フィーネの旋律

 気づいた時、わたしは濃い霧の中に立っていた。視界はぼんやりしていて、何もはっきり見えなかったけれど、足元が坂道になっているのはわかった。どうやら、その坂を昇っているみたいだった。

 霧の隙間から、ほんの少しだけ風景が覗いていた。目を凝らすと、それが城西高等学校の学園祭の様子だと気づいた。舞台裏に人が集まっていて、わたしはその様子を空の上から見下ろしているような感覚だった。

 ――わたし、どこに向かって歩いているんだろう?

 そう思っていると、坂の上から人の気配が降りてくる。その気配はゆっくりと近づいてきて、わたしの前で止まった。霧が少しずつ薄くなっていって、銀白色のフルートを持った男性の姿がはっきりと見えた。

「千賀先輩……?」

 見上げた千賀先輩の表情には、憂いと、どこか罪悪感のような湿度が滲んでいた。

 その顔を見た瞬間、わたしは自分がどういう状況にいるのか、すぐに理解した。

「わたし、また倒れちゃったんですね。やっぱり、あの時と同じ……」
「……ああ、そのようだね」
「音符が視えるのって、たぶん悪い能力だったんですよね。わたしが倒れたのも、あんな演奏をしたせいで……。やっぱり、音楽、向いてなかったんだなぁ。皆に、ごめんなさいって謝らなくちゃ」

 乾いた笑みが、自然と口元に浮かんだ。自分でも、なんで笑っているのかわからなかった。

 千賀先輩は、わたしが責めると思っていたのかもしれない。演奏を促したことを後悔しているのかもしれない。でも、わたしの中には、怒りの感情なんてちっともない。

「ねえ、千賀先輩。わたし、わがまま言ってもいいですか。できれば、叶えてほしいんですけど」
「……ああ、なんでも言ってくれ。僕にできることなら」

 千賀先輩の声は、呵責を滲ませて少しだけ苦しそうだった。それでも、わたしの目を見て答えてくれていた。

「今なら、触れられますか? 千賀先輩のその長い指に。素敵な音色を奏でるその手のひらに。わたしが触れたら、千賀先輩は消えちゃうんですよね。でも、今なら大丈夫なはずでしょ?」

 わたしの言葉に、千賀先輩は何も言わず、静かに手のひらを差し出してくれた。

 その指先に、そっと触れた。軽く握って引き寄せて、手のひらを自分の頬に当てる。あたたかかった。やさしかった。涙が、ぽろぽろとこぼれて止まらなかった。

 涙の雫が頬を伝って、千賀先輩の手のひらを濡らしてゆく。

「……わたし、音符が視えなくなったんだって、お母さんに嘘をついていました。悪い子ですよね。それに、みんなの心の中を覗き見して楽しむなんて、ひどい子ですよね。音楽は素人で、下手くそで、みんなの邪魔になっちゃうくせに……」

 声が震えていた。でも、千賀先輩は黙って、わたしの言葉を受け止めてくれていた。

「でも、千賀先輩みたいな素敵な人に出会えて、一緒に演奏するのが楽しいって思えて、コンクールのメンバーにも選んでもらえて、舞台で演奏できて……たくさん、たくさんいいことがありました。思い残すことなんて、ありません」

 わたしは千賀先輩の目を見つめた。いつまでも一緒にいたい。心の底からそう思った。

「だけど……千賀先輩とは、離れたくないなぁ……。だから、わたしのこと、連れていってもらえませんか? 千賀先輩と一緒にいられるなら、それだけでいいんです」

 千賀先輩は曇った顔になって、すっと視線をそらした。

 その時だった。もうひとつの足音が、霧の中から近づいてきた。

 現れたのは、背の高い細身の男性だった。その男性はわたしたちの姿を確認すると、小さくうなずいて言った。

「ああ、この子が『フィーネの旋律』を奏でたのですね。同じ時間、同じ空間に、この特性を持つ人間がふたりも存在するなど、奇跡的な巡り合わせではないですか」

 その声は穏やかだったけれど、視線は鋭くて、わたしをまっすぐ捉えて離さなかった。

「誰ですか、この人……?」

 不安が胸を締めつけて、わたしは千賀先輩に尋ねた。

「名前は聞いたことがあると思う。瀧廉太郎さんだ。彼も僕たちと同じなんだ」

 瀧廉太郎――有名な音楽家で、作った曲はよく教科書に載っている。そのためか、初めて会ったというのに、どこかで見たことがある気がした。

 瀧さんは千賀先輩に向かって、落ち着いた口調で言う。

「それでは千賀さん、その女性をしかるべき世界に案内させていただきます。神々もお待ちかねです」

 その言葉に、はっとして千賀先輩の顔を見上げる。

「千賀先輩……どういうことなんですか」

 わたしの問いに、千賀先輩はようやく口を開いた。その声は、絶望にも似た重さを含んでいた。

「はるか、僕とはここでお別れだ」

 千賀先輩の言葉が、霧の中で響いた。

「えっ……どうして連れていってくれないんですか」

 さっきまで手のひらに感じていたぬくもりが、急に冷めていくようで怖かった。

「君はひとりで行かなければならないんだ」

 その言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。

 すると、瀧さんが静かにうなずいて、紳士的な仕草でわたしに声をかけてきた。

「お嬢さん、魂の姿となったあなたをお待ちしている方がいらっしゃいます。私がその方の元へエスコートいたします」

 その瞬間、千賀先輩の表情が変わった。覚悟を秘めた、強い目をして瀧さんを見つめていた。

「いや、そうではありません。はるかは現世の仲間の元に帰ってもらいます。この子には輝かしい未来があり、大切な友人も仲間もいます。それらを身勝手な運命なんかに奪わせるべきではなかった。だから僕が赴けばよいのでしょう」

 わたしは千賀先輩と自分の運命が、ここでほどかれてしまうのだと悟った。

「いやですっ!」

 声が勝手に出た。涙が込み上げて、胸が苦しくて、気持ちが抑えられなかった。

「わたし、千賀先輩と離れたくない! 一緒にいられるのなら、どうなっても構わないから!」

 千賀先輩の詰襟服の袖を掴んで、ぎゅっと腕を手繰り寄せる。

 千賀先輩の瞳は澄んでいて、わたしの悲しみをそのまま映していた。見下ろすやさしい目が切なくて、胸が張り裂けそうだった。

「いいかい、メロディにもいつかはフィナーレが訪れる。僕と涼太の想いを叶えるために頑張ってくれた君を、僕が連れていってはならないんだ。だから未練から解き放たれたら潔く天に召すのが僕たちのような者の掟であり、僕たちが住んでいた世界への感謝でもある。僕は君の未来を冒涜できるはずがなかったんだ」

 千賀先輩は、わたしの顔を覗き込んで、ゆっくりと目を細めた。風のように、耳元で囁いた。

「僕も君が好きだったよ、はるか」

 その言葉は、夜空にこぼれる月の光のように淡くて、でも確かに胸に沁み込んだ。

 あふれだす寂しさを抱えきれなくなって、涙がとめどなくこぼれた。

 千賀先輩は瀧さんに向かって、毅然とした声で言った。

「僕だって屋上で暇を持て余していたわけではないんです。いろいろ調べていたんですが、もしもこの能力が神話の通りなら、描けるのは眩い世界だけではないはずですよね」

 そして、フルートを構えた。

 涙をぬぐうと、瀧さんが怪訝そうな顔をしていた。

 千賀先輩のフルートから、メロディが解き放たれた。今までの澄んだ音色とはまるで違う。地の底から沸き上がるような、禍々しさを宿した不穏な旋律。

 瀧さんは、その音に何かを感じ取ったようだった。脳裏に五線譜を描いて、譜面を埋めていくような仕草をしていた。

 ほんの数秒で、瀧さんが険しい顔に激変した。千賀先輩の奏でるメロディが、何かとんでもないものだと、わたしはすぐに気づいた。

 その音――どこかで聴いたことがある気がした。だけど、絶対に聴いたことのない旋律。

 ショパンの……『別れの曲』……?

 でも、時間が巻き戻されているみたいに、旋律が逆流していた。千賀先輩は『別れの曲』をフルートで『逆再生』していた。

 瀧さんの目が見開かれて血走り、口元が歪んだ。

「いけません! 音楽を終止線から遡るなど冒涜に等しいことです! 今まであなたが存在していた世界の音楽は、逆再生によって多くの呪いの言葉を生み出しました! 神々は不浄なメロディを浴びた者を許すはずがありません!」

 戦慄した言葉が、霧の中を鋭く突き抜ける。

 確かに、逆再生された音楽には、負の意味を持つ言葉が隠れていることがあるって聞いたことがある。だけど何のために――?

「望むところだ。神話で伝えられる神の事情など、今を懸命に生きているはるかには関係のないことだ! 僕ははるかをそんな運命から解放してやるんだ!」

 千賀先輩の声が、怒りと決意に満ちていた。

 その瞬間、千賀先輩のフルートから、漆黒の音符が濁流のように流れ出した。音符がわたしを呑み込んで、砕けて火花を散らせる。

「せっ、千賀先輩っ! やっ、やめてくださいっ!」

 わたしは必死に叫んで抵抗した。でも、千賀先輩はそのメロディを、さらに強く、クレッシェンドで奏で続けた。

「はるか、君にお願いがある。涼太に伝えてくれ。僕は音色のように世界から消えても確かに存在し、君のよき友人であり続けると!」
「千賀先輩っ! 行かないでっ!」

 わたしは黒い音符に押しやられて、じりじりと坂の下へ引き戻されていった。風が強くて、足が踏ん張れなくて、身体が浮きそうだった。

「そしてさよならを伝えてくれ、お願いだ!」

 その言葉が最後だった。黒い音符が、一気に爆発した。

「きゃあっ!」

 爆風に巻き込まれ、身体は宙に放り出された。風圧に押されて、空の彼方へ飛ばされていくような感覚。霧がふたたび濃くなって、すべてが白く染まっていった。

 そしてまた――そこにあった意識が、押しやられるように消されていった。