アルバカーキからサンタフェへ向かうグレイハウンドは半分が空席で、車内の丁度真ん中のあたり、右の列に指定された席があった。隣に客が居なかったので二人掛けのボックス席を独り占めすることができた。通路側の席に荷物を置き、窓際の席に落ち着く。
朝九時の空は雲一つ無い、水色の絵の具で均一に塗られた絵画そのものだった。その下に広がる荒野の上をアスファルトの灰色の太い線が一本、地平線まで真っ直ぐに延びている。その上をバスは轟音を響かせながら走り続けていた。時折フロントガラスに黄緑色のゼリー状の小さな塊が衝突して音を立てる。飛んでいるバッタに似た虫が破裂して内臓をガラスに塗り付けていた。その音が小学生の頃の罰ゲームで手首に人差し指と中指を当ててひっぱたく“シッペ”の音を思い出させて、当時の教室の景色や何人かのクラスメイトの顔が記憶から引き出されてくる。
虫がぶつかる音を立てる度にドライバーは小さく文句を言いながら運転を続けている。度々洗浄液とワイパーでフロントガラスを掃除するけれど、粘液を洗浄するのには十分ではなく、ワイパーが擦る扇型の軌跡に沿って薄く引き伸ばされて、薄緑色の粘液質の筋が残った。
* * *
グレイハウンドは一時間から二時間程度の間隔でルート沿いのレストハウスに停車するスケジュールになっていた。乗客はそこでトイレに行き、飲み物などの買い物をする。乗客の殆どはレストハウスに向かったけれど、私は尿意を感じていなかったのでバスの窓から次々と店の中に消えていく乗客を眺めていた。左側に息遣いと熱を感じて顔を向けると、大男のドライバーの顔が迫っていた。
「ジャパニーズガール」
イエス、と答えると、ドライバーは何か早口で説明を始めた。上手く聞き取れなかったけれど「ヘルプ」という単語が混ざっていたので、何か頼み事があるのだろう。彼に手招きされるままに前列の座席に移動すると、ステッキを手にした小さな老婆が座っていた。背丈が低いので座席に埋もれてしまっていて、その存在に今まで気が付かなかったのだ。
どうやら老婆は脚が悪いので、一緒にレストハウスに付き添って行って欲しい、ということらしい。私は承諾して老婆の左側に立ち、抱きかかえる姿勢で左手で彼女の左手を握り、右手はカーディガン越しに浮かび上がる背骨の、今にも折れそうな細く枯れてしなった竹を連想させるシルエットに掌を当てた。ゆっくりとバスの乗車口の階段を降りる。老婆の地面への最初の一歩は宇宙飛行士が月面に降り立つ白黒映像の如く大袈裟な動作になってしまった。後ろからステッキを持ったドライバーが降りてきて老婆に手渡した。彼女は「サンキュー、サンキュー」と薄くルージュを引いた口元を三日月型にカーブさせながら微笑んだ。
レストハウスに入ると彼女はトイレのサインを指差した。老婆をトイレに連れて行きドアを開けて中へ入るように促した。ドアの前で暫くの間、店内を見回してみる。東京のサキのアパートの近所にあるセブンイレブンと内装が似ていた。週末の夜に二人で映画を観る時は決まってポテトチップスと紙容器のジュースの組み合わせをその店で買っていた。彼女のアパートでは缶やペットボトルの回収が月に二回しか無かったので、できる限り紙容器に入った飲み物を選んでいたことを思い出した。
老婆がコーラを飲みたがったので、私は冷蔵ケースからペットボトルを取り出し、レジでの支払いを手伝った後、バスに戻った。老婆を席に座らせるとドライバーは「サンクス、サンクス」と私の肩甲骨を軽く叩いた。ドライバーは点呼を始め、乗客が全員揃っていることを確認すると、最後に大きな声で「ヘイ、ジャパニーズガール」と私に向かって手招きをした。運転席に向かうと、彼は空席だった一番前のシートを指し「この席は眺めが良いから座るといい、ご褒美だ」と言った。
老婆はそこから一時間ほど走った停留所で下車した。家族と思われる中年の夫婦と二人の子供が彼女を迎えに来ていた。私はタラップを降りる老婆の肘を支えた。後ろにステッキを持ったドライバーが続く。彼女の靴の底が乾いた土埃を巻き上げ無事着地すると、中年の男が大きく腕を拡げ、彼女を包み込むように抱き締めた。子供達は抱き合う二人の周りをくるくると円を描きながら走っている。老婆が中年男の耳元で何かを囁く度に男は何度も頷いていた。
* * *
エンジンの振動音と共にグレイハウンドは再び灰色の線上に戻った。目の前では相変わらず小さな虫とワイパーの攻防が続いていたけれど、午後五時を過ぎたあたりから水色からコバルトブルーへと空の色が変化を始め、やがてフロントガラスに貼り付くのは薄緑色の粘液に代わり白い雪に変わった。次第に視界を覆う雪の量が増えていき、ワイパーの速度が追い付いていないように見える。暫くするとワイパーは電池が切れそうなオモチャに似て動きが鈍くなり、動きを止めてしまった。視界はまるで前方の暗闇から悪戯好きな巨人に大量の粉チーズを振り掛け続けられている状態だった。ドライバーは頭部を前方に突き出し、必死に眼を凝らしながら運転を続けた。
やがてドライバーは小さなガソリンスタンドの看板を見つけ、店の一番端の駐車スペースにグレイハウンドの巨体を止めた。彼は大きな鼻を拡げて一度深呼吸をした後、無線を使い通信を始めた。ワイパーが故障したので修理を手配しているようだった。彼は両方の掌を私に向けて「ノー、プロブレム」と右の口角を捩じって笑い、そして後部の座席に座る乗客に向かい説明を始めた。
* * *
サンタフェには午後七時に到着の予定だったけれど、おそらく数時間は遅れるかもしれない。予めモーテルの位置を確認しておいた方が良さそうだったので、ガイドブックを探してリュックサックの中をかき回していると、後ろから日本語が聞こえた。
「こんにちは、日本人ですか」
驚いて振り返ると、浅黒い肌の青年が立っていた。彼は「日本語、少し話せます」と言い、真後ろの空いている二人掛けのボックス席に座った。手招きされたので私も後ろの座席に移動した。
「僕は、フェルナンドです。イースト・ティモールから来ました」
少し唇からはみ出した大きな前歯、軽く巻き上げた黒髪の青年は、ファー付きのグリーンのダウンジャケットを着ていた。私は自分の名前と東京から来たこと、これからサンタフェに向かうことを告げた。職業を訊かれたのでデザイナーだと教えたけれど、もしかしたらアメリカでこの一連の質問にあと何回か答えなければならないとしたら、決まった台詞を用意しておいた方が便利かもしれない。
「私、ティモールって聞いたことがある」
「近いのはインドネシアかな。僕が子供の頃には戦争があったりして、大変だった国」
フェルナンドは二十二歳から二十四歳までの二年間、東京の八王子の工場で働いていた。日本語はその滞在中に覚えたという。彼の家庭は代々、三十歳あたりまで外国に出稼ぎに行くのが習わしとなっていて、四月からは兄が勤める工場で一緒に働くことが決まっていた。今はその兄が住むフィラデルフィアへ向かっている途中なのだ。
モモカは優しいね、とフェルナンドが言ったので理由を聞くと、老婆とのやり取りをずっと見ていたらしい。彼は少し突き出た前歯を見せて微笑みながら、リュックサックの中から透明なプラスティック製の保存パックを取り出し「お腹、空かないか」と言って蓋を開けた。中には衣をつけて揚げた肉の塊が詰めてあった。鶏肉だろうか、口に入れたらきっと嚏が止まらなくなるに違いないと思わせるほどの胡椒の香りがゆっくりとバス中に拡散していく。その微粒子を吸っただけで身体中の毛穴が開いて水分が蒸発し始めたように感じた。他の乗客の反応が気になって振り返ってみたけれど、皆ガソリンスタンドに併設されている小さなカフェに移動していたので安心した。
「僕が作ったんだ。良かったら一緒に食べないか」
彼は親指と人差し指と中指の三本をパックの中に突っ込み、衣の塊を摘まんで口の中に放り込む。私は、頭では無いと理解していたけれど、箸やフォークを探して眼を泳がせてしまった。手でいいよ、とフェルナンドは保存パックを私の前に差し出した。彼の真似をして塊をひとつ摘まみ口に入れる。案の定、想像していた通り拡張した毛穴から蒸気が立ち、水分が皮膚の表面を冷やし始めた。しかしながら辛さだけではなく甘さも含まれていて、東京のコンビニで買っていた辛味のチキンを思い出す。地球の反対側まで来て東京のコンビニの味と比較してしまうあたり、自分が異邦人であることを舌と身体で思い知らされた気がした。私は最後に油で光る指をジーンズで拭いて食事を終えた。携帯用のアルコールティッシュを持ってくれば良かったと後悔した。
フェルナンドはパスケースから一枚の写真を取り出して見せてくれた。白い花冠、白いワンピースを着た黒髪の美しい女性。
「フィアンセ。僕が生まれたイースト・ティモールはね、いつまた戦争が始まってもおかしくないって父親から聞かされていてね。だからもし僕がアメリカで生活できるようになったら、彼女をこっちに呼ぶつもりなんだ。やっぱり不安だからね」
彼が巻き込まれたのは恐らく「東ティモール紛争」だろう。以前、大学の図書館で戦争の原因を探ろうと近代史について調べていたときに読んだ記事を思い出した。私の腕にはうっすらと鳥肌が立っていた。自分の人生の中で意識の隅にぼんやりと存在していた“戦争”が突然、隣にその姿を表したのだ。子供の頃、テレビ画面に映し出されたニューヨークの同時多発テロで、ツインタワーが崩れ落ちる光景を見てもハリウッドのアクション映画のワンシーンにしか見えず、現実感が全くなかったのだ。それどころか、爆発ってあんな感じなんだね、と地球を訪れた別の惑星の住人を思わせる態度で、全くの他人事として呆けながら両親に呟いたことを思い出した。私と同世代のフェルナンドは同じ頃、爆発音と銃弾が飛び交う中を家族と一緒に逃げ回っていたのだろう。
私は鼻から大きくゆっくりと空気を吸い、口から吐き出すという運動を繰り返して舌に残った辛さを和らげながら、フロントガラスの全面を厚く覆った白い雪を見つめていた。
朝九時の空は雲一つ無い、水色の絵の具で均一に塗られた絵画そのものだった。その下に広がる荒野の上をアスファルトの灰色の太い線が一本、地平線まで真っ直ぐに延びている。その上をバスは轟音を響かせながら走り続けていた。時折フロントガラスに黄緑色のゼリー状の小さな塊が衝突して音を立てる。飛んでいるバッタに似た虫が破裂して内臓をガラスに塗り付けていた。その音が小学生の頃の罰ゲームで手首に人差し指と中指を当ててひっぱたく“シッペ”の音を思い出させて、当時の教室の景色や何人かのクラスメイトの顔が記憶から引き出されてくる。
虫がぶつかる音を立てる度にドライバーは小さく文句を言いながら運転を続けている。度々洗浄液とワイパーでフロントガラスを掃除するけれど、粘液を洗浄するのには十分ではなく、ワイパーが擦る扇型の軌跡に沿って薄く引き伸ばされて、薄緑色の粘液質の筋が残った。
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グレイハウンドは一時間から二時間程度の間隔でルート沿いのレストハウスに停車するスケジュールになっていた。乗客はそこでトイレに行き、飲み物などの買い物をする。乗客の殆どはレストハウスに向かったけれど、私は尿意を感じていなかったのでバスの窓から次々と店の中に消えていく乗客を眺めていた。左側に息遣いと熱を感じて顔を向けると、大男のドライバーの顔が迫っていた。
「ジャパニーズガール」
イエス、と答えると、ドライバーは何か早口で説明を始めた。上手く聞き取れなかったけれど「ヘルプ」という単語が混ざっていたので、何か頼み事があるのだろう。彼に手招きされるままに前列の座席に移動すると、ステッキを手にした小さな老婆が座っていた。背丈が低いので座席に埋もれてしまっていて、その存在に今まで気が付かなかったのだ。
どうやら老婆は脚が悪いので、一緒にレストハウスに付き添って行って欲しい、ということらしい。私は承諾して老婆の左側に立ち、抱きかかえる姿勢で左手で彼女の左手を握り、右手はカーディガン越しに浮かび上がる背骨の、今にも折れそうな細く枯れてしなった竹を連想させるシルエットに掌を当てた。ゆっくりとバスの乗車口の階段を降りる。老婆の地面への最初の一歩は宇宙飛行士が月面に降り立つ白黒映像の如く大袈裟な動作になってしまった。後ろからステッキを持ったドライバーが降りてきて老婆に手渡した。彼女は「サンキュー、サンキュー」と薄くルージュを引いた口元を三日月型にカーブさせながら微笑んだ。
レストハウスに入ると彼女はトイレのサインを指差した。老婆をトイレに連れて行きドアを開けて中へ入るように促した。ドアの前で暫くの間、店内を見回してみる。東京のサキのアパートの近所にあるセブンイレブンと内装が似ていた。週末の夜に二人で映画を観る時は決まってポテトチップスと紙容器のジュースの組み合わせをその店で買っていた。彼女のアパートでは缶やペットボトルの回収が月に二回しか無かったので、できる限り紙容器に入った飲み物を選んでいたことを思い出した。
老婆がコーラを飲みたがったので、私は冷蔵ケースからペットボトルを取り出し、レジでの支払いを手伝った後、バスに戻った。老婆を席に座らせるとドライバーは「サンクス、サンクス」と私の肩甲骨を軽く叩いた。ドライバーは点呼を始め、乗客が全員揃っていることを確認すると、最後に大きな声で「ヘイ、ジャパニーズガール」と私に向かって手招きをした。運転席に向かうと、彼は空席だった一番前のシートを指し「この席は眺めが良いから座るといい、ご褒美だ」と言った。
老婆はそこから一時間ほど走った停留所で下車した。家族と思われる中年の夫婦と二人の子供が彼女を迎えに来ていた。私はタラップを降りる老婆の肘を支えた。後ろにステッキを持ったドライバーが続く。彼女の靴の底が乾いた土埃を巻き上げ無事着地すると、中年の男が大きく腕を拡げ、彼女を包み込むように抱き締めた。子供達は抱き合う二人の周りをくるくると円を描きながら走っている。老婆が中年男の耳元で何かを囁く度に男は何度も頷いていた。
* * *
エンジンの振動音と共にグレイハウンドは再び灰色の線上に戻った。目の前では相変わらず小さな虫とワイパーの攻防が続いていたけれど、午後五時を過ぎたあたりから水色からコバルトブルーへと空の色が変化を始め、やがてフロントガラスに貼り付くのは薄緑色の粘液に代わり白い雪に変わった。次第に視界を覆う雪の量が増えていき、ワイパーの速度が追い付いていないように見える。暫くするとワイパーは電池が切れそうなオモチャに似て動きが鈍くなり、動きを止めてしまった。視界はまるで前方の暗闇から悪戯好きな巨人に大量の粉チーズを振り掛け続けられている状態だった。ドライバーは頭部を前方に突き出し、必死に眼を凝らしながら運転を続けた。
やがてドライバーは小さなガソリンスタンドの看板を見つけ、店の一番端の駐車スペースにグレイハウンドの巨体を止めた。彼は大きな鼻を拡げて一度深呼吸をした後、無線を使い通信を始めた。ワイパーが故障したので修理を手配しているようだった。彼は両方の掌を私に向けて「ノー、プロブレム」と右の口角を捩じって笑い、そして後部の座席に座る乗客に向かい説明を始めた。
* * *
サンタフェには午後七時に到着の予定だったけれど、おそらく数時間は遅れるかもしれない。予めモーテルの位置を確認しておいた方が良さそうだったので、ガイドブックを探してリュックサックの中をかき回していると、後ろから日本語が聞こえた。
「こんにちは、日本人ですか」
驚いて振り返ると、浅黒い肌の青年が立っていた。彼は「日本語、少し話せます」と言い、真後ろの空いている二人掛けのボックス席に座った。手招きされたので私も後ろの座席に移動した。
「僕は、フェルナンドです。イースト・ティモールから来ました」
少し唇からはみ出した大きな前歯、軽く巻き上げた黒髪の青年は、ファー付きのグリーンのダウンジャケットを着ていた。私は自分の名前と東京から来たこと、これからサンタフェに向かうことを告げた。職業を訊かれたのでデザイナーだと教えたけれど、もしかしたらアメリカでこの一連の質問にあと何回か答えなければならないとしたら、決まった台詞を用意しておいた方が便利かもしれない。
「私、ティモールって聞いたことがある」
「近いのはインドネシアかな。僕が子供の頃には戦争があったりして、大変だった国」
フェルナンドは二十二歳から二十四歳までの二年間、東京の八王子の工場で働いていた。日本語はその滞在中に覚えたという。彼の家庭は代々、三十歳あたりまで外国に出稼ぎに行くのが習わしとなっていて、四月からは兄が勤める工場で一緒に働くことが決まっていた。今はその兄が住むフィラデルフィアへ向かっている途中なのだ。
モモカは優しいね、とフェルナンドが言ったので理由を聞くと、老婆とのやり取りをずっと見ていたらしい。彼は少し突き出た前歯を見せて微笑みながら、リュックサックの中から透明なプラスティック製の保存パックを取り出し「お腹、空かないか」と言って蓋を開けた。中には衣をつけて揚げた肉の塊が詰めてあった。鶏肉だろうか、口に入れたらきっと嚏が止まらなくなるに違いないと思わせるほどの胡椒の香りがゆっくりとバス中に拡散していく。その微粒子を吸っただけで身体中の毛穴が開いて水分が蒸発し始めたように感じた。他の乗客の反応が気になって振り返ってみたけれど、皆ガソリンスタンドに併設されている小さなカフェに移動していたので安心した。
「僕が作ったんだ。良かったら一緒に食べないか」
彼は親指と人差し指と中指の三本をパックの中に突っ込み、衣の塊を摘まんで口の中に放り込む。私は、頭では無いと理解していたけれど、箸やフォークを探して眼を泳がせてしまった。手でいいよ、とフェルナンドは保存パックを私の前に差し出した。彼の真似をして塊をひとつ摘まみ口に入れる。案の定、想像していた通り拡張した毛穴から蒸気が立ち、水分が皮膚の表面を冷やし始めた。しかしながら辛さだけではなく甘さも含まれていて、東京のコンビニで買っていた辛味のチキンを思い出す。地球の反対側まで来て東京のコンビニの味と比較してしまうあたり、自分が異邦人であることを舌と身体で思い知らされた気がした。私は最後に油で光る指をジーンズで拭いて食事を終えた。携帯用のアルコールティッシュを持ってくれば良かったと後悔した。
フェルナンドはパスケースから一枚の写真を取り出して見せてくれた。白い花冠、白いワンピースを着た黒髪の美しい女性。
「フィアンセ。僕が生まれたイースト・ティモールはね、いつまた戦争が始まってもおかしくないって父親から聞かされていてね。だからもし僕がアメリカで生活できるようになったら、彼女をこっちに呼ぶつもりなんだ。やっぱり不安だからね」
彼が巻き込まれたのは恐らく「東ティモール紛争」だろう。以前、大学の図書館で戦争の原因を探ろうと近代史について調べていたときに読んだ記事を思い出した。私の腕にはうっすらと鳥肌が立っていた。自分の人生の中で意識の隅にぼんやりと存在していた“戦争”が突然、隣にその姿を表したのだ。子供の頃、テレビ画面に映し出されたニューヨークの同時多発テロで、ツインタワーが崩れ落ちる光景を見てもハリウッドのアクション映画のワンシーンにしか見えず、現実感が全くなかったのだ。それどころか、爆発ってあんな感じなんだね、と地球を訪れた別の惑星の住人を思わせる態度で、全くの他人事として呆けながら両親に呟いたことを思い出した。私と同世代のフェルナンドは同じ頃、爆発音と銃弾が飛び交う中を家族と一緒に逃げ回っていたのだろう。
私は鼻から大きくゆっくりと空気を吸い、口から吐き出すという運動を繰り返して舌に残った辛さを和らげながら、フロントガラスの全面を厚く覆った白い雪を見つめていた。



