フィーネの旋律

 まさか。そんなこと、ただのお伽話にすぎない。そう思いたかった。でも、もしそれが真実なら――完璧な『世界を描く旋律』を奏でた者は、魂が音符となって神の懐に抱かれる運命を迎えるということなのか。

 頭を抱え込み、屋上の床にひざまずいた。瀧の重々しい声が、頭上から降りかかる。

「あなたがどのように解釈するかはわかりませんが、今、音符となったあなた自身がまさにその証だと思いませんか」
「だから僕は死んだのですか。かつて躱された女神と人間の約束のために、殺されたと?」

 僕は瀧を睨みつけた。けれど彼は小さく首を横に振り、意味ありげに口角を上げた。

「あなたは奏でたではないですか。完璧ともいえる『フィーネの旋律』を。あなたは今や、神の領域の奏者です。魂が天へと導かれるのも、必然の運命なのです」

 その言葉の意味は、痛いほど理解できた。

 僕は気づいていなかった。『フィーネの旋律』は、誰かのために奏でてはいけない音楽だったことを。そして、その事実がなぜ誰にも知られていなかったのかを。

 それは、『世界を描く旋律』の演奏を成功させた者は、その瞬間に死の運命が決定づけられるからだ。

 若くして亡くなった音楽家たち――ショパン、モーツァルト、シューベルト。彼らも、もしかしたら僕と同じ能力の持ち主だったのかもしれない。

 瀧は神妙な顔で語る。

「私は結核に罹患し、人生の終幕を自覚した時、愛する女性を自分の音色の世界に誘い、彼女と意識を共有しました。死因は表向きでは病死として伝えられていますが、こうして世界の音色のひとつとして存在しています。その運命に、私は誇りすら感じています」

 この人は、そうして亡くなったのか――僕は納得するしかなかった。

「『フィーネの旋律』を奏でた者は、『悠久の約束』により女神の懐に抱かれるのです。神々の世界に迎え入れられるとなれば、あなたも誇らしい気持ちになれるでしょう」

 瀧はそう言ったけれど、受け容れられるはずがない。

「嫌だ! 僕は涼太と演奏をするんだ。神なんて、僕が生きてゆくには必要のないものだ!」

 瀧は目を伏せて、深いため息をつき、ためらいがちに言う。

「でも、あなたでなければならないとも限りません。女神の得心があれば、あなたの魂は『悠久の約束』から解放されることでしょう」
「得心……? それはいったい、何なんですかっ!」

 声を荒らげて詰問すると、瀧は声を低くし、それがけっして許されざる行為であることを滲ませながら答えた。

「もしも神の寵愛を享受できる人間が同時に存在し、その人間が完璧な『フィーネの旋律』を演奏できたのであれば、神の寵愛の対象はあなたでなくともよくなります。必然的に、あなたの魂は解放されることでしょう」

 つまり、僕と同じ特性を持つ人間がいて、『フィーネの旋律』を奏でられるのであれば――。

「もしも、そのような人間を見つけたら、ということですね」
「はい。無論、音符が視え、それに触れられるというだけでは資格はありません」

 僕には心当たりがなかった。音符を目で追い、指先で触れる――そんな仕草をする人間に、これまで出会ったことがなかった。

「ですが、あなたの魂の猶予は三年ないと、私は見立てています。どうか早急の決断とご自愛を」

 そう言い残して、瀧は屋上から姿を消した。僕は彼が消えた空を見上げながら、ただ茫然と立ち尽くしていた。