現地時間の二十時に、上海浦東国際空港に到着した。通訳のミセス・コウという、ショートカットの中年女性が私達を迎えに来ていた。彼女は二十代の頃、日本の大学に留学していた経験があり、流暢な日本語を話す。東京の大学に通いながらエンドウの会社でアルバイトをしていた縁で、現在も彼らと中国企業との橋渡し的な役割をしていた。
私達を乗せたミセス・コウの車は高速道路を走っていた。上海市街を通らずに、海湾のホテルへ直接向かうことになっていたのだ。窓の外の景色は、暗闇の中を車のヘッドライトに照らされた部分だけがアスファルト舗装の道路を見せている。目を上げると、漆黒の中に等間隔で並ぶ道路照明灯の明かりだけが確認できた。晴れた夜空に幾つもの満月が並んでいたら、きっとこんな風景なのだろうと思った。視点を移すと、窓に灯が乱反射して、幾つもの光が流れ去って行く。何時の間にか私は眠りに落ちてしまった。
* * *
翌日の午後、現場ではカメラマンのカミムラが完成した別荘街の外観を撮影していた。私はミセス・コウを通訳に、現地で指揮を執る上海の会社の代表にインタビューを行っている。海沿いに建てられたこの別荘地は、引き潮の時には潮干狩りも楽しめるらしい。陽射しを受けて銀色に光る海は青ではなく、黒に近い。灰色の砂地と海を眺めていると、まるで自分がモノクロームの写真の中に紛れ込んでしまった感覚に襲われる。夕方になり、一通りの取材を終えた私たちは、今夜の宿泊先である上海市街へと向かった。
* * *
市内のホテルに近づく。周囲には店が軒を連ねていて、自在に曲げられたネオン管が蛍光色の瞬きを繰り返し、点滅させて夜の街を発光させている。信号で停車中に、窓の外に見える「KTV」というネオンサインに眼を留めていると、隣席のジュニアが口を開いた。
「KTVっていうのはカラオケですね」
「そうなんですか」
眺め続けていると、若い男女の四人組が店に入って行く。「一昔前はこんなじゃ無かったですよ。昔は店先にホステス達がずらっと並んでいて、男の客が女性を選んで一緒に店に入ってたんですよ」とジュニアが言った。
「何だか、それ、キャバクラみたいですね」
「そうなんですよ。俺が初めて上海に来たのは二十年くらい前なんですけど、まだそういうスタイルが残ってましたね。男尊女卑っていうのは全世界共通ですよね。今はもう、いろいろ煩く言われて、そういうのは段々無くなってますけど、親父の世代はそれが当然だと思ってますからね」
十七時過ぎにチェックインを済ませて、指定された九階の部屋に荷物を置いた。部屋の窓から見える景色は、灰色の空気と夕暮れの茜色が混ざり、その名前を付けられていない濁った色の中にビルの群れが生えている。地上から見たネオンサインに囲まれた街とは別の顔を見せていた。私の部屋より低い建物の屋上に、両腕を肩から回転させた後に背骨を反らせるという運動を繰り返すスーツ姿の男を見付けて、暫くの間観察してみる。終業後の体操なのだろうか。やがて夕闇が世界を包み始める。私がビル群の無数の窓明りの景色に目を凝らしている間に、屋上の男はいつの間にか姿を消していた。十九時からホテル内のレストランで、上海のスタッフによる歓迎と打ち上げを兼ねた食事会が開かれるので、参加するように告げられていた。上海市街を観光するスケジュールは組まれていなかった。私はベッドの上に身体を横たえて、一時間程度を過ごすことにした。
* * *
ホテルの二階にある中国料理のレストランで食事を済ませ、エンドウが感謝の挨拶を宣べた後、上海の会社の社長から提案が出された。最後に、東京と上海のスタッフの中から代表を一人選出して、飲み比べを行いたいのだと、ミセス・コウが通訳した。
「俺、五年前に心臓やっちゃってさ、呑めないんだよ」とエンドウは言った。
「私も駄目なんですよ。医者から止められてます」とカミムラは申し訳なさそうな表情を作りながら、両方の掌を合わせた。
「俺も駄目なんですよ。酒も煙草もやらないんです」と続けてジュニアが言った。
「え」と私の口が開き、その形のまま唇が固まってしまった。
エンドウは「モモカちゃん、頼むよ」と言った後、続けて「何の為に上海に呼んだと思ってるんだ」と私を睨み付けた。
「あ、私も三年前に脂肪肝で倒れてから、付き合い程度にしか呑めないんですけど」
私たちの隣席の、客のいないテーブルと椅子が脇に寄せられて、赤いテーブルクロスが敷かれた小さな真四角の二人用テーブルが手際良く用意された。さらに対面に椅子が設置されると、五人の上海のスタッフは私を見て「モモカ、モモカ」と手拍子とコールを始めた。スタッフの一人が用意されたテーブルの片方の椅子を引き、右腕を座席に向かって拡げて、私に座るように示す。仕方なく席に腰を下ろすと、大きな拍手が沸き起こった。五人の中から対戦相手が前に出て、対面に座った。七三分けの髪型の青年だ。
「マーです。よろしくお願いします」と彼は日本語で話し、頭を深く下げた。次の瞬間、首にスプリングでも仕込まれているのかと思わせる勢いで上体を跳ね上げて姿勢を元に戻す。マーは唇を弓の形に曲げて笑顔を作り私を見ている。最早、後には引けなかった。私は「モモカです。よろしくお願いします」と言って頭を下げた。
テーブルの上には紹興酒の瓶が十本ほど並べられ、私とマーの前にそれぞれ一つずつ小さなグラスが置かれた。
「では」とマーは言って、並々と注がれた最初の一杯を一気に食道に流し込んだ。私もそれに倣い、同じように液体を身体に流し込むと、胃を起点にして血流が促進されたようで、全身の毛穴が大きく開いた気がした。
五本目の紹興酒の瓶が空になると、遂に私の目の焦点は揺らぎ、やがて回転を始めた。虚ろな目でマーを見ると、彼は私にウインクをしてから右手を挙げて中国語で何か叫んだ後、椅子から転げ落ちた。マーは同僚のスタッフに抱き抱えられて再び椅子に座らされ、ずっと笑い続けている。私は、このままでは酷い二日酔いになり、明日の朝の出発に支障が出てしまうのではと不安になった。
「モモカさん、大丈夫ですよ」とマーはそう囁き、小声でウェイターに何かを注文をした。暫くして、ピンク色の液体が並々注がれたビールジョッキを二つ持ったウェイターが歩いて来た。彼が大股で歩を進める度に、ジョッキの縁から粘液質の液体が少しずつ零れて床に小さな破裂の跡を残していく。私はテーブルに置かれた器を眺めながら、「何ですか、これ」と彼に訊いた。
「西瓜ジュースです。生絞りですね。百パーセント。これを飲んでおけば絶対に二日酔いにならないですよ」とマーは言った。
絶対、という言葉を信じて、私はジョッキの縁を唇で挟み、シャーベット状の果肉が混ざった甘い液体を胃に流し込む。これは果糖ブドウ糖溶液が混ぜられている清涼飲料水なのでは、と疑いたくなる程、瓜科特有の匂いは殆ど感じられない。空になった二つのジョッキの上で、私たち二人が握手を交わすと、日本と中国の両方のスタッフからの拍手に包まれた。
* * *
翌朝、六時に目が覚めた。トイレに行くと、全身干乾びてしまうのではと心配になる程の大量の水分を排出した。鏡に映る自分の顔を見ながら、二日酔いが全く無いことに気が付く。マーの言ったことは本当だったのだ。
シャワーを浴びてから支度を済ませて集合時間の八時にロビーに行くと、エンドウから、空港まで送迎してくれるミセス・コウの車が渋滞で遅れていると知らされた。恐らく一時間程度は遅れるだろう、という話だった。
「昨夜はマーさんに助けられましたね」とジュニアが話し掛けてきた。
「本当、助かりました。あれ、マーさん、敢えて敗けた振りをしてくれたんですよね」
「中々の演技でしたよね。彼は優しいですよ」と彼は両頬の筋肉を少し上げて微笑んだ。
「あの西瓜ジュース、日本でも売れるんじゃないですかね。新橋の酔っ払ったサラリーマンの人達に」と私が言うと、ジュニアは声を出して笑った。彼の笑い声を聞いたのは初めてだった。
* * *
フライトは十一時だった。空港までは一時間程の距離なので、九時にホテルを出発しても余裕で間に合うだろう。エンドウはラウンジのソファに座り、脚を組み、両手を頭の後ろで結んで枕代わりにして目を閉じている。カミムラもまたソファに座り、新聞を拡げて眉間に皺を寄せながら、興味深そうに漢字で埋め尽くされた紙面を目で追っている。「コウさん、到着まで暫く掛かるみたいなんで、モモカさん、お茶でもしませんか」とジュニアに誘われたので、私は承諾して二人でホテル内に併設されているカフェに移動した。
窓際の席に対面で座る。ジュニアがお茶を二つ注文した。私は大きなガラス窓を挟んだ大通りで、延々と続けられている右や左から次々と姿を現しては交差しながら流れ去っていく人々を眺めている。上海の景色は灰色のフィルターが一枚挟まれているように思えて、やはり全体的に霞んで見えるのだ。ウェイターが細長いグラスを持って来た。その底には乾燥した深緑や薄紅色の植物がある。ウェイターは長く細長い注ぎ口を持つ銀の急須で、私たちのグラスに熱湯を注ぐと、程なくして緑の葉が浮かび上がり、表面を覆いつくした。
「これ、葉が邪魔で飲めませんね」と私が言うと「ああ、そうなんですよね。でも、少し待てば沈みますよ」とジュニアは答えた。
「今回の仕事、親父がすみませんでした」
「あ、いえいえ、大丈夫ですよ」
「親父の世代って、慰安旅行とか言って、よく団体で東南アジアなんかに旅行に行ってたんですよ。まあ、地方の会社なんかでは今でも行われてるのかもしれないですけど、要するに買春ツアーですよ。現地の女の子を買うんですよ。親父なんか、今回の娘は良かったな、とか言って帰って来るわけですよ。子供の頃に違和感を覚えて、俺は絶対にそんなことはしない、と思いましたね。更に酷いと思ったのは、母親がそれを許してるんですよ」
「ああ、そうなんですね」
「俺、三歳になる娘がいるんですけど、もし日本に生まれていなくて、生活のためか何か分からないですけど、親父みたいなのに自分の娘を買われたらって思うと、遣り切れないですよ。親父みたいな人間は殺したくなりますね。子供や女性を大切にできない男は絶滅するべきだと思います」
だとしたら昨夜は何故私の代わりに呑み比べに名乗り出てくれなかったのか、という台詞が口から出そうになったのだけれど、耐えて飲み込んだ。しかしながら、私はジュニアが終始、父親であるエンドウに向けて、その灰色のガラス玉の眼差しを向けているのかを理解することができた気がした。
私の父も慰安旅行と称して何度か海外に出掛けていたことを思い出した。家族とはいえ、否、家族だからこそ隠しておきたい秘密の一つや二つはあるとは思うのだけれど、帰国する度に土産で現地のお菓子を買って来てくれた自分の父親が、もしかしたらその様な如何わしい行為をしていたかもしれないと想像すると、腕の産毛が逆立ち、額の生え際に汗が滲み出てくるのを感じた。慌ててシャツの袖で押さえて、その水分を吸収させた。
「そろそろ良いんじゃないですか」とジュニアが言った。グラスを見ると、水面に浮いていた葉はすべて沈み、底の中心には薄紅色の花が湯を含み、大きく開花していた。「俺が中国を好きなのはこういう処なんですよね」と、中国の人たちは緑茶を飲むと同時に視覚でも楽しむのだと、彼は教えてくれた。さらに、中国と言えば烏龍茶という印象かもしれないけれど、それは清涼飲料水のメーカーが日本人に植え付けたもので、実際に烏龍茶が良く飲まれているのは台湾で、中国では緑茶が一般的なのだと付け加えて言った。
「この花、何でしょうね」と私はグラスの底を目の前に持って来て、左右に傾けてその花を観察しながら呟く。
「ああ、多分、桃じゃないですかね」とジュニアが言った。
グラスの縁を唇に合わせて、薄緑色の暖かな液体を少し口に含む。鼻腔を抜けていくのは、桃というよりも薔薇の香りに近い。瞬間、大学生の時に毎日のように転がり込んでいた、学校近くの親友のアパートの部屋の映像が脳裏に再生された。彼女が使っていた柔軟剤の香りだ。
ラウンジから、エンドウが私たちを呼ぶ声が聞こえた。ミセス・コウの車が到着したのだ。私達二人は、グラスに半分残っていた緑茶を慌てて飲み干して席を立った。
二つのグラスの底には、熱湯によってその内部に含んでいた緑色を拡散させられ、その役目を終えて茶色に変色した葉と、眺める者がいなくなり、緊張から解かれ脱力して広がった花弁が残されている。私はその花の香りをもう一度味わいたいと思い、ジュニアが会計を済ませている間に再びテーブルに戻り、グラスの口に鼻を近付けてみたのだけれど、そこには微かに漂う塩素の匂いが残されているだけだった。香りは既に、灰色のフィルターを重ねた街の景色の中へと逃げ去ってしまったのだ。
私達を乗せたミセス・コウの車は高速道路を走っていた。上海市街を通らずに、海湾のホテルへ直接向かうことになっていたのだ。窓の外の景色は、暗闇の中を車のヘッドライトに照らされた部分だけがアスファルト舗装の道路を見せている。目を上げると、漆黒の中に等間隔で並ぶ道路照明灯の明かりだけが確認できた。晴れた夜空に幾つもの満月が並んでいたら、きっとこんな風景なのだろうと思った。視点を移すと、窓に灯が乱反射して、幾つもの光が流れ去って行く。何時の間にか私は眠りに落ちてしまった。
* * *
翌日の午後、現場ではカメラマンのカミムラが完成した別荘街の外観を撮影していた。私はミセス・コウを通訳に、現地で指揮を執る上海の会社の代表にインタビューを行っている。海沿いに建てられたこの別荘地は、引き潮の時には潮干狩りも楽しめるらしい。陽射しを受けて銀色に光る海は青ではなく、黒に近い。灰色の砂地と海を眺めていると、まるで自分がモノクロームの写真の中に紛れ込んでしまった感覚に襲われる。夕方になり、一通りの取材を終えた私たちは、今夜の宿泊先である上海市街へと向かった。
* * *
市内のホテルに近づく。周囲には店が軒を連ねていて、自在に曲げられたネオン管が蛍光色の瞬きを繰り返し、点滅させて夜の街を発光させている。信号で停車中に、窓の外に見える「KTV」というネオンサインに眼を留めていると、隣席のジュニアが口を開いた。
「KTVっていうのはカラオケですね」
「そうなんですか」
眺め続けていると、若い男女の四人組が店に入って行く。「一昔前はこんなじゃ無かったですよ。昔は店先にホステス達がずらっと並んでいて、男の客が女性を選んで一緒に店に入ってたんですよ」とジュニアが言った。
「何だか、それ、キャバクラみたいですね」
「そうなんですよ。俺が初めて上海に来たのは二十年くらい前なんですけど、まだそういうスタイルが残ってましたね。男尊女卑っていうのは全世界共通ですよね。今はもう、いろいろ煩く言われて、そういうのは段々無くなってますけど、親父の世代はそれが当然だと思ってますからね」
十七時過ぎにチェックインを済ませて、指定された九階の部屋に荷物を置いた。部屋の窓から見える景色は、灰色の空気と夕暮れの茜色が混ざり、その名前を付けられていない濁った色の中にビルの群れが生えている。地上から見たネオンサインに囲まれた街とは別の顔を見せていた。私の部屋より低い建物の屋上に、両腕を肩から回転させた後に背骨を反らせるという運動を繰り返すスーツ姿の男を見付けて、暫くの間観察してみる。終業後の体操なのだろうか。やがて夕闇が世界を包み始める。私がビル群の無数の窓明りの景色に目を凝らしている間に、屋上の男はいつの間にか姿を消していた。十九時からホテル内のレストランで、上海のスタッフによる歓迎と打ち上げを兼ねた食事会が開かれるので、参加するように告げられていた。上海市街を観光するスケジュールは組まれていなかった。私はベッドの上に身体を横たえて、一時間程度を過ごすことにした。
* * *
ホテルの二階にある中国料理のレストランで食事を済ませ、エンドウが感謝の挨拶を宣べた後、上海の会社の社長から提案が出された。最後に、東京と上海のスタッフの中から代表を一人選出して、飲み比べを行いたいのだと、ミセス・コウが通訳した。
「俺、五年前に心臓やっちゃってさ、呑めないんだよ」とエンドウは言った。
「私も駄目なんですよ。医者から止められてます」とカミムラは申し訳なさそうな表情を作りながら、両方の掌を合わせた。
「俺も駄目なんですよ。酒も煙草もやらないんです」と続けてジュニアが言った。
「え」と私の口が開き、その形のまま唇が固まってしまった。
エンドウは「モモカちゃん、頼むよ」と言った後、続けて「何の為に上海に呼んだと思ってるんだ」と私を睨み付けた。
「あ、私も三年前に脂肪肝で倒れてから、付き合い程度にしか呑めないんですけど」
私たちの隣席の、客のいないテーブルと椅子が脇に寄せられて、赤いテーブルクロスが敷かれた小さな真四角の二人用テーブルが手際良く用意された。さらに対面に椅子が設置されると、五人の上海のスタッフは私を見て「モモカ、モモカ」と手拍子とコールを始めた。スタッフの一人が用意されたテーブルの片方の椅子を引き、右腕を座席に向かって拡げて、私に座るように示す。仕方なく席に腰を下ろすと、大きな拍手が沸き起こった。五人の中から対戦相手が前に出て、対面に座った。七三分けの髪型の青年だ。
「マーです。よろしくお願いします」と彼は日本語で話し、頭を深く下げた。次の瞬間、首にスプリングでも仕込まれているのかと思わせる勢いで上体を跳ね上げて姿勢を元に戻す。マーは唇を弓の形に曲げて笑顔を作り私を見ている。最早、後には引けなかった。私は「モモカです。よろしくお願いします」と言って頭を下げた。
テーブルの上には紹興酒の瓶が十本ほど並べられ、私とマーの前にそれぞれ一つずつ小さなグラスが置かれた。
「では」とマーは言って、並々と注がれた最初の一杯を一気に食道に流し込んだ。私もそれに倣い、同じように液体を身体に流し込むと、胃を起点にして血流が促進されたようで、全身の毛穴が大きく開いた気がした。
五本目の紹興酒の瓶が空になると、遂に私の目の焦点は揺らぎ、やがて回転を始めた。虚ろな目でマーを見ると、彼は私にウインクをしてから右手を挙げて中国語で何か叫んだ後、椅子から転げ落ちた。マーは同僚のスタッフに抱き抱えられて再び椅子に座らされ、ずっと笑い続けている。私は、このままでは酷い二日酔いになり、明日の朝の出発に支障が出てしまうのではと不安になった。
「モモカさん、大丈夫ですよ」とマーはそう囁き、小声でウェイターに何かを注文をした。暫くして、ピンク色の液体が並々注がれたビールジョッキを二つ持ったウェイターが歩いて来た。彼が大股で歩を進める度に、ジョッキの縁から粘液質の液体が少しずつ零れて床に小さな破裂の跡を残していく。私はテーブルに置かれた器を眺めながら、「何ですか、これ」と彼に訊いた。
「西瓜ジュースです。生絞りですね。百パーセント。これを飲んでおけば絶対に二日酔いにならないですよ」とマーは言った。
絶対、という言葉を信じて、私はジョッキの縁を唇で挟み、シャーベット状の果肉が混ざった甘い液体を胃に流し込む。これは果糖ブドウ糖溶液が混ぜられている清涼飲料水なのでは、と疑いたくなる程、瓜科特有の匂いは殆ど感じられない。空になった二つのジョッキの上で、私たち二人が握手を交わすと、日本と中国の両方のスタッフからの拍手に包まれた。
* * *
翌朝、六時に目が覚めた。トイレに行くと、全身干乾びてしまうのではと心配になる程の大量の水分を排出した。鏡に映る自分の顔を見ながら、二日酔いが全く無いことに気が付く。マーの言ったことは本当だったのだ。
シャワーを浴びてから支度を済ませて集合時間の八時にロビーに行くと、エンドウから、空港まで送迎してくれるミセス・コウの車が渋滞で遅れていると知らされた。恐らく一時間程度は遅れるだろう、という話だった。
「昨夜はマーさんに助けられましたね」とジュニアが話し掛けてきた。
「本当、助かりました。あれ、マーさん、敢えて敗けた振りをしてくれたんですよね」
「中々の演技でしたよね。彼は優しいですよ」と彼は両頬の筋肉を少し上げて微笑んだ。
「あの西瓜ジュース、日本でも売れるんじゃないですかね。新橋の酔っ払ったサラリーマンの人達に」と私が言うと、ジュニアは声を出して笑った。彼の笑い声を聞いたのは初めてだった。
* * *
フライトは十一時だった。空港までは一時間程の距離なので、九時にホテルを出発しても余裕で間に合うだろう。エンドウはラウンジのソファに座り、脚を組み、両手を頭の後ろで結んで枕代わりにして目を閉じている。カミムラもまたソファに座り、新聞を拡げて眉間に皺を寄せながら、興味深そうに漢字で埋め尽くされた紙面を目で追っている。「コウさん、到着まで暫く掛かるみたいなんで、モモカさん、お茶でもしませんか」とジュニアに誘われたので、私は承諾して二人でホテル内に併設されているカフェに移動した。
窓際の席に対面で座る。ジュニアがお茶を二つ注文した。私は大きなガラス窓を挟んだ大通りで、延々と続けられている右や左から次々と姿を現しては交差しながら流れ去っていく人々を眺めている。上海の景色は灰色のフィルターが一枚挟まれているように思えて、やはり全体的に霞んで見えるのだ。ウェイターが細長いグラスを持って来た。その底には乾燥した深緑や薄紅色の植物がある。ウェイターは長く細長い注ぎ口を持つ銀の急須で、私たちのグラスに熱湯を注ぐと、程なくして緑の葉が浮かび上がり、表面を覆いつくした。
「これ、葉が邪魔で飲めませんね」と私が言うと「ああ、そうなんですよね。でも、少し待てば沈みますよ」とジュニアは答えた。
「今回の仕事、親父がすみませんでした」
「あ、いえいえ、大丈夫ですよ」
「親父の世代って、慰安旅行とか言って、よく団体で東南アジアなんかに旅行に行ってたんですよ。まあ、地方の会社なんかでは今でも行われてるのかもしれないですけど、要するに買春ツアーですよ。現地の女の子を買うんですよ。親父なんか、今回の娘は良かったな、とか言って帰って来るわけですよ。子供の頃に違和感を覚えて、俺は絶対にそんなことはしない、と思いましたね。更に酷いと思ったのは、母親がそれを許してるんですよ」
「ああ、そうなんですね」
「俺、三歳になる娘がいるんですけど、もし日本に生まれていなくて、生活のためか何か分からないですけど、親父みたいなのに自分の娘を買われたらって思うと、遣り切れないですよ。親父みたいな人間は殺したくなりますね。子供や女性を大切にできない男は絶滅するべきだと思います」
だとしたら昨夜は何故私の代わりに呑み比べに名乗り出てくれなかったのか、という台詞が口から出そうになったのだけれど、耐えて飲み込んだ。しかしながら、私はジュニアが終始、父親であるエンドウに向けて、その灰色のガラス玉の眼差しを向けているのかを理解することができた気がした。
私の父も慰安旅行と称して何度か海外に出掛けていたことを思い出した。家族とはいえ、否、家族だからこそ隠しておきたい秘密の一つや二つはあるとは思うのだけれど、帰国する度に土産で現地のお菓子を買って来てくれた自分の父親が、もしかしたらその様な如何わしい行為をしていたかもしれないと想像すると、腕の産毛が逆立ち、額の生え際に汗が滲み出てくるのを感じた。慌ててシャツの袖で押さえて、その水分を吸収させた。
「そろそろ良いんじゃないですか」とジュニアが言った。グラスを見ると、水面に浮いていた葉はすべて沈み、底の中心には薄紅色の花が湯を含み、大きく開花していた。「俺が中国を好きなのはこういう処なんですよね」と、中国の人たちは緑茶を飲むと同時に視覚でも楽しむのだと、彼は教えてくれた。さらに、中国と言えば烏龍茶という印象かもしれないけれど、それは清涼飲料水のメーカーが日本人に植え付けたもので、実際に烏龍茶が良く飲まれているのは台湾で、中国では緑茶が一般的なのだと付け加えて言った。
「この花、何でしょうね」と私はグラスの底を目の前に持って来て、左右に傾けてその花を観察しながら呟く。
「ああ、多分、桃じゃないですかね」とジュニアが言った。
グラスの縁を唇に合わせて、薄緑色の暖かな液体を少し口に含む。鼻腔を抜けていくのは、桃というよりも薔薇の香りに近い。瞬間、大学生の時に毎日のように転がり込んでいた、学校近くの親友のアパートの部屋の映像が脳裏に再生された。彼女が使っていた柔軟剤の香りだ。
ラウンジから、エンドウが私たちを呼ぶ声が聞こえた。ミセス・コウの車が到着したのだ。私達二人は、グラスに半分残っていた緑茶を慌てて飲み干して席を立った。
二つのグラスの底には、熱湯によってその内部に含んでいた緑色を拡散させられ、その役目を終えて茶色に変色した葉と、眺める者がいなくなり、緊張から解かれ脱力して広がった花弁が残されている。私はその花の香りをもう一度味わいたいと思い、ジュニアが会計を済ませている間に再びテーブルに戻り、グラスの口に鼻を近付けてみたのだけれど、そこには微かに漂う塩素の匂いが残されているだけだった。香りは既に、灰色のフィルターを重ねた街の景色の中へと逃げ去ってしまったのだ。



