「りーちが部活続けるんなら、俺たちも絶対に全校応援まで勝ち残る」
その宣言を有言実行した新庄は、悔しいけどやっぱりすごい男なのかもしれない。
野球部は準々決勝に勝ち進み、地方新聞のスポーツコーナーには「日向台高校 10年ぶりの快挙!」の見出しが載った。
そして迎えた、試合当日。
7月に入って猛暑続きで、夏休み直前のその日も、グラウンドには朝から容赦なく太陽が照りつけていた。全校応援のスタンドは、生徒や保護者、OBで埋め尽くされ、吹奏楽部の軽快な音楽やメガホンを打ち付ける音、声援が響いている。
熱気渦巻く集団の中でも最も暑苦しい一団――それが俺たち応援団部だった。
団部の学ランは普通の制服と違って中敷きを抜いてあるため、制服よりは風通しがいい。俺が着ているものも、背が伸びて窮屈になった自分の学ランをOBの服飾業者に依頼してリメイクしてもらっていた。
ただ、真っ黒だし長袖長ズボンだしで当然暑い。
しかも野球の応援は吹奏楽部の音楽に合わせるため普段の演舞よりテンポが速い。
皆が汗だくになる中、それでも、一番暑いはずの長ランを着てボタンもきっちり留めた香坂先輩は、纏う空気が誰よりも涼しげに見えた。
大会前に、一年生も含めて部内で話し合った結果、演舞は常に三人で行い、応援リーダーは回ごとに俺と先輩で交互に行うことになった。先輩と俺は、リーダーをしない回は太鼓を叩く。一年生の応援要員の三人は、二人が演武をし、残りの一人は日陰で休む。回ごとに休む人を回していく。
攻撃回でも、長くなる場合はマネージャーがタイミングをみて水分を差し入れてくれる。
大会に向けて体力をつけて暑さにもなれたが、それでも、一人一人が無理をしないための対策だった。
おかげで太鼓を叩く間、先輩の演舞を見ることができるのは、俺にとっては休息以上のご褒美だった。ぶっちゃっけ、ほとんど試合は見ていない。
「かっとばせー! しんじょう!」
長ランを翻し、先輩がキレッキレの動きで腕を振る。
汗で額に張り付いた前髪も、喉を潰しかけながら声を張り上げる横顔も、全てを目に焼き付けておきたかった。
試合は終盤までもつれ込み、点差は1点。
九回裏、二アウト。ランナー一塁。
(あと一人……)
日向台の応援席では、誰もが同じ願いを込めて、ピッチャーが放つボールの行方を見守る。
しかし無情にも、乾いた打球音が、すべてを切り裂いた。
白球が高く高く舞い上がり、レフトスタンドへ吸い込まれていく。
一瞬の静寂のあと、相手校の歓声が爆発した。
サヨナラホームラン。
ベンチから駆け出し、ホームでランナーを手荒く祝福する相手チームの選手たち。
グラウンドでは、日向台の選手たちが、全員地面にへたり込んでいた。
試合終了を告げるサイレンが鳴り、聴いたことのない校歌が流れはじめる。
周囲ではすすり泣く声も聞こえていた。
校歌が終わり、相手チームは自陣へ駆け出し、うちの選手は肩を落として泣きながら帰ってくる。あの新庄すらも、チームメイトの肩を借り号泣していた。
整列した選手たちに皆が惜しみない拍手を送る。
その拍手が鳴りやんだとき――。声がした。
「最高の試合だった! ありがとう!
三年間、お疲れさまでした!」
ガラガラの掠れた声だったが、不思議とその声はよく通った。
先輩が深々と頭を下げ、そして、最後の演舞が始まる。
「フレー! フレー! やきゅうぶ!」
その声は震え、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
試合が終わって随分経つのに、誰一人としてスタンドから動こうとしなかった。
『もし、次の予餞会で颯真が団長服を着てエールを送ってくれたら……、その光景を一生忘れない。人生で辛いことがあるたびに、それを思い出すよ』
いつかの先輩の言葉を思い出した。あの言葉の意味が今ようやくわかった気がする。
「フレッ! フレッ! やきゅうぶ!
フレッ! フレッ! やきゅうぶ!」
『練習を重ねて、気持ちを込めて演舞するほど、勇気をもらう人は僕だけじゃなくなるんだ。……だから、意味がないなんてことは絶対にないんだよ』
俺はきっと、これから人生で躓くたびに、今の先輩の姿を思い出すのだろう。
* * *
太鼓や団旗、クーラーボックスなどの備品を顧問の車に積み撤収作業が完了すると、そこで解散となった。女子部員二人は顧問の車で学校に向かうが、車に乗り切れない他の部員は会場まで自転車で来ている。
「雅樹に挨拶できそうだったら、声だけかけてくるよ」
一年生を見送り、そう言って会場内に戻る先輩の後を追った。
「あ……」
先輩が足を止めたので、俺もつられて立ち止まる。
関係者通路から出てきたのは新庄で女子マネージャーの小早川も一緒だった。
なんとなく、気軽に声をかけづらい雰囲気があり、呆然と立つ先輩の手を引いて自販機に身を隠した。二人は人目をはばかるように人気のないところまできて、向かい合う。
新庄が小早川の肩に頭を預け、小早川が彼を抱きしめ、背中をぽんぽんと撫でる。
どう見ても、その甘いやり取りは恋人同士のそれだった。
俺は咄嗟に、隣に立つ先輩の目の前に自分の掌をかざした。
新庄のことを好きな先輩に、彼らを見せたくなかった。
「何?」
先輩は戸惑うように、潜めた声で尋ねてくる。
あまりに普通の反応過ぎて、俺のほうが虚を衝かれた。
「……えっと、見たくないんじゃないかと思って……」
「あんまり他人が見ていい場面じゃないけど、知り合いじゃなければ僕だってちょっと興味はあるよ」
「……好きな人のラブシーンとか……見ても平気なんすか?」
「……僕、別に小早川さんのこと好きじゃないよ。あ、友達としては好きだけど」
「先輩の好きな人って……新庄だったんじゃ?」
「なにっ……⁉」
先輩が大きな声を出しそうになり、俺は慌てて彼の口を手で塞いだ。
目配せし合い、逢引き中の二人にバレないよう、そろそろとカニ歩きでその場を離れる。
先輩について来るよう顎で示され。誰もいなくなったスタンドに再び上がった。グラウンドでは整地が始まっていた。
「ちょっと待って。何で僕の好きな人が雅樹になってんの? それって、恋愛的な好きってことだよね?」
心底驚いた顔の先輩は、俺の勘違いが寝耳に水だったようだ。
「でも、前に先輩、団部に入ったのは演舞を見てもらいたい人がいたからって……。それって、新庄……先輩のことですよね? それに、あいつに頭撫でられたとき、先輩、顔を赤くしてたし……」
先輩は呆れ気味の溜め息をこぼし、ベンチに腰を下ろした。俺もその隣に腰かける。
「演舞を見てもらいたい人っていうのは……父だよ。亡くなった父」
「お父さん?」
予想外の名前に、俺は目を瞬かせた。
「うちの卒業生なんだ。団部のOBでもある。子どもの頃、父の応援団の写真を見て、憧れていたんだ。応援団部が何かもわかっていないのに、『僕もパパと同じ学校に行って応援団になる』なんて言って。父も楽しみだって言ってくれていたから……」
先輩が懐かしそうに目を細め、空を見上げる。
「演舞をしている間は、父と繋がっていられる気がしたんだ……」
「そう……だったんですか……」
真相を聞かされれば、嫉妬のあまりとんでもない勘違いをしてしまった自分が恥ずかしくなる。
「雅樹に頭を撫でられて顔を赤くしていたのはね、自分がすることには慣れてるけど、されることに慣れてないからだよ。……母さんが再婚してしばらくは……父さんのことを忘れて再婚した母のことも、その相手の今の父のことも許せないって思って、二人に甘えることを自分から避けてたから……。そんな、心の狭い人間なんだ……」
俺はベンチに置かれた先輩の手に自分の手を重ね、ぎゅっと握りこんだ。
「大丈夫です。先輩がそれだけ亡くなったお父さんのことが大好きだったってことも、今は妹や弟の面倒をみて家族を助ける優しいお兄ちゃんだってことも、ご両親はちゃんとわかってくれていますから」
じわりと潤んだ目を見られたくなかったのか、先輩はパッと顔を逸らした。
「それよりさ、いいかげん、腹は括れたか?」
「え?」
「君の潔癖症は、もう治ったってことでいいだろ? こうして普通に触れているんだから。このまま最終目標に進んでいいんじゃないか?」
先輩が視線を落とした先には、先輩の手を握り込む俺の手がある。
俺はその手をそろそろと離した。
治ったと言えば治ったし、そうでもないと言えばそうでもない。
こと先輩に限って言えば、おそらくありとあらゆるところを触っても平気だし、むしろ触りたいし、何なら手以外の接触もウェルカムだ。先輩の妹や弟を抱っこしたり新入部員に演技の型を指導したりしていたおかげで、人との接触も人並みにはできるようになった。ただ、未だに先輩以外の他人は、触るときに一拍おき、「えいや!」という気合が必要だ。
団長服を着る覚悟もとっくに決めているが、でも、それを受け取ってしまえば、先輩とのリハビリの理由が無くなる。それだけが即答できない理由だった。ただ、これから受験勉強に集中しなければいけない先輩に、今まで通りリハビリを続けてほしいとも言えない。
先輩の足元に置かれている紙袋を一瞥し、俺は一度大きく深呼吸した。
「……はい。俺で良ければ、団長服を引き継がせてください」
「そうか……」
てっきり、目を輝かせて喜んでくれると思ったのに。先輩の反応は予想外に薄い。
「相手はもう決まっているのか?」
「はい?」
「いや……、治療の目的がそれだっただろ? 好きな人と付き合いたいって。潔癖症が治ったからいよいよ告白するのかなと思って」
そんな話したっけ……。
記憶を掘り起こしながら、先輩のテンションが低い理由を考えた。
俺が団長を引き継ぐことは、先輩にとって喜ばしいことのはずだ。でも、全然嬉しそうじゃない。そして今の会話。それって……。いや、でもまさか、そんな都合のいいことってある⁉
降って湧いた可能性に感情を乱高下しつつ、俺は清水の舞台から飛び降りることを決意した。
「俺……好きな人いるんすけど……。その人、『高校生の間はそういうことにかまけている時間はない』つってて。両親が共働きで、妹や弟の面倒をみていて、国公立医学部の現役合格を狙ってる人だから……」
先輩の顔が、みるみる朱に染まっていく。
「だから、その人が無事に受験に合格したら、告白するって決めてるんです。……でも、その人、甘やかされることに慣れてないから。付き合うまでの間、先輩の勉強の邪魔にならない範囲で、先輩を甘やかすリハビリに付き合ってもらってもいいですか?」
沈む間際の太陽みたいに真っ赤になった先輩が、何をか言いたげにはくはくと唇を震わせる。
「……い、いや……、ちょ、ちょっと待て。理解が追い付かない。僕をからかってるのか?」
俺は身を乗りだし、先輩の肩口に顔を寄せた。
リハビリでハグをするとき、視界に入れると暴走しそうでなるべく見ないようにしていた首筋に、鼻先を押し当てる。
汗の匂い。でも、全然不快ではなかった。ピンク色に染まったその首筋に舌を這わす。しょっぱい味がした。
「からかってると思うなら、俺の本気、もっと見せましょうか?」
直後、先輩の声にならない悲鳴が俺の髪を撫でた。
その宣言を有言実行した新庄は、悔しいけどやっぱりすごい男なのかもしれない。
野球部は準々決勝に勝ち進み、地方新聞のスポーツコーナーには「日向台高校 10年ぶりの快挙!」の見出しが載った。
そして迎えた、試合当日。
7月に入って猛暑続きで、夏休み直前のその日も、グラウンドには朝から容赦なく太陽が照りつけていた。全校応援のスタンドは、生徒や保護者、OBで埋め尽くされ、吹奏楽部の軽快な音楽やメガホンを打ち付ける音、声援が響いている。
熱気渦巻く集団の中でも最も暑苦しい一団――それが俺たち応援団部だった。
団部の学ランは普通の制服と違って中敷きを抜いてあるため、制服よりは風通しがいい。俺が着ているものも、背が伸びて窮屈になった自分の学ランをOBの服飾業者に依頼してリメイクしてもらっていた。
ただ、真っ黒だし長袖長ズボンだしで当然暑い。
しかも野球の応援は吹奏楽部の音楽に合わせるため普段の演舞よりテンポが速い。
皆が汗だくになる中、それでも、一番暑いはずの長ランを着てボタンもきっちり留めた香坂先輩は、纏う空気が誰よりも涼しげに見えた。
大会前に、一年生も含めて部内で話し合った結果、演舞は常に三人で行い、応援リーダーは回ごとに俺と先輩で交互に行うことになった。先輩と俺は、リーダーをしない回は太鼓を叩く。一年生の応援要員の三人は、二人が演武をし、残りの一人は日陰で休む。回ごとに休む人を回していく。
攻撃回でも、長くなる場合はマネージャーがタイミングをみて水分を差し入れてくれる。
大会に向けて体力をつけて暑さにもなれたが、それでも、一人一人が無理をしないための対策だった。
おかげで太鼓を叩く間、先輩の演舞を見ることができるのは、俺にとっては休息以上のご褒美だった。ぶっちゃっけ、ほとんど試合は見ていない。
「かっとばせー! しんじょう!」
長ランを翻し、先輩がキレッキレの動きで腕を振る。
汗で額に張り付いた前髪も、喉を潰しかけながら声を張り上げる横顔も、全てを目に焼き付けておきたかった。
試合は終盤までもつれ込み、点差は1点。
九回裏、二アウト。ランナー一塁。
(あと一人……)
日向台の応援席では、誰もが同じ願いを込めて、ピッチャーが放つボールの行方を見守る。
しかし無情にも、乾いた打球音が、すべてを切り裂いた。
白球が高く高く舞い上がり、レフトスタンドへ吸い込まれていく。
一瞬の静寂のあと、相手校の歓声が爆発した。
サヨナラホームラン。
ベンチから駆け出し、ホームでランナーを手荒く祝福する相手チームの選手たち。
グラウンドでは、日向台の選手たちが、全員地面にへたり込んでいた。
試合終了を告げるサイレンが鳴り、聴いたことのない校歌が流れはじめる。
周囲ではすすり泣く声も聞こえていた。
校歌が終わり、相手チームは自陣へ駆け出し、うちの選手は肩を落として泣きながら帰ってくる。あの新庄すらも、チームメイトの肩を借り号泣していた。
整列した選手たちに皆が惜しみない拍手を送る。
その拍手が鳴りやんだとき――。声がした。
「最高の試合だった! ありがとう!
三年間、お疲れさまでした!」
ガラガラの掠れた声だったが、不思議とその声はよく通った。
先輩が深々と頭を下げ、そして、最後の演舞が始まる。
「フレー! フレー! やきゅうぶ!」
その声は震え、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
試合が終わって随分経つのに、誰一人としてスタンドから動こうとしなかった。
『もし、次の予餞会で颯真が団長服を着てエールを送ってくれたら……、その光景を一生忘れない。人生で辛いことがあるたびに、それを思い出すよ』
いつかの先輩の言葉を思い出した。あの言葉の意味が今ようやくわかった気がする。
「フレッ! フレッ! やきゅうぶ!
フレッ! フレッ! やきゅうぶ!」
『練習を重ねて、気持ちを込めて演舞するほど、勇気をもらう人は僕だけじゃなくなるんだ。……だから、意味がないなんてことは絶対にないんだよ』
俺はきっと、これから人生で躓くたびに、今の先輩の姿を思い出すのだろう。
* * *
太鼓や団旗、クーラーボックスなどの備品を顧問の車に積み撤収作業が完了すると、そこで解散となった。女子部員二人は顧問の車で学校に向かうが、車に乗り切れない他の部員は会場まで自転車で来ている。
「雅樹に挨拶できそうだったら、声だけかけてくるよ」
一年生を見送り、そう言って会場内に戻る先輩の後を追った。
「あ……」
先輩が足を止めたので、俺もつられて立ち止まる。
関係者通路から出てきたのは新庄で女子マネージャーの小早川も一緒だった。
なんとなく、気軽に声をかけづらい雰囲気があり、呆然と立つ先輩の手を引いて自販機に身を隠した。二人は人目をはばかるように人気のないところまできて、向かい合う。
新庄が小早川の肩に頭を預け、小早川が彼を抱きしめ、背中をぽんぽんと撫でる。
どう見ても、その甘いやり取りは恋人同士のそれだった。
俺は咄嗟に、隣に立つ先輩の目の前に自分の掌をかざした。
新庄のことを好きな先輩に、彼らを見せたくなかった。
「何?」
先輩は戸惑うように、潜めた声で尋ねてくる。
あまりに普通の反応過ぎて、俺のほうが虚を衝かれた。
「……えっと、見たくないんじゃないかと思って……」
「あんまり他人が見ていい場面じゃないけど、知り合いじゃなければ僕だってちょっと興味はあるよ」
「……好きな人のラブシーンとか……見ても平気なんすか?」
「……僕、別に小早川さんのこと好きじゃないよ。あ、友達としては好きだけど」
「先輩の好きな人って……新庄だったんじゃ?」
「なにっ……⁉」
先輩が大きな声を出しそうになり、俺は慌てて彼の口を手で塞いだ。
目配せし合い、逢引き中の二人にバレないよう、そろそろとカニ歩きでその場を離れる。
先輩について来るよう顎で示され。誰もいなくなったスタンドに再び上がった。グラウンドでは整地が始まっていた。
「ちょっと待って。何で僕の好きな人が雅樹になってんの? それって、恋愛的な好きってことだよね?」
心底驚いた顔の先輩は、俺の勘違いが寝耳に水だったようだ。
「でも、前に先輩、団部に入ったのは演舞を見てもらいたい人がいたからって……。それって、新庄……先輩のことですよね? それに、あいつに頭撫でられたとき、先輩、顔を赤くしてたし……」
先輩は呆れ気味の溜め息をこぼし、ベンチに腰を下ろした。俺もその隣に腰かける。
「演舞を見てもらいたい人っていうのは……父だよ。亡くなった父」
「お父さん?」
予想外の名前に、俺は目を瞬かせた。
「うちの卒業生なんだ。団部のOBでもある。子どもの頃、父の応援団の写真を見て、憧れていたんだ。応援団部が何かもわかっていないのに、『僕もパパと同じ学校に行って応援団になる』なんて言って。父も楽しみだって言ってくれていたから……」
先輩が懐かしそうに目を細め、空を見上げる。
「演舞をしている間は、父と繋がっていられる気がしたんだ……」
「そう……だったんですか……」
真相を聞かされれば、嫉妬のあまりとんでもない勘違いをしてしまった自分が恥ずかしくなる。
「雅樹に頭を撫でられて顔を赤くしていたのはね、自分がすることには慣れてるけど、されることに慣れてないからだよ。……母さんが再婚してしばらくは……父さんのことを忘れて再婚した母のことも、その相手の今の父のことも許せないって思って、二人に甘えることを自分から避けてたから……。そんな、心の狭い人間なんだ……」
俺はベンチに置かれた先輩の手に自分の手を重ね、ぎゅっと握りこんだ。
「大丈夫です。先輩がそれだけ亡くなったお父さんのことが大好きだったってことも、今は妹や弟の面倒をみて家族を助ける優しいお兄ちゃんだってことも、ご両親はちゃんとわかってくれていますから」
じわりと潤んだ目を見られたくなかったのか、先輩はパッと顔を逸らした。
「それよりさ、いいかげん、腹は括れたか?」
「え?」
「君の潔癖症は、もう治ったってことでいいだろ? こうして普通に触れているんだから。このまま最終目標に進んでいいんじゃないか?」
先輩が視線を落とした先には、先輩の手を握り込む俺の手がある。
俺はその手をそろそろと離した。
治ったと言えば治ったし、そうでもないと言えばそうでもない。
こと先輩に限って言えば、おそらくありとあらゆるところを触っても平気だし、むしろ触りたいし、何なら手以外の接触もウェルカムだ。先輩の妹や弟を抱っこしたり新入部員に演技の型を指導したりしていたおかげで、人との接触も人並みにはできるようになった。ただ、未だに先輩以外の他人は、触るときに一拍おき、「えいや!」という気合が必要だ。
団長服を着る覚悟もとっくに決めているが、でも、それを受け取ってしまえば、先輩とのリハビリの理由が無くなる。それだけが即答できない理由だった。ただ、これから受験勉強に集中しなければいけない先輩に、今まで通りリハビリを続けてほしいとも言えない。
先輩の足元に置かれている紙袋を一瞥し、俺は一度大きく深呼吸した。
「……はい。俺で良ければ、団長服を引き継がせてください」
「そうか……」
てっきり、目を輝かせて喜んでくれると思ったのに。先輩の反応は予想外に薄い。
「相手はもう決まっているのか?」
「はい?」
「いや……、治療の目的がそれだっただろ? 好きな人と付き合いたいって。潔癖症が治ったからいよいよ告白するのかなと思って」
そんな話したっけ……。
記憶を掘り起こしながら、先輩のテンションが低い理由を考えた。
俺が団長を引き継ぐことは、先輩にとって喜ばしいことのはずだ。でも、全然嬉しそうじゃない。そして今の会話。それって……。いや、でもまさか、そんな都合のいいことってある⁉
降って湧いた可能性に感情を乱高下しつつ、俺は清水の舞台から飛び降りることを決意した。
「俺……好きな人いるんすけど……。その人、『高校生の間はそういうことにかまけている時間はない』つってて。両親が共働きで、妹や弟の面倒をみていて、国公立医学部の現役合格を狙ってる人だから……」
先輩の顔が、みるみる朱に染まっていく。
「だから、その人が無事に受験に合格したら、告白するって決めてるんです。……でも、その人、甘やかされることに慣れてないから。付き合うまでの間、先輩の勉強の邪魔にならない範囲で、先輩を甘やかすリハビリに付き合ってもらってもいいですか?」
沈む間際の太陽みたいに真っ赤になった先輩が、何をか言いたげにはくはくと唇を震わせる。
「……い、いや……、ちょ、ちょっと待て。理解が追い付かない。僕をからかってるのか?」
俺は身を乗りだし、先輩の肩口に顔を寄せた。
リハビリでハグをするとき、視界に入れると暴走しそうでなるべく見ないようにしていた首筋に、鼻先を押し当てる。
汗の匂い。でも、全然不快ではなかった。ピンク色に染まったその首筋に舌を這わす。しょっぱい味がした。
「からかってると思うなら、俺の本気、もっと見せましょうか?」
直後、先輩の声にならない悲鳴が俺の髪を撫でた。
