文芸部の一匹狼は、美術部の王子様を放っておけない


 美術室からは、粘土や絵具のねばついた匂いが漏れ出ていた。

 闇が深くなった放課後。目がくらむような室内の蛍光灯の明かりとは対照的に、左神甲一(さがみこういち)の佇む廊下は薄暗い。

 左神は、ドアに嵌められたガラスから、窓際の椅子に座してキャンバスに向かっている同級生――右堂親行(うどうちかゆき)の後ろ姿を見ていた。真っ白いワイシャツに、パーマのかかった茶髪。わきに寄せた机には、油絵の具のチューブと木製のパレット、数本の絵筆が乱雑に配されていた。

 右堂はパレットの上で混色した色を絵筆で取って、毛先を一筆一筆置くようにキャンバスに乗せた。
 キャンバスに描かれているのは、暗がりにいる横向きの少女が、手燭に乗せた蝋燭を見つめている風景だった。手元の柔らかい火に、少女の幼い面立ちがぼうと照らされ、温かみがありながら哀愁を感じさせる、――左神を静かに圧倒するような絵だった。

 右堂は蝋燭の火の周りに、薄水色や赤色、琥珀色などを重ねていく。大胆な絵筆の動きに反して描かれていく絵は繊細な形と色合いを見せ、左神の視線を逃がさなかった。

 手の動きに合わせて、右堂の色素の薄い髪がふわふわと揺れる。パレットを眺める彼の横顔は、教室の後ろに並べられているギリシアの石膏像よりも、はるかに美しかった。
 なめらかに筆が動く。


 ――唐突に、その双眸がこちらを向いた。


 左神は、予想外の事態に息を呑んだ。
 右堂の大きな瞳が瞬きを止めて、不思議そうに左神を見つめる。そして、絵筆を置いて立ち上がり、ドアのほうへ近づいた。
 己の失態に舌打ちをしそうになった左神が唇を噛んだとき、がらりとドアが開いた。

「やあ。君、ヒダリの人だろう?」

 目前に立った右堂は、薄桃色の唇を三日月に曲げて、猫のように目を細めた。 男のくせに甘過ぎる声に、左神は砂糖菓子を丸のみしたような胸焼けを覚える。
 左神は眉根を寄せて、見つめてくる薄茶の瞳から視線を逸らした。

「ふざけた呼び方やめろ。友達でもねえくせに」

「そうだけど、面白いじゃないか。同学年に右と左がいるなんてさ」

 左神と同じくらいの長身を戸口に預けて右堂が微笑む。ワイシャツの胸元には血のように赤い絵の具が擦れていた。
 右堂が笑みを崩さぬまま左神にウィンクを投げかける。

「それに、見惚れていたんだろう? 僕が絵を描く姿に」

 図星をつかれて、左神は険のある視線を右堂に向けた。

「男に見惚れるなんて気色悪ィ。俺はてめえみたいなオカマ野郎が大嫌いなんだよ。金輪際、俺に関わるんじゃねえ」

「堅物だなあ。まあ、いいさ。縁があればまた話す機会もあるだろう。今日のところはこのへんにしておこうじゃないか。さあ、森へお帰り」

 右堂が柔和に笑い、家路に案内するような仕草で丁寧に手のひらを上に向けた。
 左神は拳骨をみまいたくなったが、利き手で持っていた原稿の束のお陰で、――幸いにも――踏みとどまった。

 これ以上話していると、下校のための体力まで奪われそうな気がして、左神は右堂を一睨みしてからその場を後にした。足早に、文芸部が部室として使っている空き教室まで降りて行く。
 すでに誰も居残っていない教室で、左神は帰り支度をしながら先ほど見た絵のことを思い出していた。

 少女の見守るような眼差しと、ぼんやりと辺りを照らす蝋燭の灯り――。

 脳の奥がじわじわと熱くなっていくような感覚に、額を抑えてゆっくりと息を吐いた。じりじりと焦げるような思考を止めることなくコートを羽織り、校舎を出る。

 自転車で川沿いを走ると、冬の向かい風で冷えた頭が、パズルのように物語を生み出し始める音がした。