真昼の夢を、君と歩く

 俺は、終わりのない夢の中にいた。
 足元には波紋ひとつ立たない鏡のような水面が広がり、見上げれば血のような赤色をした月が、冷たく俺を見下ろしている。

 「……夜月!夜月、どこだ!」

 叫び声は虚空に吸い込まれ、代わりに聞こえてきたのは、幼い子どもがすすり泣く声だった。

 その子どもは、十歳にも満たない頃の夜月睡だった。
 膝を抱え肩を震わせた姿。その背後には、歪んだ家の形をした影が、怪物のように覆いつくそうとしている。

 『誰も、本当の僕を見てなかったんだ』

 幼い夜月は、感情を失った瞳でこちらを見上げた。

 『いい子でいれば大丈夫だと思ってた。周りに合わせて、みんなが期待する顔をしていれば褒めてくれるって……いつか誰かが本当の僕に気づいてくれるって』

 水面に、歪んだ人影がいくつも浮かぶ。
 幼い夜月はその水面を右足で踏みつけた。瞬間、水しぶきが上がって弾け飛んだ。

 『でも、誰も来なかった。だから願ったんだ、僕だけの優しい世界が欲しいって。……そうしたら、ある夜から夢が僕に従うようになった。夢の中だけは、僕は自由で、思い通りにいられたんだ』

 それが、夜月の能力の正体――現実に絶望し、演じることに疲弊した心が作り出した、切実な防衛本能。
 夜月の能力そのものが、(あるじ)を現実へと奪われたことに激怒し、具現化したかのような――冷たい拒絶の響きだった。俺たちのこれまでの時間を嘲笑うような、不気味な声だった。

 『それを、お前が壊したんだよ。光』

 幼い夜月が指を差すと、現実での絆をすべて忘れたような、空虚な瞳で倒れる夜月睡の姿があった。
 思わず駆け寄ろうとした俺の前に、誰かが立ちはだかる。
 
 顔を上げると、それは俺の目の前に、もう一人の『俺』だった。
 皺ひとつない制服をきっちり身にまとい、冷めた目でこちらを見据えている。俺が、これまで保ってきた理想の優等生としての姿。
 
 「正しい高校生活を送らなきゃ、高瀬光。お前は完璧でいなくちゃいけないんだから」

 理想の俺が、まるで子どもに言い聞かせるように迫ってくる。

 「クラスメイトをサボりに誘うなんて、最低の行為だ。今のお前は壊れている。……元の『正しい俺』に戻るんだ」

 そうだ。彼に会うまでの俺は、波風一つ立てず、ただ正解だけをなぞって生きてきた。
 それが一番ラクで、安全だったから。

 「……黙れよ」

 俺は、自分自身の影を振り払うように叫んだ。

 「……確かに、お前の言う通りかもしれない。現実は寒くて、痛くて、思い通りにいかないことばっかりだ。……海は死ぬほど冷たかったし、サボった翌日の先生の説教は最悪だったよ!」

 脳裏に、あの海の景色がよみがえる。肺が痛くなるような寒風。指先の感覚がなくなるような波の冷たさ。けれど、その隣には、顔を真っ赤にして怒り、そしてお腹を抱えて笑った、生身の夜月がいた。

 「でも、あのときの夜月は(ここ)にはいないんだ……っ!」

 俺は、次第に闇の中に沈みかけている夜月の手を、力いっぱい掴んだ。

 「夢の中では、何を飲んでもお前の想像通りに甘いだけだろ?でも、俺が渡したコーラはぬるかったし、あのおじさんがおごってくれたココアは、熱すぎて舌が焼けそうだった。そうだろ!?」

 目を閉じたままの夜月に、俺は必死に呼びかけた。

 「寒くてふてくされてるお前も、冷たい水をかけられて本気で怒ったお前も『現実は悪くない』と言って笑ったお前も!全部、あっちの世界にしかいないんだよ!」

 そのとき、握った指先にわずかな熱が戻る。
 かすかな力を確かめるように握り返すと、青白かった頬に、ほんのりと赤みが差した。

 「……ひ、かる……?」

 閉じられていた瞼が震えて、ゆっくりと持ち上がった。

 「まだお前と一緒にハンバーガーを食べてない……寄り道をして、どうでもいい話をして、明日もまた学校で会いたい!……完璧な夢なんていらない。俺は不完全で騒がしくて、最高に面白いお前がいる現実を選ぶ!」

 俺の叫びに呼応するように、頭上の赤い月がヒビ割れて、砕け散った。
 そして、鏡のような水面から本物の波の音が聞こえ始める。

 砕け散った赤い月の光の中で、二つの影が向かい合っていた。

 ひとりは、幼い夜月。
 もうひとりは、今の夜月だった。

 『……現実に戻ったら、また傷つくよ。どうせひとりぼっちになる』

 夜月は、少しだけ黙ってから、首を横に振った。

 「確かに傷つくかもしれない。でも――僕には光がいる。もうひとりじゃない」

 そう言って、夜月は俺のほうを一瞬だけ振り返った。
 その瞳はさっきまでの空っぽな色ではなく、迷いながらも前を向く人間の目だった。

 「夢も現実も、どっちが上とかじゃない。でも、僕は光と一緒にいたいから現実を選ぶ。だって、夢の中じゃ本当にはつながれないって分かったから」

 幼い夜月は何かを言いかけて、そのまま目を伏せる。

 『……そっか』

 やがてその身体がさらさらとした粒になって、ゆっくりと静かに溶けていく。

 「今までありがとう……僕に、たくさん夢を見せてくれて」
 
 その言葉に、幼い夜月は小さく微笑んだような気がした。

 消えていく幼い自分自身を、まっすぐ見つめている眼差し。
 最後まで見届けた夜月の手を――俺は静かに握った。

 「(すい)、帰ろう」

 俺たちの、退屈で思い通りにならない――特別な毎日に。




 目を開けると、そこは文化祭の準備が終わり誰もいなくなった放課後の教室だった。
 窓の外には、紺青(こんじょう)色の空に一番星が輝いている。

 「……あ」

 隣を見ると、夜月が机に突っ伏したままゆっくりと顔を上げた。
 その瞳にはもう色のない冷たさはなかった。夕闇を映した、温かな茶色の瞳。

 「……光?」
 「……ああ。起きたか?睡」

 俺は自分の手のひらを見つめた。
 そこにはまだ、夢の中で睡の手を掴んでいた感覚が残っている。
 
 睡は少しだけぼんやりとしたあと、窓の外を眺めてから俺を見て――ふっと優しく微笑んだ。

 「……夢、終わっちゃったなあ」
 「残念か?」
 「……ううん全然。……なんだかすごくお腹が空いた」

 その一言に、俺は耐えきれず笑い出した。

 「奇遇だな、俺もだ……そうだ。ハンバーガー、今日こそおごってやるよ」
 「本当?セットで一番高いやつにするけど」
 「学級委員の財布を破産させる気か?」

 軽口を叩き合いながら、俺たちは誰もいない廊下を歩き出した。

 外はすでに街灯が灯り始め、アスファルトの上に黒い輪郭がくっきりと浮かび上がっている。
 俺の影と睡の影――それは触れ合うほど近く、決して混ざり合うことはない。

 けれどお互いの心には、鮮やかな色彩に満ちあふれていた。