フィーネの旋律

 その男子生徒は、わたしが見たことのない人だった。妙に大人っぽい、落ち着いた雰囲気。襟元には学年を示す『Ⅲ』のバッジがあったのに気づいた。

 ふたつ上の先輩なんだ。ということは、高円寺先輩の同級生のはず。急に緊張し、首から上がのぼせたように熱くなる。

「あっ、あの……」

 どんなふうに切り出せばいいのかわからず言葉が出ない。

「ごっ、ごめんなさい、どうぞ」

 手のひらを差し出し、会話の主導権を彼に譲る。彼は少しだけ驚いたような素振りをして、それから静かな表情に戻った。

「君は不思議な人だね。僕に話しかけるなんて」

 それが彼の、最初の言葉だった。

「いっ、いえ! とっても素敵なメロディだったので、つい……邪魔して怒っているんじゃないかなって心配したんですけど」

 あたふたと答えるわたしを見て、彼はくすっと小さな笑みをこぼす。

「初めまして。とっても上手だったよ、君の演奏。僕は千賀貴音(せんがたかと)。音楽記号の『スタッカート』から『貴音』って名前がついたんだ」

 あたたかみのある自己紹介にわたしの緊張の糸がするっと緩んだ。

「あはっ、わたしは花宮はるか。アンサンブル部で下手すぎて、お笑い担当やっています」

 さっきまであんなに落ち込んでいたのに、失敗を自虐的ネタにするなんてお調子者だなぁ、と心の中で苦笑する。

「あがり症でダメなんですよぉ、人前で演奏するの」
「ううん、大丈夫なはずだよ。だって一緒に演奏できたじゃないか」
「千賀先輩のメロディが優しいからうまくできたんです。人がいっぱいいると、笑われるんじゃないかって怖くなって、上手く演奏できなくて、結局笑われちゃうんです。その……自信がないっていうか、根っから臆病っていうか……」

 次第に声のトーンが下がって困惑するわたし。すると千賀先輩は面白そうな顔で提案をした。

「じゃあ、君が自信を持って演奏できるように、僕のメロディを君にあげるよ。だからちゃんと、貰ってくれないか」

 メロディを貰ってほしい?

 千賀先輩の言い回しは少し奇妙で、違和感を覚えた。でも、もしもわたしがこんなに綺麗なメロディを奏でられるようになったら――。

 そう思い、息を吸って心を落ち着けてから返事をする。

「はいっ、千賀先輩にフルートを教えてもらって、上手になりたいです。でも、どうして千賀先輩は、こんなに澄んだ音色が奏でられるんですか?」

 わたしの目に映る千賀先輩の音は、今まで見たことのない色彩だった。透明でいて、内部に光を蓄えたような不思議な色合い。だからわたしにとっては、ごく素直に抱いた疑問だった。

 ところが、その質問を聞いた千賀先輩は、わたしにしかわかるはずがないことを口にした。

「君は音色を掴まえられる(・・・・・・・・・)んだね」
「えっ!?」

 驚いて背筋がしゃんと伸びた。胸が早鐘を打ち、冷たい汗が背中を伝う。

 わたしの表情を見て千賀先輩は察したのか、穏やかな笑顔を浮かべてみせた。

「あっ、やっぱりそうなんだ。でも大丈夫だって。誰にも言ったりしないよ」

 初めて会ったばかりの千賀先輩になぜそれがわかるのか、理解できなかった。音楽室で音符に触れる仕草をしても、誰も気づくことはなかったというのに。わたしは千賀先輩の確信に満ちた言いっぷりに困惑するしかない。

 でも、態度で肯定してしまった以上、観念して千賀先輩を信じるしかない。

「……どうしてわかったんですか?」
「音色が掴まえられることは、とても大切な意味があるんじゃないかな。神様は無駄なものなど、何ひとつ与えたりしないものだよ」

 千賀先輩は目を細め、諭すように言った。

「はぁ……。でもわたし、なんでこんななのかよくわからないんです。小さい頃、音符が視えるって言ったら頭がおかしいと思われたし、お母さんに迷惑かけちゃったし」
「はるか、君は音が掴めるだけじゃない。君の音色はとても不思議な風を感じさせるよ。まるで世界を描くような――そんな印象を受けたんだ」
「世界を……描く……?」

 わたしは千賀先輩の語る意味がよく理解できないでいた。けれどその言葉には、世界の(ことわり)に触れる者だけが知る重たさがあるように思えた。

「わたし、頑張ってフルートを練習してみようと思います。そうしたらわかるかもしれないですね。だから千賀先輩、よろしくお願いします!」

 勢いよくおじぎをすると、千賀先輩はわたしの目を見つめて静かに返事をする。

「うん、僕は放課後、ここにいるよ。いつでもおいで」

 それから一呼吸置いて続ける。

「だけどひとつだけ、約束がある。僕のことは絶対、内緒にしてほしい。僕の名前、僕の奏でる音色、それに僕と会ったことも。僕のことを他の人に尋ねても駄目だよ。特に高円寺には絶対、知られないように」

 ――高円寺先輩?

 千賀先輩が高円寺先輩のことを口にした――ということは、千賀先輩は、アンサンブル部と関係があるに違いない。でも内緒にするなんて、過去になにかあったのかもしれない。

 不思議に思い、千賀先輩の顔を見つめたけれど、夜の帳が下りていて表情が読み取れない。

 けれど秘密のひとつやふたつくらい誰にでもあることだからと、わたしは理由を訊くことはなかった。

「はーい、ちゃんと秘密にしますね、千賀先輩のこと」

 星の光しかない空の下で、千賀先輩が優しく微笑んだように、わたしには感じられた。