『拝啓、隣の席の君へ』

朝が、やけに静かだった。

目覚ましは鳴った。でも、いつもより音が遠く感じる。布団から出るまでに少し時間がかかって、カーテンを開けると、曇った空が広がっていた。

「今日か」

独り言みたいに呟く。

特別な日なのに、世界は何も変わっていないように見えた。

朝ごはんの味も、靴を履く動作も、全部いつも通り。でも、胸の奥だけが落ち着かなかった。

家を出ると、空気が冷たい。

秋はもう、完全に居座っている。

学校へ向かう電車は、いつもより混んでいた。

参考書を開いている人、目を閉じている人、何もしていないふりをしている人。

誰もが同じ方向を向いているのに、心の中はバラバラなんだろうと思った。

ホームに着いて、校門をくぐる。

「おはよう」

後ろから声がした。

振り向くと、彼女が立っていた。

「おはよう」

それだけのやり取りなのに、少しだけ安心する。

「早いね」

「眠れなかった」

「分かる」

「そっちは?」

「目、覚めすぎた」

「それも分かる」

二人で小さく笑った。


教室に入ると、空気が違った。

いつもより静かで、紙の擦れる音や、椅子を引く音がやけに大きく聞こえる。
隣の席。

「ここに座るのも、慣れたね」

彼女が小さな声で言う。


「長かった」

「短かった」

「どっちだろ」

「両方かな」

机の上に、受験票と筆記用具を並べる。

「忘れ物、ない?」

「たぶん」

「たぶん、は危ない」

「でも、今さらどうしようもない」

「それもそう」

会話はそれだけで止まった。


試験開始五分前。

監督の先生が前に立つ。

「これより試験を始めます」

その声が、やけに現実的だった。

「頑張ろ」

彼女が、小さく言った。

「お互いに」

それが、今朝最後の言葉だった。

問題用紙が配られる。

「始め」

一斉に、鉛筆が動く。

文字を追いながら、頭をフル回転させる。

分かる問題、迷う問題、飛ばす問題。時間だけが、容赦なく進んでいく。

途中、ふと顔を上げると、彼女が見えた。

真剣な横顔。

今まで、何度も隣で見てきたはずなのに、今日は少し違って見えた。

「今、同じ時間を生きてる」

そんな当たり前のことを、妙に強く意識する。

休憩時間。

教室に、少しだけ声が戻る。

「どうだった?」

「微妙」

「同じ」

「数学、難しくなかった?」

「なった」

「だよね」

それ以上、深くは話さない。答え合わせをする人はいない。する意味がないことを、全員が分かっていた。

「次、英語だっけ」

「うん」

「頑張ろ」

「またそれ」

「言いたくなる」

「……ありがと」

短い会話。


午後。

集中力は、もう限界に近い。

手が少し震える。喉が渇く。

「終わってほしい」

「でも、終わったら終わったで、怖い」

休憩中に、彼女がぽつりと言った。

「分かる」

「今日が、境目な気がする」

「何の?」

「今までと、これからの」

それは、言い過ぎじゃなかった。


最後の科目が終わる。

「やめ」

その一言で、すべてが解放された。

教室に、深い息が広がる。

「……終わったね」

彼女が言う。

「終わった」

「長かった」

「短かった」

「またそれ」

二人で、少しだけ笑った。

「今日は、どうする?」

「帰る」

「同じ」

「また、明日からだね」

「うん」

教室を出ると、外はもう夕方だった。

「お疲れさま」

「お疲れ」

それ以上、言葉は続かなかった。

試験は終わった。

でも、何かが始まった感じもしなかった。
ただ、確実に一つの区切りを越えた。

それだけは、はっきり分かった。


一ヶ月という時間は、思っていたより長かった。

試験が終わった直後は、何も考えられなかった。ただ疲れて、少し安心して、また次の模試や日常に戻っていく。

その繰り返しの中で、結果のことは意識的に考えないようにしていた。

考えても、変えられないから。

でも、日付だけは確実に近づいてくる。


結果発表の日。

朝、目が覚めた瞬間に、それだと分かった。

学校は、妙に静かだった。

廊下の足音も、教室のざわめきも、どこか抑えられている。みんな同じだ。分かっているけど、分からないふりをしている。

席に着くと、隣も空いていた。

「まだか」

そう思った直後、教室のドアが開く。

「おはよう」

彼女だった。

「おはよう」

声は、いつも通り。でも、少しだけ硬い。

「今日だね」

「うん」

それ以上は言わなかった。

担任が教室に入ってくる。

「結果、返すぞ」

一言で、空気が変わる。

名前が呼ばれて、前に出て、紙を受け取って、戻る。ただそれだけの動作なのに、やけに時間がかかる。

自分の番が来る。

封筒は、思ったより薄かった。

席に戻っても、すぐには開けられない。

隣を見ると、彼女も同じだった。

「……今、見る?」

小さな声。

「どうする?」

「一緒に」

それだけで、少しだけ手が落ち着いた。

封を切る音が、やけに大きく聞こえる。

数字が、並んでいる。

良いのか、悪いのか。期待していた通りなのか、そうじゃないのか。判断するまでに、少し時間がかかった。

「……微妙」

思わず漏れた。

「同じ」

彼女も、紙から目を離さないまま言った。

「落ちた?」

「まだ、分からない」

「そうだね」

合否じゃない。今はまだ、途中経過だ。でも、それが一番厄介だった。


昼休み。

二人で屋上に行った。

風が冷たくて、秋がもう深いことを実感する。

「どうだった?」

改めて聞く。

「思ったより、届いてない」

「俺も」

「頑張ったつもりだったけど」

「足りなかった、って感じ」

「うん」

しばらく、何も言わずに空を見る。

「さ」

彼女が口を開く。

「結果見て、一番思ったこと」

「なに」

「まだ、終わってないって」

「……それ、救い?」

「たぶん」

「苦しい方じゃなくて?」

「両方」

正直だった。

「距離、見えたね」

「見えた」

「前より、はっきり」

「遠かった?」

「遠い」

「でも」

「でも?」

「近づけない距離じゃない」

その言葉に、少しだけ救われる。

「同じこと、思ってた」

「ほんと?」

「うん」

「じゃあ」

「じゃあ、もう一回やるしかない」

「だね」

それは決意というより、確認だった。

教室に戻る前、彼女が言った。

「ねえ」

「なに」

「結果、怖かった?」

「怖かった」

「私も」

「でも」

「でも?」

「隣で見れて、よかった」

その一言が、胸に残る。

「一人だったら、もっときつかった」

「……分かる」

「今日くらいはさ」

「うん」

「帰り、少しだけ話そう」

「いいよ」

それだけで、今日が少しだけ軽くなった。

結果は出た。

数字は、現実だった。

でも、隣には、同じ数字を受け止めている人がいる。

それだけで、まだ歩ける気がした。

終わりじゃない。

そう思えたことが、この日の一番の結果だった。



朝、制服を着る手が、少しだけ震えた。

ネクタイを結び直しても、しっくりこない。

鏡に映る自分は、昨日と何も変わっていないはずなのに、今日はもう生徒としての最後の日だった。

家を出ると、空はやけに澄んでいた。寒さは残っているけれど、冬の刺すような感じはなくて、どこか柔らかい。三月の空気だった。

学校までの道を歩きながら、いろんなことを思い出す。

隣の席。
小さな会話。
言えなかった言葉。
受験の不安。
夏祭り。
水族館。
結果を見た日。

全部、ちゃんとここにつながっている気がした。

体育館は、いつもより広く感じた。

椅子が並び、在校生と保護者の声が重なって、ざわざわしている。でも、その中にいても、不思議と落ち着いていた。

席に座る。

隣を見る。

……いた。

何も言わずに、目が合う。

それだけで、少しだけ安心する。

「寒くない?」

小さな声。

「平気」

「ならいい」

それだけの会話。でも、これが最後になるかもしれないと思うと、胸の奥が少しだけ締まった。

式が始まる。

校長の話は、正直あまり頭に入らなかった。「未来」「可能性」「羽ばたく」といった言葉が、遠くで響いている。

それよりも、隣の存在が気になって仕方なかった。

今、この瞬間も、同じ時間を過ごしている。でも、これが終わったら、それぞれ違う場所へ行く。

名前が呼ばれる。

一人ずつ、壇上に上がって、卒業証書を受け取る。

自分の番が近づくにつれて、心臓の音が大きくなる。

証書を受け取った瞬間、不思議と終わったという実感はなかった。

ただ、ここまで来たという感覚だけが、静かに残った。

席に戻ると、彼女が小さく頷いた。

それだけでよかった。

卒業の歌。

みんなが同じ方向を向いて、同じ歌を歌う。声が揃っているのに、歌っていることは人それぞれだ。

途中で、声が詰まりそうになる。

泣きそうだったからじゃない。
全部が、ちゃんと終わってしまう気がしたから。

歌が終わる。

拍手。

式は、あっけないくらいに終わった。


教室に戻る。

最後のホームルーム。

担任が話しながら、途中で少し言葉に詰まる。誰も茶化さない。ただ静かに聞いている。

「これで、みんな卒業だ」

その一言が、やけに重かった。

解散。

「またね」と言う人もいれば、「元気で」と言う人もいる。

どれも、同じ意味に聞こえた。


校舎の外。

人の波はまだ続いていた。

写真を撮る声、笑い声、泣き声。全部が混ざって、春の空気に溶けている。

その中で、僕はずっと落ち着かなかった。

このまま別れたら、たぶん一生、後悔する。

「……ちょっと」

声をかけると、君は驚いたように振り返った。

「どうしたの?」

「少し、話せる?」

一瞬だけ迷う表情。それから、小さく頷いた。

「うん」


校舎の裏。人の少ない場所。
三年間で、何度も通ったのに、今日だけは違って見えた。

「ここ、覚えてる?」

「覚えてる」

「文化祭の準備で、逃げてきたとき」

「逃げてない。休憩」

「そういうことにしとく」

少し笑った。でも、すぐに沈黙が落ちる。

風が吹いて、君の髪が揺れた。

「……呼び止めてごめん」

「いいよ」

「言わなきゃいけないことがあって」

「うん」

君は何も言わず、待っていた。

「俺さ」

言葉が、思ったより重かった。

「最初から、君のこと、特別だった」

君の表情が、少しだけ変わる。

「隣の席になった日」

「うん」

「ただそれだけなのに、やけに落ち着いた」

「そんなこと、あったね」

「毎日、どうでもいい話して」

「した」

「テストの愚痴とか」

「夏の暑さとか」

「進路の不安とか」

一つずつ、確かめるみたいに言葉を並べる。

「夏祭りも」

「水族館も」

「風邪ひいた日も」

「全部」

喉が詰まりそうになって、少し間を空けた。

「……俺、ずっと怖かった」

「何が?」

「名前を呼ぶのが」

君は、少しだけ目を見開いた。

「呼んだら、壊れそうで」

「壊れる?」

「今の関係が」

「隣にいられる日常が」

「受験とか、進路とか、全部」

「変わっちゃいそうで」

君は何も言わなかった。ただ、静かに聞いていた。

「過去の話、していい?」

「うん」

「俺、前に一回」

「……誰かに、ちゃんと向き合えなかったことがある」

「怖くて、言えなくて」

「結局、何も言わないまま、終わった」

「それが、ずっと残ってた」

視線を落とす。

「だから、君の前でも」

「踏み出せなかった」

「好きって言うことも」

「名前を呼ぶことも」

沈黙。

春の音だけが、遠くで鳴っている。

「でも」

顔を上げる。

「今日で終わるなら」

「せめて、これだけは言いたかった」

「君と過ごした時間は全部、本当だった。逃げじゃない、代わりでもない」

「ちゃんと、大事だった」

声が、少し震えた。

「……ありがとう」

君は、しばらく何も言わなかった。

それから、ゆっくり口を開く。

「ね」

「うん」

「私も」

「同じだった」

胸が、強く打たれる。

「名前、呼ばれないままでも、伝わってたよ?ちゃんと隣にいたから⋯⋯」

それは、責める声じゃなかった。
むしろ、優しすぎた。

「呼ばなくていいの?」

君が、そう聞いた。

一瞬、世界が止まった気がした。

呼べば、変わるかもしれない。
呼ばなければ、このまま終わる。

でも――。

「……呼ばない」

「どうして?」

「これは俺の弱さだから。でもこの弱さも含めて、君との時間だった」

君は、少しだけ寂しそうに笑った。

「そっか」

「うん」

遠くで、誰かが君を呼ぶ声がした。

「行かなきゃ」

「うん」

一歩、離れる。

「ありがとう」

「こちらこそ」

それ以上、何も言わなかった。

君は振り返らず、校舎の向こうへ消えていった。


卒業式の日、僕は最後まで、君の名前を呼ばなかった。

それから何年も経って、大人になった今でも、春や夏が来るたびに思い出す。

隣の席。
何気ない会話。
言えなかった名前。

――あの時、名前を呼んでいたら、僕たちは少しでも違う未来を生きていたのだろうか。

答えは、今も出ない。
でも、それでもいい。

あの時間が、確かに存在したことだけは、誰にも否定できないから。


拝啓、隣の席の君へ。
ありがとう。



敬具。