フィーネの旋律

 春の光が差し込む音楽室。檀上で赤城がうやうやしく頭を下げる。

「皆さんはじめまして、ワタクシがアンサンブル部の部長をやっています、赤城と言います」

 新年度を迎えたこの日、部の新体制を告げる挨拶が始まった。

 並べられた椅子の最前列には、初々しい新入生たちがずらりと並ぶ。桜色の季節だというのに、室内は期待と緊張の熱気に包まれていた。

「それから、副部長はこちらです」

 赤城が手のひらを向けた先に、小柄な女子がひとり、ちょこんと立っていた。

 ツインテールの髪が揺れ、少し照れたような笑みを浮かべながら、彼女は一歩前に出る。

「二年の花宮はるかです。今日は皆さんに、アンサンブル部の演奏をお届けしたいと思います」

 その言葉に、音楽室がざわめいた。昨年の実績を知らない者などいない。なにせ、音楽室の壁には賞状が高々と掲げられているのだ。それも、音楽の女神ミューズの肖像画よりも高い位置に。

 賞状は二枚。ひとつはフルート三重奏での「金賞」、もうひとつは混成八重奏での「銀賞」。いずれも全国大会での結果である。

 誇らしい。けれど、だからこそ恥ずかしい演奏は聴かせられない。そして今日の演奏には、心強い助っ人が来てくれることになっていた。

「でも、レジェンドのおふたりがまだ到着していませんので、まずはアンサンブル部の活動についてご紹介したいと思います。では、赤城部長、よろしくお願いします」

 はるかはそう言って、司会のバトンを赤城へと渡す。まるで音楽のフレーズを次の奏者に託すように。

♪♪♪

 駅を降りた涼太は、かつて在籍していた高校へと早足で向かった。七分袖のストライプシャツにジーンズという、大学生らしいラフな装いだ。

 その後ろから追いかけてくるのは、パンプスの小気味よい足音。涼太が立ち止まって振り返ると、薄水色のワンピースを着た麗が、息を切らせながら追いついてきた。

「はぁはぁ、私一応、女子なんだから少しは手加減してよね」
「悪い悪い。元部長が遅刻するわけにはいかないから、つい焦っちまって」
「大学のオリエンテーション、学長の話ながーい!」
「しかし、なんて因果だ。まさかお前が俺と同じ大学、しかも医学部に進学するとはな」

 語尾はだいぶ呆れたような物言いだった。

「あー、それひどくない? 彼女に向かって言う言葉じゃないと思うんだけど」

 桃色の唇を尖らせて不貞腐れる麗。それでも頬を赤く染め、嬉しさを滲ませている。

「誰かを救うって素敵だなぁ、って思ったからね。別に涼太と一緒の大学じゃなくたってよかったんだけど」
「おい、それ強がりだろ」
「さあ、どうでしょうね。でも、私が涼太から離れたら心配する?」

 麗はすまし顔でそう言ってみせた。

 ふたりの関係は変わったようでもあり、そうでもないようにも見える。けれど麗はわがままを言えるようになったようで、そのぶん笑顔が増えたことに涼太も気づいていた。かつて「氷の女王」といわれた面影はどこにもなかった。

 高校に到着すると入り口で構える守衛さんに入校の許可をもらう。「赤城さんから聞いていますよ」と二回返事で通され、そのまま音楽室へと向かった。

 音楽室の扉を開けると、予想よりもたくさんの学生がいて、羨望を含んだまなざしをいっぺんに向けられた。

「こんにちは、お待ちしていましたー!」

 最初に挨拶をしたのは、花宮はるかだった。ふたりの姿に部員たちは色めき立つ。涼太と麗は現在の部員だけでなく、新入部員にとってもレジェンドである。

「これから屋上で特別イベント、新入生歓迎の演奏会を行います。わたしとゲストの先輩方は先に行って準備していますね。皆さんは赤城先輩と一緒に、十五分後に来てください」
「じゃあ、はるか、よろしくね。おふたりを丁重におもてなししてね」
「はい、わっかりましたぁ~!」

 そう言って背筋をしゃんと伸ばし、歯切れよく敬礼する。続けて、まるで何かを企んでいるような、戯っぽい笑みを浮かべた。

♪♪♪

 はるかは麗と涼太とともに屋上に向かう。途中、階段を昇りながら涼太が麗に話しかけた。

「あれから半年かぁ。懐かしいような、短かったような感じだな」

 麗は感慨深そうに当時を思い出す。

「本当ね、それにしても花宮さんって不思議な子。呆れるくらいにね」

 聞いたはるかは、照れくさそうに頭を掻いた。

「へへへぇ~、今は何の取柄もない、ただのフルート奏者ですけどね」

 あの演奏をした日以来、目に映る音符は薄れてゆき、徐々にはるかの視界から消えていった。千賀が奏でた神を冒涜する音楽を浴びたせいだったが、今度こそ本当に、音符が視えなくなっていったのだ。

 階段を昇りきり、鋼鉄製の扉の前にたどり着く。

 はるかと涼太は、ともに千賀と屋上で同じ時間を過ごしたふたりだ。だから涼太はみずからはるかに提案をする。

「花宮、この扉、一緒に開けるとするか」
「いいですね、そうしましょうか!」

  そう言うはるかの頬は少しだけ紅に色づいていた。女子の心情に疎い涼太ではあるが、麗のことで学習したのか、それが何を意味するのか気づいたようだった。そのことに涼太自身も少しばかり驚き、同時に嫉妬にも似た、複雑な感情が呼び起こされた。

「「せーのっ!」」

 ふたりでノブを回す。きぃ~、と軋んで屋上の扉が開くと、斜陽が扉の隙間から差し込んで足元を紅色に照らしだす。光を辿るように三人で屋上に踏み出した。

 夕陽で紅に染まる屋上には、よく知る男性の背中姿があった。

 その人はゆっくりと振り向き、かつてと変わらない、澄んだ微笑みを浮かべる。涼太は目を見開き、一目散にその男性に駆け寄った。

「貴音さん、ついに歩けるようになったんですか⁉」

 千賀は自分の両足を手のひらで軽く叩き、照れくさそうな笑みを浮かべる。

「歩くためのトレーニングは大変だったが、だいぶ回復したよ。涼太、僕の足が駄目にならないようにと、君がリハビリを手伝ってくれていたんだって聞いたよ。感謝の言葉もない」

 千賀のまっすぐなまなざしに、涼太は顔を赤らめた。

「よかったです、貴音さんがちゃんと元気になって。でもやっぱり――」

 それからはるかを一瞥する。

「なにより花宮が最大の立役者ですよね」
「いや、みんなのおかげだよ、本当にありがとう。僕の人生の五線譜には、フィーネはまだ書き込まれていなかった」

 そこで、はるかが涼太の顔を覗き込む。

「高円寺先輩、あたし先輩にご報告があります」

 同時に千賀は知らん顔をしてそっぽを向く。その仕草にやっぱりそういうことかと、涼太は確信した。

「千賀先輩、もとい『貴音さん』は、あたしの彼氏になりましたぁ~!」

 一瞬、驚いた表情を浮かべる涼太。けれど自制心が勝り上手く笑顔を作ることができたようだ。

「おおっ、そうか、おめでとう! 音楽家同士、お似合いじゃないか」
「というわけで潔く諦めてくださいねっ!」

 はるかはびしっと鋭く涼太を指差した。その一撃が含む意図に、涼太はすこぶる苦々しい顔をしてのけぞった。

 千賀はそんなふたりのやり取りを目にしておかしそうに笑う。

「だけど僕は、はるかのせいで神から見放されたようだよ」
「それは音符が視えなくなったってことですか、花宮さんと同じように」

 麗が千賀に尋ねた。

「ああ、そういうことだ。だけど将来は音楽の道に進みたいと思っている。音楽の神を冒涜した癖にだよ、笑っちゃうだろ」
「たっ、貴音さんだったら絶対、大丈夫ですよ。神の寵愛なんかなくたって!」

 ウインクしてぐっと親指を突き立て格好をつける涼太。

「そう言ってもらうと勇気が湧くな。君はやはり、いつまでも僕の親友だ。だけど――」

 千賀は涼太に意味ありげに歩み寄る。そして耳元に唇を近づけ、そっと囁く。

「男同士でのキスは勘弁してくれよな」

 とたん、涼太の顔は夕陽よりも真っ赤になり、頭から湯気が立ち昇る。

 会話を聞き取れなかった麗は不思議そうな顔をして、きゅーっと長い首を傾げた。

 そこではるかはひとつ手を叩き、皆に声をかける。

「さあ、みんなが来ちゃいますから、急いでリハーサルをしましょうか。曲は『想い出は銀の笛』、ちなみに『四重奏』ですよ~!」
「おっ、そうこなくっちゃ」

 千賀は晴れ晴れとした顔でフルートを構える。麗も黙って微笑み、唇をフルートに添える。涼太は赤らめた顔のまま麗の隣に並んだ。はるかも千賀にそっと肩をよせる。

 沈む夕陽を群青が追いかけてゆく空に向かってフルートを構えた。はるかは心の中で千賀に語りかける。

 あたしと貴音さんの出会いの曲ですよ。ここから始まったんです、あたしの音楽の人生は。

 そして胸いっぱいに澄んだ空気を吸い込んだ。

 四人で奏でるメロディのハーモニーが、夕暮れの空に舞い散ってゆく。

 音色に心を委ねながら遠くに目をやると、山の稜線には一番星が静かに瞬いていた。

 まるで音楽で繋がった四人の未来を、明るく照らし出すように。

  【了】