理解の外側


 最初に失われたのは、時間だ。

 何時なのか、朝なのか夜なのか、それを考える必要がない、という状態がまず理解できない。

 目を開けると、私は道の真ん中に立っていた。

 舗装されていない地面。
 土と砂利が混ざり、靴底に、微かな抵抗が伝わってくる。

 音が、ない。

 正確に言えば、無音ではない。
 本来そこにあるはずの音が、すべて削ぎ落とされたあとの空白。

 車の音がない。
 電車の唸りも、遠くの機械音もない。

 代わりに沈黙が濃度を持って存在している。

 私は、その中に立っていた。

 家屋の形は分かる。
 道の幅も、看板の文字も、読める。

 それなのに、意味だけが、どこにも結びつかない。

 ——これは、理解の外だ。

 比喩ではなく、感想でもなく、
 ただの事実として、その言葉が浮ぶ。

 そのときはまだ、
 これが戦時中の日本か、はたまた似通った世界なのか知るよしもなかった。


見られていない感覚

 歩き出すと、自分の足音だけがやけに大きく聞こえる。

 数人の人間とすれ違った、なのに

 誰も、私を見ない。

 視線が合わない、というより
 最初から、視界に入っていない。

 異物だ、という感覚がザワザワと背筋を這う。

 だが、それは排除の気配ではない。

 もっと無関心で、もっと徹底した、
 世界の仕様のようなもの。

 声をかけようとして、やめた。

 何を聞いても、
 答えが共有されないと、直感したから。

 共有されない質問は、
 この世界では、危険だ。


作家という男

「君、迷っているね」

 その声だけが、私を世界に引き戻す。

 振り向くと、痩せた男が立っていた。

 着物はくたびれていて、背筋は少し曲がっている。
 年齢は分からない。

 だが、目だけが、妙に澄んでいて

 この世界で、初めて焦点の合った視線。

「……ここは、どこですか」

 私がそう尋ねると、男はすぐには答えてくれない。

 少し考え、困ったように笑う。

「答えにくい質問だ」

 拒絶ではない、
 回避でもない。

 その言い方に、なぜか安心する。

「正確に言えば、日本だ。
 正直に言えば、今は、知らない方がいい時代だ」

 私は、その言葉を完全には理解できなかった。

 だが、嘘ではない、そう直感する。

 理由は分からない。

 分からないことが、
 ここでは自然だった。

 男は、自分のことを作家だと名乗る。

 誇るでもなく、卑下するでもなく、
 それは、彼にとって単なる属性のようだった。

「……軍人では、ないんですね」

 口に出してから、失礼だったかと思い直す。

 作家は、一瞬だけ視線を伏せ、

「その質問には、答えない方がいい」

 忠告だ。

 その瞬間、私は悟った。

 この世界では、
 答えないこと自体が、意味を持つ。



避難所

 彼の部屋は、静かで

 紙の匂いと、薄い煙草の残り香。
 机の上には、書きかけの原稿が積まれている。

 文字がある。

 それだけで、私は少し安心した。

 作家は、私に多くを尋ねなかった。

 どこから来たのか。
 なぜ、ここにいるのか。

 そういう問いを、意図的に避けているようで。

「分からないことは、分からないままでいい」

 その言葉は、この世界で初めて、
 私を縛らなかった。

 私はその瞬間、彼を信じた。

 ——この人は、私を説明しようとしない。

 それは、深い安堵だ。



招集されない理由

 数日後、私は気づく。

 街から、男たちが消えている。

 朝、見かけた人が夕方にはいない。
 翌日になっても、戻らない。

 それが、日常だった。

「……あなたは、行かないんですか」

 ある夜、私はそう尋ねる。

 作家は、原稿から目を離さずに答えた。

「行かない、ではなく
 行けない理由がある」

 それ以上は語らず、

 私は、それを追及しなかった。

 知ること自体が、
 危険になる気がしたから。

 その沈黙が、
 私たちの最初の共犯だった。



理解と違和感

 夜になると、作家はよく話をしてくれた。

 言葉のこと。
 書くこと。
 それでも救われない人間の話。

 私は、理解しようとした。

 理解できることが、とても嬉しかった。

 ——私は、まだ私でいられる。

 彼の言葉を通して、
 この世界が、少しだけ形を持つ。

 その感覚に、私は気づかぬうちに依存していく。



靴音

 その夜、外で靴音がした。

 重く、規則正しい足取り。

 迷いのない歩き方。

 私は、なぜか分かった。

 ——これは、理解しようとしない人間の足音だ。

 作家は立ち上がり、私に言う。

「君は、ここにいろ」

「……危ない人ですか」

「危ないのは、人じゃない」

 少し間を置いて、彼は続ける。

「役割だ」

 戸の向こうから、低い声が響く。

「憲兵だ。
 開けろ」

 その瞬間、私はまだ知らない。

 この扉を境に、
 私と作家と、
 そして名も知らぬ男との関係が、
 静かに、決定的に歪み始めることを。



【第一話・終】