恋人は、あまえた(元)優等生。



実際、これぐらいどうってことない。月仁の力になれたならそれだけで嬉しいから。

俺が譲らない姿勢を見せたせいか、月仁は困ったように笑った。

「そうだった。本当にありがとな」

電車のドア付近に立ち、互いに笑い合う。
ただそれだけのことで心が温かくなった。

……そうだ。俺はずっと、こういうささいなことで彼と笑いたかったんだ。


薄暗くなった空を見上げ、石畳の歩道を進む。駅から歩いて五分ほどのところに、月仁のお兄さんが暮らすマンションがあった。
エレベーター前で別れようと思ったのだが、何故か中に引っ張られた為一緒に乗り込む。

それで今度こそドアの前で別れようとしたんだけど。

「上がっていけよ」
「え! いやいや、いいって!」

月仁は荷物を中に入れると、ドアを開けたまま呟いた。
「突然過ぎて悪い。駄目」
「俺だっていつも突然お前の家に行ってるだろ」
「俺の家は店やってるから……ほら、お前のお兄さんに許可とってないし」
「兄貴の部屋に入らなければ大丈夫って言われてる。それに帰ってくるとしてもいつも夜中だから」
な? と言われ、手を差し出される。
「……」
迷惑じゃないか不安だ。月仁のことだから、気を遣ってる可能性もある。
でも遠慮はしない、って言ったばかりだし。……ん?

「深白。遠慮はしない、だろ?」
「あ。ハイ……」

こわごわお辞儀して中へ入る。
遠慮は禁止、って……こういう時に使われると逆らえないな。

ひとつ学んだところで、初めて月仁のお兄さんの部屋にお邪魔した。
綺麗に整頓されていて、普段からしっかり掃除をしてる印象だった。男性の一人暮らしでここまで清潔感をキープできてることは、すごく尊敬する。

「チリひとつない……素敵……」
「キッチンは特にすごいよ」
「ほんとだ、ピカピカじゃん! グリル使ったことあんの? 有り得ないぐらい綺麗。匂いもないし!」
「さぁ……とりあえず落ち着け」

月仁にやんわり宥められ、我に返る。
いかんいかん。自分の家の台所はすごいことになるから、人様の台所事情が気になってしまった。
買ってきた物をテーブルに出し、月仁に教えてもらいながら戸棚に仕舞っていく。

「これで大体のものは揃ったよ」

袋を畳んで、月仁はお湯を沸かした。
「ほんとにありがとな。何から何まで」
「全然! 何か俺も引っ越ししたみたいで楽しかったよ」
笑って言うと、彼は二人分のマグに珈琲を淹れた。ミルクと砂糖を入れるか聞かれたので、どっちもお願いする。

ダイニングテーブルで向かい合いながら、温かい珈琲を飲んだ。

「あー、美味い」
「はは、良かった。あ、お菓子も買っといたから」

月仁は意外と甘いものが好きらしく、クッキーやバームクーヘンを出してくれた。

「……俺は向こうに家があるから、引っ越しってほどじゃないだろ? 今はただの居候だけど、それでも大変なんだな」
「やー、月仁だって充分大変だよ。むしろひとりで来てんだから、この先何があっても楽勝だと思う」
「手続きしたわけじゃないから、全然できないよ」

彼は笑いながらバームクーヘンを切り分けた。
フォークを渡されたので、有り難く一切れ貰う。砂糖が上に乗ってるからとても甘かった。

「……俺は、引っ越しはあまり良い印象ないかも。月仁と離れるきっかけだし」

フォークをお皿に置き、瞼を伏せる。鍵をかけている頑丈な箱から、古い記憶を少しずつ取り出した。
「あ、親は何も悪くないけど! 東京で店出すのは夢だったみたいだし、二人が喜んでるのはすごく嬉しかったから」
ここまで育ててくれた両親には感謝しかない。そう零すと、月仁も深く頷いた。
「親が嬉しそうにしてると、普通にこっちも嬉しいよな」
「そーそー」
珈琲を飲み、手持ち無沙汰の指を折ったり曲げたりする。
そして、ずっと気になっていたことを尋ねた。

「月仁は……俺がいなくなって、悲しいと思うことあった?」
「当たり前だろ。ずっと一緒だったんだから」

月仁は半分呆れたように肩を竦める。

「心の中に穴ができたみたいだった。片割れぐらいに思ってただろうから、当然かな」
「片……相棒ってこと?」
「相棒……んー……まぁ、そうかな」

指先が触れる。本当に少しだったけど、何かがチリチリと痛んだ。
月仁は長いまつ毛を揺らし、目元に影をつくった。

「ずっと一緒にいるもんだと思ってた」

静かな部屋の中で、時針だけが聞こえる。時を刻む音は、俺達の間に生まれた空白を埋めていくようだった。

「離れるなんて夢にも思わなかった。ガキって単純だよな」
「それは……仕方ないよ。俺だって同じこと思ったし」

そうだ。大人になっても一緒だと思っていた。
でも現実は違うと知って……あの時、絶望も同時に覚えたんと思う。

世界で一番大事な月仁から離れて、知ってるひとが誰もいない土地にいく。その絶望っぷりと言ったら、子どもであることを引いてもお釣りが来そうだ。

「俺、あの時は人生終わると思ったもん」

絶対笑われると思って言ったけど、月仁は存外真顔で返してきた。

「俺もだ」