フィーネの旋律

 翌週の月曜日、部員たちは選考会に向けて追い込みの練習で遅くまで残っていた。けれど、わたしはそっと音楽室を後にした。

 自分に期待なんてしていない。でも、演奏上達への期待は、胸の奥で静かに膨らんでいた。フルートを片手に、軽い足取りで屋上へ向かう。

 千賀先輩、もう来ているかな。課題曲の《ハンガリー田園幻想曲》、上手く吹けるようにならなくちゃ。千賀先輩はこの曲、得意なのかな……?

 千賀先輩の顔を思い浮かべながら屋上の扉を開けると、園芸部の女子が三人、花壇の手入れをしていた。でも、千賀先輩の姿は見当たらない。

 なーんだ、まだ来てないのかぁ。

 残念な気持ちが胸をかすめたけれど、すぐに冷静になって考える。三年生は受験を控えていて、授業が早く終わる日もある。わたしより遅くまで学校に残っていることのほうが、むしろ少ないのかもしれない。

 フルートを握りしめながら、屋上をうろうろする。誰かが見ている場所では、緊張してまともに吹ける気がしない。もし吹いたとして、ピーヒョロロって音を出して笑われるのがオチだ。

 遠くの景色をぼんやりと眺めながら千賀先輩を待つ。校庭ではサッカー部の掛け声とボールを蹴る音が響いていた。

 城西高等学校は、都会とも田舎とも言えない衛星都市にある。北側には山々の稜線が広がり、野鳥のさえずりが風景に色を添えていた。

 南側には幾何学的に整備された街並みが広がり、公園や広場が点在していて、無機質な建物に緑のアクセントを与えている。

 世界は音色で満ちている。自然の中にも、日常の中にも、魂を宿した音楽がある。雑然としているのに、どこかリズミカルで、わたしの心を揺らしてくれる。

 気づけば、屋上にいるのはわたしひとりだけになっていた。だから、思い切って練習を始めることにした。フルートを構え、大きく息を吸い込む。目の前の世界に向かって、心に閉じ込めた音色を解き放つ。

 音符は宙を舞い、風にたゆたう。音符たちとの、久しぶりの戯れの時間。

 とんびが高音域の鳴き声をあげて、わたしにハーモニーを贈ってくれる。

 秋風もそっと囁いて、わたしの音色を歓迎してくれているみたい。

 音が自然の中に溶けてゆくと、時間の感覚が薄れていく。

 ああ、音楽って、やっぱりいいな――そう思って、夢中で演奏を続けていたその時。背後から、フルートの音色が響いてきた。

 わたしの演奏と同じ《ハンガリー田園幻想曲》。わたしのリズムに並走する、別パートのパッセージ。

 驚いて振り向くと、フルートを演奏する千賀先輩の姿があった。

 沈みゆく太陽の光が輪郭を揺らしていて、先日よりもずっと明るく、健康的に見えた。

「あっ、千賀先輩、こんにちは!」

 慌てて深々と頭を下げると、先輩は演奏を止め、柔らかく微笑んだ。

「こんにちは。この前とは逆の立場だね。どうだい、驚いたかな」

 いたずらっぽく笑うその顔に、胸の奥がふわりと温度を高める。

「君には驚かされたから、仕返しのつもりだったんだ」
「ごっ、ごめんなさい……やっぱり迷惑でした?」
「いや、本心では大歓迎だよ。じゃあ、さっそく――」

 先輩はゆったりと歩いてきて、わたしの隣、手を伸ばした少し先の距離に立った。

 サッカー部も日没に合わせて部活を終え、屋上は静寂に包まれていた。ふたりだけのステージでは、互いが奏者であり、聴衆でもある。

 千賀先輩がフルートを構える。わたしも向き合って、唇をフルートに添える。

「行くよ。ついておいで」
「はいっ、ご指導よろしくお願いしますっ!」

 高鳴る胸の鼓動に、声が少し震えた。音楽への熱い想いを、呼吸に乗せてフルートに送り出す。

 すると、ふたりの空間は音符たちの舞台に早変わり。命を宿した音符のイルミネーションが、メロディに乗って踊りだす。

 ああ、なんて美しい音色!

 千賀先輩の奏でるメロディの透明感に、わたしは心を奪われる。けれど油断せず、音符たちを目で追いながらフルートを吹き鳴らす。

 音楽の世界に、戻ってこられたんだ――その実感が、胸いっぱいに広がっていく。つい、演奏しながら笑みがこぼれた。

 ――ただいま、音符さんたち。