白玲山は、神のおわす山。白鳥の化身である麗しい御方、鵠様の御座所。龍脈の要のひとつでもあり、東雲国の守護に欠かせない聖なる地。
その白玲山の奥深くに、鵠様に仕える者たちが暮らす村がある。その名を、水鏡郷。
澄んだ水と豊かな実りに恵まれたその村では、鵠様に歌舞や祈りを捧げながら、誰もが和やかな日々を送っている。
常に雪に彩られ、銀に輝く白玲山を仰ぎ見る人々は、口々に噂する。
あの美しい山の主は、やはり美しく清らかな神に違いない。その御方の庇護された村もまた、俗世の欲望や争いとは無縁の理想郷なのだろう、と。
* * *
白玲山の嶺を赤く染めていた夕日が、山の端に沈んで消えた。いつもの水鏡郷の夜は早く、闇の帳が降りた後は、村人たちはみな、それぞれの家で静かに過ごすものだ。
けれど、冬が終わり、ようやく凍りついていた水の流れが緩み始めたこの春の夜は、違う。
郷のあちこちに焚かれた篝火が、満天の星の煌めきを圧倒する。
真昼のような明るさが浮かび上がらせるのは、山肌に点在する鵠の寝殿や、神楽の舞台、巫女や神官の住まいに、神具を納める宝物殿。さらには、それらを繋ぐ渡り廊下。
いずれも神山に相応しく磨き上げられ、篝火によって神々しく輝いている。
日が落ちてなお、郷は活気に満ちていた。慌ただしく渡り廊下を行き来する村人たちは、休む気配もなく働きながらも明るく笑い合いっている。それは、ただひとり温かい屋内を離れ、寒風の中を洗い物をしに出た少女――瑞穂も同じだった。
冴えて澄んだ夜空に笙や龍笛、琵琶や鼓の調べが響く。
「越天楽……華やかで、とても素敵」
婚礼などの慶賀の席で演奏される曲名をつぶやいて、瑞穂は微笑んだ。
春といっても、山深い水鏡郷では夜はまだまだ凍てつく寒さが忍び寄る。
屋根で守られた渡り廊下から離れ、寒風にさらされる小道を降りる彼女の唇は青ざめて、吐いた息も白く曇っている。薄い着物一枚では冷気をふせぐには心もとないし、洗い物の食器を詰め込んだ桶を抱える瑞穂の指も、重さと寒さによって雪のように白い。
(動いていれば、大丈夫。凍えたりしない)
自分に言い聞かせながら、瑞穂は沢を目指して夜の道を弾むように駆ける。それは、身体を凍らせそうな冷気に抗うためだけではない。抑えきれない嬉しさと喜びの表れだった。
(鵠様のご結婚! 郷から珠の巫女が出るなんておめでたいわ……!)
東雲国は、八百万の神々に守られた国。
人は神に祈りを捧げ、神は歌舞などの供物を良しとすれば、人の願いを叶えることもある。それは、近代化が進み、都に電気の灯りがともり、山や谷の間を鉄道が走るようになった今でも変わらない。
人と神の間を繋ぐのが、楽巫女と呼ばれる存在だ。
神聖な歌や舞によって、神々に人の祈りを届ける。神々から預かったご意志やお言葉を、誤りなく人に伝える――正しく強く清らかな心を持ち、しかも厳しい修行を続けた者たちは、神々に愛され、人々には尊敬される。
中でも優れた楽巫女は、伴侶として神に望まれることもある。
神と人の世界は本来は交わらないところ、それでも傍に置きたい。その歌や舞や祈りを、自分だけに捧げて欲しいと希うのだ。
それほどに愛される存在を、珠の巫女、と呼ぶ。特別に手の中に置きたいと思うほどに愛された掌中の珠、ということだ。
このたび、水鏡郷では、とある巫女が山の守り神である鵠の《掌中の珠》に選ばれた。
その巫女――鈴香は、声も姿も美しく、舞う姿は天女が天から降り立ったかのように軽やかでしなやかとの評判高い少女だった。
神の伴侶に足る楽巫女も、そうそう生まれるものではなく、珠の巫女に選ばれるのはたいへんな名誉。だからこそ水鏡郷は祝福に沸き、村を挙げての婚礼の支度に慌ただしくしているのだ。
もちろん瑞穂も、婚礼を心から喜んでいる。
(鈴香様なら、きっと鵠様を癒して差し上げられるわ)
白鳥のごとく清らかな美貌の鵠が、同じく美しい鈴香に優しく微笑みかける姿は、それはもう夢のように綺麗でお似合いなのだ。その場所にいるのが自分だったら、なんて、瑞穂は欠片たりとも思わない。……そんなことは、彼女の立場では考えることさえ許されない。
瑞穂に食器を渡した者も、ひどく忌々しげな顔で彼女を睨みつけたものだった。
『めでたい式の準備に、お前が関わることができると思うな。……罪人の娘め』
その言葉にまったく異存がないことを確かめるために、瑞穂は無言でそっと目を伏せて、寒い中に薄着で出てきたのだ。
そう、彼女にできるのは、ただ、婚礼が成功するように陰ながら祈ることだけ。人目につかないところで水仕事に励み、鵠の寝殿の隅々までを掃き清め、額に汗を流して煤まみれになって竈に薪をくべる――それくらいだ。
「でも。鵠様のために、できることがあるのは光栄だわ」
自分に言い聞かせるように、どこまでも明るくつぶやくうちに、瑞穂は沢のほとりにたどり着いた。
ひざまずいて凍てつく水に手を浸すと、あかぎれのできた手が、無数の針で刺されたように痛む。でも、ためらっている暇はない。寒さで指が動かなくなる前に、洗い物を終えてしまわなければ。
「白玲山の雪解けの水よ、鵠様のご結婚をお祝いして。婚礼のために働くみんなのために、使わせてちょうだい」
雪解けの冷たい流れに、歌うように語り掛けるのは、楽巫女の真似ごとに過ぎない。瑞穂は、神に捧げる歌も舞も習ったことがない。ただ、母の教えを守っているだけだ。
『東雲は、八百万の神々に守られた国。空に地に川に、どこにでも神はいらっしゃる。だから、感謝と礼儀を忘れてはいけないのよ』
どんなささやかな小川の神様でも、瑞穂「なんか」の歌を喜ぶとは思えないのだけれど。
でも、語りかけると水の冷たさが和らぐ気がするから、「ご挨拶」には意味があるはず。そう、瑞穂は信じている。
(それとも、白玲山も鵠様をお祝いしているのかしら。だから、心良く手伝ってくれていのる……?)
鵠は、十数年前に「とある事情」で伴侶と見込んだ楽巫女を喪っていた。その時は白玲山も雪に閉ざされ、麓の村々まで不作に見舞われたものだと聞いている。主である神の心痛を、白玲山も案じていたのかもしれない。
神山そのものにも祝福される結婚を見ることができるのだ、と思うといっそう嬉しくて、瑞穂は鼻歌を歌いながら洗い物を片付けた。
「さて、と――急がないと」
着物の裾で手をぬぐった瑞穂は、重い桶を抱えて足を急がせた。早く厨房に返さないと、怠けたと思われてしまう。
それに――道の途中では、楽巫女の練習場を通る。管弦の音が漏れ聞こえるとおり、婚礼の席で鵠に捧げる舞を、今も鈴香をはじめとした巫女たちが練習しているはず。
神への祈りや願い、感謝や敬愛の思いを込めて紡がれてきた歌も舞も美しい。「罪人の娘」の瑞穂でも、心を打たれる。神と人の繋がり、その長い歴史を感じて、自然と頭を垂れる思いがする。
瑞穂は練習に交ざることなんてできないけれど、練習場を通り過ぎる時、ほんの少し足を緩めるくらいなら良い……と、思う。
管弦の音や、巫女たちの歌の声。さやかな衣擦れの音や、床板が鳴る小さな音だけでも、華やかな祝宴の気配を感じ取れるだろう。
耳の奥で響く神楽の音を反芻すれば、薄く冷たい寝床で空腹を抱えて眠るのもそう辛くないはず。
自分の存在を気づかれぬよう、瑞穂は足音を忍ばせてゆっくりと廊下を歩んだ。
屋内に入ればいくらか寒さも和らいで、かじかんだ手から桶が落ちる恐れは少ない。檜鏡のように磨き上げられた檜の床で、足を滑らせないようにさえすれば良い。その、はずだったのだけれど――
(あれ。音が――拍子が、外れた……?)
婚礼を間近に控えて、すでに練習を重ねているはずの音曲が、なぜか歪んで聞こえた。
まるで、壊れる寸前のからくり細工を、無理やりに動かしているかのような。個々の音色が少しずつずれて、曲全体が今にも崩壊してしまいそうな。
そんな、違和感。居心地の悪さ。耳障りさに、瑞穂は思わずよろめいてしまった。どうにか踏みとどまったけれど――桶の中に重ねていた陶器ががちゃりと派手な音を立ててしまう。
「誰? 誰かそこにいるの!?」
管弦の音をぶち壊す騒音に、練習場の戸ががらりと開いた。凛とした空気を鋭く裂く高い声は、鈴香のものだ。
白い小袖に緋袴――巫女装束に身を包んだ鈴香は、立ちすくむ瑞穂の姿を見て、整った顔を怒りと嫌悪にゆがめた。
「瑞穂! こそこそと何をやっているの!?」
「も、申し訳ございません! 私――」
言い訳のしようもない、覗き見の現場を押さえられた形になってしまった。見通しの良い廊下では逃げも隠れもできず、瑞穂は桶を置いて平伏した。冷え切った床に額をつけて非礼を詫びる彼女の頭に、練習に立ち会っていた巫女や楽士の声が振って来る。
「不届き者の娘か」
「珠の巫女様に何を企んでいた!?」
「鵠様は、なぜこのような者を――」
顔を上げなくても、分かる。誰もが、鈴香と同じように瑞穂を疑い、責め立てているのだろう。誰も、彼女が歌や舞に憧れているだけだなんて考えたりはしない。
(お叱りを受けるわ……食事抜きかしら。それとも、一晩中火の番を命じられる……?)
珍しくはなくても、決して慣れない辛い罰を予感して、瑞穂は震え上がった。
「あまり目くじらを立てるものではない」
と、そこへ柔らかく穏やかな殿方の声が割って入る。
「瑞穂も若い娘なのだ。華やかな婚礼に対して思うこともあるのだろう」
決して大きくはないのに、その声は不思議とざわめく者たちを黙らせた。天から地上に射す光を思わせる、神々しい輝きさえ帯びたその声の主は――
「鵠様……!」
白玲山の主、白鳥の化身の神である鵠だった。
何百年、何千年もの間、龍脈を守り続けてきたと聞く鵠は、けれど見目麗しい青年の姿をしている。所作のひとつひとつが洗練されて気品があり、軽く首を傾けるだけで、芳しい花の香が漂うかのよう。
銀糸で刺繍を施した練色の狩衣に流れ落ちる御髪の色は、白玲山に降り積もる雪と同じ、穢れない白。神秘的な金の瞳に浮かぶ表情は優しく、鈴香や村人たちや――瑞穂にまで微笑みかけてくださる。
(鵠様……鈴香様の練習をご覧になっていたのね……)
でも、では。鵠は、先ほどの不揃いな演奏を良しとしていたのだろうか。
(いけない、私ったら……!)
疑問に捕らわれたのも一瞬だけのこと、瑞穂は慌ててまた額を床にこすりつけた。慈悲で水鏡郷に養われている身に、鵠の輝かしさはまぶしすぎる。直視する非礼は犯せなかった。
「ですが。大切な婚礼に、悪い企みがあっては――」
「瑞穂はそのようなことはしない。そうだろう?」
なのに、鵠は瑞穂に縮こまることを許してくれない。呼びかけられて恐る恐る顔を上げると、欠けたところのない月のようにまばゆい笑顔が彼女を見下ろしていた。
「お前は瑞月の娘だ。母親が私の珠の巫女になっていれば、と思わない『はずがない』。妬みも恨みも、抱いて『当然だ』。ただ、鈴香のことが羨ましくてならなかっただけに『違いない』」
鵠の声も言葉も表情も、この上なく優しかった。瑞穂を見つけて色めき立っていた村人たちも、鵠様が仰るなら、といった面持ちで、渋々ながらも引き下がろうとしている。
(鵠様は、助け船を出してくださったのよ。そうに決まってる、けど――)
美しい山神の厚意を払いのける不敬に震えながら、それでも瑞穂は首を振った。
「い、いえ! 私はただ、鈴香様の歌を少しでも聞きたくて――あの、素晴らしいお声ですから……」
鵠を裏切って水鏡郷を出奔した「不届き者」の娘である瑞穂は、母親と同じ罪を重ねてはならないと教えられてきた。
与えられたもので満足し、他人や他所を羨んではならない。
分不相応なものを欲しがってはならない。
常に鵠への感謝を忘れず、平和で清らかな神山に住める幸運に喜ばなければならない。
そうしないと、母の瑞月のように「外」に出たいと思ってしまう。都の華やかな暮らしに憧れて、神への敬意を忘れてしまう。最後には、騙されて幼子を連れて路頭に迷うことになるのだ。
「ふざけないで」
憧れと称賛を込めた瑞穂の訴えを、けれど鈴香は眉を吊り上げて一蹴した。
「見え透いたお世辞を私が信じるとでも? 鵠様のお言葉を否定するなんて浅はかで図々しい……!」
「鈴香」
まもなく伴侶に迎える巫女の名を、鵠はひどく冷たく呼んだ。鞭で打たれたように身体を跳ねさせて鈴香が口を噤むと、美しい神は美しい笑顔を瑞穂に向けた。
「私は、何も咎めようというのではないのだ、瑞穂。母を引き留められなかった分、お前のことは『正しく』導いてやらねばならぬ。己の中の『醜い』思いを認めることも大事ではないか?」
「……母の所業にもかかわらず、私を養ってくださった鵠様のご慈悲とご恩は、片時たりとも忘れたことはありません」
噓を吐くのもいけないことだと、瑞穂は教えられた。だから、これは心からの言葉。
鈴香の言う通り――神の言葉に逆らうのはとてもとても勇気が要るけれど、それでも偽ることはできなかった。
「だからこそ、お慶び申し上げます。鵠様が珠の巫女を得られることも、鈴香様がその珠の巫女であることも」
鵠が眉を顰めると、月が雲間に隠れるように美貌が翳ってしまう。慈悲深い神は、強情な瑞穂に呆れて怒っているのだろうか。悲しませているのだとしたら、と思うだけで、瑞穂の胸は張り裂けそうに痛む。
(でも、分かっていただきたい……!)
とても珍しく信じがたいけれど、村人たちも鈴香も、彼女の言葉に聞き入ってくれているようだ。
(伝わった、の?)
なぜか遮られないことに驚き戸惑いながら、瑞穂は精いっぱい、声を張り上げた。
「信じていただけないのも無理はありません。真心をお伝えしたい、などと言うのもおこがましいのは存じております。でも――お伝えできるよう、行動で示せるよう、誠心誠意、お仕えしたいと思っております」
みたび、瑞穂が額づくと、彼女の声の残響がふわり、と漂った。神楽の練習場は広く天井も高く、音が響くようにできているのだ。
どきどきと鳴る自分の心臓の音を聞きながら、瑞穂は鵠と村人たちの反応を待った。ほんの少しだけ、巫女が舞を披露した後の緊張感はこんな感じなのかしら、と思うけれど――そんな図々しい思い上がりは、怒りに震える鈴香の声によって打ち砕かれる。
「……口が上手いこと。母親に似たのかしら……!? 瑞月とかいう女、都で何をして生き延びていたのか、知れたものではないそうね!?」
「――っ」
母を貶めながらの罵倒は、瑞月の心を抉った。
「残念だ、瑞穂」
さらに、鵠が漏らしたため息が、どんな暴言や折檻よりも激しく彼女を打ちのめす。
「あくまでも認めないとは。――今日も働いてくれたようだね。下がってゆっくりお休み」
「……はい。ありがとうございます、鵠様」
神のお言葉には、もちろん村人たちは従うほかない。覗き見への罰を免れたのは幸運で、鵠の慈悲といえるだろうか。……瑞穂には、分からない。
「鵠様はあの娘に甘いな」
「母親の面影があるからじゃない?」
「だからこそ甘やかしてはいけないだろうに……!」
「まあ良い。明日からまた性根を叩きなおしてやる」
陶器の入った桶を抱え直して、とぼとぼと歩き始める瑞穂の背を、忌々しげなささやきが追いかけた。
分不相応にも鵠に庇われた上に、生意気にも口答えした瑞穂に、村人たちはますます怒りと嫌悪と苛立ちを募らせ、翌日にはさらに辛く当たる。
とてもよくあることだから、瑞穂には明日の仕事の厳しさがもう分かってしまっていた。
* * *
深夜――水鏡郷の中でももっとも粗末なあばら屋で、瑞穂は眠れずにいた。
寒さも、残り物を少し口にしただけの空腹も、いつものことだから、良い。そんなことよりも彼女を夢の世界から遠ざけているのは、先ほどの一幕だった。
鈴香や村人たちの怒りに、鵠のため息。心からの思いが信じてもらえなかったこと。明日への不安。
どれも瑞穂の胸を締めつけるけれど、何よりも彼女を悩ませるのは母の瑞月に関する疑問だった。
(母様は、優しい方だった。歌う声も綺麗で清らかで――巫女のよう……ううん、それどころか鵠様の《珠》になれるはずだったのに)
母はどうして、美しく慈悲深い鵠の思いを拒んだのだろう。
どうして、水鏡郷を出たのだろう。
村人たちが言うように、愚かで傲慢で恩知らずだったから? でも、瑞穂の記憶にある母はそんな人ではなかった、と思う。
(娘は愛していたの? 私が幼かったから騙されていたの? だけど――)
答えの出ない問いを考えることに疲れて、瑞穂は寝床を抜け出した。
郷の中には、まだ眠らずに働いているものもいるらしく、白玲山の山頂に残る雪が、篝火を映してほのかに赤い。それでも、郷のはずれに位置するあばら屋のあたりは静かで人影もない。
(少しくらいなら、大丈夫)
眠るのを諦めて、瑞穂はそっと寝床から抜け出した。戸外に出たとたん、初春の夜の冷たい風が彼女の全身に突き刺さる。でも、もとから身体は冷え切っていたから構わない。
瑞穂が水を差してしまったあとも、練習は続いているのだろうか、管弦の調べが風に乗ってかすかに聞こえてくる。
(私も、お祝いしたいのです。本当なのです)
唇がかじかんで動かなくなる前に、瑞穂は深く息を吸った。肺が凍りつくような痛みを越えて湧きあがるのは、心からの祝福の思い。それを込めて、紡ぐのは、管弦に合わせた慶賀の歌の一節だ。
「花盛りかも、白雲の――」
母の真実は、分からない。でも、母は母で、瑞穂は瑞穂だ。
偽りのない思いを込めた歌は、婚礼の妨げにはならないと信じたかった。
密かに歌った歌が、鵠と鈴香の未来を寿いでくれると良い。祈りと願いを込めて――続きを歌おうと、瑞穂は再び息を吸った。
その、時だった。
星が煌めく夜空の一角を、黒い影が切り取った。
「え――」
目を見開いて空を見上げる瑞穂を目がけて、その影はぐんぐん近づいてくる。
黒い流星のように駆けるその影は、どうやら巨大な狼の姿をしているようだった。白玲山に住む茶色や灰色の狼たちよりもずっと大きく力強く――それに、美しい。
(恐ろしいはずなのに……なぜ……?)
鵠が守護する白玲山に、妖《あやかし》の類いはそうそう入って来れないのは、分かってはいる。空を飛べることからして、尋常の存在ではないのも明らかだ。
でも、そんな理屈ではなくて。その狼にはひれ伏したくなるような存在感――神々しさがあった。闇の色の毛並みでさえも、不思議な光を放っているようで。
瑞穂の目の前に降り立った漆黒の狼は、ぐにゃりと輪郭を歪ませた。え、と思って瞬きしたほんの一秒に満たない間に、そこには端正な容貌の青年が立っていた。
瑞穂にとっては初めて見る種類の美だった。たおやかで優美な鵠とは違って、猛々しさや凛々しさを真っ先に感じる――しなやかで、野性的な。
狼の姿の時と同じく、闇が凝ったような深い黒の髪に、黒い目。そこに宿る光の鋭さは、研ぎ澄ませた刃を思わせる。
彼がまとっているのも、水鏡郷ではめったに見ない、西洋風の衣装だった。これもまた、殿方の神と目の色と同じく黒を基調に、細やかな金銀の刺繍や装飾が施されていた。
古式ゆかしい狩衣や袴姿のようなゆったりとした典雅さはない代わり、機能性を重視しているように見える。剣を佩いていることからして、武士の装束ではないかと思われた。身体の線を隠さない造りは筋肉の線までも浮かび上がらせ、その青年の精悍な印象をいっそう強調していた。
(すごい……きっと、名のある社や聖地を守護する神様だわ)
供も先ぶれもいなかったけれど、気高い存在に対峙していることを疑わず、瑞穂はおずおずと尋ねた。
「あ、貴方様は……?」
尊い御方を、相応しい礼節でもってお迎えするためにはお名前を伺いたかったのに。瑞穂の問いには答えず、青年は視線を宙にさまよわせた。狼が、耳をぴんと立てて獲物の気配を探る様にも少し似ている。
「越天楽の調べ――婚礼、か……?」
「は、はい。鵠様は珠の巫女をお迎えになります。郷を挙げて、準備をしているところです」
「ほう、鵠が。では、『傷心』は癒えたのかな」
青年の独り言めいた問いかけに、瑞穂は慌てて答えた。すると、夜の色の目が彼女に向けられて、悲鳴を上げそうになる。
(わ、私なんかがお出迎えしてしまって……水鏡郷が貧しいと思われてしまったらどうしよう)
この郷でみすぼらしいのは瑞穂だけ、それも、躾の一環として華美を戒められているだけであって。鵠が治める山も郷も、どこも美しく整えらえているのだ。
その点を弁明しようと、瑞穂は慌てて言葉を接ごうとしたのだけれど――
「ということは、『花嫁』は貴女か?」
「ええ……っ!?」
思ってもみない、鵠にも鈴香にも失礼過ぎる問いかけに、ぶんぶんと首を激しく振ることしかできなくなってしまう。
「わ、私なんかがとんでもない! 鈴香様はもっとずっとお綺麗で、巫女としてもとても優れた御方です……!」
「だが、今の歌と声は――」
夜の化身のようなその青年は、怪訝そうに眉を寄せ――擦り切れた着物をまとい、髪も肌も艶のない瑞穂の姿を見て、何かを納得したようだった。
「……鵠も、見る目がない――いや、聞く耳がないというか」
瑞穂から目を逸らしてつぶやいた青年の声はどこか尖っていて、彼女を竦み上がらせた。彼が、鵠を平然と呼び捨てにしたのも、怖い。
「あ、あの。貴方様は――」
やはりこの御方は、とても尊い神様なのだ。鵠とも交流があるくらいの。郷を挙げて歓迎するのが当然のところ、出迎えたのが瑞穂なんて貧相な小娘だったから、きっとご機嫌を損ねてしまわれたのだ。
(どうしよう。私、私……!)
ただでさえ混乱して、卒倒寸前だった瑞穂の頭を、さらにいくつもの怒鳴り声が揺さぶった。
「瑞穂! またお前か!」
「怪しい影がこのあたりに降りたのを見たぞ!」
「お前が妖を招き入れたのか……!?」
松明や――鉈や猟銃を手に手に、村人たちが現れたのだ。いずれも険しく緊張した面持ちで、侵入者を退治する構えで乗り込んできたのは明らかだった。
(違う。違うんです)
事情を説明しようにも、説明できるほどの事情は瑞穂には分からない。そもそも、恐怖に喉が締め上げられて、声が出せそうにない。
弱々しく首を振ることしかできずによろめいた彼女は、けれど凍った地面に倒れることにはならなかった。
黒い狼から変化した青年が、彼女を支えてくれたのだ。たくましい彼の身体は山からの風をも防ぎ、いまだかつて感じたことのない温かさと安心感を与えてくれる。
(な、なぜ……?)
どうして、瑞穂なんかを。疑問と戸惑いを込めて見上げると、青年はあの刃のような鋭い目で村人たちを見据えていた。
「水鏡郷といえば、神山を守る重職を帯びた、選ばれし者の住まう地のはずだが――神と妖の区別もつかなくなったか。鵠はいったい何をしているんだ」
鵠の名は、村人たちに対しても効果てき面だった。呼び捨てに顔色を変える者もいたけれど、そんなことができる存在は何ものか、に思い至ったらしい者も多い。
「神、だと……」
「ま、まさか」
ざわめいて顔を見合わせ、手に構えた武器を下ろす村人たちに、青年はにやりと笑った。狼が牙を剥く様を思わせる、獰猛な雰囲気の笑みだった。
「鵠に伝えよ。黒曜の玄が訪ねてきた、と」
そうして、彼――玄は誇り高く毅然として告げた。
「社を持たず、人の願いに応じて現れ、世を乱すものを打ち砕く――孤高にして流浪の戦神だ。白玲山の主には聞きたいことが山ほどある」
その白玲山の奥深くに、鵠様に仕える者たちが暮らす村がある。その名を、水鏡郷。
澄んだ水と豊かな実りに恵まれたその村では、鵠様に歌舞や祈りを捧げながら、誰もが和やかな日々を送っている。
常に雪に彩られ、銀に輝く白玲山を仰ぎ見る人々は、口々に噂する。
あの美しい山の主は、やはり美しく清らかな神に違いない。その御方の庇護された村もまた、俗世の欲望や争いとは無縁の理想郷なのだろう、と。
* * *
白玲山の嶺を赤く染めていた夕日が、山の端に沈んで消えた。いつもの水鏡郷の夜は早く、闇の帳が降りた後は、村人たちはみな、それぞれの家で静かに過ごすものだ。
けれど、冬が終わり、ようやく凍りついていた水の流れが緩み始めたこの春の夜は、違う。
郷のあちこちに焚かれた篝火が、満天の星の煌めきを圧倒する。
真昼のような明るさが浮かび上がらせるのは、山肌に点在する鵠の寝殿や、神楽の舞台、巫女や神官の住まいに、神具を納める宝物殿。さらには、それらを繋ぐ渡り廊下。
いずれも神山に相応しく磨き上げられ、篝火によって神々しく輝いている。
日が落ちてなお、郷は活気に満ちていた。慌ただしく渡り廊下を行き来する村人たちは、休む気配もなく働きながらも明るく笑い合いっている。それは、ただひとり温かい屋内を離れ、寒風の中を洗い物をしに出た少女――瑞穂も同じだった。
冴えて澄んだ夜空に笙や龍笛、琵琶や鼓の調べが響く。
「越天楽……華やかで、とても素敵」
婚礼などの慶賀の席で演奏される曲名をつぶやいて、瑞穂は微笑んだ。
春といっても、山深い水鏡郷では夜はまだまだ凍てつく寒さが忍び寄る。
屋根で守られた渡り廊下から離れ、寒風にさらされる小道を降りる彼女の唇は青ざめて、吐いた息も白く曇っている。薄い着物一枚では冷気をふせぐには心もとないし、洗い物の食器を詰め込んだ桶を抱える瑞穂の指も、重さと寒さによって雪のように白い。
(動いていれば、大丈夫。凍えたりしない)
自分に言い聞かせながら、瑞穂は沢を目指して夜の道を弾むように駆ける。それは、身体を凍らせそうな冷気に抗うためだけではない。抑えきれない嬉しさと喜びの表れだった。
(鵠様のご結婚! 郷から珠の巫女が出るなんておめでたいわ……!)
東雲国は、八百万の神々に守られた国。
人は神に祈りを捧げ、神は歌舞などの供物を良しとすれば、人の願いを叶えることもある。それは、近代化が進み、都に電気の灯りがともり、山や谷の間を鉄道が走るようになった今でも変わらない。
人と神の間を繋ぐのが、楽巫女と呼ばれる存在だ。
神聖な歌や舞によって、神々に人の祈りを届ける。神々から預かったご意志やお言葉を、誤りなく人に伝える――正しく強く清らかな心を持ち、しかも厳しい修行を続けた者たちは、神々に愛され、人々には尊敬される。
中でも優れた楽巫女は、伴侶として神に望まれることもある。
神と人の世界は本来は交わらないところ、それでも傍に置きたい。その歌や舞や祈りを、自分だけに捧げて欲しいと希うのだ。
それほどに愛される存在を、珠の巫女、と呼ぶ。特別に手の中に置きたいと思うほどに愛された掌中の珠、ということだ。
このたび、水鏡郷では、とある巫女が山の守り神である鵠の《掌中の珠》に選ばれた。
その巫女――鈴香は、声も姿も美しく、舞う姿は天女が天から降り立ったかのように軽やかでしなやかとの評判高い少女だった。
神の伴侶に足る楽巫女も、そうそう生まれるものではなく、珠の巫女に選ばれるのはたいへんな名誉。だからこそ水鏡郷は祝福に沸き、村を挙げての婚礼の支度に慌ただしくしているのだ。
もちろん瑞穂も、婚礼を心から喜んでいる。
(鈴香様なら、きっと鵠様を癒して差し上げられるわ)
白鳥のごとく清らかな美貌の鵠が、同じく美しい鈴香に優しく微笑みかける姿は、それはもう夢のように綺麗でお似合いなのだ。その場所にいるのが自分だったら、なんて、瑞穂は欠片たりとも思わない。……そんなことは、彼女の立場では考えることさえ許されない。
瑞穂に食器を渡した者も、ひどく忌々しげな顔で彼女を睨みつけたものだった。
『めでたい式の準備に、お前が関わることができると思うな。……罪人の娘め』
その言葉にまったく異存がないことを確かめるために、瑞穂は無言でそっと目を伏せて、寒い中に薄着で出てきたのだ。
そう、彼女にできるのは、ただ、婚礼が成功するように陰ながら祈ることだけ。人目につかないところで水仕事に励み、鵠の寝殿の隅々までを掃き清め、額に汗を流して煤まみれになって竈に薪をくべる――それくらいだ。
「でも。鵠様のために、できることがあるのは光栄だわ」
自分に言い聞かせるように、どこまでも明るくつぶやくうちに、瑞穂は沢のほとりにたどり着いた。
ひざまずいて凍てつく水に手を浸すと、あかぎれのできた手が、無数の針で刺されたように痛む。でも、ためらっている暇はない。寒さで指が動かなくなる前に、洗い物を終えてしまわなければ。
「白玲山の雪解けの水よ、鵠様のご結婚をお祝いして。婚礼のために働くみんなのために、使わせてちょうだい」
雪解けの冷たい流れに、歌うように語り掛けるのは、楽巫女の真似ごとに過ぎない。瑞穂は、神に捧げる歌も舞も習ったことがない。ただ、母の教えを守っているだけだ。
『東雲は、八百万の神々に守られた国。空に地に川に、どこにでも神はいらっしゃる。だから、感謝と礼儀を忘れてはいけないのよ』
どんなささやかな小川の神様でも、瑞穂「なんか」の歌を喜ぶとは思えないのだけれど。
でも、語りかけると水の冷たさが和らぐ気がするから、「ご挨拶」には意味があるはず。そう、瑞穂は信じている。
(それとも、白玲山も鵠様をお祝いしているのかしら。だから、心良く手伝ってくれていのる……?)
鵠は、十数年前に「とある事情」で伴侶と見込んだ楽巫女を喪っていた。その時は白玲山も雪に閉ざされ、麓の村々まで不作に見舞われたものだと聞いている。主である神の心痛を、白玲山も案じていたのかもしれない。
神山そのものにも祝福される結婚を見ることができるのだ、と思うといっそう嬉しくて、瑞穂は鼻歌を歌いながら洗い物を片付けた。
「さて、と――急がないと」
着物の裾で手をぬぐった瑞穂は、重い桶を抱えて足を急がせた。早く厨房に返さないと、怠けたと思われてしまう。
それに――道の途中では、楽巫女の練習場を通る。管弦の音が漏れ聞こえるとおり、婚礼の席で鵠に捧げる舞を、今も鈴香をはじめとした巫女たちが練習しているはず。
神への祈りや願い、感謝や敬愛の思いを込めて紡がれてきた歌も舞も美しい。「罪人の娘」の瑞穂でも、心を打たれる。神と人の繋がり、その長い歴史を感じて、自然と頭を垂れる思いがする。
瑞穂は練習に交ざることなんてできないけれど、練習場を通り過ぎる時、ほんの少し足を緩めるくらいなら良い……と、思う。
管弦の音や、巫女たちの歌の声。さやかな衣擦れの音や、床板が鳴る小さな音だけでも、華やかな祝宴の気配を感じ取れるだろう。
耳の奥で響く神楽の音を反芻すれば、薄く冷たい寝床で空腹を抱えて眠るのもそう辛くないはず。
自分の存在を気づかれぬよう、瑞穂は足音を忍ばせてゆっくりと廊下を歩んだ。
屋内に入ればいくらか寒さも和らいで、かじかんだ手から桶が落ちる恐れは少ない。檜鏡のように磨き上げられた檜の床で、足を滑らせないようにさえすれば良い。その、はずだったのだけれど――
(あれ。音が――拍子が、外れた……?)
婚礼を間近に控えて、すでに練習を重ねているはずの音曲が、なぜか歪んで聞こえた。
まるで、壊れる寸前のからくり細工を、無理やりに動かしているかのような。個々の音色が少しずつずれて、曲全体が今にも崩壊してしまいそうな。
そんな、違和感。居心地の悪さ。耳障りさに、瑞穂は思わずよろめいてしまった。どうにか踏みとどまったけれど――桶の中に重ねていた陶器ががちゃりと派手な音を立ててしまう。
「誰? 誰かそこにいるの!?」
管弦の音をぶち壊す騒音に、練習場の戸ががらりと開いた。凛とした空気を鋭く裂く高い声は、鈴香のものだ。
白い小袖に緋袴――巫女装束に身を包んだ鈴香は、立ちすくむ瑞穂の姿を見て、整った顔を怒りと嫌悪にゆがめた。
「瑞穂! こそこそと何をやっているの!?」
「も、申し訳ございません! 私――」
言い訳のしようもない、覗き見の現場を押さえられた形になってしまった。見通しの良い廊下では逃げも隠れもできず、瑞穂は桶を置いて平伏した。冷え切った床に額をつけて非礼を詫びる彼女の頭に、練習に立ち会っていた巫女や楽士の声が振って来る。
「不届き者の娘か」
「珠の巫女様に何を企んでいた!?」
「鵠様は、なぜこのような者を――」
顔を上げなくても、分かる。誰もが、鈴香と同じように瑞穂を疑い、責め立てているのだろう。誰も、彼女が歌や舞に憧れているだけだなんて考えたりはしない。
(お叱りを受けるわ……食事抜きかしら。それとも、一晩中火の番を命じられる……?)
珍しくはなくても、決して慣れない辛い罰を予感して、瑞穂は震え上がった。
「あまり目くじらを立てるものではない」
と、そこへ柔らかく穏やかな殿方の声が割って入る。
「瑞穂も若い娘なのだ。華やかな婚礼に対して思うこともあるのだろう」
決して大きくはないのに、その声は不思議とざわめく者たちを黙らせた。天から地上に射す光を思わせる、神々しい輝きさえ帯びたその声の主は――
「鵠様……!」
白玲山の主、白鳥の化身の神である鵠だった。
何百年、何千年もの間、龍脈を守り続けてきたと聞く鵠は、けれど見目麗しい青年の姿をしている。所作のひとつひとつが洗練されて気品があり、軽く首を傾けるだけで、芳しい花の香が漂うかのよう。
銀糸で刺繍を施した練色の狩衣に流れ落ちる御髪の色は、白玲山に降り積もる雪と同じ、穢れない白。神秘的な金の瞳に浮かぶ表情は優しく、鈴香や村人たちや――瑞穂にまで微笑みかけてくださる。
(鵠様……鈴香様の練習をご覧になっていたのね……)
でも、では。鵠は、先ほどの不揃いな演奏を良しとしていたのだろうか。
(いけない、私ったら……!)
疑問に捕らわれたのも一瞬だけのこと、瑞穂は慌ててまた額を床にこすりつけた。慈悲で水鏡郷に養われている身に、鵠の輝かしさはまぶしすぎる。直視する非礼は犯せなかった。
「ですが。大切な婚礼に、悪い企みがあっては――」
「瑞穂はそのようなことはしない。そうだろう?」
なのに、鵠は瑞穂に縮こまることを許してくれない。呼びかけられて恐る恐る顔を上げると、欠けたところのない月のようにまばゆい笑顔が彼女を見下ろしていた。
「お前は瑞月の娘だ。母親が私の珠の巫女になっていれば、と思わない『はずがない』。妬みも恨みも、抱いて『当然だ』。ただ、鈴香のことが羨ましくてならなかっただけに『違いない』」
鵠の声も言葉も表情も、この上なく優しかった。瑞穂を見つけて色めき立っていた村人たちも、鵠様が仰るなら、といった面持ちで、渋々ながらも引き下がろうとしている。
(鵠様は、助け船を出してくださったのよ。そうに決まってる、けど――)
美しい山神の厚意を払いのける不敬に震えながら、それでも瑞穂は首を振った。
「い、いえ! 私はただ、鈴香様の歌を少しでも聞きたくて――あの、素晴らしいお声ですから……」
鵠を裏切って水鏡郷を出奔した「不届き者」の娘である瑞穂は、母親と同じ罪を重ねてはならないと教えられてきた。
与えられたもので満足し、他人や他所を羨んではならない。
分不相応なものを欲しがってはならない。
常に鵠への感謝を忘れず、平和で清らかな神山に住める幸運に喜ばなければならない。
そうしないと、母の瑞月のように「外」に出たいと思ってしまう。都の華やかな暮らしに憧れて、神への敬意を忘れてしまう。最後には、騙されて幼子を連れて路頭に迷うことになるのだ。
「ふざけないで」
憧れと称賛を込めた瑞穂の訴えを、けれど鈴香は眉を吊り上げて一蹴した。
「見え透いたお世辞を私が信じるとでも? 鵠様のお言葉を否定するなんて浅はかで図々しい……!」
「鈴香」
まもなく伴侶に迎える巫女の名を、鵠はひどく冷たく呼んだ。鞭で打たれたように身体を跳ねさせて鈴香が口を噤むと、美しい神は美しい笑顔を瑞穂に向けた。
「私は、何も咎めようというのではないのだ、瑞穂。母を引き留められなかった分、お前のことは『正しく』導いてやらねばならぬ。己の中の『醜い』思いを認めることも大事ではないか?」
「……母の所業にもかかわらず、私を養ってくださった鵠様のご慈悲とご恩は、片時たりとも忘れたことはありません」
噓を吐くのもいけないことだと、瑞穂は教えられた。だから、これは心からの言葉。
鈴香の言う通り――神の言葉に逆らうのはとてもとても勇気が要るけれど、それでも偽ることはできなかった。
「だからこそ、お慶び申し上げます。鵠様が珠の巫女を得られることも、鈴香様がその珠の巫女であることも」
鵠が眉を顰めると、月が雲間に隠れるように美貌が翳ってしまう。慈悲深い神は、強情な瑞穂に呆れて怒っているのだろうか。悲しませているのだとしたら、と思うだけで、瑞穂の胸は張り裂けそうに痛む。
(でも、分かっていただきたい……!)
とても珍しく信じがたいけれど、村人たちも鈴香も、彼女の言葉に聞き入ってくれているようだ。
(伝わった、の?)
なぜか遮られないことに驚き戸惑いながら、瑞穂は精いっぱい、声を張り上げた。
「信じていただけないのも無理はありません。真心をお伝えしたい、などと言うのもおこがましいのは存じております。でも――お伝えできるよう、行動で示せるよう、誠心誠意、お仕えしたいと思っております」
みたび、瑞穂が額づくと、彼女の声の残響がふわり、と漂った。神楽の練習場は広く天井も高く、音が響くようにできているのだ。
どきどきと鳴る自分の心臓の音を聞きながら、瑞穂は鵠と村人たちの反応を待った。ほんの少しだけ、巫女が舞を披露した後の緊張感はこんな感じなのかしら、と思うけれど――そんな図々しい思い上がりは、怒りに震える鈴香の声によって打ち砕かれる。
「……口が上手いこと。母親に似たのかしら……!? 瑞月とかいう女、都で何をして生き延びていたのか、知れたものではないそうね!?」
「――っ」
母を貶めながらの罵倒は、瑞月の心を抉った。
「残念だ、瑞穂」
さらに、鵠が漏らしたため息が、どんな暴言や折檻よりも激しく彼女を打ちのめす。
「あくまでも認めないとは。――今日も働いてくれたようだね。下がってゆっくりお休み」
「……はい。ありがとうございます、鵠様」
神のお言葉には、もちろん村人たちは従うほかない。覗き見への罰を免れたのは幸運で、鵠の慈悲といえるだろうか。……瑞穂には、分からない。
「鵠様はあの娘に甘いな」
「母親の面影があるからじゃない?」
「だからこそ甘やかしてはいけないだろうに……!」
「まあ良い。明日からまた性根を叩きなおしてやる」
陶器の入った桶を抱え直して、とぼとぼと歩き始める瑞穂の背を、忌々しげなささやきが追いかけた。
分不相応にも鵠に庇われた上に、生意気にも口答えした瑞穂に、村人たちはますます怒りと嫌悪と苛立ちを募らせ、翌日にはさらに辛く当たる。
とてもよくあることだから、瑞穂には明日の仕事の厳しさがもう分かってしまっていた。
* * *
深夜――水鏡郷の中でももっとも粗末なあばら屋で、瑞穂は眠れずにいた。
寒さも、残り物を少し口にしただけの空腹も、いつものことだから、良い。そんなことよりも彼女を夢の世界から遠ざけているのは、先ほどの一幕だった。
鈴香や村人たちの怒りに、鵠のため息。心からの思いが信じてもらえなかったこと。明日への不安。
どれも瑞穂の胸を締めつけるけれど、何よりも彼女を悩ませるのは母の瑞月に関する疑問だった。
(母様は、優しい方だった。歌う声も綺麗で清らかで――巫女のよう……ううん、それどころか鵠様の《珠》になれるはずだったのに)
母はどうして、美しく慈悲深い鵠の思いを拒んだのだろう。
どうして、水鏡郷を出たのだろう。
村人たちが言うように、愚かで傲慢で恩知らずだったから? でも、瑞穂の記憶にある母はそんな人ではなかった、と思う。
(娘は愛していたの? 私が幼かったから騙されていたの? だけど――)
答えの出ない問いを考えることに疲れて、瑞穂は寝床を抜け出した。
郷の中には、まだ眠らずに働いているものもいるらしく、白玲山の山頂に残る雪が、篝火を映してほのかに赤い。それでも、郷のはずれに位置するあばら屋のあたりは静かで人影もない。
(少しくらいなら、大丈夫)
眠るのを諦めて、瑞穂はそっと寝床から抜け出した。戸外に出たとたん、初春の夜の冷たい風が彼女の全身に突き刺さる。でも、もとから身体は冷え切っていたから構わない。
瑞穂が水を差してしまったあとも、練習は続いているのだろうか、管弦の調べが風に乗ってかすかに聞こえてくる。
(私も、お祝いしたいのです。本当なのです)
唇がかじかんで動かなくなる前に、瑞穂は深く息を吸った。肺が凍りつくような痛みを越えて湧きあがるのは、心からの祝福の思い。それを込めて、紡ぐのは、管弦に合わせた慶賀の歌の一節だ。
「花盛りかも、白雲の――」
母の真実は、分からない。でも、母は母で、瑞穂は瑞穂だ。
偽りのない思いを込めた歌は、婚礼の妨げにはならないと信じたかった。
密かに歌った歌が、鵠と鈴香の未来を寿いでくれると良い。祈りと願いを込めて――続きを歌おうと、瑞穂は再び息を吸った。
その、時だった。
星が煌めく夜空の一角を、黒い影が切り取った。
「え――」
目を見開いて空を見上げる瑞穂を目がけて、その影はぐんぐん近づいてくる。
黒い流星のように駆けるその影は、どうやら巨大な狼の姿をしているようだった。白玲山に住む茶色や灰色の狼たちよりもずっと大きく力強く――それに、美しい。
(恐ろしいはずなのに……なぜ……?)
鵠が守護する白玲山に、妖《あやかし》の類いはそうそう入って来れないのは、分かってはいる。空を飛べることからして、尋常の存在ではないのも明らかだ。
でも、そんな理屈ではなくて。その狼にはひれ伏したくなるような存在感――神々しさがあった。闇の色の毛並みでさえも、不思議な光を放っているようで。
瑞穂の目の前に降り立った漆黒の狼は、ぐにゃりと輪郭を歪ませた。え、と思って瞬きしたほんの一秒に満たない間に、そこには端正な容貌の青年が立っていた。
瑞穂にとっては初めて見る種類の美だった。たおやかで優美な鵠とは違って、猛々しさや凛々しさを真っ先に感じる――しなやかで、野性的な。
狼の姿の時と同じく、闇が凝ったような深い黒の髪に、黒い目。そこに宿る光の鋭さは、研ぎ澄ませた刃を思わせる。
彼がまとっているのも、水鏡郷ではめったに見ない、西洋風の衣装だった。これもまた、殿方の神と目の色と同じく黒を基調に、細やかな金銀の刺繍や装飾が施されていた。
古式ゆかしい狩衣や袴姿のようなゆったりとした典雅さはない代わり、機能性を重視しているように見える。剣を佩いていることからして、武士の装束ではないかと思われた。身体の線を隠さない造りは筋肉の線までも浮かび上がらせ、その青年の精悍な印象をいっそう強調していた。
(すごい……きっと、名のある社や聖地を守護する神様だわ)
供も先ぶれもいなかったけれど、気高い存在に対峙していることを疑わず、瑞穂はおずおずと尋ねた。
「あ、貴方様は……?」
尊い御方を、相応しい礼節でもってお迎えするためにはお名前を伺いたかったのに。瑞穂の問いには答えず、青年は視線を宙にさまよわせた。狼が、耳をぴんと立てて獲物の気配を探る様にも少し似ている。
「越天楽の調べ――婚礼、か……?」
「は、はい。鵠様は珠の巫女をお迎えになります。郷を挙げて、準備をしているところです」
「ほう、鵠が。では、『傷心』は癒えたのかな」
青年の独り言めいた問いかけに、瑞穂は慌てて答えた。すると、夜の色の目が彼女に向けられて、悲鳴を上げそうになる。
(わ、私なんかがお出迎えしてしまって……水鏡郷が貧しいと思われてしまったらどうしよう)
この郷でみすぼらしいのは瑞穂だけ、それも、躾の一環として華美を戒められているだけであって。鵠が治める山も郷も、どこも美しく整えらえているのだ。
その点を弁明しようと、瑞穂は慌てて言葉を接ごうとしたのだけれど――
「ということは、『花嫁』は貴女か?」
「ええ……っ!?」
思ってもみない、鵠にも鈴香にも失礼過ぎる問いかけに、ぶんぶんと首を激しく振ることしかできなくなってしまう。
「わ、私なんかがとんでもない! 鈴香様はもっとずっとお綺麗で、巫女としてもとても優れた御方です……!」
「だが、今の歌と声は――」
夜の化身のようなその青年は、怪訝そうに眉を寄せ――擦り切れた着物をまとい、髪も肌も艶のない瑞穂の姿を見て、何かを納得したようだった。
「……鵠も、見る目がない――いや、聞く耳がないというか」
瑞穂から目を逸らしてつぶやいた青年の声はどこか尖っていて、彼女を竦み上がらせた。彼が、鵠を平然と呼び捨てにしたのも、怖い。
「あ、あの。貴方様は――」
やはりこの御方は、とても尊い神様なのだ。鵠とも交流があるくらいの。郷を挙げて歓迎するのが当然のところ、出迎えたのが瑞穂なんて貧相な小娘だったから、きっとご機嫌を損ねてしまわれたのだ。
(どうしよう。私、私……!)
ただでさえ混乱して、卒倒寸前だった瑞穂の頭を、さらにいくつもの怒鳴り声が揺さぶった。
「瑞穂! またお前か!」
「怪しい影がこのあたりに降りたのを見たぞ!」
「お前が妖を招き入れたのか……!?」
松明や――鉈や猟銃を手に手に、村人たちが現れたのだ。いずれも険しく緊張した面持ちで、侵入者を退治する構えで乗り込んできたのは明らかだった。
(違う。違うんです)
事情を説明しようにも、説明できるほどの事情は瑞穂には分からない。そもそも、恐怖に喉が締め上げられて、声が出せそうにない。
弱々しく首を振ることしかできずによろめいた彼女は、けれど凍った地面に倒れることにはならなかった。
黒い狼から変化した青年が、彼女を支えてくれたのだ。たくましい彼の身体は山からの風をも防ぎ、いまだかつて感じたことのない温かさと安心感を与えてくれる。
(な、なぜ……?)
どうして、瑞穂なんかを。疑問と戸惑いを込めて見上げると、青年はあの刃のような鋭い目で村人たちを見据えていた。
「水鏡郷といえば、神山を守る重職を帯びた、選ばれし者の住まう地のはずだが――神と妖の区別もつかなくなったか。鵠はいったい何をしているんだ」
鵠の名は、村人たちに対しても効果てき面だった。呼び捨てに顔色を変える者もいたけれど、そんなことができる存在は何ものか、に思い至ったらしい者も多い。
「神、だと……」
「ま、まさか」
ざわめいて顔を見合わせ、手に構えた武器を下ろす村人たちに、青年はにやりと笑った。狼が牙を剥く様を思わせる、獰猛な雰囲気の笑みだった。
「鵠に伝えよ。黒曜の玄が訪ねてきた、と」
そうして、彼――玄は誇り高く毅然として告げた。
「社を持たず、人の願いに応じて現れ、世を乱すものを打ち砕く――孤高にして流浪の戦神だ。白玲山の主には聞きたいことが山ほどある」



