真昼の夢を、君と歩く

 朝の駅のホームは、いつもと同じように混雑していた。
 さまざまな匂いと湿気が滞留した空気、行き交う人々の険しい表情。ホームに入ってきた電車を見つめながら、俺は小さく息をついた。
 夏休みが終わって二週間あまり。九月の朝も、これまでと何ひとつ変わらない。

 七時三十二分の急行電車。前から三両目のドア前。

 (たか)()(ひかる)、高校二年。
 俺の毎日は、完璧な既視感(デジャヴ)で構成されている。


 「おはよう」

 教室に入ると、適当なグループに適当な挨拶を投げる。自分の席に座り、スマホでSNSとエンタメニュースをチェックしながら、予鈴が鳴るのを待つ。

 成績は常に上位。学級委員らしく品行方正で、教師陣の覚えもいい優等生。
 友人もそれなりにいて、親や兄弟との関係にも不満はない。

 けれど――今日が昨日と同じで、明日もきっと今日の続き。
 目新しさも新鮮さもない。まるで誰かが書いた台本をなぞっているだけのような毎日。

 そんな色のない平坦な日々が、これからもずっと続いていくのだと思うと、言いようのない退屈さが俺の中の何かを削っていくような感覚があった。

 「おい高瀬、またあいつ寝てるぞ」

 そのとき、隣の席の友人が呆れたようにぼやいた。
 指をさした先、窓際の最後列。

 ()(づき)(すい)――一学期のゴールデンウィーク明けという、微妙な時期に転校してきた男子生徒。以来ほぼずっと、授業中も休み時間も机に突っ伏して眠っている。
 いつ学校に来ているのか、いつ帰っているのかさえ知らない。俺は起きているときの夜月の顔を、はっきりと思い出せなかった。

 「……まあ、別にいいんじゃねえの?」
 「学級委員のくせに、冷たいやつだなー」
 「別になりたくてなったわけじゃないけどな」

 俺はもう一度、夜月に目をやった。

 (あんなふうに堂々と寝られるメンタルがあれば、ラクだろうな)

 夜月を軽蔑しているわけじゃない。
 ただ、俺たちが必死に《現実》という名のゲームをプレイしている中で、一人だけコントローラーを置いて眠り続けている彼が不気味でありながらも、ほんの少しだけ羨ましくもあった。

 昼休み、俺は担任から進路指導室に呼び出された。
 何か注意されるようなことをしただろうか。内心緊張しながら古びたソファに座ると、担任は申し訳なさそうな表情で切り出した。

 「夜月のことなんだが」
 「……夜月、ですか?」

 その名前に、俺はわずかに眉をひそめた。

 「ああ。高瀬も知っての通り、夜月は授業の大半を寝て過ごしている。課題の提出も滞っているし、このままだと留年になる可能性が高い」

 担任は困ったように頭をかいた。

 「親御さんにも連絡は入れているんだが、少し複雑な家庭環境で……何より夜月本人が頑なでね。そこでだ、高瀬に夜月のフォローを頼めないだろうか」
 「え、俺がですか?」
 「ああ。お前は誰とでも分け隔てなく話せるだろう?同じクラスの学級委員として、声をかけてやってほしい」

 学級委員だから。またそれかと、俺は心の中でため息をついた。
 誰も立候補せず時間だけが過ぎていき、担任が苛立ってピリピリしだす空気。それに耐えきれずに、しぶしぶ手を挙げただけのことだ。正直、今は後悔している。

 平凡で波風の立たない毎日の中に、夜月睡という名の異物が入り込もうとしている。
 断ることもできたはずだけれど、俺は結局「分かりました」と答えた。今の自分に求められているのは、学級委員としての適切な行動のはずだからだ。

 「頼むな。夜月をこちら側に引き戻してやってくれ」

 引き戻す――その言葉に、俺は奇妙な違和感を覚えた。
 夜月がいる場所は、そんなに俺たちから遠い場所なのだろうか。



 放課後、俺はクラスメイトがいなくなるまで、黒板を消したり、掲示物を取り替えたりしながら時間を潰した。時おり「さすが学級委員」とか「真面目だねぇ」なんて声をかけられて「うるせえよ」と返す。

 そうしてひとり、またひとりと教室を去っていき、オレンジ色の西日が教室を照らし始めた頃。
 静寂に包まれた教室で、唯一、夜月睡の静かな寝息だけが聞こえる。相変わらず机に顔を伏せ、深い海の底に沈んでいるかのように眠っていた。

 俺は夜月の机の前に立ち、少しだけ躊躇してからその肩を揺さぶった。

 「夜月、起きろ」

 もぞり、とわずかに身じろぎし、ゆっくり、本当にゆっくりと夜月が顔を上げた。
 乱れた黒髪の間から覗いた瞳は寝起きのせいか潤んでいて、夕陽が反射して印象的な色を帯びていた。

 「……だれ」
 「高瀬だ。学級委員の」
 「……ああ、優等生様か。……なんか用?」

 夜月は面倒そうに目を細め、再び腕の中に顔を埋めようとした。

 「担任に夜月のことを頼まれた。このままだと進級が危ういってさ。明日から勉強を見てやるから、朝、三十分早く来てくれないか」
 「……断る」
 「このままだと本当に留年するぞ?」
 「それでもいい」

 夜月は煩わしそうに身体を起こして、窓の外を眺める。

 「僕には夢がある。それで十分だ」
 「夢?」

 咄嗟に将来の話だと思った。進路とか職業とか、そういう文脈の。

 「目標があるなら、なおさら勉強しないとまずいだろ」
 「違う。僕が言ってるのは、眠っている間に見る夢のこと」

 夜月はそこで初めて、目を輝かせながら微笑を浮かべた。

 「そこは自由で美しくて、この退屈な世界よりもずっと楽しいんだ」

 冗談や誇張が混じっていないその言葉に、俺は絶句した。まるで子どもみたいな、あまりにも幼稚で不健康な逃避。

 「そんなの現実逃避じゃないか、不健康だろ。ちゃんと現実を生きなきゃダメだ」
 「現実を生きるってどんな?」
 「どんなって……せめてもう少し普通っていうか、まともな高校生活を送らないと……」

 自分で言いながら、だんだんと言葉が尻すぼみになっていくのが分かった。
 夜月はそんな内心を見透かしたかのように鼻で笑うと、椅子に深く背を預けて俺を見た。その瞳が、まっすぐに俺を射貫く。

 「君の目は死んでるよ。退屈に殺されそうな目をしてる」

 心臓が、ドクンと嫌な音を立てた――図星だった。

 「……夢なんて、起きたら覚めるだろ」

 俺は吐き捨てるように言った。
 
 俺は毎日をちゃんと過ごしている。
 夜月みたいに、寝てばかりで現実逃避なんてしていない。クラスの輪から外れず、周りの空気を読んで、やりたくもない委員や夜月の面倒だって引き受けている。

 「現実は変えられない。だから適応して生きていくしかないんだ。それが正しい生き方だろ」

 夜月はそれ以上、何も言わなかった。
 立ち上がって鞄を肩にかけると、去り際に俺を一瞥する。

 「君の言う現実は、僕にとってはただの悪夢だよ。……じゃあね、学級委員様」

 夜月は俺の横を通り抜け、教室を出て行った。
 夕闇が迫る教室に残されたのは、ひどく混乱した俺だけだった。