの実家から私の家に暑中見舞いや御中元が送られてきていた。彼女の両親が共に教師という事もあり、その手紙には毎回丁寧な感謝の言葉が綴られていた。
二学年に進む頃には、サキは少しずつネガティヴな情報を受け入れないように対処する術を覚え、また自分の感受性との付き合い方を学んでいたようにも思えた。極力ニュースサイトを見ないようにしたり、体調が悪いと感じた時には人混みの多い場所を避けて呼吸の速さを調整したりと、押し寄せる感情の波に呑まれそうなときには、ノイズキャンセリングのイヤホンで音楽を流すようにするなど、彼女なりの対処法を見つけていった。また、周りの友人達に恵まれていたのも幸運だった。彼、彼女達はそんなサキの性質を理解し受け入れ、それは一つの個性なのだから大丈夫なのだ、と彼女に説いていた。
サキは、眉毛の上で横一直線に切り揃えられた美しい黒髪と、何処かミステリアスな切れ長の瞳を持っていた。彼女に惹かれる異性は決して少なくはなかった。私自身、そうした視線が彼女に向けられていることには気が付いていたけれど、サキは常に彼等との間に距離を保ち続け、相手に対して「周波数が違う」と言って必要以上に距離を縮めることはなかった。
しかしながら大学を卒業して社会に足を踏み入れた途端、これまでとは全く異なる環境や人々にも対応せざるを得なくなってしまい、就職先の会社では日々多くの人と関わることが求められた。時には彼女の繊細な感覚を活かしたマーケティング戦略は重宝されもしたのだけれど、同時に人々の感情の畝りに巻き込まれることにもなった。決して悪気はなくとも男女問わずサキに興味を持ち、彼女の内面に土足で入ろうとする人々と感情を交換しなければならず「次第に都会の喧騒が悲鳴に聞こえてきた」と後に彼女は私に話した。
そんな中で、サキに惹かれ、彼女を守ろうとするような態度を取るクライアントの担当者達も現れた。当然彼女は彼等のそういった想いを受け入れることはなかった。彼女の中ではそれらもまた「異なる周波数」として認識されていたのだろう。サキは繰り返しそれらを丁寧に断り続けたのだけれど、その対応が却って職場での居心地を悪くすることになった。周囲の空気は少しずつ冷えていき、彼女の眼に映る世界にはノイズが増えていった。最初は小さな誤解や勘違いだった事柄が、やがては陰口、嫌がらせ、無視となった。サキは自身の中で世界との接点とその居場所を追われる感覚に支配されるようになり、遂に彼女は体調を崩し逃げるように故郷の弘前へ戻ってしまった。
* * *
私達は時計の針を指先で抓み歯車の力に抗って逆回転させて学生時代に戻し、多くの話をした。私の左手首に嵌めている五百円のミリウォッチの文字盤を確認するといつの間にか二十三時を過ぎている。文庫本を手にした背の高い男性が私達のテーブルに近付いて来た。仕事を終えたイシワタリだった。
「あ、今晩は、こちらだったんですね」
「お疲れ様です、今日はもういいんですか」
「はい、寝る前に少し本でも読もうかと思って。お客さんに何かあったら母親が連絡してくれますので」
私はサキにイシワタリを紹介し、彼女の隣に席を移動して彼を対面の席に促した。ヨーロッパの映画に詳しく、大学生時代にはいくつものアルバイトを掛け持ちして旅費を貯め、夏休みにはバックパッカーとして世界中を旅し、複数の言語を自在に操る彼に、サキは関心を寄せた。二人の間で交わされる時折津軽弁を挟んだ会話は、デジタル表示の周波数が素早く自動的にチューニングされて繋がり、クリアな音質で聴こえてきたFM放送番組のパーソナリティーとゲストの遣り取りを想起させる。隣に座る彼女の七分袖のティーシャツ越しに、私と触れている二の腕の温度が次第に高くなっていく。サキは頬の辺りを赤らめて顔の表面から水分を蒸発させながら、四年間に渡る私との生活の中でも見せたことのない表情を幾つも作った。ウェイターがラストオーダーを告げる。腕時計の針は十二時半を過ぎていた。閉店のアナウンスが流れる中で、イシワタリは人手不足の旅館のアルバイトをサキに依頼すると、彼女は承諾した。
翌年、二人は結婚した。
* * *
いつの間にか車は大鰐弘前インターチェンジに差し掛かっていた。自動運転モードを解除して高速を降り、この街に来る度に同じルートを案内するカーナビゲーションに従ってハンドルを捌く。旅館のガラス戸を開くと、玄関で笑顔のサキが出迎えてくれた。
「ほら、ほら」
「馬鹿じゃないの」
「大蒜はどうなの」
「さっき食べたパスタに入ってた」
「じゃあ、肌が弱くなったから、陽の光にだけ気を付けていれば良いのね」
「まあね、あとさ、自動ドアが開かない時があるんだよね、私、半分死んでるのかなって」
「黒い服着てるからでしょ。私も自動ドア、開かない確率結構高いよ」
そう言ってから彼女は、私にある提案をした。
「その宿ではさ、スペイン語を使ってたんだよね、私さ、友達にスペインのアーティストが居るから、ちょっと調べて貰おうか。はっきり言って、変だよ、その話」
私は諦めにも似た表情を作り「十年も前の話だし、何か出てくるかなあ」と、ゆっくりと鼻息を吐き出しながら少しの間考えた後、彼女の申し出を受け入れることにした。アメコのスマートフォンが鳴る。「あ、もしもし、お世話になっております。ええ、ええ、はい、すぐ行きます」と彼女は普段よりも高い声色で対応して、通話を切った。
「御免、お世話になってるギャラリーのオーナーが来ちゃった」
「あ、行って、行って」
またね、と言ってアメコは速足で階段を下りて行った。
* * *
翌週、私は東北自動車道を北に向かって車を走らせていた。私のスケジュールアプリには「ねぷた祭りが終わる八月八日以降に弘前に行くべし」と記されている。目的地は弘前城を囲む道路沿いに佇む、明治時代から続く老舗の旅館だ。「石渡旅館」はその長い歴史の中で重ねられた数度の増築により館内は迷路の様相を見せ、建物自体もその建築方法と合わせて当時のままに保存されており、多くの建築家達が宿泊する場所となっていた。また嘗て板垣退助らが常泊していたという歴史もあり、今では文化財として登録されていた。
愛車のデイズに乗り、長い距離を自動運転モードで走らせながら、私は学生時代を振り返っていた。アメコにアンドラ公国での体験を話した影響もあったのだろう、度々過去の記憶を思い出しては検証を始めてしまう。高速道路のカーブの形状を認識しハンドルを握り続けている自分の意思とは別に、何処かにある思考の余白に過去の映像を再生させている。今は「石渡旅館」の館長であるイシワタリが登場していた。
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イシワタリは大学時代からの友人だった。彼と出会ったのは全くの偶然で、二十歳のある朝、滝野川にある実家から最寄り駅である板橋駅に向かう途中で、四車線ある国道十七号線を渡る横断歩道で赤信号が青に変わるのを待っていた時の出来事だった。小学生の頃、親戚から貰った使い古しのローラースケートを履いてこの信号に差し掛かった処、靴底の爪先に付いているブレーキのゴムが取れてしまい赤信号で止まることができず、猛スピードで走り抜ける車の列に飛び込んでしまう寸前に身体を後ろに倒し、後ろ手に尻餅を付いて身体を止めて九死に一生を得たことがあった。親指から数センチ先を車のタイヤが通り過ぎて行く。その時以来、この信号機の横に立つといつも緊張してしまい、時には鳥肌を立ててしまう。そんな場所で後ろから来た青年から唐突に声を掛けられた瞬間、私は電気を流されたように少し飛び跳ねてしまった。
「あの、板橋駅って、この道であってますか」
「あ、はい、合ってますよ」
「すみません、板橋って初めてなので、ちょっと良く分からなくて」
「私も板橋駅に行きますから、一緒に行きましょう」
横断歩道を渡った先には商店街がある。この通りでは小学生や中学生時代の友人達と度々顔を合わせることがあった。もし隣の青年と並んで歩いている処を見られたら、この狭い町内ではモモカが恋人と朝一緒に登校している、などと噂されるのは嫌でも想像が付いた。私は商店街の右側に平行して走っている狭い路地へと青年を促して、いつもより少し遠回りをして駅へと向かわなければならなかった。
「麻雀はやったことないな」
「あれ、結構頭使いますよ」
私達の会話は次第に映画の話題になり、アンドレイ・タルコフスキーの作品について話し合った。美術大学の友人達以外で、この映画監督を知っている人間に会ったのは初めてだったかもしれない。「やっぱり東京は凄いですね、皆タルコフスキー知ってるんですね」とイシワタリが言ったので、私は慌てて否定した。
「違う違う、普通の人は知らないと思うよ、私、美術大学に行ってるから、たまたまそういう映画に興味がある人が沢山居るから」
二人で一緒に埼京線に乗った。イシワタリは池袋で東武線に乗り換えるのだという。私は当時、大学の有志数人でグループ展を開いていたので、彼にダイレクトメールを一枚手渡した。
「京橋のギャラリーで展示してるから、もし興味があったら来て」
「あ、絶対行きます」そう言ってイシワタリは池袋駅のホームの雑踏の中に紛れてその姿を消した。数日後、彼は大学の数人の友人達を連れてギャラリーに現れた。暫くの間、腕組みをしながら私の絵を観ると「良いですね」と言った。
* * *
私が描いた絵は五センチ四方の真四角の白いタイルが百枚程、規則的に並べられているという単純なモチーフの油絵で、それを「昭和の銭湯の壁」や「時代遅れのミニマリズム」などと評する人も居た。幼少期から私はモザイクタイルの壁など、一定のルールに従い規則的に配置された状態に愛着を持つ傾向があり、普段から自宅の本棚に収納されている本もサイズ別に常に整理していなければ気が済まず、挙句の果てに父親のCDコレクションもジャンル別、アルファベット順に勝手に並べ変えては呆れられていた。アメコは笑っていたけれど、それは最早私の性癖とも言えるその性質をキャンバス上に表現したものだ。
ギャラリーには所謂「論客」という人間が屡々現れて、作品のコンセプトを尋ねてくる。そんな人間達に対応する為に私もそれなりの理論武装を用意していたのだけれど、そもそも文章や言葉で表現出来るのであれば、小説や論文でも書けば良い、というのが私の持論だった。美術は他の物に変換出来るものではない。これはアメコも同じ意見だった。結局アメコは噛み付いてくる「論客」達に対して理論武装を披露することに飽き飽きし、次第に網膜に映る物質的な物と、眼には見えない何物かを同時に捉えるという行為に没頭し始め、結果的に煙の動きを追う油絵を描くようになった。
学生当時、私には定期的に購読していた美術雑誌があった。毎月発行されるその本の中では毎回持ち回りで数人の美術評論家達が日本語を捏ね繰り回し、数ページにも渡る難解な文章を作り上げては競うように論評を発表し続けていた。若い時分の貧しい読解力のせいもあったのだろう、私は彼等の文章を読む度に暗号を解読するような、また眩暈にもに似た感覚に襲われて毎回辟易とさせられていたのだけれど、この美術の世界で生きて行く為には必要な知識なのだと諦めて文字の羅列を追い続けていた。しかしその中で一人だけ、私にも理解し得る文章を書く評論家が居た。ユーモアも交えたその評論文は、美術に興味の無い人間でも一度は美術館やギャラリーに足を運ばせる気にさせるかもしれない、優しく魅力的なものだった。私はグループ展に参加した時に、その評論家に手紙を書き、私の絵を観て欲しいと訴えた。
ギャラリーに現れた評論家は頭頂部が禿げ上がり、背が高く棒のように痩せた年配の男だった。彼は私の絵を鑑賞した後、稚拙ながらも懸命に捻りだした理論武装を頷きながら聞き、眼鏡の奥の優しい眼を緩やかな虹のカーブの形に曲げながらメモを取り続けた。幾つかの質問を私に投げかけた後で「良いですね」と言った。以来、数回に渡り開催されたグループ展に評論家は毎回訪れてくれるようになった。購読していた美術雑誌にも私と作品についてのコメントが小さく、僅かに一言だけだけれど掲載されると、眼を掛けてくれていたギャラリーのオーナーも、その記事を読むと喜びを表してくれた。私は「美術村」の住人になったのだ。
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三年生の年末のある日、インターネットのニュースで評論家の訃報の記事を見付けた。癌だった。私の絵筆は止まってしまった。彼が亡くなったという事実に衝撃を受けたというよりも、いつの頃からか私は自分自身の表現を追求せず、その評論家に気に入られるような作品を描いていたことに気が付いてしまったのだ。更に言えば、私には元々表現したいことなどは何も無い、ただ「変わり者」と思われたいが為に元々得意としていた美術の授業の延長として美術大学に進学し、その結果として「アーティスト」と呼ばれる、何者かに成ろうとしていただけだ。
四年生の春、懇意にしていたギャラリーのオーナーが事故で亡くなった。最早私は何も描く気が起こらなくなり、大学四年間の集大成である筈の卒業制作は近所の家で飼育されている犬を適当に描いた百号の油絵を提出した。卒業制作展では私の絵の前を、あたかも透明な空気を用いた作品が展示されているかのように誰もが通り過ぎて行く。辛うじて「美術村」に残ったゴシック・ロリータ・ファッションのアメコの周りと、その作品の前には人集りができていた。
大学の裏手には四畳半程の広さの焼却場があり、いつもキャンプファイヤーの如く炎が起ち昇っていた。そこでは作品制作に使用された大量の廃材が常に燃やされ続け、木材に含まれる水分やこびり付いた樹脂などが急激に加熱されて圧力が高まり、時折破裂音を発している。卒業制作展が終わると、私は百号の油絵をその大学裏の焼却場に持って行き、投げ入れた。「いいのかい」と言う年老いた焼却場の管理人に、私は「いいのよ」と答えた。老人は焼却物を効率よく燃やす為に長い鉄の棒をリズミカルに炎の中に差し入れて空気を入れる。全てが焼き尽くされ灰となったのを見届けると、私は大学を卒業した。
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イシワタリから連絡があったのは二十五歳の春のことだ。当時勤めていたデザイン会社に私宛でメールが届いていたのだ。私をデザイナーとして指名した、旅館のホームページとパンフレットの作成依頼だった。彼は大学卒業後、官公庁に就職していたのだけれど、弘前の実家で旅館を経営していた父親が病に倒れ、急遽代々続く老舗旅館の五代目として帰郷することになったのだ。
その翌月、私はイシワタリの元へ向かった。大鰐弘前インターチェンジを降りた後、弘前城方面へと車を走らせる。日本家屋風の大きな屋敷を思わせる外観の「石渡旅館」の正面で待ち構えている石造りの門柱を抜けた奥にある玄関の扉は、摺り硝子に家紋の入ったスライド式になっている。右側の扉を横に流して開けると、床のレールと扉の車輪との摩擦で起こる振動で硝子が細かく震えて音を立てた。
玄関で出迎えてくれたイシワタリは、笑顔で私の為に用意した宿泊部屋まで案内してくれた。フロントがある歴史を感じさせる古い建物と、後年増築されたと思われる宿泊部屋が存在する建物を繋げる渡り廊下に当たる部分には枯山水があり、その上に架かる小さな太鼓橋を渡る構造になっていた。イシワタリは英語の他、フランス語とスペイン語が堪能で、ガイドやサポートができる為か旅館には多くの外国人観光客が宿泊しており、度々廊下ですれ違った。珍しそうに太鼓橋の写真を収めようとスマートフォンのシャッターを切っているグループも居る。
「遠かったですよね、わざわざありがとうございます」
「あ、全然大丈夫です。何か、凄いですね、これって明治時代の建物なんですよね、凄く綺麗ですね」
「毎朝拭き掃除をして磨いてはいるんですけど、結構修復しなければならない処もあって、友達の大工にメンテナンスしてもらっているんですよ。お疲れでしょうから部屋でゆっくり休んでください。打ち合わせは夜か明日でも大丈夫ですかね」
「あ、私は何時でも大丈夫ですけど、あ、やっぱり、明日でも大丈夫ですか」
「じゃあ明日にしましょう。今晩の夕食はこちらでご用意しましょうか」
「あ、いえ、少し寄りたい処があるので、今夜は外で済ませます」
了解です、と言って部屋のアメニティを一通り説明し終えた後、イシワタリはフロントに戻って行った。
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その晩は弘前に住む美術大学時代の友人と会う約束をしていたのだ。旅館から信号を二つ隔てた、隣の町内にあるファミリーレストランで、私はサキと会った。大学生時代の四年間、多くの時間を共に過ごした彼女は、友達というよりも私にとっては最早家族に近い存在だった。滝野川の実家から東京の郊外にある大学までは片道二時間を要したこともあり、私は学校の近くに下宿していた彼女のアパートに転がり込み、殆どそこから通学していた。一週間の内、四日は彼女の部屋で生活していた為、私の両親がアパート代を半分支払うと提案したのだけれど、彼女はそれを丁寧に断った。それどころか、彼女は合鍵を作り、それを私に預けてくれたのだった。
サキは幼少期から他人の感情に対し極めて敏感で、会話中の空気の変化や相手の些細な表情の歪みすら見逃さなかった。彼女の繊細な感覚は、時に彼女自身を深く傷つけていた。普段はテレビ番組を観ない彼女は、ある日偶然ニュース番組に映る悲惨な事件の報道を眼にしてしまい、それ以降、数日間部屋から出られなくなってしまったこともある。インターネット上のネガティヴな記事や炎上、怒りに満ちたSNSの投稿にも、彼女の心は過剰に反応してしまう。
一学年の頃は、そんな彼女に私も戸惑いながら付き合っていた。テストや重要な授業があるにもかかわらず、布団から出られないサキの手を取り大学へ連れて行き、教室の席に彼女がなんとか着席するのを確認してから、自分の講義へ向かう。そんな事が何度も続いた。今思えば、あの時期の彼女の両親もまた、東京で一人暮らしをしていた彼女の精神的な支柱として私を頼りにしていた節があったのだろう。実際、夏休みや年末になると、毎年のように弘前のサキの実家から私の家に暑中見舞いや御中元が送られてきていた。彼女の両親が共に教師という事もあり、その手紙には毎回丁寧な感謝の言葉が綴られていた。
二学年に進む頃には、サキは少しずつネガティヴな情報を受け入れないように対処する術を覚え、また自分の感受性との付き合い方を学んでいたようにも思えた。極力ニュースサイトを見ないようにしたり、体調が悪いと感じた時には人混みの多い場所を避けて呼吸の速さを調整したりと、押し寄せる感情の波に呑まれそうなときには、ノイズキャンセリングのイヤホンで音楽を流すようにするなど、彼女なりの対処法を見つけていった。また、周りの友人達に恵まれていたのも幸運だった。彼、彼女達はそんなサキの性質を理解し受け入れ、それは一つの個性なのだから大丈夫なのだ、と彼女に説いていた。
サキは、眉毛の上で横一直線に切り揃えられた美しい黒髪と、何処かミステリアスな切れ長の瞳を持っていた。彼女に惹かれる異性は決して少なくはなかった。私自身、そうした視線が彼女に向けられていることには気が付いていたけれど、サキは常に彼等との間に距離を保ち続け、相手に対して「周波数が違う」と言って必要以上に距離を縮めることはなかった。
しかしながら大学を卒業して社会に足を踏み入れた途端、これまでとは全く異なる環境や人々にも対応せざるを得なくなってしまい、就職先の会社では日々多くの人と関わることが求められた。時には彼女の繊細な感覚を活かしたマーケティング戦略は重宝されもしたのだけれど、同時に人々の感情の畝りに巻き込まれることにもなった。決して悪気はなくとも男女問わずサキに興味を持ち、彼女の内面に土足で入ろうとする人々と感情を交換しなければならず「次第に都会の喧騒が悲鳴に聞こえてきた」と後に彼女は私に話した。
そんな中で、サキに惹かれ、彼女を守ろうとするような態度を取るクライアントの担当者達も現れた。当然彼女は彼等のそういった想いを受け入れることはなかった。彼女の中ではそれらもまた「異なる周波数」として認識されていたのだろう。サキは繰り返しそれらを丁寧に断り続けたのだけれど、その対応が却って職場での居心地を悪くすることになった。周囲の空気は少しずつ冷えていき、彼女の眼に映る世界にはノイズが増えていった。最初は小さな誤解や勘違いだった事柄が、やがては陰口、嫌がらせ、無視となった。サキは自身の中で世界との接点とその居場所を追われる感覚に支配されるようになり、遂に彼女は体調を崩し逃げるように故郷の弘前へ戻ってしまった。
* * *
私達は時計の針を指先で抓み歯車の力に抗って逆回転させて学生時代に戻し、多くの話をした。私の左手首に嵌めている五百円のミリウォッチの文字盤を確認するといつの間にか二十三時を過ぎている。文庫本を手にした背の高い男性が私達のテーブルに近付いて来た。仕事を終えたイシワタリだった。
「あ、今晩は、こちらだったんですね」
「お疲れ様です、今日はもういいんですか」
「はい、寝る前に少し本でも読もうかと思って。お客さんに何かあったら母親が連絡してくれますので」
私はサキにイシワタリを紹介し、彼女の隣に席を移動して彼を対面の席に促した。ヨーロッパの映画に詳しく、大学生時代にはいくつものアルバイトを掛け持ちして旅費を貯め、夏休みにはバックパッカーとして世界中を旅し、複数の言語を自在に操る彼に、サキは関心を寄せた。二人の間で交わされる時折津軽弁を挟んだ会話は、デジタル表示の周波数が素早く自動的にチューニングされて繋がり、クリアな音質で聴こえてきたFM放送番組のパーソナリティーとゲストの遣り取りを想起させる。隣に座る彼女の七分袖のティーシャツ越しに、私と触れている二の腕の温度が次第に高くなっていく。サキは頬の辺りを赤らめて顔の表面から水分を蒸発させながら、四年間に渡る私との生活の中でも見せたことのない表情を幾つも作った。ウェイターがラストオーダーを告げる。腕時計の針は十二時半を過ぎていた。閉店のアナウンスが流れる中で、イシワタリは人手不足の旅館のアルバイトをサキに依頼すると、彼女は承諾した。
翌年、二人は結婚した。
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いつの間にか車は大鰐弘前インターチェンジに差し掛かっていた。自動運転モードを解除して高速を降り、この街に来る度に同じルートを案内するカーナビゲーションに従ってハンドルを捌く。旅館のガラス戸を開くと、玄関で笑顔のサキが出迎えてくれた。



