真昼の夢を、君と歩く

 夜月と初めて会話した日の夜、俺は妙な感覚に襲われていた。

 ベッドに入って目を閉じても、なぜか意識が冴え渡っている。いつもならスイッチを切るように眠りに落ちるのに、体だけが眠って、頭は起きているみたいだった。

 気づくと、俺は長い通路のような場所に立っていた。
 学校の廊下のようで、何かが違う。壁は磨き上げられた鏡のように周囲を映し出し、自分の像が幾重にも遠くまで連なって見える。

 「……夢か?」

 俺は普段、ほとんど夢を見ない。
 夢は眠りが浅いときに見るものだと聞いて、夢を見ないのは深く眠れている証拠だと思っていた。

 「やっと来た。遅かったね」

 声がするほうを振り返ると、そこには夜月がいた。

 「なんで夜月が……?」

 よりにもよって、俺は夜月が出てくる夢を見ているのか?
 制服姿の夜月は不敵な笑みを浮かべて、空中に座っている。そう、夜月は椅子もないのに、まるで透明なクッションがあるかのように宙に腰かけていた。

 「君の夢があまりに退屈だったから、《入り口》を見つけるのが大変だった。もう少しマシな想像力はないわけ?花を咲かせるとか、空を飛ぶとかさ」

 俺の反応を面白そうに見下ろす夜月は、学校とはまるで別人だった。
 眠そうな目はぱっちりと開き、その瞳は見たこともないような深い瑠璃色に輝いている。

 「入り口……?どういうことだ、勝手に人の夢に入ってきたのか?」
 「勝手に?招いたのは君のほうだろ。今日あんなに熱心に僕を誘ったくせに」

 夜月は宙を歩くと、俺の目の前まで降りてきた。
 夢の中の彼は学校で見るよりもずっと鮮明で、圧倒的な存在感を放っている。

 「現実を生きろ、だっけ?……じゃあ、教えてあげるよ。君が信じてる現実がいかにつまらなくて、夢の世界が素晴らしいかをさ」

 そう言いながら、夜月が指をパチンと鳴らす。
 すると、空は鮮やかなエメラルドグリーンに染まり、真っ白だった床から一瞬にして青い百合の花がぶわっと咲き乱れた。

 「な……んだ、これ……」

 俺は息をのんだ。
 夜月がくるりと宙で指を走らせると、今度は虹色の魚が現れて目の前を泳いでいく。

 「これが、僕にとっての現実だよ」

 夜月は宝物を見せるかのように自慢げに微笑む。

 夢の中のはずなのに自分の五感が冴えわたっている。
 見たこともない色彩、嗅いだこともない甘やかな香り――その鮮烈さに目を奪われながらも、俺は同時に激しい恐怖を感じていた。

 この色を知ってしまったら。
 明日から、あのモノクロの現実でどうやって息をすればいい――?

 「人の夢を勝手に書き換えるな……っ!」

 思わず声を震わせると、夜月が俺の胸元に手をかざす。
 その指先が触れた瞬間、鮮やかな世界はガラスが割れるような音を立てて崩れ去った。



 俺は大量の汗をかいて、自分の部屋で飛び起きた。

 目覚まし時計は、朝の五時四十五分を指している。
 カーテンの隙間から見える外の景色は、いつものようにひどく白けて、ぼやけた灰色のままだった。

 アラームが鳴る前に目が覚めたのは、習慣のせいではなくあの夢の強烈な残像のせいだ。

 俺はベッドから出ると、制服に袖を通し、朝食を摂り、歯を磨く。鏡の中の自分はいつも通りの『適切な高校生』の顔をしていた。
 けれど、網膜の裏側にはあの咲き乱れる花々と虹色の魚たち、エメラルドグリーンの空が消えない染みのようにこびりついている。

 「……ただの、夢だ」

 自分に言い聞かせるように呟く。
 現実(ここ)にあるのは、駅前の雑踏と満員電車の揺れ、騒がしい教室――これがすべてだ。

 早く目覚めた分いつもより早い時間帯に学校に着くと、意識は勝手にあの席を探した。
 窓際の最後列――夜月睡はすでにそこにいた。
 
 昨日と違うのは、夜月が起きていたことだ。顎を手に乗せ、ぼんやりと窓の外を眺めている。

 ふと目が合った瞬間、少しだけ口角を上げてから口を開いた。
 
 ――よくねむれた?
 
 夜月の口がゆっくりと、一音ずつ区切るように口パクでそう言っていた。
 その目は、俺をからかうように細められている。
 
 その視線に耐えられなくなって、逃げるように自分の席に移動して座った。習慣になっているSNSのチェックも忘れて、無駄に教科書とノートを広げる。

 「おはよう高瀬。え、朝から勉強?真面目だなぁー」
 「……うるせえよ」
 
 友人の揶揄もまるっきり無視して数学の問題に向き合うも、問題文が記号のように目を滑っていく。頭の中では、夜月の言葉がリフレインしていた。

 『君の目は死んでるよ』
 『じゃあ、教えてあげるよ。君が信じてる現実がいかにつまらなくて、夢の世界が素晴らしいかをさ』

 「くそ、余計なお世話だ……」

 握りしめたシャーペンの芯が、パキリと音を立てて折れた。



 昼休み。授業中や休み時間は寝ている夜月が、ふらりと立ち上がって教室を出て行った。ずっと話しかけるタイミングを見計らっていた俺は、慌ててあとを追う。

 夜月は校舎の裏手にある古びたベンチに向かっていた。
 人気(ひとけ)もなく、校舎の影になって陽も当たらないその場所は、ひんやりとしていた。

 「僕に言いたいことがあるんでしょ?」

 あとをつけて来た俺を待ち構えていたかのように、夜月が言った。

 「……ああいうの、毎晩やってるのか?」
 「夢の話?うん、大体そうだよ」

 俺の単刀直入な問いにも、夜月は平然と答える。

 「現実より楽しいのか」
 「楽しいよ。余計なことが起きないし、なんでも思い通りにできる」

 そう言って夢の中で見せたように、パチンと指を鳴らして見せる。俺は一瞬、また極彩色の花が咲くのかと地面に目をやるが、そこは湿った土があるだけだった。
 夜月が薄く笑ったような気配がして、俺は眉をひそめた。

 「……勝手にあんなものを見せるな。あんな夢は……不健康だ」
 「不健康、か。君はその言葉が好きだね」

 夜月はベンチにもたれかかって、つまらなそうにあくびをした。

 「じゃあ聞くけど、何が健康なの?退屈な教室で周りの顔色を窺って、死んだ目をしながら将来のために今を殺し続けることが、君の言う健康?」
 「それは……社会に適応するために必要なことだろ。みんなそうやって、折り合いをつけて生活してるんだ」
 「その『みんな』だって、現実逃避しているじゃん」

 夜月は眠たそうにしながらも、俺の目を捉えている。

 「SNSを見てみなよ。加工された写真、切り取られた日常。あれだって現実逃避だろ?」
 「……違う。SNSは現実とつながるためのツールだ」

 そう言いながらも、俺は自問自答していた。
 自分に都合のいい情報だけ浴びて、理想の自分を演じて閉じこもる――画面越しに承認欲求を満たし合っているだけの関係。それが本当のつながりなのだろうか。

 「みんな、起きたまま夢を見てる。でも僕は脳内で完結させて、誰にも迷惑をかけてない。こっちのほうが、よっぽど健全で純粋だと思わない?」

 言葉に詰まる。夜月の言い分は屁理屈だ。
 そう分かっているのに、俺の中の空虚さが夜月の言葉に共鳴してしまう。俺が守ろうとしている「正しい現実」が、実は砂の城のように脆いもののように思えて仕方がない。

 「……夢はいつか覚める。そのときお前はどうするんだよ」
 「覚めなければいい。ずっと眠り続ければ、そこが僕の現実になる」

 夜月の瞳に、一瞬だけ深い孤独の色が混ざった。
 ずっと眠り続ける――夜月はこれまで、どんな暗闇にいたのだろう。何がきっかけで、そこまで現実を拒絶するほどの力を得てしまったのだろうか。

 今の俺には、そこまで踏み込む勇気も優しさもなかった。何よりその暗闇に触れるのが恐ろしかった。

 それでも、俺にはやらないといけないことがある。

 『夜月をこちら側に引き戻してやってほしい』

 俺は担任に夜月のことを頼まれている。
 一度引き受けてしまった以上、やらなければいけない――それが、正しい学級委員としての務めだから。

 「……分かった。俺がお前に教えてやる」

 俺は正面から夜月を見据えた。

 「教えるって何を?」
 「『正しい現実の生き方』だ。お前が逃げているこの現実が、夢なんかよりもずっと価値があるってことを証明してやる」

 夜月は呆れたように目を丸くし、それから喉を鳴らして笑った。

 「……優等生様直々に教育実習ってわけ?」
 「ああ、覚悟しろよ。お前の夢なんて、俺がぶっ壊してやるから」