アンドラ公国はバルセロナからバスでピレネー山脈を四時間ほど登った先にある、人口約八万人の小さな独立国だ。バルセロナへはゴールデンウィークの休暇期間中に、サグラダ・ファミリアと街の数か所に点在しているアントニオ・ガウディの建築を観る為に数泊の予定で訪れていた。しかしながら予定していた観光ポイントを一日で回り終えてしまい、思い掛けずスケジュールに余裕ができてしまったので、明日にでも帰国便に搭乗するシャルル・ド・ゴール空港があるパリへ戻り、東京へ帰るまでの一週間を過ごすという案を考えていた。そんな時、ふと以前インターネットで見たアンドラ公国の街並みと遺跡の風景画像が脳裏に浮かび、調べてみるとバルセロナから直通のバスが出ていると知り、折角なので足を延ばしてみることにしたのだ。
翌日の午前中にバルセロナから出発するバスに乗った。空席が目立つ車内では、スピーカーからスティーリー・ダンのアルバムからの曲が途切れることなく流されている。おそらく運転手が作成したプレイリストなのだろう。結局、アンドラ公国の首都であるアンドラ・ラ・ヴェリャのバスターミナルへ到着するまでの長い時間、ドナルド・フェイゲンの癖のある畝った歌声に付き合わされることになった。
バスターミナルには大きな四角い赤いプラスティックの板に黄色で“M”と描かれた、東京でも見覚えのあるマクドナルドの看板が掲げられていた。もし英語が通じず外食で上手くオーダーができない場合には、ここに駆け込めば良いと思った。スペインとフランスの間に挟まれたこの小国は、その二つの言語が共存している。犯罪が少ない為、二年毎にスペインとフランスの警察が交代で勤務に当たっているそうだ。また免税で買い物ができるのでショッピング目的の観光客も多い。冬のシーズンになるとスキーに訪れる人々で賑わいを見せるという。しかし五月となった今はシーズンのピークを過ぎていた為か、人影も疎らに感じた。
袋小路の突き当たりに位置しているバスターミナルから、街の方向へ緩やかに続く坂をサムソナイトの小型のスーツケースを引きながら歩き続けると、その道は次第に免税店が並ぶメインストリートへと、そのまま繋がっていった。ガイドブックとインターネットで予め調べておいた、バスターミナルから一番近くのベッド・アンド・ブレックファーストに向かう。その「アイナズ」という名前の宿は一階がベーカリーになっているコンクリート造りの五階建ての建物で、フロントは店の右側にあるドアを開けて、階段を上った二階にあった。幅の狭い階段の途中で左右の壁にスーツケースの角が何度か当たり、その度に鈍い音を立てた。
二階の踊り場に着くと、左手に“Aina's”というロゴがカッティングシートで貼られたガラスが嵌め込まれた木製のドアがある。部屋に入るとフローリングの床にテーブルと椅子が十組ほど並べられた食堂になっていた。席に座り談笑していた二組の老夫婦の宿泊客が、会話を続けながらそれぞれの眼を私に向けた。ドアを閉めると右手にバーカウンター、メインストリートに面した左手には全面ガラスの窓がある。窓からは二車線の道路を挟んだ対面にある地元の人々が利用するスーパーマーケットの焦げ茶色の屋根と、その向こうにピレネー山脈の尾根が見えた。バーカウンターはフロントも兼ねていて、その奥には厨房が見え、中年の白人男性が食器を洗っていた。呼鈴を叩き「エクスキューズ・ミー」と声を掛けると、厨房の奥から小太りの中年女性がエプロン姿で現れた。乱れたままの金髪が何だか勿体なく、櫛で梳かしてあげたくなる。
厨房の男性はオーナー、エプロンの女性はオーナーの妻で夫婦で経営している宿なのだ。オーナー夫人の早口のスペイン語が聞き取れず、チェックインの手続きに手間取っていると、いつの間にか背丈が丁度カウンターの辺りまでの金髪の少女が真横に現れていて、私の紺色のパーカーの袖口を引いた。
「日本人ですか」
少女の話す日本語に驚いて、思わず「あ、はい」と声を発してしまう。少女はオーナー夫人と少し会話をした後、私に英語で書類の書き方を教えてくれた。アイナという名前の少女はこの宿の夫婦の一人娘で、十歳なので日本では小学生にあたる。英語は学校で習っていて、日本語はセーラームーンを切っ掛けに興味を持ち覚えたのだという。日本のアニメーションが好きだと言う少女は、実際に日本人に会うのは私が初めてなのだと、少し照れた様子で笑いながら言った。二泊の手続きを終えると、オーナー夫人はアイナに私を部屋へ案内するように頼んだ。
食堂の壁には額に入った白黒の写真が幾つも飾られている。居合わせたイギリス人の老夫婦の宿泊客によると、オーナーが親から引き継いだというこの宿は、古くは別の宿名だったのを娘が産まれた十年前に「アイナズ」と名前を変えたそうだ。アンドラを訪れて此処を定宿としている人々は皆、成長し宿の仕事を手伝う彼女を見守ることも目的にしていた。
二人で階段を上る。シャワー室は三階と四階の間の踊り場に位置していた。男女別になっており、宿泊者が交代で使用するのだとアイナは説明してくれた。四階の一室が私の部屋だった。ドアを開けると右手にベッド、正面に大きな窓があり、青天でも曇り空でも無い空の柔らかな白色が差し込んでいた。窓を開けると隣の建物の赤褐色の屋根の上に鳩の白い糞が散らばっているのが見える。少し臭うかもしれないから窓は開けないでね、とアイナは鼻をつまみながら、小さな悪戯でも誤魔化すかのような軽い笑いを浮かべて窓を閉めた。
荷物を部屋に置いた後、食堂でアイナと日本語と英語を交えてアニメーションの話をした。美術大学時代の友人が制作に参加している日本で放送中の作品をスマートフォンで観せると「おおお」と、手を素早く何度も叩きながら釘付けになって画面を眺め続ける。夕方、アイナが宿の周辺を案内してくれることになった。商店が並ぶメインストリートでは日本のアニメーションのキャラクターのフィギュアを並べている玩具店も目に入った。街の中心にはグラン・ヴァリラという川があり、橋から五メートルほど下にピレネー山脈からの雪解け水が飛沫を挙げながら激しい勢いで流れている。五月は水量が多くなるから危ないよ、と橋の手摺に身体を預けて川を覗き込む私のパーカーのウエストの辺りをアイナが引っ張りながら言った。川底から度々勢い良く吹き上げてくる、冷えた風が私達の髪を踊らせる。
免税店でレイバンのサングラスを買った。サングラス姿の私を見てアイナは「モモカ、似合うよ」と言った。店内のセールコーナーで、私が買ったものに似たデザインのノーブランドのサングラスを見つけてアイナにプレゼントした。二人でサングラスを掛けて宿まで帰った。車かバスを利用しないと行けないけれど、山の方面に遺跡があるというので、明日にでも訪ねてみようと思った。
* * *
眼を覚ますと早朝の五時だった。地図を確認すると、バスに乗らなくても一時間ほど歩けば丁度陽が昇る頃には遺跡に着けるような気がして、ジーンズを履いて階段を下りた。無音の中でフロントと食堂を兼ねた二階のフロアの建付けの悪そうな扉を開くと、生まれて初めてヴァイオリンを弾いた人間が発する一音目のような響きが鳴り、耳障りだった。足を踏み入れると一歩ごとに床の木材が軋んで音を立てる。食堂には誰もいない空間が広がっている。大きな窓からは、雪のシーツで覆われた山々が、遠くから静かに迫って来る朝の薄紫色を背景に、そのシルエットを浮かび上がらせていた。埃混じりの木の香りが鼻の奥の粘膜を刺激する。宿泊者は皆、土足で歩き回る為、いくら清掃を重ねてもフローリングの目地に入り込んだ埃までは拭ききれないのだろう。
厨房の奥から微かな金属の触れ合う音が聞こえた。恐らくオーナーが朝食の準備を始めたのだ。私は足音を立てぬように踵をゆっくりと下ろしながら歩き、食堂を出て階段を降りた。一階の入口の扉は施錠がされていなかった。真鍮製の金色のプルハンドルは朝の冷気にコーティングされて氷の棒を思わせる冷たさで、小さな声が漏れそうになるのを堪えて掴む。そっと押して外に出ると、街は未だ深い紫色に染められていた。
規則正しく組まれた石畳を歩く。深く空気を吸って吐くと、密度の高い息の塊が眼の前の景色を白で遮った。
始業前でシャッターが降ろされている免税店が並ぶメインストリートを、バスターミナルを背にして緩やかな坂を上って行く。このまま郊外にある山の方面へ向かって進めば、その中腹に遺跡がある筈だ。昨日サングラスを買った店の前を通り過ぎ、さらに歩みを進めた。ふいに、誘われるように右側にある狭い路地に足を向け曲がってみる。通りには小さなレストランが数軒並んでいて、突き当りには広場があった。五、六台の車が駐車していたけれど、あと十台は停められる余裕がある。広場の右手には教会が建っていた。日本の二階建て住宅ほどの大きさの建物は、不揃いの石を高く積み上げて造られた遺跡を想起させた。三角屋根の頂には白い十字架が立っている。木製の観音開きの扉は艶やかで、恐らく丁寧に磨かれているのだろう、比較的新しいものに見えた。壁面に近づくと、積み上げられた石は朝露に濡れ、所々に苔に覆われている。良く見ると石の継ぎ目がパターン化されて整っているので、もしかすると、この壁は石造りに見えるデザインのサイディングで、実際には新しい建物なのかもしれない。
左右の扉の継ぎ目から明かりが漏れていた。中に誰か居るのだ。ゆっくりと掌で扉を押してみると、吹き抜けの空間が広がっていた。扉を背にして、正面には祭壇があり、左右にそれぞれ二十列ほどの長椅子が並んでいる。その椅子に疎らに座る人影が見えた。おそらく二十人はいただろう。神父と思われる男性が人影に向かって何か話している。男性は黒いロングコートに、コバルトブルーのネクタイを締めたスーツ姿という、神父というよりもビジネスマンのような格好だった。座っている人達の衣装も黒を基調としたフォーマルなもので、早朝のミサではなく葬儀に近いと思った。教会の中は薄暗く、左右の壁に取り付けられた六つのウォームライトの橙色の明かりと祭壇上の蝋燭の炎だけが、空間を静かに照らしていた。祭壇で話す男の声は教会の高い天井に反響し、私の耳に左右から僅かに時間差で届くので、何を話しているのか理解することが難しかった。英語ではなくフランス語のようにも聞こえる。
扉を背にして立ち、眼の前の光景を眺めていると、黒いコートに黒い中折れ帽を被った白髪の男が左側の暗闇から近づいてきた。教会の中でも帽子を脱がないその姿が不気味に映った。男は私の耳元に口を寄せて、英語で話し掛けてきた。
「君は、日本人かね」
「はい、東京から来ました」
「それは、それは、遠い処から。良かったら座りなさい」
白髪の男は左の掌で空いている左列の長椅子を指し、私を促した。私が長椅子に座ると男も隣に腰を下ろした。
「君は、何処かでこの教会のことを聞いたのかな」
「いえ、朝の散歩の途中で寄りました。これは朝のミサですよね」
男はその帽子の上に乗る小人が糸で引いたかのように両方の眉を吊り上げ、右の口角を捻じ曲げて発達した犬歯を見せて引き攣った笑顔を作る。その表情には少し驚きの感情も混ぜられているようにも見えた。「まあ、そうだね」と言って男は私の肩を二回軽く叩き、立ち上がって最初に現れた暗がりへと戻り、その姿を闇に紛れさせた。
祭壇の男が話を続けている。いつの間にか教会の中が白い靄で覆われ始めていた。それは次第に濃くなり、舞台で使用されるスモークを思わせる動きで、祭壇から私の座る後方の座席の方向へと緩やかに流れている。視界が白く曇ってきた。煙を吸い込むと、酢酸とカー用品店のタイヤ売場に漂うゴムの匂いが混じり合った、不快な刺激臭を感じた。その直後、大きな両手で頭を掴まれて何十回も前後左右に振られた後、突然その手を離されでもしたかのように、視点が宙を舞い、平衡感覚を失い、床に崩れ落ち、横たわってしまった。私の眼には倒されたビデオカメラの映像の如く、画面の左右が上下に九十度回転し、白い煙が通路を上から下へと緩やかに流れて行く様子が見えていた。
朦朧とした意識の中で次に覚えているのは、黒い蝙蝠の大群が煙の流れに逆らい通路を抜けて祭壇へ向かっていく光景だった。私の伸びた右腕が通路にはみ出していた。その手が蝙蝠の群れに接触した瞬間、手首に激痛が走った。黒い羽音の群れが私の周りに集まって来る。まるで彼らは倒れている私を起こそうとしているようだ。前列の席の背凭れを左手で掴み、上体を支えて椅子に座り直すと、祭壇で蝙蝠の群れがリーダーの男を包み込んでいるのが見えた。その後に覚えているのは、閉じた瞼の裏側に点滅を続ける赤と青の色を感じたことだ。それが最後の記憶だった。私の意識は再び白い霧の中で遠のいていった。
* * *
目が覚めると、宿の部屋のベッドに仰向けに寝ていた。白い漆喰の天井には雨漏りの跡が薄茶色に染み出し、狭い範囲に広がっている。ベッドの右側にある窓からは柔らかな明るい光が差し込んでいた。部屋の時計の針は数字の六を指している。おかしな夢を見た、そう思いながら上体を起こすと右の手首に痛みを感じた。見ると手首には包帯が巻かれていて、赤黒く固まった血が薄く滲み出ていた。着ているのは寝間着代わりのジャージではなく、パーカーにジーンズだった。
夢ではなかったのだ。
時刻は朝ではなく夕方の六時だった。酷い頭痛で気分が悪く、もう一泊延長を申し込もうと、縺れる足で階段を降りてようやく二階のフロントに辿り着いた。
「ごめんなさい、もう一泊延長お願いします」
カウンターのオーナー夫人は笑いながら、「オーケー、オーケー」と言って、千鳥足で向かってきた私を止めるように掌を向ける。彼女は私の手首の包帯を指差し、早口のスペイン語で何かを言ったけれど聞き取ることができなかった。次の瞬間、鼻腔を刺す白い霧の不快な臭いを思い出してしまい、胃が痙攣して迫り上がってくる感覚に襲われた。ペリエを買って食堂のテーブル席に腰を下ろす。グラスに炭酸水を注ぎ、胃に流し込む。一本全て飲み終わる頃には胃が膨れて、口を抑えながら何度も噯気を出してしまう。明後日のチェックアウトまでベッドで横になっていたいと思った。
夫人がビニール袋から取り出した新しいガーゼと小さなチューブを持ってテーブルにやってきた。向かい合わせの席に座り、私の手首を優しく掴んで包帯をほどいてくれた。包帯の下のガーゼには酸化して黒く変色した血の塊がこびりついている。数枚重ねられた小さな四角い綿布を取り除くと、薄紫色に変色した手首が現れた。内出血でもしていたのだろうか。さらに眼を凝らすと動脈に沿って二つの小さな穴が開いていて、小豆色の瘡蓋ができている。穴と穴との間隔は三センチほど離れていた。彼女はチューブから軟膏を絞り出して私の二つの傷口に塗り込み、ガーゼを乗せて包帯を巻き直してくれた。一連の作業を終えると、笑顔と共に「オーケー」と言って夫人はカウンターの奥に戻っていった。
* * *
翌々日の朝、八時にシャワーを浴びた。昨日は再びオーナー夫人に傷を手当してもらい、一階のベーカリーでアイナがパンと飲み物を買ってきてくれたお陰で、一日をベッドの上で過ごすことができた。手首の傷口の周りを洗い流す。オーバーサイズのデニムシャツの長袖に腕を通すと変色した手首が隠れる。十時前にチェックアウトの為にカウンターを訪れると、オーナー夫人が「朝食を用意するから待っていて」と言って窓際の席を用意してくれた。
窓の外の景色に眼を細めて見ると、雲に覆われた灰色の空にピレネー山脈の白、その下に焦げ茶色にくすんだスーパーマーケットの屋根の色に分かれる。その三つの色の重なりに、アイスカフェオレのグラスの中でミルクとコーヒーが分離して現れた三層の模様を思い浮かべてしまう。大通りには信号で停車する車の列と免税店を巡る観光客が疎らに歩いている。やがて夫人が焼き立てのクロワッサンとアイスカフェオレを運んできた。眼の前に置かれた並々と注がれた現実のグラスの中の色の重なりは、底で光を鈍く反射するガラスの灰色の上にミルクの白が沈殿し、そして一番上がコーヒーという、窓の外の景色とは上下が反転した並びだった。ストローでかき混ぜて一色にする。この宿の特製だという皿の上のクロワッサンは、東京で売られているものの二倍ほども大きく見えた。茶色と黄金色で縞模様の焼き目が付いた、未だ熱さの残る薄皮のパイ生地に前歯を立てると、メイプルバターの香ばしく焦げた香りが鼻腔を抜けて通る。千切って頬張ると塩味と甘味が舌上で溶け出し、やがて口内全体に溢れていく。全てを胃に収めた後、指先に纏わり付いているバターを舐め、更に持参していた携帯用のアルコールティッシュを取り出して拭った。
クレジットカードで支払いを済ませ、チェックアウトの書類にサインをしているとアイナが現れた。今日は日曜なので学校は休みなのだ、と彼女は言った。
「手は大丈夫かな」
「ありがとう、大丈夫よ、傷口も塞がってるし、手首もちゃんと動く」
私は自分の手首を回転させ、さらに掌を開いて閉じる動作を数回繰り返して彼女に微笑んだ。痛みは無かった。
「東京へ帰るのかな」
「ええと、バルセロナからパリへ行って、東京に帰るわ。バルセロナ行のバスは十一時に出発だから、もう行かなきゃ」
「いいなあ」
私は「東京に遊びに来て」と言って住所と電話番号、そしてメールアドレスをメモ用紙に書いてアイナに渡した。将来、実際に連絡があるかもしれないと思った。彼女が東京に来たら私の部屋に泊めてあげれば良い。日本語で「さよなら」と言った彼女に私はスペイン語で返そうと、頭の中で必死に単語を探し当て「アディオス」と言うことができた。アイナは満面の笑みと共に私の腰の辺りに腕を巻き付けて、小さな鼻をデニムシャツに埋めた。
大通りに出ると曇り空にも関わらず陽射しが眩しく感じられたので、レイバンのサングラスを掛けて、ファーストフード店の赤い看板を目指しバスターミナルへと坂を下った。石畳が続く道の上でスーツケースの車輪が跳ね、その騒音はミニチュアの削岩機が発し続けるリズムを想像させた。下山するバスの中で山道を身体を振子の如く左右に揺られながら、私は一昨日の教会での出来事を振り返り、手首に残る小さな二つの瘡蓋を眺めて眉間に皺を寄せていた。しかし湧き上がる数々の疑問は、臍の上の辺りに押し当てられたアイナの小さな顔のかたちを思い出す度に曖昧に霧散してしまうのだった。
翌日の午前中にバルセロナから出発するバスに乗った。空席が目立つ車内では、スピーカーからスティーリー・ダンのアルバムからの曲が途切れることなく流されている。おそらく運転手が作成したプレイリストなのだろう。結局、アンドラ公国の首都であるアンドラ・ラ・ヴェリャのバスターミナルへ到着するまでの長い時間、ドナルド・フェイゲンの癖のある畝った歌声に付き合わされることになった。
バスターミナルには大きな四角い赤いプラスティックの板に黄色で“M”と描かれた、東京でも見覚えのあるマクドナルドの看板が掲げられていた。もし英語が通じず外食で上手くオーダーができない場合には、ここに駆け込めば良いと思った。スペインとフランスの間に挟まれたこの小国は、その二つの言語が共存している。犯罪が少ない為、二年毎にスペインとフランスの警察が交代で勤務に当たっているそうだ。また免税で買い物ができるのでショッピング目的の観光客も多い。冬のシーズンになるとスキーに訪れる人々で賑わいを見せるという。しかし五月となった今はシーズンのピークを過ぎていた為か、人影も疎らに感じた。
袋小路の突き当たりに位置しているバスターミナルから、街の方向へ緩やかに続く坂をサムソナイトの小型のスーツケースを引きながら歩き続けると、その道は次第に免税店が並ぶメインストリートへと、そのまま繋がっていった。ガイドブックとインターネットで予め調べておいた、バスターミナルから一番近くのベッド・アンド・ブレックファーストに向かう。その「アイナズ」という名前の宿は一階がベーカリーになっているコンクリート造りの五階建ての建物で、フロントは店の右側にあるドアを開けて、階段を上った二階にあった。幅の狭い階段の途中で左右の壁にスーツケースの角が何度か当たり、その度に鈍い音を立てた。
二階の踊り場に着くと、左手に“Aina's”というロゴがカッティングシートで貼られたガラスが嵌め込まれた木製のドアがある。部屋に入るとフローリングの床にテーブルと椅子が十組ほど並べられた食堂になっていた。席に座り談笑していた二組の老夫婦の宿泊客が、会話を続けながらそれぞれの眼を私に向けた。ドアを閉めると右手にバーカウンター、メインストリートに面した左手には全面ガラスの窓がある。窓からは二車線の道路を挟んだ対面にある地元の人々が利用するスーパーマーケットの焦げ茶色の屋根と、その向こうにピレネー山脈の尾根が見えた。バーカウンターはフロントも兼ねていて、その奥には厨房が見え、中年の白人男性が食器を洗っていた。呼鈴を叩き「エクスキューズ・ミー」と声を掛けると、厨房の奥から小太りの中年女性がエプロン姿で現れた。乱れたままの金髪が何だか勿体なく、櫛で梳かしてあげたくなる。
厨房の男性はオーナー、エプロンの女性はオーナーの妻で夫婦で経営している宿なのだ。オーナー夫人の早口のスペイン語が聞き取れず、チェックインの手続きに手間取っていると、いつの間にか背丈が丁度カウンターの辺りまでの金髪の少女が真横に現れていて、私の紺色のパーカーの袖口を引いた。
「日本人ですか」
少女の話す日本語に驚いて、思わず「あ、はい」と声を発してしまう。少女はオーナー夫人と少し会話をした後、私に英語で書類の書き方を教えてくれた。アイナという名前の少女はこの宿の夫婦の一人娘で、十歳なので日本では小学生にあたる。英語は学校で習っていて、日本語はセーラームーンを切っ掛けに興味を持ち覚えたのだという。日本のアニメーションが好きだと言う少女は、実際に日本人に会うのは私が初めてなのだと、少し照れた様子で笑いながら言った。二泊の手続きを終えると、オーナー夫人はアイナに私を部屋へ案内するように頼んだ。
食堂の壁には額に入った白黒の写真が幾つも飾られている。居合わせたイギリス人の老夫婦の宿泊客によると、オーナーが親から引き継いだというこの宿は、古くは別の宿名だったのを娘が産まれた十年前に「アイナズ」と名前を変えたそうだ。アンドラを訪れて此処を定宿としている人々は皆、成長し宿の仕事を手伝う彼女を見守ることも目的にしていた。
二人で階段を上る。シャワー室は三階と四階の間の踊り場に位置していた。男女別になっており、宿泊者が交代で使用するのだとアイナは説明してくれた。四階の一室が私の部屋だった。ドアを開けると右手にベッド、正面に大きな窓があり、青天でも曇り空でも無い空の柔らかな白色が差し込んでいた。窓を開けると隣の建物の赤褐色の屋根の上に鳩の白い糞が散らばっているのが見える。少し臭うかもしれないから窓は開けないでね、とアイナは鼻をつまみながら、小さな悪戯でも誤魔化すかのような軽い笑いを浮かべて窓を閉めた。
荷物を部屋に置いた後、食堂でアイナと日本語と英語を交えてアニメーションの話をした。美術大学時代の友人が制作に参加している日本で放送中の作品をスマートフォンで観せると「おおお」と、手を素早く何度も叩きながら釘付けになって画面を眺め続ける。夕方、アイナが宿の周辺を案内してくれることになった。商店が並ぶメインストリートでは日本のアニメーションのキャラクターのフィギュアを並べている玩具店も目に入った。街の中心にはグラン・ヴァリラという川があり、橋から五メートルほど下にピレネー山脈からの雪解け水が飛沫を挙げながら激しい勢いで流れている。五月は水量が多くなるから危ないよ、と橋の手摺に身体を預けて川を覗き込む私のパーカーのウエストの辺りをアイナが引っ張りながら言った。川底から度々勢い良く吹き上げてくる、冷えた風が私達の髪を踊らせる。
免税店でレイバンのサングラスを買った。サングラス姿の私を見てアイナは「モモカ、似合うよ」と言った。店内のセールコーナーで、私が買ったものに似たデザインのノーブランドのサングラスを見つけてアイナにプレゼントした。二人でサングラスを掛けて宿まで帰った。車かバスを利用しないと行けないけれど、山の方面に遺跡があるというので、明日にでも訪ねてみようと思った。
* * *
眼を覚ますと早朝の五時だった。地図を確認すると、バスに乗らなくても一時間ほど歩けば丁度陽が昇る頃には遺跡に着けるような気がして、ジーンズを履いて階段を下りた。無音の中でフロントと食堂を兼ねた二階のフロアの建付けの悪そうな扉を開くと、生まれて初めてヴァイオリンを弾いた人間が発する一音目のような響きが鳴り、耳障りだった。足を踏み入れると一歩ごとに床の木材が軋んで音を立てる。食堂には誰もいない空間が広がっている。大きな窓からは、雪のシーツで覆われた山々が、遠くから静かに迫って来る朝の薄紫色を背景に、そのシルエットを浮かび上がらせていた。埃混じりの木の香りが鼻の奥の粘膜を刺激する。宿泊者は皆、土足で歩き回る為、いくら清掃を重ねてもフローリングの目地に入り込んだ埃までは拭ききれないのだろう。
厨房の奥から微かな金属の触れ合う音が聞こえた。恐らくオーナーが朝食の準備を始めたのだ。私は足音を立てぬように踵をゆっくりと下ろしながら歩き、食堂を出て階段を降りた。一階の入口の扉は施錠がされていなかった。真鍮製の金色のプルハンドルは朝の冷気にコーティングされて氷の棒を思わせる冷たさで、小さな声が漏れそうになるのを堪えて掴む。そっと押して外に出ると、街は未だ深い紫色に染められていた。
規則正しく組まれた石畳を歩く。深く空気を吸って吐くと、密度の高い息の塊が眼の前の景色を白で遮った。
始業前でシャッターが降ろされている免税店が並ぶメインストリートを、バスターミナルを背にして緩やかな坂を上って行く。このまま郊外にある山の方面へ向かって進めば、その中腹に遺跡がある筈だ。昨日サングラスを買った店の前を通り過ぎ、さらに歩みを進めた。ふいに、誘われるように右側にある狭い路地に足を向け曲がってみる。通りには小さなレストランが数軒並んでいて、突き当りには広場があった。五、六台の車が駐車していたけれど、あと十台は停められる余裕がある。広場の右手には教会が建っていた。日本の二階建て住宅ほどの大きさの建物は、不揃いの石を高く積み上げて造られた遺跡を想起させた。三角屋根の頂には白い十字架が立っている。木製の観音開きの扉は艶やかで、恐らく丁寧に磨かれているのだろう、比較的新しいものに見えた。壁面に近づくと、積み上げられた石は朝露に濡れ、所々に苔に覆われている。良く見ると石の継ぎ目がパターン化されて整っているので、もしかすると、この壁は石造りに見えるデザインのサイディングで、実際には新しい建物なのかもしれない。
左右の扉の継ぎ目から明かりが漏れていた。中に誰か居るのだ。ゆっくりと掌で扉を押してみると、吹き抜けの空間が広がっていた。扉を背にして、正面には祭壇があり、左右にそれぞれ二十列ほどの長椅子が並んでいる。その椅子に疎らに座る人影が見えた。おそらく二十人はいただろう。神父と思われる男性が人影に向かって何か話している。男性は黒いロングコートに、コバルトブルーのネクタイを締めたスーツ姿という、神父というよりもビジネスマンのような格好だった。座っている人達の衣装も黒を基調としたフォーマルなもので、早朝のミサではなく葬儀に近いと思った。教会の中は薄暗く、左右の壁に取り付けられた六つのウォームライトの橙色の明かりと祭壇上の蝋燭の炎だけが、空間を静かに照らしていた。祭壇で話す男の声は教会の高い天井に反響し、私の耳に左右から僅かに時間差で届くので、何を話しているのか理解することが難しかった。英語ではなくフランス語のようにも聞こえる。
扉を背にして立ち、眼の前の光景を眺めていると、黒いコートに黒い中折れ帽を被った白髪の男が左側の暗闇から近づいてきた。教会の中でも帽子を脱がないその姿が不気味に映った。男は私の耳元に口を寄せて、英語で話し掛けてきた。
「君は、日本人かね」
「はい、東京から来ました」
「それは、それは、遠い処から。良かったら座りなさい」
白髪の男は左の掌で空いている左列の長椅子を指し、私を促した。私が長椅子に座ると男も隣に腰を下ろした。
「君は、何処かでこの教会のことを聞いたのかな」
「いえ、朝の散歩の途中で寄りました。これは朝のミサですよね」
男はその帽子の上に乗る小人が糸で引いたかのように両方の眉を吊り上げ、右の口角を捻じ曲げて発達した犬歯を見せて引き攣った笑顔を作る。その表情には少し驚きの感情も混ぜられているようにも見えた。「まあ、そうだね」と言って男は私の肩を二回軽く叩き、立ち上がって最初に現れた暗がりへと戻り、その姿を闇に紛れさせた。
祭壇の男が話を続けている。いつの間にか教会の中が白い靄で覆われ始めていた。それは次第に濃くなり、舞台で使用されるスモークを思わせる動きで、祭壇から私の座る後方の座席の方向へと緩やかに流れている。視界が白く曇ってきた。煙を吸い込むと、酢酸とカー用品店のタイヤ売場に漂うゴムの匂いが混じり合った、不快な刺激臭を感じた。その直後、大きな両手で頭を掴まれて何十回も前後左右に振られた後、突然その手を離されでもしたかのように、視点が宙を舞い、平衡感覚を失い、床に崩れ落ち、横たわってしまった。私の眼には倒されたビデオカメラの映像の如く、画面の左右が上下に九十度回転し、白い煙が通路を上から下へと緩やかに流れて行く様子が見えていた。
朦朧とした意識の中で次に覚えているのは、黒い蝙蝠の大群が煙の流れに逆らい通路を抜けて祭壇へ向かっていく光景だった。私の伸びた右腕が通路にはみ出していた。その手が蝙蝠の群れに接触した瞬間、手首に激痛が走った。黒い羽音の群れが私の周りに集まって来る。まるで彼らは倒れている私を起こそうとしているようだ。前列の席の背凭れを左手で掴み、上体を支えて椅子に座り直すと、祭壇で蝙蝠の群れがリーダーの男を包み込んでいるのが見えた。その後に覚えているのは、閉じた瞼の裏側に点滅を続ける赤と青の色を感じたことだ。それが最後の記憶だった。私の意識は再び白い霧の中で遠のいていった。
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目が覚めると、宿の部屋のベッドに仰向けに寝ていた。白い漆喰の天井には雨漏りの跡が薄茶色に染み出し、狭い範囲に広がっている。ベッドの右側にある窓からは柔らかな明るい光が差し込んでいた。部屋の時計の針は数字の六を指している。おかしな夢を見た、そう思いながら上体を起こすと右の手首に痛みを感じた。見ると手首には包帯が巻かれていて、赤黒く固まった血が薄く滲み出ていた。着ているのは寝間着代わりのジャージではなく、パーカーにジーンズだった。
夢ではなかったのだ。
時刻は朝ではなく夕方の六時だった。酷い頭痛で気分が悪く、もう一泊延長を申し込もうと、縺れる足で階段を降りてようやく二階のフロントに辿り着いた。
「ごめんなさい、もう一泊延長お願いします」
カウンターのオーナー夫人は笑いながら、「オーケー、オーケー」と言って、千鳥足で向かってきた私を止めるように掌を向ける。彼女は私の手首の包帯を指差し、早口のスペイン語で何かを言ったけれど聞き取ることができなかった。次の瞬間、鼻腔を刺す白い霧の不快な臭いを思い出してしまい、胃が痙攣して迫り上がってくる感覚に襲われた。ペリエを買って食堂のテーブル席に腰を下ろす。グラスに炭酸水を注ぎ、胃に流し込む。一本全て飲み終わる頃には胃が膨れて、口を抑えながら何度も噯気を出してしまう。明後日のチェックアウトまでベッドで横になっていたいと思った。
夫人がビニール袋から取り出した新しいガーゼと小さなチューブを持ってテーブルにやってきた。向かい合わせの席に座り、私の手首を優しく掴んで包帯をほどいてくれた。包帯の下のガーゼには酸化して黒く変色した血の塊がこびりついている。数枚重ねられた小さな四角い綿布を取り除くと、薄紫色に変色した手首が現れた。内出血でもしていたのだろうか。さらに眼を凝らすと動脈に沿って二つの小さな穴が開いていて、小豆色の瘡蓋ができている。穴と穴との間隔は三センチほど離れていた。彼女はチューブから軟膏を絞り出して私の二つの傷口に塗り込み、ガーゼを乗せて包帯を巻き直してくれた。一連の作業を終えると、笑顔と共に「オーケー」と言って夫人はカウンターの奥に戻っていった。
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翌々日の朝、八時にシャワーを浴びた。昨日は再びオーナー夫人に傷を手当してもらい、一階のベーカリーでアイナがパンと飲み物を買ってきてくれたお陰で、一日をベッドの上で過ごすことができた。手首の傷口の周りを洗い流す。オーバーサイズのデニムシャツの長袖に腕を通すと変色した手首が隠れる。十時前にチェックアウトの為にカウンターを訪れると、オーナー夫人が「朝食を用意するから待っていて」と言って窓際の席を用意してくれた。
窓の外の景色に眼を細めて見ると、雲に覆われた灰色の空にピレネー山脈の白、その下に焦げ茶色にくすんだスーパーマーケットの屋根の色に分かれる。その三つの色の重なりに、アイスカフェオレのグラスの中でミルクとコーヒーが分離して現れた三層の模様を思い浮かべてしまう。大通りには信号で停車する車の列と免税店を巡る観光客が疎らに歩いている。やがて夫人が焼き立てのクロワッサンとアイスカフェオレを運んできた。眼の前に置かれた並々と注がれた現実のグラスの中の色の重なりは、底で光を鈍く反射するガラスの灰色の上にミルクの白が沈殿し、そして一番上がコーヒーという、窓の外の景色とは上下が反転した並びだった。ストローでかき混ぜて一色にする。この宿の特製だという皿の上のクロワッサンは、東京で売られているものの二倍ほども大きく見えた。茶色と黄金色で縞模様の焼き目が付いた、未だ熱さの残る薄皮のパイ生地に前歯を立てると、メイプルバターの香ばしく焦げた香りが鼻腔を抜けて通る。千切って頬張ると塩味と甘味が舌上で溶け出し、やがて口内全体に溢れていく。全てを胃に収めた後、指先に纏わり付いているバターを舐め、更に持参していた携帯用のアルコールティッシュを取り出して拭った。
クレジットカードで支払いを済ませ、チェックアウトの書類にサインをしているとアイナが現れた。今日は日曜なので学校は休みなのだ、と彼女は言った。
「手は大丈夫かな」
「ありがとう、大丈夫よ、傷口も塞がってるし、手首もちゃんと動く」
私は自分の手首を回転させ、さらに掌を開いて閉じる動作を数回繰り返して彼女に微笑んだ。痛みは無かった。
「東京へ帰るのかな」
「ええと、バルセロナからパリへ行って、東京に帰るわ。バルセロナ行のバスは十一時に出発だから、もう行かなきゃ」
「いいなあ」
私は「東京に遊びに来て」と言って住所と電話番号、そしてメールアドレスをメモ用紙に書いてアイナに渡した。将来、実際に連絡があるかもしれないと思った。彼女が東京に来たら私の部屋に泊めてあげれば良い。日本語で「さよなら」と言った彼女に私はスペイン語で返そうと、頭の中で必死に単語を探し当て「アディオス」と言うことができた。アイナは満面の笑みと共に私の腰の辺りに腕を巻き付けて、小さな鼻をデニムシャツに埋めた。
大通りに出ると曇り空にも関わらず陽射しが眩しく感じられたので、レイバンのサングラスを掛けて、ファーストフード店の赤い看板を目指しバスターミナルへと坂を下った。石畳が続く道の上でスーツケースの車輪が跳ね、その騒音はミニチュアの削岩機が発し続けるリズムを想像させた。下山するバスの中で山道を身体を振子の如く左右に揺られながら、私は一昨日の教会での出来事を振り返り、手首に残る小さな二つの瘡蓋を眺めて眉間に皺を寄せていた。しかし湧き上がる数々の疑問は、臍の上の辺りに押し当てられたアイナの小さな顔のかたちを思い出す度に曖昧に霧散してしまうのだった。



