演劇の脚本が完成し、文化祭の準備が本格化し始めた頃。
俺たちは準備のため、放課後クラスに残ることになった。劇に使う舞台装置や小道具、衣装などを自分たちで準備するためだ。
初めは夜月は自分がどうクラスメイトに受け入れられるのか、そればかりを気にしていた。何度も「帰る」という夜月の腕を掴んで、強引に輪の中に引っぱり込む。
「……僕は、その……器用じゃないけど、手伝うくらいなら」
教室がざわめいた。それは小さくも、決定的な変化だった。
モノクロだったクラスの風景に一滴の絵の具が落ちて、じんわりと色が広がっていくような。
劇の脚本のアイデアはほとんどが夜月のものだと言うと、みんなはさらに驚いた。
「あの話すごい面白かったんだよ!夜月が考えたの?」
「そういやこの前、高瀬と一緒に学校飛び出して行ったよな~!あれ最高だった!」
わいわいと集まってくるクラスメイトに、夜月は「別に大したものじゃ……」と言いながらそっぽを向く。どうやら褒められることに慣れていないらしい。
初めはぎこちなかったものの、だんだんと輪の中に溶け込んでいく姿を見て、俺は嬉しくなった。
俺が机で脚本や台詞のブラッシュアップをする傍ら、夜月はその隣で資材の段ボールを切り刻んだり、ペンキを混ぜたりしている。
「……ねえ、これって何色に見える?」
夜月が、バケツの中の青いペンキを指さした。
「青だろ?どう見ても」
「僕には、夜明け前の空の色に見える。……夢の中で最後に消える、寂しい青色」
夜月は、ペンキの中で刷毛でぐるぐるとかき回す。
「……最近さ、夢を見なくなったんだ」
「この前もそう言ってたよな」
「うん。……夜、目を閉じても真っ暗なまま。最初は怖かったんだ。あそこに行けばなんでも手に入ったのに、今は何もない暗闇が広がるだけで」
夜月の声は、少し震えていた。能力を失うことへの恐怖。それは、安全な居場所を失うことと同義だからだ。
「……でも」
夜月は指先に付いたペンキを見つめてから、俺のほうを見た。
「朝になって、学校に来て君がいるのを見ると、ああ今日も生きてるんだなって思うんだ。夢の中の甘い匂いより、ここのペンキの匂いのほうが、今は安心する」
心臓が、大きく跳ねた。
夜月が、俺を必要としている。いや《現実》を必要とし始めている。それは、俺が最初に押しつけようとした『正しい青春』よりも、ずっと脆くて、ずっと尊いものだった。
「……夜月」
夜月のペンキで汚れた手を、そっと握り込もうとして――ふと、我に返った。
「……お前、ペンキ塗るの下手だな。貸せよ」
手から刷毛を強引に奪い取ると、段ボールに色を塗っていく。
「やったことないんだから仕方ないじゃん!」
「じゃあ交代。夜月は、脚本の台詞の調整を頼む」
「ええー……僕、お腹空いた」
ペンを回しながら不満げな夜月に、俺は苦笑する。
「じゃあこれ終わらせたら、寄り道してコンビニでも寄るか。肉まんでも食おうぜ」
「分かった、約束だからね」
夜月が、ふっと表情を和らげた。
その笑顔はこれまでの作り物の夢よりも瑞々しく、俺の胸を震わせた。
世界は、加速するように色づいていく。
放課後の空気、コンビニの自動ドアの音、冷たい風の匂い。
すべてが、夜月と一緒にいるだけで、特別な意味を持ち始めていた。
文化祭の準備が佳境に入り、クラス全体が熱を帯びていく。
俺と夜月は、いつのまにかクラスの『名コンビ』として扱われるようになっていた。
脚本は完成し、夜月の幻想的な演出案はクラスメイトたちの手によって形になっていく。
夜月はもう、授業中に眠ることはなくなった。代わりに、放課後の教室で俺と一緒に課題に頭を悩ませ、たまに二人で寄り道をしてバカ笑いをする。
「ねえ。僕、明日もちゃんとここに来るよ」
駅前で別れる直前、夜月はそう言った。
「ああ……また明日な」
「また明日」
その当たり前すぎる約束が、今の俺たちにとっては、最高に贅沢な魔法の言葉だった。
けれど――楽しい時間が永遠に続くなんて、それは夢の中だけの話だったんだ。
翌日の放課後。
前日と同じように教室に残って文化祭の準備をして、そろそろ帰り支度をしようとしたとき。
俺は、見てしまった。
賑やかな教室の喧騒の外、ひとり廊下で立ち尽くす夜月の影が――ひと際長く伸びているのを。
「……夜月、どうした?」
振り返った夜月の瞳は、さっきまでの輝きを失っていた。
「ずいぶんと楽しそうだね」
その声は確かに夜月の声なのに、俺にはまったく違う声のように聞こえた。
「でも、もう全部おしまいの時間だ。お前が壊した《僕たち》の完璧な箱庭を、返してもらうよ」
「……お前は、誰だ……?」
思わずこぼれたつぶやきに、感情を失っていた夜月の瞳が一瞬、瞬いた。
「……逃げな、よ……光……」
次の瞬間、夜月の身体がふっと糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「夜月……っ!!」
駆け寄ろうとした俺の視界を、急激な暗転が襲った。
悲鳴を上げる暇もなく、楽しかったクラスの喧騒がガラスが砕けるような音と共に消え去っていった――。
そして俺が次に目を開けたとき、そこにあったのは、真っ赤な月が浮かぶ空だった。
俺たちは準備のため、放課後クラスに残ることになった。劇に使う舞台装置や小道具、衣装などを自分たちで準備するためだ。
初めは夜月は自分がどうクラスメイトに受け入れられるのか、そればかりを気にしていた。何度も「帰る」という夜月の腕を掴んで、強引に輪の中に引っぱり込む。
「……僕は、その……器用じゃないけど、手伝うくらいなら」
教室がざわめいた。それは小さくも、決定的な変化だった。
モノクロだったクラスの風景に一滴の絵の具が落ちて、じんわりと色が広がっていくような。
劇の脚本のアイデアはほとんどが夜月のものだと言うと、みんなはさらに驚いた。
「あの話すごい面白かったんだよ!夜月が考えたの?」
「そういやこの前、高瀬と一緒に学校飛び出して行ったよな~!あれ最高だった!」
わいわいと集まってくるクラスメイトに、夜月は「別に大したものじゃ……」と言いながらそっぽを向く。どうやら褒められることに慣れていないらしい。
初めはぎこちなかったものの、だんだんと輪の中に溶け込んでいく姿を見て、俺は嬉しくなった。
俺が机で脚本や台詞のブラッシュアップをする傍ら、夜月はその隣で資材の段ボールを切り刻んだり、ペンキを混ぜたりしている。
「……ねえ、これって何色に見える?」
夜月が、バケツの中の青いペンキを指さした。
「青だろ?どう見ても」
「僕には、夜明け前の空の色に見える。……夢の中で最後に消える、寂しい青色」
夜月は、ペンキの中で刷毛でぐるぐるとかき回す。
「……最近さ、夢を見なくなったんだ」
「この前もそう言ってたよな」
「うん。……夜、目を閉じても真っ暗なまま。最初は怖かったんだ。あそこに行けばなんでも手に入ったのに、今は何もない暗闇が広がるだけで」
夜月の声は、少し震えていた。能力を失うことへの恐怖。それは、安全な居場所を失うことと同義だからだ。
「……でも」
夜月は指先に付いたペンキを見つめてから、俺のほうを見た。
「朝になって、学校に来て君がいるのを見ると、ああ今日も生きてるんだなって思うんだ。夢の中の甘い匂いより、ここのペンキの匂いのほうが、今は安心する」
心臓が、大きく跳ねた。
夜月が、俺を必要としている。いや《現実》を必要とし始めている。それは、俺が最初に押しつけようとした『正しい青春』よりも、ずっと脆くて、ずっと尊いものだった。
「……夜月」
夜月のペンキで汚れた手を、そっと握り込もうとして――ふと、我に返った。
「……お前、ペンキ塗るの下手だな。貸せよ」
手から刷毛を強引に奪い取ると、段ボールに色を塗っていく。
「やったことないんだから仕方ないじゃん!」
「じゃあ交代。夜月は、脚本の台詞の調整を頼む」
「ええー……僕、お腹空いた」
ペンを回しながら不満げな夜月に、俺は苦笑する。
「じゃあこれ終わらせたら、寄り道してコンビニでも寄るか。肉まんでも食おうぜ」
「分かった、約束だからね」
夜月が、ふっと表情を和らげた。
その笑顔はこれまでの作り物の夢よりも瑞々しく、俺の胸を震わせた。
世界は、加速するように色づいていく。
放課後の空気、コンビニの自動ドアの音、冷たい風の匂い。
すべてが、夜月と一緒にいるだけで、特別な意味を持ち始めていた。
文化祭の準備が佳境に入り、クラス全体が熱を帯びていく。
俺と夜月は、いつのまにかクラスの『名コンビ』として扱われるようになっていた。
脚本は完成し、夜月の幻想的な演出案はクラスメイトたちの手によって形になっていく。
夜月はもう、授業中に眠ることはなくなった。代わりに、放課後の教室で俺と一緒に課題に頭を悩ませ、たまに二人で寄り道をしてバカ笑いをする。
「ねえ。僕、明日もちゃんとここに来るよ」
駅前で別れる直前、夜月はそう言った。
「ああ……また明日な」
「また明日」
その当たり前すぎる約束が、今の俺たちにとっては、最高に贅沢な魔法の言葉だった。
けれど――楽しい時間が永遠に続くなんて、それは夢の中だけの話だったんだ。
翌日の放課後。
前日と同じように教室に残って文化祭の準備をして、そろそろ帰り支度をしようとしたとき。
俺は、見てしまった。
賑やかな教室の喧騒の外、ひとり廊下で立ち尽くす夜月の影が――ひと際長く伸びているのを。
「……夜月、どうした?」
振り返った夜月の瞳は、さっきまでの輝きを失っていた。
「ずいぶんと楽しそうだね」
その声は確かに夜月の声なのに、俺にはまったく違う声のように聞こえた。
「でも、もう全部おしまいの時間だ。お前が壊した《僕たち》の完璧な箱庭を、返してもらうよ」
「……お前は、誰だ……?」
思わずこぼれたつぶやきに、感情を失っていた夜月の瞳が一瞬、瞬いた。
「……逃げな、よ……光……」
次の瞬間、夜月の身体がふっと糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「夜月……っ!!」
駆け寄ろうとした俺の視界を、急激な暗転が襲った。
悲鳴を上げる暇もなく、楽しかったクラスの喧騒がガラスが砕けるような音と共に消え去っていった――。
そして俺が次に目を開けたとき、そこにあったのは、真っ赤な月が浮かぶ空だった。
