潔癖症の俺が汗と涙にまみれた団長服を着る羽目になった件

 二年になって最初の学期末試験の最終日。
 試験を終えたHR中の教室には、夏休みを前にどこか浮足立った空気が漂っている。

「試験終わったからって羽目外しすぎるなよー。何か問題起こしたら夏休み中の補習に強制参加だからな。じゃあ、進路アンケート出した人から帰っていいぞ」

 担任の熊田の締めの言葉と共に俺は椅子から立ち上がった。

「はやっ」

 後ろの席から驚いた声を上げたのは、去年に続き同じクラスになった上野だ。

「熊さんが話している間に書いたからな」

 進路希望の第一志望は香坂先輩の第一志望と同じ国立大学にした。希望学部は「入れるところ」と書いたから、面談で「ふざけんな」と叱られるかもしれない。
 俺はまだ香坂先輩のように何か明確になりたいものが決まっているわけじゃない。臨床心理士には少し興味があるが、心理学系の学部は理系にいても受けられるし、三年に上がるときに文転もできる。だから二年では、選択肢の多い理系コースに進んでいた。

「今日から部活再開だから。お前も早く書かないと遅れるぞ」
「俺はギリギリまでここで粘りたいよ」

 俺とは逆に練習に行くのが嫌なようで、上野が大袈裟に嘆いてみせる。

「ねぇ。今日、試験の打ち上げでカラオケ行くから、一条君たちも部活終わったら合流してよ」

 前の席から顔を振り向かせたのは安藤花恋(あんどうかれん)だ。二年になって彼女と同じクラスになり、四月から席替えをされていない今は、安藤、一条、上野、というかなり微妙な席順が続いている。ちなみに上野と同中コンビだった佐々木は文系に進みクラスが別れた。

「俺はパス」
「どうせまた、部活終わったあと、香坂先輩んち行くんだろ? お前、先輩んちに入り浸りすぎなんだよ!」
「先輩が予備校の日は行ってないから、週3だけだよ」
「十分入り浸ってんじゃん」
 
 上野が軽く俺の椅子の脚を蹴りつけて来る。

「一条君、先輩の妹さんの子守りをさせられてるんでしょ? 先輩だからって一条君がそこまでしてあげなくていいんじゃない?」
「俺が好きで遊んでるだけだよ」

 安藤がその話を知っているということは、情報源は上野しかいない。「何で安藤に余計なこと吹き込むんだよ」という意志を込めて上野をジロリと睨み下ろした。

「花恋ちゃん、俺は打ち上げ参加するから!」

 どこ吹く風で上野は猫なで声を上げる。

「えー。ちょっとでいいから一条君も参加してよー」

 頬を膨らませる安藤を尻目に、俺は「じゃな」と軽く片手を上げて教室を出た。
 階段を下りて来る人波に逆行し向かった先は三年の教室だ。どこのクラスも既にHRを終えていて、まばらに人がいる廊下を奥へと進む。
 
「マジ? あれってそんな問題だった? 俺、問題の意味すらわかってなかったわー」
「私もこんな問題全然記憶にないから、たぶん間違ってるー」

 目当ての教室――3年E組から聞こえてきた明るい男女声に、眉間を顰める。

(……やっぱり。嫌な予感がしたから、迎えにきて正解だった)

 ドアが開け放たれたままの教室の奥には、二人の男子生徒と一人の女子が、まだ席に座ったまま教室に残っていた。
 香坂先輩と野球部キャプテンの新庄、女子マネージャーの小早川だ。

「チャス!」

 俺は教室に入ると、ドアの前で直立し、軽く頭を下げた。
 肩幅に足を開き、手を後ろで組んで胸を反らせる。

「応援団部副団長、一条颯真が団長のお迎えに参りました!」

「あっ! ワンコ君、今日も来た~! さすが忠犬!……番犬だっけ?」

 ケラケラと小気味よく笑い出したのは小早川だ。
 新庄は呆れたような顔をした。

「その挨拶、ただでさえ暑いのが余計に暑苦しくなるわー」

「颯真。子供じゃないんだから迎えに来なくていいって言っただろ?」

 二人を無視し、俺は先輩の質問にだけ答える。

「そんなこと言って、先輩、この前もずっと降りてこなかったじゃないっすか」
「今日は部活があるからいいところで切り上げるつもりだったよ」

 今が「いいところ」かどうかはわからないが、先輩は教科書をバッグに仕舞い、帰り支度を始めた。

 試験前はどの部活動も練習が休みになる。練習が休みになった一日目、せめて途中まで先輩と一緒に帰りたいと思い、昇降口で待っていたが、30分が過ぎても先輩が降りてこなかった。痺れを切らし教室まで様子を見に行くと、今日のように香坂先輩が二人に勉強を教えてあげていたのだ。
 三人は同じクラスで、先輩と新庄は同中出身でもともと仲が良く、野球部のマネージャーである小早川がそこに加わったようだ。
 ただ、どう見ても新庄と小早川はいい雰囲気で、それを間近で見せられる香坂先輩が辛い思いをしてるんじゃないかと見るたびに心配になる。

「イッチーも試験が終わった日くらい、友達と遊びに行ったりしないの?」

 新庄は俺のことをイッチーと呼ぶ。

「今日は練習終わりに、先輩の家に遊びに行きます」
「りーちは友達じゃないだろ」

 俺にとっては友達以上ですが何か? ――と喉まで出かかったが、先輩に気持ち悪がられるといけないので、ぐっと飲み込んだ。

「颯真は妹との約束を守ってくれてるんだよ。帰るときにいつも、次いつ来る? って約束させられてるから。試験が終わった日も遊ぶ暇もないのは、そっちも一緒だろ?」

 バッグを手に、香坂先輩が立ち上がる。

「大事な時期だから、怪我には気を付けてね」
「りーちも、部員も増えたことだし、無理して俺たちに付き合う必要はないんだからな」

 新庄が片手を上げ、先輩がその手に軽くグーパンチする。
 仲のいい友達同士のじゃれ合いとわかっていても、面白くない。

「失礼っしたー」

 目だけは新庄を睨みつけ、軽く頭を下げて俺も教室を出た。



 昇降口で靴を履き替え、部室棟へと向かう。ノックをして反応がないのを確かめ、先輩と連れ立って中に入った。
 四月の部活紹介の演舞が好評で、年に一人入ればいいと言われている応援団部に今年は男子二人と女子二人、計四人もの新入生が入部してくれた。女子の一人はマネージャーだ。部室は一つしかないので、女子が使うときは鍵をかけて使ってもらっている。
 午後は校舎の影になる部室棟だが、エアコンはなく、6月下旬の今は熱気が充満している。壁掛けの扇風機のスイッチを入れると、空気が回り出して多少は暑さがマシになった。

 大会までまだ日のあるこの時期は、学ランを着ての練習は行わない。発声と演舞の基礎に加え、夏場の応援に向けた体力づくりが練習の中心となる。
 うちは公立の進学校で野球部以外の運動部はあまり強くなく、インターハイの県予選はどの部も全滅だった。敗北と同時にほとんどの三年生が部活を引退した。野球部の甲子園予選は7月に入った来週から始まり、準々決勝以上に進めば全校応援になり応援団部の応援が許可される。あるいは土日に試合があれば、自主応援という形で参加できる。
 しかし、その手前で負けてしまい、土日の試合もなかった場合、団部の出番はない。野球部員たちは精一杯戦って負けて引退することができるが、応援団部の三年生は応援することすらできずにある日を境にひっそりと引退することになる。

 新庄が「無理して俺たちに付き合う必要はない」と言ったのも、それが理由だろう。
 三年生の香坂先輩が野球部の敗北を待たずに引退しても、誰も文句は言わない。去年と違って部員も増えてるから、勝ち残ったとしても応援団部の体裁は保たれる。
 新庄の言ってることもわかるが、でも俺は、先輩には一日でも長く部に残ってほしいと思ってしまう。先輩が医学部を目指して勉強を頑張っていることを知っていてそんなことを思うのは、俺のエゴでしかないのだろうか……。

 そんなことを考えながらシャツのボタンを外していた俺は、隣でカッターシャツを脱ぎ、アンダーになった先輩を視界の端に捉えて、思わずそちらに顔を向けた。

「先輩、また痩せました?」

 なるべく意識しないようにしていたのだが、そうも言ってられないくらい、前に見たときよりも先輩の体が薄くなってる。

「試験前で部活が休みになったのと夏バテでね。4月から2キロくらい減ったけど、よくわかったね」
「そりゃわかりますよ」

 ――先輩の体のラインは見ようとしなくても目に焼き付いてるんで。とはもちろん、言わないでおく。

「ひどい隈もできてるし、今日は練習休んで早く寝てください」
「そういうわけにはいかないよ。逆に早く暑さに慣れておかないと、本番でぶっ倒れることになる」
「でも、試験勉強で寝不足なのは先輩だけじゃないでしょうから。今日は無理しないほうがいいです。ランニングはやめて日陰で発声と柔軟と演舞の練習だけやりましょう」

 先輩が俺の顔をまじまじと見つめ、はぁ、とため息を零した。

「颯真はすごいね。ちゃんと全体のことを考えてる。それに比べて僕は、最後の最後まで自分のことばっかりだな」
「それは先輩が、自分が一番頑張ることで、後輩たちの手本になろうとしてきたからですよ。団長に無理をさせすぎないのが副団長の役割ですから」

 喋っている間にお互いにTシャツを着てジャージを着こむ。この時期の冬用ジャージは地獄だが、本番の演舞は学ランを着て行うため、練習もランニング以外はジャージ必須だ。

「先輩。今日から、いつものやつは練習前にお願いしてもいいですか? 練習後だと汗臭くてご迷惑かと思うので」
「いつものやつ……あ、ま……、いいけど……。今ここで? 僕、すでに汗臭いかも」
「それは全然大丈夫っすけど、俺が汗臭くて不快なときは言ってください」

 体ごと俺のほうを向いた先輩が居心地悪そうに視線を泳がせる。
 俺は一歩分の距離を詰めると、細身の体をそっと抱き寄せた。
「いつもの」――人との接触が苦手な俺のリハビリ目的にさせてもらっているハグ。早い段階で先輩との接触は何の抵抗もなくなったので、リハビリにはなっていないのだが、先輩が断らないのをいいことに、今も続けていた。
 
 最初に出会った2月から俺は4㎝ほど身長が伸び、ほとんど伸びていない先輩との身長差は10㎝ほどになった。ちょうどよい収まり具合でサラサラの細髪に鼻先を寄せる。
 汗の匂いはまったくしない。むしろシャンプーと制汗剤の匂いしかしないことを物足りなく思った。
 白い首筋を見るとハグだけじゃ済まなくなりそうで、いつも視界に入れないようにしている。できることならもっとぎゅうぎゅうに抱きしめて背中とか髪とか撫で回したいが、リハビリいらないじゃんと思われないようにそれも我慢した。
 ただでさえ蒸し風呂状態の部室で身を寄せ合ったせいで、額にじっとりと汗が滲んでくる。先輩の体も熱い。それでもすぐには離れがたく、壊れ物に触れるような抱擁に至福を感じていると、外からコンコンとノックがした。

 抱擁を解いた直後、気恥ずかしくて先輩の顔を見れないのもいつものことだ。

「ちょっと待って。着替え終わったからすぐ出る」

 ドアに向かって声をかけ、俺たちは外へ出た。
 待っていたのは一年生の女子コンビだった。
 
「先輩たちめっちゃ顔を赤いですね。そんなに中暑かったですか?」
「めっちゃ暑かったから覚悟しといて」

 顔を手で扇ぎながら答えたのは先輩だ。
 先輩の顔が赤い理由が暑さのせいだけじゃなければいいのに……。

 そう思っていた俺は、その日、自分の能天気ぶりを激しく後悔することになった。


 演舞の練習をしていたときだ。
 最初は先輩の声にいつもの覇気がないのを、試験勉強の疲れが出ているせいだと思っていた。演舞の合間に横目で盗み見た先輩の顔が赤く、苦しげだったのも、暑さと久々の練習のせいだと思い込んだ。他の部員も、今日はかなりきつそうだったから。
 でも、発声なしの太鼓に合わせた演舞になり、荒い呼吸の合間にかすかな声を耳にした気がしたとき、嫌な予感が胸をかすめた。

「……そ……ま……」

 演舞の動きから外れ顔を向けたときには、先輩の体がふらつきながら倒れていくところだった。

 咄嗟に手を伸ばし床に倒れ込む寸前で先輩の体を抱き留めることができたが、その身体はジャージ越しでもわかるほど熱かった。
 
「せ、先輩!」

 呼びかけに目を開けようとするが、意識が朦朧としている感じだ。

「ほ……保健室! 俺、保健室に運ぶから、誰か先に行って先生に知らせといて」
「俺、行きます!」

 小柄でフットワークの軽い男子の後藤が走り出し、他の後輩も俺と一緒に動き出し、ドアを開けたりしながらサポートしてくれる。保健室の前で白衣を着た女性の保険医と後藤が待っていた。
 中に入ると冷えた空気が全身を包む。
 ベッドには足元に保冷剤が置かれていて、寝かせるとすぐにジャージのチャックが下ろされ、脇や首筋、鼠径部に保冷剤が当てられた。

「香坂君、わかる?」
「先輩!」

「……す……ませ……ん……」

 呼びかけると先輩が顔を歪め、何かを言おうとする。

「救急車呼ばなくていいんですか?」
「意識があるからもう少し様子をみましょう」

 保険医の竹下先生は落ち着いた様子で先輩の脇に体温計を差し込む。
 その様子を見ても、俺の気持ち悪いほどの動悸はすぐには治まらなかった。

「唇が渇いてるから濡らしてあげてもいいですか?」
「そうね。濡れたガーゼで濡らしてあげて。まだ飲ませるのは駄目よ」

 ガーゼを軽く絞ってそっと唇にあてると、長い睫毛が微かに震える。

「……そ、うま……」
「俺です! 先輩、わかりますか?」
「……れ、ん……しゅ……」
「こんな状況でできるわけないじゃないですか! さすがに怒りますよ!」

 泣き言のように声を荒げると、先輩の唇がわずかに笑んだように見えた。

 
 20分ほどかけて先輩の意識はゆっくりと回復し、水分を摂れるほどになった。
 保険医は救急車を呼ぶ必要はないと判断し、母親に連絡して迎えにきてもらうことになった。
 後輩部員もみんな心配していたが、全員が付き添ったのでは先輩もゆっくり休めない。今日は練習を中止することにし、みんなには先に帰ってもらった。

「熱中症だと思うけど、今日は必ず病院に行って、検査を受けること。体調が悪い時に無理して練習しないように」

 そう言って竹下先生は付き添いを俺に任せ、職員会議のために一度席を外した。

「迷惑かけてごめん。ヤバいかもって思ったときには目の前が真っ暗になってた」

 神妙な面持ちの先輩に、俺は決意を込めた眼差しを向けた。

「先輩……、引退を、考えてもいいんじゃないですか?」

 先輩は驚きもせず、ただ静かに俺を見つめ返していた。
 練習が始まるまでは、先輩が一日でも長く部に残ってくれたらなんて自分本位なことを考えていた。そんな俺の浅ましい期待も先輩の重荷になっていたんじゃないかと思うと、これ以上は望んではいけない気がした。

「団部の応援なんて……実際のところ、ほとんど意味ないじゃないですか……」

 それは言ってはいけないことだと理性ではわかっている。でも、入部して以来ずっと思っていたことで、一度ぶちまけてしまったら止まらなかった。

「先輩が応援してもしなくても、野球部は勝つときは勝つし負けるときは負けます。あんなになるまで練習頑張ったって……誰にも見てもらえない可能性だってあるんですよ。そんなもののために自分の時間と体力を削るなんて……馬鹿げています」

 まっすぐに俺を見つめる眼は揺らがない。
 その底の深い瞳に移る俺は、今にも泣きそうに見えた。

「練習した成果を披露できなかったとしても、僕が頑張ったことは、君や一年生たちが見てくれているだろう? 僕の中にも残る。それに、応援に意味がないなんてことは絶対にないよ」

 アーモンド形の双眸が力強い光を放つ。

「……僕は……、もし、次の予餞会で颯真が団長服を着てエールを送ってくれたら……、その光景を一生忘れない。人生で辛いことがあるたびに、それを思い出すよ。練習を重ねて、気持ちを込めて演舞するほど、勇気をもらう人は僕だけじゃなくなるんだ。……だから、意味がないなんてことは絶対にないんだよ」

 先輩の手が、俺の頬に伸びて来る。
 
「何で泣いてるんだ?」

 指で濡れた目元と頬を拭われ、自分が泣いていたことを知った。

「わ……かんな……」

 理由はわからない。でも、熱いものが込み上げてきては、ひっきりなしに瞼から零れ落ちていった。