フィーネの旋律

 三度目の「選考会」の日がやってきた。

 わたしは朝から、課題曲である《ハンガリー田園幻想曲》の風景を頭の中に描いていた。新緑があふれる、静かな湖畔の田園。その中で、フルートを奏でる自分の姿を想像する。

 風の音、草の匂い、陽の光。想像する情景のすべてを音に溶かすように。

 音楽室の窓から屋上を見上げる。毎日練習していた場所。

 終わったら、千賀先輩にお礼を言いに行こう。そのためにも、ちゃんと吹かなくちゃ。大丈夫、自信を持って。

 そう自分に言い聞かせながら、ふと気づく。以前と違って、心持ちがとても穏やかなことに。

 失敗して冷やかされたとしても、曲をきちんと演奏して、千賀先輩の教えに応えることが、なにより大切に思える。

 他人の評価なんて、どうでもいい。ただ、千賀先輩に「よかったよ」って言ってもらえたら、それだけで嬉しい。

「選考会」が始まった。今日は中山先生がお休みとのことで、麗先輩のまなざしがいつにもまして厳しい。

 高円寺先輩と並んでボードに視線を走らせたあと、皆を見渡して儀式のように告げる。

「それでは、花宮はるかさんからお願いします」

 また一番目。わたしの名前が呼ばれると、音楽室に奇妙な空気が漂う。あの“お家芸”が飛び出す瞬間を、誰もが待ち構えているような雰囲気。

 でも、わたしは臆することなく、目を閉じて大きく息を吸い込む。千賀先輩の顔を思い浮かべる。

 大丈夫。今日はちゃんと演奏できる。だって、千賀先輩に向けて奏でるのだから。

 スピーカーからピアノの伴奏が流れてくる。不思議と、その音色に郷愁を感じる余裕すらあった。

 フルートを構え、そっと唇を添えて、息を吹き込む。柔らかな音色が、わたしのフルートから流れ出す。最初は静かに、そして次第に力強く。

 音色が広がると、音楽室の雰囲気が一変した。まるで壁が消えたような、開放的な空気に包まれる。

 物憂げでしっとりとした音色は、朝露の匂いを含んでいた。草原の濡れた新芽が天を仰ぎ、湖面が森の木々をくっきりと映す。そよそよと囁く風の音、その温度。

 部員たちがあたりを見回している。わたし自身も、田園に佇んでいるような錯覚を覚えた。

 それは、曲に込められたハンガリーの田園の風景としか思えなかった。部員たちは皆、耳と目と肌で、曲のイメージを感じ取っているみたいだった。

 音色が高まりを見せると、森は陽の光に照らされ、緑は鮮やかさを増していく。木々の隙間から差し込む木漏れ日が、陽だまりを作る。

 演奏の舞台となった音楽室が、幻想的な別世界のように感じた。まるで音楽の神様、ミューズが舞い降りたような、幸福に満ちた世界。

 誰もが息をのみ、演奏を聴き入っている。時間は静かに流れ、ただフルートと伴奏のピアノだけが、その空間の空気を震わせている。

 最後の音を解き放ち、フィナーレを迎える。わたしはフルートをそっと唇から離すと、安堵の気持ちでいっぱいになり、小さな吐息をこぼした。

 ふと、制限時間を超えていたことに気づいた。それなのに、演奏は止められなかった。

 しまったと思い、おそるおそる音楽室を見渡すと、誰も拍手をしていない。ただ、すべての視線が、無言のまま、わたしに向けられている。

 拍手がないのは、上手くない演奏で時間を費やしてしまった反感からだと思った。

「わたし、下手くそなのに最後まで演奏させてもらっちゃって、すみませんでした!」

 慌てて謝ると、最初に口を開いたのは高円寺先輩だった。切れ長の目が驚いたように見開かれ、声はかすかに震えていた。

「花宮……君はどうして、その音色を……?」
「えっ、どうしてって……?」

 すっとんきょうな声で返すと、高円寺先輩ははっとして「いや、なんでもない」と言い、そのまま口を閉ざした。すると、麗先輩がすかさず声をかけてきた。

「花宮さん、もう結構です。席に戻ってください」
「あっ、は、はいっ」

 気まずさを感じながら、そそくさと元の席に戻る。菜摘の隣に腰を下ろし、ほっとため息をついて、小声で話しかける。

「はぁ……やっと吹けた。ドキドキしたなー、もうっ」

 振り向くと、菜摘は目を丸くしてわたしを見つめていた。

「はるか……どうしちゃったの?」

 まるで重い病気を患った友人を気遣うような言い方に、わたしは首をかしげる。

「え……? 思いっきり元気だけど」
「そうじゃなくて、ちゃんと吹けるじゃん。しかもめっちゃ上手かったし。あたし、田園の風景が見えた気がしたよ~」
「えっ、そ、そうかなぁ? あんまり自信なかったんだけどなぁ……」

 照れ笑いを浮かべると、麗先輩が次に菜摘の名前を呼んだ。菜摘はサクソフォンを抱えて、勢いよく檀上に向かう。

「あたしも頑張るから、よく聴いていてね!」

 その演奏に、わたしも驚くことになった。

 菜摘のサクソフォンの音色は、いつにもまして躍動感があった。トパーズ色の音符が楽しげに飛び回る。目の前に踊るように舞う音符が流れてくる。

 そっと指先を立てて、手を伸ばす。触れると、音符は勢いよく弾けた。

「ああ、嬉しい――!」
「はるかが上手く吹けてよかった――」
「今度はふたりで音楽、奏でたいよ――!」

 まるで、ずっと待っていたよって言ってくれたみたいな、期待に満ちた音色。その本心に心臓が跳ねあがった。

 そうだったんだ。アンサンブル部に誘った菜摘は、わたしが恥をかいたことに責任を感じていたんだ。でも、もう大丈夫だよ、菜摘。わたし、千賀先輩に勇気と自信をもらったから、これからちゃんと演奏できるよ。

 そんな思いが胸の奥でじんわりと広がっていく。

 わたしは菜摘の演奏を聴きながら、そっと目を閉じた。音符たちが跳ねて、踊って、笑っている。そのひとつひとつに、菜摘の気持ちが宿っていた。

 ああ、音楽って、やっぱりすごい。言葉じゃ伝えきれないことも、音なら届く。わたしは、本当に音楽の世界に戻ってこられたんだ!

 菜摘の演奏が終わると、音楽室に拍手が広がった。わたしも思わず手を叩いていた。心からの拍手だった。

 わたしは席に戻ってくる菜摘を、満面の笑みで迎えた。

「すごかったよ、菜摘。音符が、ほんとに楽しそうだった」
「えへへ、ありがと。はるかが吹いてくれたから、あたしも頑張れたんだよ」

 そう言って、菜摘は照れくさそうに笑った。その笑顔が、わたしの胸をまたあたたかくしてくれる。

 選考会は続いていたけれど、わたしの心はもう、静かに満たされていた。演奏できたこと。菜摘と音楽で繋がれたこと。それだけで、今日という日は特別なものになった。

 でも――。

 その時のわたしは、まだ知らなかった。音楽が誰かの心を癒すように、時には誰かの心をざわつかせることもあるということを。