潔癖症の俺が汗と涙にまみれた団長服を着る羽目になった件

 俺は四日間でどうにか太鼓を覚え、無事に予餞会で失敗することなく先輩のサポートをできた。香坂先輩の演舞はDVDで見た他の先輩方よりずば抜けて美しく、始まるまでは少しざわついていた会場がしんと静まり返り、皆、演舞に魅せられているようだった。
 そうして拍手に包まれステージから降りたところまではよかったのだが。
 体育館の後方に向かっていたら、次の次の出番待ちをしている野球部の列から声がした。

「りーち」

 足を止めた香坂先輩が声のしたほうへと顔を向ける。

雅樹(まさき)

 声をかけてきたのは野球部の新キャプテンでもある新庄雅樹(しんじょうまさき)だった。
 面識はなかったが、香坂先輩と仲が良いと聞き、クラスの野球部員から合宿で一緒に撮ったという写真を見せてもらったことがある。
 いかにも野球部といった感じの短髪で日に焼けた体育会系。彫りが深く、香坂先輩とは真逆の雰囲気で、濃いめの端整な顔立ちをしている。しかも、こうして近くで見ると、182㎝の俺より数センチ背が高く、野球部のピチピチしたユニフォーム越しにたくましい上腕二頭筋の盛り上がりが見て取れた。
 男としては完全に俺の敗北。――いや、比べる意味がわからんが。

「演舞、すげーかっこよかった。練習頑張ったな」

 ごく自然な感じで、新庄は香坂先輩の頭をぽんぽんと撫でた。瞬間、先輩の頬がぽっと赤くなる。

「子ども扱いすんなって」

 先輩は怒ったように頭に置かれた手を押しのけているが、どう見ても照れ隠し。
 一見、上野と佐々木がよくやるふざけ合いと何ら変わりがない。ただ、何でこうも苛々してしまうのだろう。

「あ、こいつが待望の遅れてきた新人? めっちゃイケメンじゃん」

 視線を向けられ、俺は憮然とした顔で軽く頭を下げた。

「あ……彼は今んとこ、予餞会のための臨時助っ人なんだ」

 表情を曇らせた先輩の肩口に、新庄がユニフォームの太い腕を回す。いかにも体育会系の、距離の近い仲良しアピールといった感じ。

「りーち、部員一人でもめっちゃ頑張ってるから。これからもよろしくしてやってね」

 そこでようやく、「りーち」というのが「理一郎」の略だと気が付いた。

「言われなくてもよろしくします。先輩。こんなところで喋ってたら迷惑だから、行きましょう」

 俺のあからさまな敵意に、新庄がわずかに目の色を変えたように思える。

「あぁ、そうだね。じゃ、雅樹も頑張って!」

 先輩は新庄の腕をやんわりと解き、俺を目線で促し歩き出した。

「颯真、今日は手伝ってくれてありがとう。君の太鼓、完璧だったよ」

 歩きながら俺を見上げる先輩の顔には高揚が見て取れる。終わった直後なら純粋に喜べただろうが、今は新庄に褒められた余韻かなと思うと複雑だった。
 俺だって、「頑張りましたね」と先輩の頭を撫でたい。でも、後輩の俺がそれをするのはさすがに失礼だとわかる。

「仮ですけど……一応、俺も部員の一人ですから。『手伝う』って言い方も、礼を言うのもおかしいです」

 面白くない気持ちが声にも出てしまう。

「そっか……。そうだね。仮でも、君は部員だった。だったら、僕は初めて、部活の後輩ができたのか」

 ふふっ、と一人笑いをするように、睫毛の影の落ちた目元を和ませる先輩は、やっぱり可愛い。「頭を撫でたい」だけじゃ足りない。

「俺……。仮入部、続けますから……」

 長ランを着替えるために更衣室へと向かう先輩を引き留めるように、フロアを出たところで声をかけた。

「団長服を着るかどうかは……。ちょっとまだ決心がつかないですけど……。でも、先輩がいる間は、俺も部員を続けます」

 先輩は虚を衝かれたように目を瞬き、次の瞬間、白い歯を見せて満面を綻ばせた。新庄に頭を撫でられたときよりも、ずっとずっと嬉しそうな笑顔だ。

「そっか……。ありがとう。……って、礼を言っちゃいけないんだっけ?」

(……好き…………)

 突如込み上げてきた気持ちに戸惑いはしたものの、おかしいとも、いけないことだとも思わなかった。

「礼はいりませんけど……」

 前置きし、自分の気持ちと向き合う。心の赴くままに、やってみたいことがあった。

「握手してもらっていいですか? 正式な仮入部の握手です」

 正式な仮入部って、自分でも自分の言ってることが意味がわからない。
 先輩は気に留めた様子はなく、白手袋をした右手を差し出してきた。

「素手がいいです」
「大丈夫なのか?」
「これもリハビリのうちですから」

 素手で先輩の手に触れたいと思った衝動を悟られないよう、そんなことを嘯く。
 先輩が手袋を外し、再び右手を差し出す。色白で細い指は、女子の手のようだ。

「まだリハビリ始めたばかりだから、無理しないほうがいいよ」
「大丈夫です」

 触るのに抵抗があるわけじゃない。
 ただ、香坂先輩の手だと思うと、もったいなくてすぐには触れなかった。
 俺も右手を出し、一回り小さい先輩の手と重ねる。
 俺の手よりわずかに冷たく、手袋をしていたからか、少ししっとりしている。不快感はなかった。
 軽く握り込むと、向こうからも力を返される。

(……俺、いま、香坂先輩と握手してる……)

 喜びがじわじわと込み上げてきて、気恥ずかしいのに離れがたかった。

「大丈夫か?」

 俺が感動で微動だにできないでいるのを他の理由に受け取ったのか、最後は向こうから手を離された。

「治療は一進一退らしいからな。最初からあまり頑張りすぎるな。とりあえず、手を洗ってこい」

「大丈夫です」と言っているのに、無理やりトイレのほうへと背中を押された。

「先輩。俺、団長服を着る以外にもう一つ目標ができました」
「急にどうした?」
「団長服を着れたら、もう一つの目標について話します」
「は? ん……んん……よくわからないが、トイレまでついていったほうがよさそうか?」
「大丈夫です。先輩は着替えに行ってください」
「じゃあ、何かあったらすぐに連絡して」

 そう言って更衣室へと向かう先輩を見送り、俺も踵を返した。俺は自分の制服なので、着替える必要はない。
 トイレには向かわず、体育館の自分のクラスの最後尾へと向かう。
 先輩と握手した手が、熱を持ったようにじんじんとあたたかい。次にトイレに行くまでは、その手を洗う気はなかった。
 


 予餞会のあったその日は、練習は休みで、先輩の家で動画を見て反省会と打ち上げをすることになった。
 下校時間が早いため、近くのスーパーで買い物をし、夕飯を作ってから彩葉ちゃんを迎えに行く予定なのだそうだ。
 買い物を済ませ、卵が割れないよう、自転車を押しながら先輩の家へと向かう道すがら。

「先輩はどうして、応援団部に入ったんですか?」

 予餞会の後からずっと気になっていたことを尋ねた。

「僕、子供の頃から運動が苦手なんだよね。だから、自分が運動するより、応援するほうに回った感じ」

 わかったようでわからない。

「でも、運動が苦手なだけなら、文系の部活でもよかったはずですよね。誰か応援したい人でもいたんですか?」

「食いつくね」

 先輩が苦笑いを浮かべる。
 先輩の交友関係を知らないから、「応援したい人」で思い浮かぶのは新庄しかいない。あの男の名前を先輩の口から聞きたくはないが、ただ、先輩の気持ちは知っておきたかった。

「応援したい人もいたし……一番は、応援しているところを見てもらいたかったからかなぁ……」

 誰に? とは聞けなかった。
 でも、昼間の、新庄に頭を撫でられたときの先輩の反応を見れば、聞かなくてもわかる。
 先輩はきっと、新庄のことが好きなのだろう。そう考えると胸がひどくしめつけられ、胃の辺りを何か熱い物で掻き回されたような不快感を覚える。
 新庄だけじゃなく他の誰にも、あんなふうに先輩の頭を撫でて、肩を抱いてほしくない。先輩の笑顔を見せたくない。
 その子供じみた独占欲がどこからくるものかわかっていて、俺はまだその感情に名前をつける勇気はなかった。

「先輩は……今付き合ってる人はいるんすか?」
「今度は何? 何でそんな質問攻めなの?」

 心底驚いている様子の先輩は、まだ俺の邪な感情に気づいていないらしい。

「正式な仮入部部員になったから。先輩のこと、もっと知っておきたい」
「……付き合ってる人はいないよ」

 渋々といった感じで答えるところを見るに、普段、友達と恋バナはしないのかもしれない。

「何でですか? 先輩、モテるでしょ? 誰か好きな人でもいるんですか?」
「それ聞いてどうすんの? 仮入部部員に必要ないよね?」

 気を悪くしている感じではないが、質問の意図がわからず呆れているようだ。

「応援団部になったからには、先輩の恋も全力応援します」

 しれっとした顔で適当なことを言う。当然、先輩の好きな人があの男だとして、応援する気は毛頭ない。

「高校生の間は……そういうことにかまけている時間はないんだ。両親が共働きだから、僕にできることはサポートしたいし。国公立医学部の現役合格を狙ってるから……」

 だったらなおのこと、団部に入ったのには何かよほど大きな理由があったように思える。推薦を狙うなら、団部みたいな何の実績も残らない部ではなく、生徒会やボランティア系の部活に入ったほうがポイントを稼げそうな気がする。

「君は? 誰か付き合ってる人はいるの?」

 自分のことから話題を逸らすためか、逆に質問を返された。

「こんな面倒くさい体質でいると思います?」
「……接触だけが恋愛じゃないからね。……でも、まぁ、綺麗ごとか」

 同じ男子高校生なら、好きな相手に触れたいとも思わない恋愛はただのおままごとでしかないことを、わかってくれるだろう。
 だからこそ、俺も、初めて他人と握手したいと思えた感動や触れ合った手の熱さを、なかったことにはしたくないと思っている。

「付き合っている人はいないけど……、好きな人と付き合いたいという願望は人並にあります。だから、リハビリ、先輩の負担にならない範囲でこれからもよろしくお願いします」

 軽く頭を下げると、先輩がふふっと擽ったそうに笑った。

「颯真の成長が眩しすぎる!」
「元がダメな子みたいに言わんでください」

 その日、俺は先輩が素手で握ってくれたおにぎりを食べた。
 先輩限定でハードルが下がっているだけなので、あまりリハビリになっている気はしないが。それについては今は黙っておくことにした。