今日何度目になるかわからない呼び出し。
人気のない体育館裏は昼休みでも陽が当たらず、寒々としている。
俺を呼び出した隣のクラスの安藤花恋は、現れたときから気温とは裏腹に顔を真っ赤に染めていた。
紙袋を持つ手を落ち着きなく擦り合わせる彼女の後方――体育館の壁際では、彼女と同じ毛色の派手めの女子たちが身を潜め、こそこそとこちらを窺っている。おそらく安藤の付き添いだろう。
彼女たちのいる場所は地面に陽が差しており、ここよりはずっと暖かそうに見える。
(俺も早くあっち行きてぇ……)
寒さと沈黙に耐えかね、そんなことを思い始めた頃、ようやく蚊の鳴くような声が聞こえてきた。
「一条君、今、彼女いないって聞いたから……。あの……、私、お菓子作りが趣味で……」
(……マジか)
お菓子作りが趣味――その言葉を聞いた瞬間、元々気乗りしなかった俺のテンションは見事なまでに急降下した。
表情筋に力を入れて平静を装いながら、遠くに向けていた視線を正面の女子に戻す。
彼女とは選択授業が一緒になるくらいで、入学以来一度もまともに話したことはない。クラスのお調子者の上野が「学年で断トツ可愛い」と騒いでいて、名前だけは知っていた。 確かに、長い睫毛に縁取られたくっきりとした二重の瞳は目力があり、上野が言うように「アイドル級」と言えるのかもしれない。
たいていの男子は、彼女のような一軍女子に呼び出されたら、舞い上がるのではないだろうか。
かく言う俺――一条颯真も、好意を寄せられること自体はやぶさかではない。――が、それも、彼女の言葉を聞くまでのことだった。今はここにきた後悔がじわじわと胸に広がりつつある。
「これ、ガトーショコラ。私が作ったの。迷惑じゃなかったら、もらってください! それで、よかったら……まずは友達からでいいので、仲良くしてもらえたら嬉しいです!」
ひと息に言い終えると、ゆるくウェーブした栗色のセミロングを揺らし、安藤がファンシーにラッピングされた紙袋を差し出してきた。
(ガトーショコラ……)
紙袋と、俯いたままの彼女の顔を交互に見やる。
できることなら受け取りたくない。でも、バレンタインの今日、すでに他の女子からチョコを受け取っている手前、彼女だけ断るわけにもいかない。もらっておいてこっそり捨てる、はありだろうが、それはそれで心が痛む。
「受け取る」「受け取らない」の間でメトロノームのように気持ちが揺れ、その場に立ち尽くす。
「……手作りって……自分で作ったの? すごいね」
間を持たせるためだけの質問は、しかし逆効果だったようだ。
パッと上げられた安藤の顔には、ありありと期待が浮かんでいた。
「慣れたら簡単にできるよ。他にもたくさん得意なお菓子あるから、また作ってこようか?」
「あ、いや、俺……、実は甘いものが苦手で……」
「えー……そうなの?」
一瞬だけ悲しげに視線を伏せた安藤は、すぐにまた、カラコンの入った黒目勝ちの大きな瞳で俺を捉える。
「でも、このケーキ甘さ控えめで作ったから、ちょうどいいかも!」
よく言えば七転び八起き。悪く言えばKY。脈がないことを察していて、あえて気付いていないふりをしているだけかもしれないが……。
俺は一重の三白眼で目つきが悪いが、周囲からは「イケメン」と持て囃される部類に入る。高校一年にして180㎝を越える長身で、バレンタインは毎年それなりの数のチョコをもらっていた。
ただ、手作りに限らず他人から物をもらうこと自体苦手で、中学の頃は何度か受け取り拒否を試みて、目の前で女子に泣かれ余計に面倒なことになった。その苦い記憶を思い返し、ひとまず受け取ることにした。
「じゃ、せっかくだからいただくよ……ありがとう」
「日持ちしないから、できれば一番最初に食べてね。中に私のインスタ入れてるから。夜に味の感想聞かせて!」
後で上野にでもこっそり食べてもらおうと考えていた俺は、思わず変な声を漏らしそうになった。
小首をかしげ、上目遣いに秋波を送ってくる彼女は、最初のおとなしそうな印象から一転し、どうやら肉食女子だったようだ。告白してくる女子の大半はそのタイプだから、驚きはないが。
「……感想ね。オケ」
俺はさりげなく視線を逸らし、彼女の手に触れないよう下からそっと紙袋を受け取った。
俺が普通の男子高校生なら、安藤のような一軍女子に好意を寄せられて、彼女もいないのに断るという選択肢はなかっただろう。けど、俺は――。
「一条君、もし時間あるなら、今日の放課後……」
安藤が鼻にかかった声で何か言いかけたときだ。
「不肖、日向台高校応援団団長、香坂が~……三年生にエールを送りますっ!」
彼女の話を遮り、突如として大音声があたりに響いた。
「ヤダ、なにっ!?」
安藤がパッと後ろを振り返る。体育館の壁に身を潜めていた女子たちも、一斉に背後を振り向いた。
彼女たちのいる中庭の中央に、いつのまにか男子生徒が立っていた。広く影の落ちた体育館裏でそこだけ陽が当たっているのは、まるでスポットライトに照らされているようだ。
色落ちし、生地の擦り切れた裾の長い学ランには見覚えがある。
体育祭のとき、応援団部の団長が演舞の際に着ていた。ただ、あのときそれを着ていたのは、見るからに団部といった感じの、角刈りで体格のいい先輩だった。
今、その長ランを着ているというか、着られている感じの人は、細身で、少し明るい髪色の清潔感のあるショートヘア。遠目にもわかる色白の肌は、むさ苦しい格好とは真逆の透明感がある。冴え冴えとした冬の景色に溶け込んでいるかのような凛とした佇まいに、目が釘付けになった。
その白い手袋をした手が、シュッと音が聞こえてきそうな素早さで斜めに振り上げられた。
「フレー!」
放たれた声が、冷えた空気を震わせる。
指先までピンと伸ばし、もう片方の腕が同じ軌道を描く。
「フレー!」
先客がいることは知っていてそこに来ただろうに、彼一人が別の世界にいて、俺たちは最初からいないものとされているようだった。
「団部、昼休みまで練習してんの? ダサッ」
先ほどまでの甘えた声色を一転させ、安藤が小馬鹿にした口調で腐す。
団部というのは応援団部の略だ。真夏でも暑苦しい学ランを着こみ、人目をはばからず発声や演舞の練習をしている彼らは、ほとんどの生徒から変わり者扱いされている。
人がいるところで突然大声を出し一人で演舞しているのだから、確かに変わり者には違いない。ただ、安藤と違って、俺はそれをダサいとは思わなかった。
「面白そうだから、俺、あれ見て帰るけど、一緒に見る?」
そう言うと案の定、彼女は頬を引き攣らせた。
「わ……私は寒いの苦手だから、先に戻ろうかな……」
「そ。じゃ、これありがとね」
笑顔で軽く紙袋を掲げて見せ、ていよく彼女と付き添いの女子たちを追い払う。
俺は応援団部の彼の視界に入らない場所で、同じ掛け声とポーズを繰り返す彼を飽きもせず眺めていた。
近くで見ると、所作だけでなくその横顔の美しさにも目を奪われた。
体育祭で見たときは、遠目だったし、「暑い中ご苦労なこって」くらいにしか思わなかった。今は、その一挙一動や真剣な眼差しから目が離せない。一瞬、背筋を弓なりに反らせ、腹の底から発せられる声が、直接胸にビリビリと響いてくる。
動きが止まり、彼がふぅと肩の力を抜いたところで俺は声をかけた。
「あんた、甘いもん好き?」
子供の頃から黙っていても周りから声をかけられることが多く、必要がなければ初対面の人に自分から声をかけることはない。だから、声をかけたいと思ったことを自分でも不思議に思った。いないものとして扱われている自分を、彼に認識してもらいたかったのかもしれない。
演舞をしていたときの真剣さが薄れ、うろんな眼差しがこちらに向けられる。明らかに警戒されている気配を感じ取り、俺は取り繕うように慌てて言葉をつけ足した。
「さっきの子に手作りのガトーショコラもらったんだけど、俺、他人の手料理が苦手で……」
「君、一年だろ?」
こちらに歩み寄ってくる彼の咎めるような声色で、彼が先輩である可能性を失念していたことに気が付いた。
応援団部の長ランは代々団長に受け継がれるもので、三年が引退したこの時期にそれを着ているということは、彼はおそらく二年生だろう。学ランの襟章で学年がわかる。先輩に対してタメ語で話しかけたから、機嫌を損ねたのだと思った。
目の前に立った彼は182㎝の俺より少し下に目線があるから175㎝くらい。
意志の強そうなアーモンド形の二重の目をしていて、鼻筋も細く、近くで見ると更に中性的な美形だった。
「あ、すんません。一年です。先輩は二年……ですか?」
「いかにも。二年F組所属、香坂理一郎だ。僕に何用だ?」
見た目とはギャップのある古風な喋り方と名前に、思わず口元が緩みそうになる。――が、腹筋に力を込めて耐えた。
「俺は一年B組の一条颯真です。さっきの彼女に手作りケーキをもらったんだけど、俺、他人の手料理は食べれないんです。先輩、甘い物が好きなら、よかったらもらってくれませんか?」
紙袋を軽く掲げて困り顔を見せる。
声をかけたのは、それを口実に彼と話したかったからだ。知らない人間が作ったお菓子なんて、怪しすぎてもらってくれるはずがない。全く期待していなかったが、意外にも彼は迷うそぶりを見せた。
「甘い物は好きだ。だが、これは君が彼女にもらったものだろう? 彼女が君のために作ったものを、僕がもらうわけにいかない。手作りじゃなければ、食べられるのか?」
「まぁ……、市販のチョコとか、ケーキ屋で買ったケーキなら……」
ケーキ屋で買ったケーキも広く言えば他人の手作りだ。
ケーキの場合、自分で買ったものや母親が買うところを見ていたものなら抵抗なく食べられる。他人が買ってきた物だと、市販のお菓子のようにラッピングされているか箱に入ったまま渡された物ならOK。他人が皿に移し替えた物はNGだ。
その辺は感覚的なものだから、自分でも厳密に違いがわかっているわけではない。相手によっても「大丈夫」のラインが変わる。中学までは給食も食べていたが、それがなくなってから、そのラインが一層狭くなった。
「ふーん」と興味がなさそうに相槌を打ち、彼は紙袋の中からピンク色のリボンの巻かれた透明なOPP袋を取り出した。中には表面に粉砂糖がまぶされたパウンド型のガトーショコラが入っている。
「これ、手作りじゃないぞ」
「マジ?」
驚いて、またタメ語に戻ってしまった。
今度は特に気を悪くした様子はなく、先輩が淡々と話を続ける。
「手作りのガトーショコラは割れ目ができるのが普通で、こんなにフラットな表面にならない。それにリボンの巻き方や素材もどう見てもプロの仕様だ。袋に入った状態で売ってあるものを買ってきたんだろうな」
彼は手袋を外してリボンを解き、袋からケーキの端を押し出すと、一部をちぎり取った。ためらうことなく、男にしては小さめの口で切れ端に齧りつく。
咀嚼した瞬間、掴みどころのないような表情がふわっとやわらいだ。
「美味しい!」
アーモンド形の目が柔らかな弧を描き、薄い唇もしどけなく緩む。その変化に俺は軽く瞠目した。
あどけない表情は、媚びるような上目遣いで見つめてくる女子たちの何倍も可愛かった。見ているだけで、こちらまで相好が崩れそうになる。
生唾が口内に溢れてきて、ゴクリと音を立てて飲み込んだ。
「やっぱりこれはプロの味だ。こんな美味しいガトーショコラ、手作りなわけないよ。すごい有名店のものじゃないかな」
つらつらと褒め言葉を口にしながら、香坂がちぎったケーキの残りを頬張る。ケーキを抓んでいた指まで舐める彼を見て、今まで誰にも感じたことのない、胸の奥が甘くざわめくような落ち着かなさを覚えた。
「買った物なら……俺もちょっとだけ味見してみようかな……」
「そうするといい。これは絶対に一食の価値があるぞ」
端をちぎり取った残りを口元にずいと差し出される。
袋から端だけを押し出してちぎり取ってあるから、残りのケーキに彼の指は降れていない。でも、これまでなら、こんな汚い学ランを着ている人間が一部を触ったその残骸など、食べる気にはなれなかった。
ただ、今はなぜか抵抗なく――彼が差しだしてきたケーキの断面に齧りついた。
甘すぎない、ビターチョコのしっとりとした生地が口の中でほろほろと崩れていく。
美味しいには違いない。ただ、先輩の表情から期待していた程の衝撃はなかった。今まで食べたものと比べても、買った物か手作りかは俺にはわからない。
ゴクンと喉を鳴らして俺が飲み込んだのを見て、先輩がニヤリと片頬を上げる。
「まぁ、実際のところ、手作りか買った物かは僕にもわからないけどね」
考えていたのと同じことを言われて、思わずムセそうになった。
「はぁ!? おいっ、飲みこんじまっただろ!」
「飲み込んでしまったら大丈夫? 吐くほどではない?」
言われて、腹の辺りに意識を集中させる。
得体のしれないものを食べたかもしれないという気色悪さはあるが、吐き気が込み上げてくるほどではなかった。
「吐きたいほどじゃない……けど……。いやでも、あれマジで手作りなん?」
「だったら、不潔恐怖症の中でも軽いほうかもね。リハビリでなんとかなるかもしれない。気の持ちよう……って言っちゃ駄目なんだろうけど、このケーキはケーキ屋で買った物ってことにすればいいんじゃないかな? 素人が作ったにしては形も綺麗すぎるだろ?」
俺が納得のいかない顔をしていたからか、言葉を探すような間を置き、先輩が話を続ける。
「あの子、ネイルはしていなかった? 付き添いの女子たちも派手めな見た目だったからそうかもと思ったんだけど。お菓子作りが趣味の人は爪を短くしているのが基本だよ」
確かに言われてみれば、紙袋を差し出してきた手は、長い爪に淡いピンクのネイルが施されていた。
「結局のところどっちなんだよ?」と問い詰めたい気もするが、真実を知ることへの不安もある。そもそも真実は安藤しか知らないことだし、尋ねたところで正直に話すとも思えない。
「残りはいらんから、食べるなり捨てるなりして」
投げやりに言うと、元のようにケーキを袋に戻しリボンを巻きながら、先輩が表情を和らげた。
「ありがとう。遠慮なく、弟と妹のおやつにさせてもらう。……あ、僕一応先輩だからね」
礼儀や上下関係に煩いのは、応援団部だからか。
ちょっと面倒くさいし、試すようなことをされたことにもムカついている。
ただ、自分で調べてこれかもしれないと思っていた病名を言い当てられたことには興味があった。
「……俺ってやっぱそうなん? ……ですか? 不潔恐怖症ってやつ」
「僕は医者じゃないから、ちゃんと診断をつけたいなら受診をお勧めするよ。亡くなった父が医者だったから、医学書を読むのは好きなんだ。だから、市販のチョコは大丈夫だけど手作りは無理って症状は、それに近いと思ってる。人に触るのも苦手?」
俺は小さく嘆息し、頷いた。
「家の外だと、つり革とかドアノブとかも苦手。ただ、そういうのは触ってる間は気持ち悪いけど、手を洗えばしばらくしたら気にならなくなる。あと、除菌シートで拭くとか……」
「うーん」と唸って先輩が腕を組む。
「やっぱり、強迫性障害の可能性は高いんじゃないかな。専門医を受診してみたらどう?」
「……親に……知られたくない……」
なんとなく、俺がこうなった原因は母親にあるように思える。子供の頃、俺はいくつか食べ物のアレルギーがあって、買い物の際、母親はいつも事細かく食品成分をチェックしていた。喘息の気もあり、家の中は埃一つないよう磨き上げられていて、一時期は母親が神経質になり過ぎて父親ともしょっちゅう口論になっていた。
成長するにつれアレルギーがなくなり、喘息の発作も起こさなくなってようやく家の中がギスギスしなくなってきたのに、俺に病名がつけば、またその頃に戻りそうで嫌だった。
「じゃあさ。素人知識でいいんなら、僕が君のリハビリに付き合うよ。そのかわり、君に一つ協力してほしいことがあるんだ」
「協力? って何?」
「まずはそのタメ口を改めるところからだね。団部じゃありえないよ」
「団部……ですか?」
急にニコニコと満面の笑みを浮かべた先輩に嫌な予感がする。
「潔癖症を治したいのなら、君は応援団部に入るべきだ! この汗と涙にまみれた団長服を着ることこそが、リハビリの最終目標だよ!」
「は…………はあっ!?」
俺は顔を歪め、悲鳴にも近い大声を上げたのだった。
人気のない体育館裏は昼休みでも陽が当たらず、寒々としている。
俺を呼び出した隣のクラスの安藤花恋は、現れたときから気温とは裏腹に顔を真っ赤に染めていた。
紙袋を持つ手を落ち着きなく擦り合わせる彼女の後方――体育館の壁際では、彼女と同じ毛色の派手めの女子たちが身を潜め、こそこそとこちらを窺っている。おそらく安藤の付き添いだろう。
彼女たちのいる場所は地面に陽が差しており、ここよりはずっと暖かそうに見える。
(俺も早くあっち行きてぇ……)
寒さと沈黙に耐えかね、そんなことを思い始めた頃、ようやく蚊の鳴くような声が聞こえてきた。
「一条君、今、彼女いないって聞いたから……。あの……、私、お菓子作りが趣味で……」
(……マジか)
お菓子作りが趣味――その言葉を聞いた瞬間、元々気乗りしなかった俺のテンションは見事なまでに急降下した。
表情筋に力を入れて平静を装いながら、遠くに向けていた視線を正面の女子に戻す。
彼女とは選択授業が一緒になるくらいで、入学以来一度もまともに話したことはない。クラスのお調子者の上野が「学年で断トツ可愛い」と騒いでいて、名前だけは知っていた。 確かに、長い睫毛に縁取られたくっきりとした二重の瞳は目力があり、上野が言うように「アイドル級」と言えるのかもしれない。
たいていの男子は、彼女のような一軍女子に呼び出されたら、舞い上がるのではないだろうか。
かく言う俺――一条颯真も、好意を寄せられること自体はやぶさかではない。――が、それも、彼女の言葉を聞くまでのことだった。今はここにきた後悔がじわじわと胸に広がりつつある。
「これ、ガトーショコラ。私が作ったの。迷惑じゃなかったら、もらってください! それで、よかったら……まずは友達からでいいので、仲良くしてもらえたら嬉しいです!」
ひと息に言い終えると、ゆるくウェーブした栗色のセミロングを揺らし、安藤がファンシーにラッピングされた紙袋を差し出してきた。
(ガトーショコラ……)
紙袋と、俯いたままの彼女の顔を交互に見やる。
できることなら受け取りたくない。でも、バレンタインの今日、すでに他の女子からチョコを受け取っている手前、彼女だけ断るわけにもいかない。もらっておいてこっそり捨てる、はありだろうが、それはそれで心が痛む。
「受け取る」「受け取らない」の間でメトロノームのように気持ちが揺れ、その場に立ち尽くす。
「……手作りって……自分で作ったの? すごいね」
間を持たせるためだけの質問は、しかし逆効果だったようだ。
パッと上げられた安藤の顔には、ありありと期待が浮かんでいた。
「慣れたら簡単にできるよ。他にもたくさん得意なお菓子あるから、また作ってこようか?」
「あ、いや、俺……、実は甘いものが苦手で……」
「えー……そうなの?」
一瞬だけ悲しげに視線を伏せた安藤は、すぐにまた、カラコンの入った黒目勝ちの大きな瞳で俺を捉える。
「でも、このケーキ甘さ控えめで作ったから、ちょうどいいかも!」
よく言えば七転び八起き。悪く言えばKY。脈がないことを察していて、あえて気付いていないふりをしているだけかもしれないが……。
俺は一重の三白眼で目つきが悪いが、周囲からは「イケメン」と持て囃される部類に入る。高校一年にして180㎝を越える長身で、バレンタインは毎年それなりの数のチョコをもらっていた。
ただ、手作りに限らず他人から物をもらうこと自体苦手で、中学の頃は何度か受け取り拒否を試みて、目の前で女子に泣かれ余計に面倒なことになった。その苦い記憶を思い返し、ひとまず受け取ることにした。
「じゃ、せっかくだからいただくよ……ありがとう」
「日持ちしないから、できれば一番最初に食べてね。中に私のインスタ入れてるから。夜に味の感想聞かせて!」
後で上野にでもこっそり食べてもらおうと考えていた俺は、思わず変な声を漏らしそうになった。
小首をかしげ、上目遣いに秋波を送ってくる彼女は、最初のおとなしそうな印象から一転し、どうやら肉食女子だったようだ。告白してくる女子の大半はそのタイプだから、驚きはないが。
「……感想ね。オケ」
俺はさりげなく視線を逸らし、彼女の手に触れないよう下からそっと紙袋を受け取った。
俺が普通の男子高校生なら、安藤のような一軍女子に好意を寄せられて、彼女もいないのに断るという選択肢はなかっただろう。けど、俺は――。
「一条君、もし時間あるなら、今日の放課後……」
安藤が鼻にかかった声で何か言いかけたときだ。
「不肖、日向台高校応援団団長、香坂が~……三年生にエールを送りますっ!」
彼女の話を遮り、突如として大音声があたりに響いた。
「ヤダ、なにっ!?」
安藤がパッと後ろを振り返る。体育館の壁に身を潜めていた女子たちも、一斉に背後を振り向いた。
彼女たちのいる中庭の中央に、いつのまにか男子生徒が立っていた。広く影の落ちた体育館裏でそこだけ陽が当たっているのは、まるでスポットライトに照らされているようだ。
色落ちし、生地の擦り切れた裾の長い学ランには見覚えがある。
体育祭のとき、応援団部の団長が演舞の際に着ていた。ただ、あのときそれを着ていたのは、見るからに団部といった感じの、角刈りで体格のいい先輩だった。
今、その長ランを着ているというか、着られている感じの人は、細身で、少し明るい髪色の清潔感のあるショートヘア。遠目にもわかる色白の肌は、むさ苦しい格好とは真逆の透明感がある。冴え冴えとした冬の景色に溶け込んでいるかのような凛とした佇まいに、目が釘付けになった。
その白い手袋をした手が、シュッと音が聞こえてきそうな素早さで斜めに振り上げられた。
「フレー!」
放たれた声が、冷えた空気を震わせる。
指先までピンと伸ばし、もう片方の腕が同じ軌道を描く。
「フレー!」
先客がいることは知っていてそこに来ただろうに、彼一人が別の世界にいて、俺たちは最初からいないものとされているようだった。
「団部、昼休みまで練習してんの? ダサッ」
先ほどまでの甘えた声色を一転させ、安藤が小馬鹿にした口調で腐す。
団部というのは応援団部の略だ。真夏でも暑苦しい学ランを着こみ、人目をはばからず発声や演舞の練習をしている彼らは、ほとんどの生徒から変わり者扱いされている。
人がいるところで突然大声を出し一人で演舞しているのだから、確かに変わり者には違いない。ただ、安藤と違って、俺はそれをダサいとは思わなかった。
「面白そうだから、俺、あれ見て帰るけど、一緒に見る?」
そう言うと案の定、彼女は頬を引き攣らせた。
「わ……私は寒いの苦手だから、先に戻ろうかな……」
「そ。じゃ、これありがとね」
笑顔で軽く紙袋を掲げて見せ、ていよく彼女と付き添いの女子たちを追い払う。
俺は応援団部の彼の視界に入らない場所で、同じ掛け声とポーズを繰り返す彼を飽きもせず眺めていた。
近くで見ると、所作だけでなくその横顔の美しさにも目を奪われた。
体育祭で見たときは、遠目だったし、「暑い中ご苦労なこって」くらいにしか思わなかった。今は、その一挙一動や真剣な眼差しから目が離せない。一瞬、背筋を弓なりに反らせ、腹の底から発せられる声が、直接胸にビリビリと響いてくる。
動きが止まり、彼がふぅと肩の力を抜いたところで俺は声をかけた。
「あんた、甘いもん好き?」
子供の頃から黙っていても周りから声をかけられることが多く、必要がなければ初対面の人に自分から声をかけることはない。だから、声をかけたいと思ったことを自分でも不思議に思った。いないものとして扱われている自分を、彼に認識してもらいたかったのかもしれない。
演舞をしていたときの真剣さが薄れ、うろんな眼差しがこちらに向けられる。明らかに警戒されている気配を感じ取り、俺は取り繕うように慌てて言葉をつけ足した。
「さっきの子に手作りのガトーショコラもらったんだけど、俺、他人の手料理が苦手で……」
「君、一年だろ?」
こちらに歩み寄ってくる彼の咎めるような声色で、彼が先輩である可能性を失念していたことに気が付いた。
応援団部の長ランは代々団長に受け継がれるもので、三年が引退したこの時期にそれを着ているということは、彼はおそらく二年生だろう。学ランの襟章で学年がわかる。先輩に対してタメ語で話しかけたから、機嫌を損ねたのだと思った。
目の前に立った彼は182㎝の俺より少し下に目線があるから175㎝くらい。
意志の強そうなアーモンド形の二重の目をしていて、鼻筋も細く、近くで見ると更に中性的な美形だった。
「あ、すんません。一年です。先輩は二年……ですか?」
「いかにも。二年F組所属、香坂理一郎だ。僕に何用だ?」
見た目とはギャップのある古風な喋り方と名前に、思わず口元が緩みそうになる。――が、腹筋に力を込めて耐えた。
「俺は一年B組の一条颯真です。さっきの彼女に手作りケーキをもらったんだけど、俺、他人の手料理は食べれないんです。先輩、甘い物が好きなら、よかったらもらってくれませんか?」
紙袋を軽く掲げて困り顔を見せる。
声をかけたのは、それを口実に彼と話したかったからだ。知らない人間が作ったお菓子なんて、怪しすぎてもらってくれるはずがない。全く期待していなかったが、意外にも彼は迷うそぶりを見せた。
「甘い物は好きだ。だが、これは君が彼女にもらったものだろう? 彼女が君のために作ったものを、僕がもらうわけにいかない。手作りじゃなければ、食べられるのか?」
「まぁ……、市販のチョコとか、ケーキ屋で買ったケーキなら……」
ケーキ屋で買ったケーキも広く言えば他人の手作りだ。
ケーキの場合、自分で買ったものや母親が買うところを見ていたものなら抵抗なく食べられる。他人が買ってきた物だと、市販のお菓子のようにラッピングされているか箱に入ったまま渡された物ならOK。他人が皿に移し替えた物はNGだ。
その辺は感覚的なものだから、自分でも厳密に違いがわかっているわけではない。相手によっても「大丈夫」のラインが変わる。中学までは給食も食べていたが、それがなくなってから、そのラインが一層狭くなった。
「ふーん」と興味がなさそうに相槌を打ち、彼は紙袋の中からピンク色のリボンの巻かれた透明なOPP袋を取り出した。中には表面に粉砂糖がまぶされたパウンド型のガトーショコラが入っている。
「これ、手作りじゃないぞ」
「マジ?」
驚いて、またタメ語に戻ってしまった。
今度は特に気を悪くした様子はなく、先輩が淡々と話を続ける。
「手作りのガトーショコラは割れ目ができるのが普通で、こんなにフラットな表面にならない。それにリボンの巻き方や素材もどう見てもプロの仕様だ。袋に入った状態で売ってあるものを買ってきたんだろうな」
彼は手袋を外してリボンを解き、袋からケーキの端を押し出すと、一部をちぎり取った。ためらうことなく、男にしては小さめの口で切れ端に齧りつく。
咀嚼した瞬間、掴みどころのないような表情がふわっとやわらいだ。
「美味しい!」
アーモンド形の目が柔らかな弧を描き、薄い唇もしどけなく緩む。その変化に俺は軽く瞠目した。
あどけない表情は、媚びるような上目遣いで見つめてくる女子たちの何倍も可愛かった。見ているだけで、こちらまで相好が崩れそうになる。
生唾が口内に溢れてきて、ゴクリと音を立てて飲み込んだ。
「やっぱりこれはプロの味だ。こんな美味しいガトーショコラ、手作りなわけないよ。すごい有名店のものじゃないかな」
つらつらと褒め言葉を口にしながら、香坂がちぎったケーキの残りを頬張る。ケーキを抓んでいた指まで舐める彼を見て、今まで誰にも感じたことのない、胸の奥が甘くざわめくような落ち着かなさを覚えた。
「買った物なら……俺もちょっとだけ味見してみようかな……」
「そうするといい。これは絶対に一食の価値があるぞ」
端をちぎり取った残りを口元にずいと差し出される。
袋から端だけを押し出してちぎり取ってあるから、残りのケーキに彼の指は降れていない。でも、これまでなら、こんな汚い学ランを着ている人間が一部を触ったその残骸など、食べる気にはなれなかった。
ただ、今はなぜか抵抗なく――彼が差しだしてきたケーキの断面に齧りついた。
甘すぎない、ビターチョコのしっとりとした生地が口の中でほろほろと崩れていく。
美味しいには違いない。ただ、先輩の表情から期待していた程の衝撃はなかった。今まで食べたものと比べても、買った物か手作りかは俺にはわからない。
ゴクンと喉を鳴らして俺が飲み込んだのを見て、先輩がニヤリと片頬を上げる。
「まぁ、実際のところ、手作りか買った物かは僕にもわからないけどね」
考えていたのと同じことを言われて、思わずムセそうになった。
「はぁ!? おいっ、飲みこんじまっただろ!」
「飲み込んでしまったら大丈夫? 吐くほどではない?」
言われて、腹の辺りに意識を集中させる。
得体のしれないものを食べたかもしれないという気色悪さはあるが、吐き気が込み上げてくるほどではなかった。
「吐きたいほどじゃない……けど……。いやでも、あれマジで手作りなん?」
「だったら、不潔恐怖症の中でも軽いほうかもね。リハビリでなんとかなるかもしれない。気の持ちよう……って言っちゃ駄目なんだろうけど、このケーキはケーキ屋で買った物ってことにすればいいんじゃないかな? 素人が作ったにしては形も綺麗すぎるだろ?」
俺が納得のいかない顔をしていたからか、言葉を探すような間を置き、先輩が話を続ける。
「あの子、ネイルはしていなかった? 付き添いの女子たちも派手めな見た目だったからそうかもと思ったんだけど。お菓子作りが趣味の人は爪を短くしているのが基本だよ」
確かに言われてみれば、紙袋を差し出してきた手は、長い爪に淡いピンクのネイルが施されていた。
「結局のところどっちなんだよ?」と問い詰めたい気もするが、真実を知ることへの不安もある。そもそも真実は安藤しか知らないことだし、尋ねたところで正直に話すとも思えない。
「残りはいらんから、食べるなり捨てるなりして」
投げやりに言うと、元のようにケーキを袋に戻しリボンを巻きながら、先輩が表情を和らげた。
「ありがとう。遠慮なく、弟と妹のおやつにさせてもらう。……あ、僕一応先輩だからね」
礼儀や上下関係に煩いのは、応援団部だからか。
ちょっと面倒くさいし、試すようなことをされたことにもムカついている。
ただ、自分で調べてこれかもしれないと思っていた病名を言い当てられたことには興味があった。
「……俺ってやっぱそうなん? ……ですか? 不潔恐怖症ってやつ」
「僕は医者じゃないから、ちゃんと診断をつけたいなら受診をお勧めするよ。亡くなった父が医者だったから、医学書を読むのは好きなんだ。だから、市販のチョコは大丈夫だけど手作りは無理って症状は、それに近いと思ってる。人に触るのも苦手?」
俺は小さく嘆息し、頷いた。
「家の外だと、つり革とかドアノブとかも苦手。ただ、そういうのは触ってる間は気持ち悪いけど、手を洗えばしばらくしたら気にならなくなる。あと、除菌シートで拭くとか……」
「うーん」と唸って先輩が腕を組む。
「やっぱり、強迫性障害の可能性は高いんじゃないかな。専門医を受診してみたらどう?」
「……親に……知られたくない……」
なんとなく、俺がこうなった原因は母親にあるように思える。子供の頃、俺はいくつか食べ物のアレルギーがあって、買い物の際、母親はいつも事細かく食品成分をチェックしていた。喘息の気もあり、家の中は埃一つないよう磨き上げられていて、一時期は母親が神経質になり過ぎて父親ともしょっちゅう口論になっていた。
成長するにつれアレルギーがなくなり、喘息の発作も起こさなくなってようやく家の中がギスギスしなくなってきたのに、俺に病名がつけば、またその頃に戻りそうで嫌だった。
「じゃあさ。素人知識でいいんなら、僕が君のリハビリに付き合うよ。そのかわり、君に一つ協力してほしいことがあるんだ」
「協力? って何?」
「まずはそのタメ口を改めるところからだね。団部じゃありえないよ」
「団部……ですか?」
急にニコニコと満面の笑みを浮かべた先輩に嫌な予感がする。
「潔癖症を治したいのなら、君は応援団部に入るべきだ! この汗と涙にまみれた団長服を着ることこそが、リハビリの最終目標だよ!」
「は…………はあっ!?」
俺は顔を歪め、悲鳴にも近い大声を上げたのだった。
