フィーネの旋律

 翌日の放課後、陽が出ているうちに学校を後にした。麗先輩に呼び出されていたからだ。

 校門をくぐる前に、振り返って校舎を見上げる。音楽室の窓からは、さまざまな色をした音符があふれ出していた。

 みんな、頑張っているんだなぁ。そう思いながら、わたしは麗先輩に呼び出された理由を考えた。心当たりは、ひとつだけ。

 皆が自主練をしていたのに、わたしはあまり部活に顔を出していなかった。千賀先輩に教わっていたのがその理由だけれど、交わした約束がある以上、千賀先輩のことを知られるわけにはいかない。それでも、皆の前でちゃんと演奏できたという進歩だけは、胸を張って主張したい。

 勇気を奮い立たせて、一歩一歩、足を進める。校門を出てしばらく歩いたところで、麗先輩の姿が見えた。待ち合わせの場所だ。心臓の鼓動がさっそく騒々しい。

 麗先輩はわたしに気づくと、真顔で小さく手を挙げた。その瞬間、全身が緊張で張りつめる。駆け寄って深々と頭を下げた。

「すっ、すみませんでした! 麗先輩を待たせちゃって」
「いいのよ、顔を上げて」

 麗先輩の声は、落ち着いていて静かだった。怒られるんじゃないかと怯えていたけれど、その静けさが、かえって怖さを増していた。

 おそるおそる顔を上げて、麗先輩の表情をうかがう。すると麗先輩は「ついてきて」とだけ言い、すっと背を向けて歩き出す。

「あっ、はっ、はいっ!」

 慌てて後を追う。麗先輩のすらっとした脚は歩幅も広くて、すたすたと先を行く。わたしは遅れないように、早足でついていく。

 やっぱり、怒っているのかな……。

 無言の背中を見つめながら、そんな不安が胸をよぎる。こんな時に音楽が流れていたら、どんな心境か察することができるのに。でも、そんな都合よく音符が飛び出してくれるはずもない。

 ほんと、音符が視えても役に立たないよなぁ……。

 麗先輩が向かっているのは、駅とは逆方向。閑静な高級住宅街のほうだった。

 木々が生い茂る公園の小径を抜けていく。 鳥のさえずり、さらさらと湧き出す噴水。そこには、自然の音色が静かに舞っていた。

 着いたのは、公園を抜けてすぐの場所にある小さな喫茶店。木目調の壁にアイビーが絡んでいて風情がある。麗先輩は「ここよ」と言って、店の扉に手をかけ、躊躇なく足を踏み入れた。わたしも後に続く。

 店の中は、レトロな食器やアンティークの小物がところどころに飾られていて、雑然としているけれど趣がある。壁に取り付けられたオレンジのブラケットの灯りもおぼろげで、落ち着いた雰囲気を醸していた。大人っぽい雰囲気にちょっと物怖じしてしまう。

 店には数人の客がいたけれど、その中にひとり、見覚えのある男性がいた。栗色のくせっ毛に、整った凛々しい顎のライン。目が合った瞬間、驚いてちょっとだけ飛び上がってしまった。

「こっ……高円寺先輩!?」

 すぐさま麗先輩に目を向けると、彼女は高円寺先輩の方を向いて、小さく手を振っていた。高円寺先輩も黙ってうなずいた。ふたりは、ここで待ち合わせをしていたらしい。

喫茶店のマスターが麗先輩に声をかける。

「いらっしゃい麗さん。また作戦会議かな?」
「はい、今日はもうひとりいますけど」

 マスターは、わたしに柔らかな笑みを向けて挨拶してくれた。無精髭を生やした銀縁眼鏡のおじさん。低くて丸みのある声に、優しさが滲んでいた。

 もしもこれから修羅場が訪れるなら、この人が唯一の救いの神かもしれない。そう思って、心の中でそっと手のひらを合わせた。

 麗先輩は高円寺先輩の向かいに座り、隣の席を引いた。ここに座りなさい、という意味らしい。わたしはその席に腰を下ろし、両膝を揃えて手を添えた。さっそく借りてきた猫の心境で、笑顔を固める。

 麗先輩はメニューに目を通すこともなく、「マスター、私はいつものでお願いします」と言った。すると高円寺先輩も「俺もいつもので」と注文した。

「ミルクティーにグアテマラのブラックですね」

 マスターが確認すると、ふたりとも小さくうなずいた。ふたりがこの喫茶店の常連で、しばしば一緒に訪れていることは、今の流れだけで十分に理解できた。

 麗先輩はあらためて言う。

「涼太、お待たせ」

 麗先輩の声に、高円寺先輩が穏やかに応じる。

「いや、俺も今来たばっかりだ。久しぶりだな、ここで待ち合わせるのは」
「そうね、なにかと忙しかったから。じゃあ、まずは本題かな」

 そう言って、麗先輩がわたしに目を向けた。緊張で背筋がぴんと伸びる。ついに来たか……と、心の中で身構えた。

「花宮さん、あなた最近、部活の練習にあまり積極的ではないわね」

 やっぱり怒られるんだ。そう察したわたしは、すぐさま先制攻撃を仕掛ける。もちろん、腰の低ーい攻撃だ。

「おっ、お許しくださいませ〜!」

 勢いよく頭を下げた瞬間――。

 ゴツン!

 テーブル上に置かれた氷水のグラスに、ひたいを直撃させてしまった。

「いたあっ!」

 幸い、グラスは倒れず、氷が音を立てて揺れただけだった。

 すると麗先輩は、慌てるわたしの様子がおかしかったのか、くすっと上品な笑みをこぼした。

 あっ、すごく綺麗……。

 初めて見た、麗先輩の笑顔に目が留まる。まるで蕾がふわりと花開く瞬間を目にしたような感覚だった。麗先輩は笑顔のままで会話を続ける。

「つまりね、今日は私に呼び出されてお説教をされた、ということにしておいてほしいの」
「えっ、どどどどういうことですか!?」

 意味がわからなくて、返事にも舌が絡まる。

「下校の時、誰かは私たちのことを見ていたと思う。音楽室は眺めもいいしね。だから、変に勘繰られたら困るでしょ?」

 確かに麗先輩の言うとおりだ。コンクールのメンバーに選ばれたくて、麗先輩に取り入ろうとする部員がいてもおかしくない。

「だけどね、用があるのは私じゃないの」

 そう言って、麗先輩がちらりと高円寺先輩に視線を送る。高円寺先輩は真顔で言う。

「俺が麗に頼んだ。君を連れてくるように、と」
「へっ、高円寺先輩がわたしを?」

 心当たりがなくて、すっとんきょうな声が出てしまう。その時、マスターから声がかかった。

「ところでお客様は、何になさいますか」

 三人の視線が、わたしに向けられる。

「あ……」

 気が気じゃなくて、飲み物のオーダーをすっかり忘れていた。すると、わたしの動揺を察した麗先輩が、柔らかい声で言ってくれた。

「デザートセットでもいいのよ。ここは涼太が奢るから」

 セットで、しかも奢り!?

 即座にカウンターの下に並べられたケーキに視線が釘付けになる。

 どれも美味しそう。特にあのガトーショコラ。あれを口にしたら、濃密な幸せが口の中を満たすんだろうなぁ。

「そっ、そしたらメロンソーダとガトーショコラのセットにしてくださいっ!」
「ふふっ、甘党ね。可愛いわぁ」
「ははっ、将来苦労しそうだな」

 ふたりは、わたしの反応を見ておかしそうに笑った。餌につられたみたいで恥ずかしいけれど、ガトーショコラの誘惑には勝てっこない。