「団部に勧誘された? 何それウケる」
午後一の授業を終え、その後の休み時間のことである。化学室への移動中にいつも一緒に行動する上野と佐々木に香坂との一件をかいつまんで話した。安藤の名前は出さず、「他クラスの女子にチョコをもらった」ことにしている。
「三年が引退したから、応援団部は香坂先輩一人だけなんだって。金曜に予餞会があるだろ? それで演舞を披露するのに、太鼓を叩く人がいないらしい」
予餞会というのは、卒業式に先立って行う「三年生を送る会」のようなものだ。一年の俺たちは初参加だから詳細はわからないが、主には部活動を中心に出し物を披露し、三年生にエールを送るらしい。
「え? じゃあどうすんの?」
上野ほどには面白がらず、真顔で尋ねたのは佐々木だ。ラグビー部の上野と違い、吹奏楽部でクラス委員長でもある佐々木は、クラス全員の問題事にいつも真摯に対応してくれる。俺が相談したかったのも主に佐々木のほうだ。
「二年の知り合いに頼んで回ってるらしいけど、部活入ってる人はだいたいそっちで出し物あるだろ? それに団部の人気がなさすぎて、部活入ってない人にも今のところ全員断られてるんだって。誰も見つからなかったら、引退した三年の先輩に頼むしかないらしい」
「何それ。送られるほうが自分で太鼓叩くの? ウケる」
上野は面白がるだけで、解決策を考える気もないらしい。
「太鼓って、四日で叩けるようになるもんなん?」
今日が月曜だから、今日の放課後から練習を始めるとして、練習期間は四日しかない。
「応援団部の演舞はゆっくりだし、動きに合わせて叩く感じだから、タイミングさえ覚えれば余裕だと思う」
「お前、何でそんな詳しいの?」
佐々木の説明に、上野が怪訝そうな顔をする。二人は同中で朝も一緒に登校するくらい仲がいい。接点のなさそうな応援団部のことを佐々木が知っていたことが意外だったようだ。
「甲子園予選では合同応援になるからね。去年の夏も、大会前は一緒に練習したよ」
公立高校だが、うちの野球部は年によっては甲子園に行けるくらいに強いし部員数も多い。甲子園の中継映像で、吹奏楽部や応援団部がスタンドで応援していたのを見たことがある。
「野球部だけずりーよな。うちもチア部が応援に来てくんねーかな」
「うちの学校、チア部ないじゃん」
上野のボケに佐々木が真面目にツッコミを入れる。
俺は冗談に混じることなく食い気味に佐々木に尋ねた。
「応援団部って何でそんな部員少ないの?」
「見るからに時代錯誤だからじゃない? 礼儀とか上下関係もうるさそうだし。まぁ、怖い先輩たちは卒業するし、香坂先輩は爽やか系でうちの部の女子にもすごい人気だから、今年は新入部員が入るんじゃない?」
「香坂先輩ってもしかして、彼女持ち?」
話の途中からそっちのほうが気になっていた。
あれだけイケメンなら彼女がいても何らおかしくない。その可能性に気づき、なぜかちょっと変に胸がざわついてしまう。
佐々木がハハッと乾いた笑いを漏らす。
「先輩たちの話ではいなさそうだよ。女子が騒いでるのも、一条がモテるのとはちょっと違う感じ。香坂先輩、野球部の新主将の新庄先輩と仲がいいから、一部の女子から陰で『お新香』って呼ばれてて、単独よりセットのほうが『萌える』らしい」
「何それ。意味わかんねー」
階段に差し掛かり、一段飛ばしで上がる。
「俺と佐々木は? 需要ねーの?」
部活以外では佐々木と一緒にいることの多い上野が、なぜか対抗意識を燃やしている。
「それで、太鼓叩くの?」
上野の質問をスルーし、佐々木は話を戻した。
「太鼓叩くだけならいいけどさー。正式に団部入ったら来年は俺があの汚ったねー学ラン着なきゃじゃん。それはヤダ」
「学ランならクリーニングくらいしてあるだろ。タックルバッグなんか、たぶん買ってから一度も洗ってねーぞ」
「ラグビー部は人間のほうがよっぽど汚ねーだろ」
俺は上野に汚物を見る眼差しを向けて言い放った。
「あ、ひでぇ!」
脇腹に伸びてきたグーパンチを、身をよじって避ける。
「とりあえずさ。仮入部ってことで、予餞会の太鼓の手伝いだけしてあげたら? 三年と違って香坂先輩は話のわかる先輩ぽいから、強制されることはないんじゃない?」
「そうだな……」
階段を三階まで昇りきれば、踊り場を曲がった最初の教室が化学室だ。俺は佐々木に生返事をしつつ教室へと入った。
応援団部に入る目的が潔癖症を治すことである以上、歴代団長に引き継がれてきたあの汚い学ランを着る覚悟を決めた上で、入部する必要があるのだろう。
絶対にそれだけは嫌だ。そう思うのに、部に入ることに甘い期待のような気持ちも抱いてしまう。俺は多分、香坂先輩と、昼休みに一度だけ会話をしたことのある関係で終わりたくないのだろう。
(そうだな……。まずは今度の太鼓だけ、手伝ってみるか)
グラウンドで、これから体育の授業を受ける生徒たちが寒そうに整列しているのをぼんやりと眺めながら、そう決意を固めていた。
* * *
放課後の体育館裏は完全に日が翳り、昼休み以上に底冷えがした。
帰る準備は万端で、通学用のデイバッグを肩に下げ、コートもを着こんでいる。
演舞をする香坂は体を動かすからそれなりに暖まるだろうが、太鼓を打つだけだと寒いままだ。
早くも心が折れかけるが、ドタキャンしようにも連絡先も知らないので、ひたすら待つしかない。
まもなくして現れた香坂は、昼休みと違って、長くもボロくもない、普通の学ラン姿だった。俺と同じように、リュックを背負い、コートにマフラーまで巻いた通学スタイル。
近づいて来る彼に自分から声をかけた。
「あれ? 練習しないんすか?」
「今日は夕練を休むかわりに昼休みに練習したからね。来てくれたってことは、予餞会で手伝ってくれるってことでいいんだな?」
「えっと……、仮入部ってことなら……」
頭を掻きながら答える。
「ありがとう。助かるよ」
そう言って軽く口の端を上げた香坂は、直後、唇を引き結び、眉尻を吊り上げた。
「『仮』でも部にいる間は部員として扱う。先輩に会ったら、まずは挨拶だ。背筋を伸ばして軽く頭を下げて。挨拶の文句は、『こんにちは』でも『チワッス』でも『押忍』でも何でもいい」
「マジすか?」
「『マジすか』も先輩に対して使う言葉じゃない」
「マ……」
再び「マジすか?」と言いそうになったのを、慌てて呑みこんだ。
「チャッス!」
言われた通り、足を閉じて直立になり、30度ほど頭を下げる。
頭を上げると、整った顔がぷっと噴き出し相好を崩す。
「一条って、見た目と違って素直だよね。逃げずにちゃんと来てくれたし」
「『見た目と違って』って、ちょっとディスってますよね?」
拗ねたように唇を尖らせながら、口元に手を当て肩を震わせる男を、やっぱり可愛いと思ってしまう。先輩との他愛ないやりとりを、上野や佐々木と喋るときとは少し違った感じで楽しんでいる自分がいた。
何が違うのかはよくわからんけど。少なくとも、あいつらの笑顔から目を離せず、ドキドキすることなんて絶対ない。
「先輩たちはそういうのうるさかったけど、あんまり時代錯誤だと誰も部に入ってくれなくなるからね。目上の人への敬語とか挨拶とか、社会に出たときに必要になる最低限の礼儀さえちゃんとしてくれたらいいよ」
笑みを消し真顔で言うと、香坂はついて来るよう視線で促し、踵を返して元来たほうへ戻り始めた。大股で追いつき、隣に並ぶ。
「君も自転車通学?」
「はい。……いや、押忍!」
「おっ。団部らしくなってきたな」
香坂は俺側の右手を上げかけ、「あっ」と何かを思い出した顔をしてその手を引っ込めた。
「悪い。僕、弟と妹がいて、褒めるとき頭を撫でるのが癖で……」
照れたようにはにかむ顔に、また胸がきゅんと疼く。
「撫でてもらっていいっすよ……リハビリ、なんで……」
目を合わせることはできず、顔を逸らし気味に答えた。
「髪とか、服の上からなら、触られても大丈夫なんで……」
嘘だ。上野にグーパンチされそうになったときは、服越しでも全力で回避した。
運動神経がいいのにこれまで部活をやってこなかったのも、それが原因だった。部活に入ればどうしても他人との接触が増える。
ただ、なぜか香坂先輩に触れられるのは、嫌じゃないどころか触れられたいとさえ思ってしまう。もしかしたら髪や服越しじゃなくても、大丈夫かもしれない。
「嫌なら我慢せずすぐに言ってくれ」
頭にぽんぽんと柔らかな掌が触れる。
大丈夫。やっぱり先輩に触れられるのは嫌じゃない。
ただ、じわじわと顔が赤くなっていくのを自覚し、先輩に変に思われないかは不安だった。
「僕の家は学校から10分くらいでそう遠くない。もし時間があるなら、うちに寄ってくれないか? 演舞の動画をDVDに焼いて渡すから。それを見て太鼓を叩くタイミングを覚えてきてくれ」
手を離した先輩が、俺の赤面に気づいた様子もなく、いつも通り淡々と話し出す。
「他人のうちに入るのは大丈夫か? 一応掃除はしてあるが、小さい子供がいるから、気づけばどこかしこが汚れている。無理そうなら家の前や近くのコンビニで待っていてくれてもいい」
「大丈夫っす。正月に親戚の家とか行くことあるんで」
自転車置き場に行き、先輩の後ろを走る形で校門を出た。
最初に向かったのは、先輩の家ではなく小学校だった。
「妹が一年生で学童にいるから、母が遅番のときは僕が迎えに行くんだ。弟は保育園で、今日は父がお迎えの当番だ」
先輩の家は父親が放射線技師で母親が看護師で、二人とも夜勤があり、帰りが遅くなることもあるため、小学生の妹を先輩が連れて帰ることも多いらしい。
「あれ? でも確か、亡くなったお父さんがお医者さんだったって……」
「僕の実の父はね。母が再婚したんだ。だから妹と弟とは半分だけ血が繋がってる」
そんな会話をしながら自転車を止め、校庭の一角にある建物に入っていくと、女の子を連れて戻って来た。
「こうさかいろはです」
もじもじしながら舌ったらずな声でそう挨拶したのは、先輩とはあまり似ていないが、癖のあるふわふわの髪とつぶらな瞳が愛らしい少女だった。美形兄妹であることは間違いない。
「色彩の『彩』に葉っぱの『葉』で『彩葉』」
先輩が補足する。
「一条颯真です。颯真って呼んでね」
腰を屈め、目線を合わせて最大限に優しい声で話しかける。
『一条』は舌ったらずな子供には言いにくいだろうと思ってそう言ったのだが。
「あ、じゃあ、僕も颯真って呼んでいい? 一条ってちょっと言いにくいから」
思わぬ副産物がついてきた。
「もちろんっす!」
「俺も『理一郎先輩』って呼んでいいすか?」と喉まで出かけたが、今日であったばかりでさすがにそれは図々しいだろうと思ってぐっと堪えた。
妹と並んで先輩が自転車を押して歩き出し、彩葉ちゃんを間に挟む形で俺もそれに倣う。
「颯真は一人っ子?」
「はい」
「ぽいね」
意味深な笑みを向けられたが、「一人っ子っぽい」というのはあまり嬉しい評価ではない。我儘とか甘えてるとか、そういうネガティブなイメージを持たれているということだろう。
理由を訊くと余計に凹みそうなので、ぐぬぬ、と胸の内で唸るにとどめた。
彩葉ちゃんは年の離れたお兄ちゃんが大好きでたまらない、といった感じだった。
学校であった出来事や友達の噂話、帰ってから見る予定のアニメの話など、ひっきりなしに喋っていて、先輩も俺も聞き役に徹していた。
先輩の家は、小学校から歩いて10分ほどのところにある住宅街の中の一軒家だった。白い外壁に灰色の切妻屋根の家で、三階建てのようだった。奥まった三階部分には広めのルーフバルコニーがあり、洗濯物が風に揺れていた。家の庭木も、手入れが行き届いている。
「まだ新しいんじゃないですか?」
「亡くなった父が残してくれたんだ。父は……家を建てて一年も住めなかったけど……。家を買う時に保険に入ってたから、亡くなった時点で残りのローンは完済されるシステムで、それでずっと住めてる」
先輩が寂しそうに微笑む。
家なんか残してくれなくていいから、もっと長生きしてほしかった。そんな胸の内が透けて見える微笑だった。
ガレージに二人分の自転車を止め、飛び石を辿って玄関へと進む。
家の中も、新鮮な木の匂いがし、小さな子供がいるわりに塵一つ落ちていないほど綺麗だった。
「にーにとそうまのシュッシュ、いろはがする!」
シュッシュって何? ――と思ったら、手指のアルコール消毒のことらしい。先輩が下駄箱の上に置かれていたポンプ式のアルコール消毒液を取り、「じゃあ、まずは彩葉からね」と言って彼女の小さな手に吹きかける。
続いて彼女がボトルを持って俺と先輩の手に吹きかけた。
「テレビはガラガラペーしてからだよ」
靴を脱ぎ廊下に駆けていく小さな背中に先輩が声をかける。
「リビングは彩葉がアニメを見るから、DVDを焼く間、僕の部屋で待ってる? それか、夕飯作りの手伝いする?」
先輩の部屋も捨てがたいが、一緒に夕飯作りに軍配が上がる。
「夕飯作りで」
「じゃ、着替えてくるから、リビングで待ってて」
タイマーでセットしてあったのか、リビングはすでに暖かかった。シャツの上にセーターを着ているから、コートと学ランは脱いでもよさそうだ。
彩葉ちゃんはラグに座ってテーブルに両腕を預け、食い入るようにテレビを見ていた。画面には俺が子供のときからやっている夕方のお子様向けアニメが映し出されている。
リビングから仕切りなしで続く和室には、お仏壇があった。
荷物を床に置き、その上にコートと学ランを置いて手持無沙汰に室内のあちらこちらを眺めていると、廊下から足音がし、ドアを開けて先輩が入って来た。
「ちょっと待ってて」
そう言って和室へと直行する先輩の後ろ姿に声をかける。
「先輩。俺もお仏壇に参らせてもらっていいですか?」
「あぁ。ありがとう」
遺影の写真は随分と若かった。まだ30代やそこらに見える。
意志の強そうな目元が、先輩と似ていた。
「くも膜下出血だったんだ……。忙しすぎたのもあったんだと思う。学会で地方に行っていたときでホテルに一人だったから、気づかれるのが遅れて……」
ひっそりとした表情が、何かに気づいたかのように、かける言葉を探しあぐねている俺へと向けられる。
「今日会ったばっかなのに、こんな重い話しちゃってごめん!」
「あ、いえ……。話してもらえて、俺は嬉しかったです」
「やっぱり、颯真は一人っ子だね」
先輩がからかうような笑みを浮かべた。
「さっきも言ってましたけど、先輩にとって一人っ子って、どんなイメージなんすか?」
なんとなく、悪いことは言われない気がして、先ほどは飲み込んだ言葉を口にした。
「大事に育てられてるイメージ?」
「……言い方次第ってことか」
意味が分からず「ん?」と怪訝な顔をした先輩に答えは返さず、俺は仏壇に向かって手を合わせた。
母親が神経質で過保護に育てられたから、自分も極端に人との接触が苦手になった。そう思っていたが、それは裏を返せば大事に育ててもらったということだ。そう考えたら、少し気持ちが楽になった。
母親の帰りが遅かったり夜勤のときは、先輩が夕食を作るらしい。今日のメイン料理はすき焼きだった。
俺も、先輩の指導の下、野菜を洗ったり切ったりして手伝った。
「せっかくだから、一緒に作った料理、味見していってよ。これなら食べられそう?」
先輩は未開封の深めの紙皿と割り箸、それにプラスチックスプーンをテーブルの上に置いた。
そこで初めて、先輩が俺に夕飯作りを手伝わせた理由を理解した。どうやリハビリの一環だったらしい。
料理を作っているところを隣で見ている上に、自分の中では「清潔」部類に入る未開封の使い捨て食器。それらの組み合わせで安心度がぐっと上がる。
「大丈夫だと思います。でも、いいんすか? 俺が食べたら減りますよ」
「多めに作ったから大丈夫だよ。でも、家で夕飯を食べれなくなるといけないから、小腹を満たす程度にね。好きな具を自分で取ったらいい」
言われるがままに俺は自分で袋を開けて紙皿を取り出し、割り箸を使って鍋の中からいくつか具を拾い上げた。プラスチックスプーンで汁も掬い取る。
観察するような先輩の視線に居たたまれなさを覚えつつ、ふーふーと息を吹きかけて豆腐を口に運ぶ。
「どう?」
「美味い……です。俺、他人の家で料理食べたの、記憶にある限り初めてです!」
味以上にそのことに感動し、声が上擦る。
「気持ち悪くもない?」
「全然っす」
明らかに、昼休みにガトーショコラを食べた後の感覚とは違っていた。
一気に完食して皿を置くと、先輩が嬉しそうに双眸をたわめる。
「今日一日ですごい進歩じゃん!」
期待の眼差しが通じたのかもしれない。
先輩の手が伸びて来て、頭をぽんぽんと撫でられた。
自分が餌付けされたワンコになった気がする。でも、それが全然嫌じゃなかった。
午後一の授業を終え、その後の休み時間のことである。化学室への移動中にいつも一緒に行動する上野と佐々木に香坂との一件をかいつまんで話した。安藤の名前は出さず、「他クラスの女子にチョコをもらった」ことにしている。
「三年が引退したから、応援団部は香坂先輩一人だけなんだって。金曜に予餞会があるだろ? それで演舞を披露するのに、太鼓を叩く人がいないらしい」
予餞会というのは、卒業式に先立って行う「三年生を送る会」のようなものだ。一年の俺たちは初参加だから詳細はわからないが、主には部活動を中心に出し物を披露し、三年生にエールを送るらしい。
「え? じゃあどうすんの?」
上野ほどには面白がらず、真顔で尋ねたのは佐々木だ。ラグビー部の上野と違い、吹奏楽部でクラス委員長でもある佐々木は、クラス全員の問題事にいつも真摯に対応してくれる。俺が相談したかったのも主に佐々木のほうだ。
「二年の知り合いに頼んで回ってるらしいけど、部活入ってる人はだいたいそっちで出し物あるだろ? それに団部の人気がなさすぎて、部活入ってない人にも今のところ全員断られてるんだって。誰も見つからなかったら、引退した三年の先輩に頼むしかないらしい」
「何それ。送られるほうが自分で太鼓叩くの? ウケる」
上野は面白がるだけで、解決策を考える気もないらしい。
「太鼓って、四日で叩けるようになるもんなん?」
今日が月曜だから、今日の放課後から練習を始めるとして、練習期間は四日しかない。
「応援団部の演舞はゆっくりだし、動きに合わせて叩く感じだから、タイミングさえ覚えれば余裕だと思う」
「お前、何でそんな詳しいの?」
佐々木の説明に、上野が怪訝そうな顔をする。二人は同中で朝も一緒に登校するくらい仲がいい。接点のなさそうな応援団部のことを佐々木が知っていたことが意外だったようだ。
「甲子園予選では合同応援になるからね。去年の夏も、大会前は一緒に練習したよ」
公立高校だが、うちの野球部は年によっては甲子園に行けるくらいに強いし部員数も多い。甲子園の中継映像で、吹奏楽部や応援団部がスタンドで応援していたのを見たことがある。
「野球部だけずりーよな。うちもチア部が応援に来てくんねーかな」
「うちの学校、チア部ないじゃん」
上野のボケに佐々木が真面目にツッコミを入れる。
俺は冗談に混じることなく食い気味に佐々木に尋ねた。
「応援団部って何でそんな部員少ないの?」
「見るからに時代錯誤だからじゃない? 礼儀とか上下関係もうるさそうだし。まぁ、怖い先輩たちは卒業するし、香坂先輩は爽やか系でうちの部の女子にもすごい人気だから、今年は新入部員が入るんじゃない?」
「香坂先輩ってもしかして、彼女持ち?」
話の途中からそっちのほうが気になっていた。
あれだけイケメンなら彼女がいても何らおかしくない。その可能性に気づき、なぜかちょっと変に胸がざわついてしまう。
佐々木がハハッと乾いた笑いを漏らす。
「先輩たちの話ではいなさそうだよ。女子が騒いでるのも、一条がモテるのとはちょっと違う感じ。香坂先輩、野球部の新主将の新庄先輩と仲がいいから、一部の女子から陰で『お新香』って呼ばれてて、単独よりセットのほうが『萌える』らしい」
「何それ。意味わかんねー」
階段に差し掛かり、一段飛ばしで上がる。
「俺と佐々木は? 需要ねーの?」
部活以外では佐々木と一緒にいることの多い上野が、なぜか対抗意識を燃やしている。
「それで、太鼓叩くの?」
上野の質問をスルーし、佐々木は話を戻した。
「太鼓叩くだけならいいけどさー。正式に団部入ったら来年は俺があの汚ったねー学ラン着なきゃじゃん。それはヤダ」
「学ランならクリーニングくらいしてあるだろ。タックルバッグなんか、たぶん買ってから一度も洗ってねーぞ」
「ラグビー部は人間のほうがよっぽど汚ねーだろ」
俺は上野に汚物を見る眼差しを向けて言い放った。
「あ、ひでぇ!」
脇腹に伸びてきたグーパンチを、身をよじって避ける。
「とりあえずさ。仮入部ってことで、予餞会の太鼓の手伝いだけしてあげたら? 三年と違って香坂先輩は話のわかる先輩ぽいから、強制されることはないんじゃない?」
「そうだな……」
階段を三階まで昇りきれば、踊り場を曲がった最初の教室が化学室だ。俺は佐々木に生返事をしつつ教室へと入った。
応援団部に入る目的が潔癖症を治すことである以上、歴代団長に引き継がれてきたあの汚い学ランを着る覚悟を決めた上で、入部する必要があるのだろう。
絶対にそれだけは嫌だ。そう思うのに、部に入ることに甘い期待のような気持ちも抱いてしまう。俺は多分、香坂先輩と、昼休みに一度だけ会話をしたことのある関係で終わりたくないのだろう。
(そうだな……。まずは今度の太鼓だけ、手伝ってみるか)
グラウンドで、これから体育の授業を受ける生徒たちが寒そうに整列しているのをぼんやりと眺めながら、そう決意を固めていた。
* * *
放課後の体育館裏は完全に日が翳り、昼休み以上に底冷えがした。
帰る準備は万端で、通学用のデイバッグを肩に下げ、コートもを着こんでいる。
演舞をする香坂は体を動かすからそれなりに暖まるだろうが、太鼓を打つだけだと寒いままだ。
早くも心が折れかけるが、ドタキャンしようにも連絡先も知らないので、ひたすら待つしかない。
まもなくして現れた香坂は、昼休みと違って、長くもボロくもない、普通の学ラン姿だった。俺と同じように、リュックを背負い、コートにマフラーまで巻いた通学スタイル。
近づいて来る彼に自分から声をかけた。
「あれ? 練習しないんすか?」
「今日は夕練を休むかわりに昼休みに練習したからね。来てくれたってことは、予餞会で手伝ってくれるってことでいいんだな?」
「えっと……、仮入部ってことなら……」
頭を掻きながら答える。
「ありがとう。助かるよ」
そう言って軽く口の端を上げた香坂は、直後、唇を引き結び、眉尻を吊り上げた。
「『仮』でも部にいる間は部員として扱う。先輩に会ったら、まずは挨拶だ。背筋を伸ばして軽く頭を下げて。挨拶の文句は、『こんにちは』でも『チワッス』でも『押忍』でも何でもいい」
「マジすか?」
「『マジすか』も先輩に対して使う言葉じゃない」
「マ……」
再び「マジすか?」と言いそうになったのを、慌てて呑みこんだ。
「チャッス!」
言われた通り、足を閉じて直立になり、30度ほど頭を下げる。
頭を上げると、整った顔がぷっと噴き出し相好を崩す。
「一条って、見た目と違って素直だよね。逃げずにちゃんと来てくれたし」
「『見た目と違って』って、ちょっとディスってますよね?」
拗ねたように唇を尖らせながら、口元に手を当て肩を震わせる男を、やっぱり可愛いと思ってしまう。先輩との他愛ないやりとりを、上野や佐々木と喋るときとは少し違った感じで楽しんでいる自分がいた。
何が違うのかはよくわからんけど。少なくとも、あいつらの笑顔から目を離せず、ドキドキすることなんて絶対ない。
「先輩たちはそういうのうるさかったけど、あんまり時代錯誤だと誰も部に入ってくれなくなるからね。目上の人への敬語とか挨拶とか、社会に出たときに必要になる最低限の礼儀さえちゃんとしてくれたらいいよ」
笑みを消し真顔で言うと、香坂はついて来るよう視線で促し、踵を返して元来たほうへ戻り始めた。大股で追いつき、隣に並ぶ。
「君も自転車通学?」
「はい。……いや、押忍!」
「おっ。団部らしくなってきたな」
香坂は俺側の右手を上げかけ、「あっ」と何かを思い出した顔をしてその手を引っ込めた。
「悪い。僕、弟と妹がいて、褒めるとき頭を撫でるのが癖で……」
照れたようにはにかむ顔に、また胸がきゅんと疼く。
「撫でてもらっていいっすよ……リハビリ、なんで……」
目を合わせることはできず、顔を逸らし気味に答えた。
「髪とか、服の上からなら、触られても大丈夫なんで……」
嘘だ。上野にグーパンチされそうになったときは、服越しでも全力で回避した。
運動神経がいいのにこれまで部活をやってこなかったのも、それが原因だった。部活に入ればどうしても他人との接触が増える。
ただ、なぜか香坂先輩に触れられるのは、嫌じゃないどころか触れられたいとさえ思ってしまう。もしかしたら髪や服越しじゃなくても、大丈夫かもしれない。
「嫌なら我慢せずすぐに言ってくれ」
頭にぽんぽんと柔らかな掌が触れる。
大丈夫。やっぱり先輩に触れられるのは嫌じゃない。
ただ、じわじわと顔が赤くなっていくのを自覚し、先輩に変に思われないかは不安だった。
「僕の家は学校から10分くらいでそう遠くない。もし時間があるなら、うちに寄ってくれないか? 演舞の動画をDVDに焼いて渡すから。それを見て太鼓を叩くタイミングを覚えてきてくれ」
手を離した先輩が、俺の赤面に気づいた様子もなく、いつも通り淡々と話し出す。
「他人のうちに入るのは大丈夫か? 一応掃除はしてあるが、小さい子供がいるから、気づけばどこかしこが汚れている。無理そうなら家の前や近くのコンビニで待っていてくれてもいい」
「大丈夫っす。正月に親戚の家とか行くことあるんで」
自転車置き場に行き、先輩の後ろを走る形で校門を出た。
最初に向かったのは、先輩の家ではなく小学校だった。
「妹が一年生で学童にいるから、母が遅番のときは僕が迎えに行くんだ。弟は保育園で、今日は父がお迎えの当番だ」
先輩の家は父親が放射線技師で母親が看護師で、二人とも夜勤があり、帰りが遅くなることもあるため、小学生の妹を先輩が連れて帰ることも多いらしい。
「あれ? でも確か、亡くなったお父さんがお医者さんだったって……」
「僕の実の父はね。母が再婚したんだ。だから妹と弟とは半分だけ血が繋がってる」
そんな会話をしながら自転車を止め、校庭の一角にある建物に入っていくと、女の子を連れて戻って来た。
「こうさかいろはです」
もじもじしながら舌ったらずな声でそう挨拶したのは、先輩とはあまり似ていないが、癖のあるふわふわの髪とつぶらな瞳が愛らしい少女だった。美形兄妹であることは間違いない。
「色彩の『彩』に葉っぱの『葉』で『彩葉』」
先輩が補足する。
「一条颯真です。颯真って呼んでね」
腰を屈め、目線を合わせて最大限に優しい声で話しかける。
『一条』は舌ったらずな子供には言いにくいだろうと思ってそう言ったのだが。
「あ、じゃあ、僕も颯真って呼んでいい? 一条ってちょっと言いにくいから」
思わぬ副産物がついてきた。
「もちろんっす!」
「俺も『理一郎先輩』って呼んでいいすか?」と喉まで出かけたが、今日であったばかりでさすがにそれは図々しいだろうと思ってぐっと堪えた。
妹と並んで先輩が自転車を押して歩き出し、彩葉ちゃんを間に挟む形で俺もそれに倣う。
「颯真は一人っ子?」
「はい」
「ぽいね」
意味深な笑みを向けられたが、「一人っ子っぽい」というのはあまり嬉しい評価ではない。我儘とか甘えてるとか、そういうネガティブなイメージを持たれているということだろう。
理由を訊くと余計に凹みそうなので、ぐぬぬ、と胸の内で唸るにとどめた。
彩葉ちゃんは年の離れたお兄ちゃんが大好きでたまらない、といった感じだった。
学校であった出来事や友達の噂話、帰ってから見る予定のアニメの話など、ひっきりなしに喋っていて、先輩も俺も聞き役に徹していた。
先輩の家は、小学校から歩いて10分ほどのところにある住宅街の中の一軒家だった。白い外壁に灰色の切妻屋根の家で、三階建てのようだった。奥まった三階部分には広めのルーフバルコニーがあり、洗濯物が風に揺れていた。家の庭木も、手入れが行き届いている。
「まだ新しいんじゃないですか?」
「亡くなった父が残してくれたんだ。父は……家を建てて一年も住めなかったけど……。家を買う時に保険に入ってたから、亡くなった時点で残りのローンは完済されるシステムで、それでずっと住めてる」
先輩が寂しそうに微笑む。
家なんか残してくれなくていいから、もっと長生きしてほしかった。そんな胸の内が透けて見える微笑だった。
ガレージに二人分の自転車を止め、飛び石を辿って玄関へと進む。
家の中も、新鮮な木の匂いがし、小さな子供がいるわりに塵一つ落ちていないほど綺麗だった。
「にーにとそうまのシュッシュ、いろはがする!」
シュッシュって何? ――と思ったら、手指のアルコール消毒のことらしい。先輩が下駄箱の上に置かれていたポンプ式のアルコール消毒液を取り、「じゃあ、まずは彩葉からね」と言って彼女の小さな手に吹きかける。
続いて彼女がボトルを持って俺と先輩の手に吹きかけた。
「テレビはガラガラペーしてからだよ」
靴を脱ぎ廊下に駆けていく小さな背中に先輩が声をかける。
「リビングは彩葉がアニメを見るから、DVDを焼く間、僕の部屋で待ってる? それか、夕飯作りの手伝いする?」
先輩の部屋も捨てがたいが、一緒に夕飯作りに軍配が上がる。
「夕飯作りで」
「じゃ、着替えてくるから、リビングで待ってて」
タイマーでセットしてあったのか、リビングはすでに暖かかった。シャツの上にセーターを着ているから、コートと学ランは脱いでもよさそうだ。
彩葉ちゃんはラグに座ってテーブルに両腕を預け、食い入るようにテレビを見ていた。画面には俺が子供のときからやっている夕方のお子様向けアニメが映し出されている。
リビングから仕切りなしで続く和室には、お仏壇があった。
荷物を床に置き、その上にコートと学ランを置いて手持無沙汰に室内のあちらこちらを眺めていると、廊下から足音がし、ドアを開けて先輩が入って来た。
「ちょっと待ってて」
そう言って和室へと直行する先輩の後ろ姿に声をかける。
「先輩。俺もお仏壇に参らせてもらっていいですか?」
「あぁ。ありがとう」
遺影の写真は随分と若かった。まだ30代やそこらに見える。
意志の強そうな目元が、先輩と似ていた。
「くも膜下出血だったんだ……。忙しすぎたのもあったんだと思う。学会で地方に行っていたときでホテルに一人だったから、気づかれるのが遅れて……」
ひっそりとした表情が、何かに気づいたかのように、かける言葉を探しあぐねている俺へと向けられる。
「今日会ったばっかなのに、こんな重い話しちゃってごめん!」
「あ、いえ……。話してもらえて、俺は嬉しかったです」
「やっぱり、颯真は一人っ子だね」
先輩がからかうような笑みを浮かべた。
「さっきも言ってましたけど、先輩にとって一人っ子って、どんなイメージなんすか?」
なんとなく、悪いことは言われない気がして、先ほどは飲み込んだ言葉を口にした。
「大事に育てられてるイメージ?」
「……言い方次第ってことか」
意味が分からず「ん?」と怪訝な顔をした先輩に答えは返さず、俺は仏壇に向かって手を合わせた。
母親が神経質で過保護に育てられたから、自分も極端に人との接触が苦手になった。そう思っていたが、それは裏を返せば大事に育ててもらったということだ。そう考えたら、少し気持ちが楽になった。
母親の帰りが遅かったり夜勤のときは、先輩が夕食を作るらしい。今日のメイン料理はすき焼きだった。
俺も、先輩の指導の下、野菜を洗ったり切ったりして手伝った。
「せっかくだから、一緒に作った料理、味見していってよ。これなら食べられそう?」
先輩は未開封の深めの紙皿と割り箸、それにプラスチックスプーンをテーブルの上に置いた。
そこで初めて、先輩が俺に夕飯作りを手伝わせた理由を理解した。どうやリハビリの一環だったらしい。
料理を作っているところを隣で見ている上に、自分の中では「清潔」部類に入る未開封の使い捨て食器。それらの組み合わせで安心度がぐっと上がる。
「大丈夫だと思います。でも、いいんすか? 俺が食べたら減りますよ」
「多めに作ったから大丈夫だよ。でも、家で夕飯を食べれなくなるといけないから、小腹を満たす程度にね。好きな具を自分で取ったらいい」
言われるがままに俺は自分で袋を開けて紙皿を取り出し、割り箸を使って鍋の中からいくつか具を拾い上げた。プラスチックスプーンで汁も掬い取る。
観察するような先輩の視線に居たたまれなさを覚えつつ、ふーふーと息を吹きかけて豆腐を口に運ぶ。
「どう?」
「美味い……です。俺、他人の家で料理食べたの、記憶にある限り初めてです!」
味以上にそのことに感動し、声が上擦る。
「気持ち悪くもない?」
「全然っす」
明らかに、昼休みにガトーショコラを食べた後の感覚とは違っていた。
一気に完食して皿を置くと、先輩が嬉しそうに双眸をたわめる。
「今日一日ですごい進歩じゃん!」
期待の眼差しが通じたのかもしれない。
先輩の手が伸びて来て、頭をぽんぽんと撫でられた。
自分が餌付けされたワンコになった気がする。でも、それが全然嫌じゃなかった。
