その後のことは、僕にはもうわからない。ただ、誰かが僕の手を握っていた気がする。涼太だったのか、清井だったのか、それとも誰か別の人だったのか――それすらも、確かめることができなかった。
医師の声が届いたのは、ずっと後になってからだった。
一命はとりとめた、と。けれどそれ以来、僕は目を覚ますことができなかった。僕は、自分に起きたことをどうしても受け容れられず、ただ茫然と立ち尽くしていた。
医師の診断は、発作性不整脈と低酸素脳症による植物状態――そんなはずがない。僕はここにいる。手足も動くし、フルートだって演奏できる。何ひとつ変わったことなんて、ないはずなのに。
病室の壁際に立ち、ぼんやりと様子を眺めていた。突っ伏して泣きじゃくる母、椅子にうなだれて動けない涼太、彼を気遣う清井。
そして、ベッドには横たわる僕自身の姿があった。涼太が虚ろな目でぽつりとこぼす。
「俺は信じない……信じるもんか……」
そうだ、信じられるものか。僕たちはコンクールで演奏するんだ。これから一緒に全国を目指すんだよ。そうだろ、涼太?
僕の右手には、愛用のフルートが握られていた。涼太に気づいてもらいたくて、それを構えて息を吹き込む。いつもと変わらない音色が病室に響き渡った。
まぶたを閉じて、曲を奏で続ける。涼太が嬉しそうに聴き入ってくれる姿を思い描きながら。
けれど、目を開けた時、目の前の光景は何も変わっていなかった。誰も僕の演奏に気づいていなかった。
その瞬間、僕はようやく理解した。僕はもう、誰にも認知されることのない存在なのだと。
ははっ、魂だけがさまよっているって、こういうことなんだな。また、孤独が訪れたみたいだ。
落胆した僕は、ぼんやりとした意識のまま学校の屋上へ向かった。花壇の縁に腰を下ろし、かすかなオレンジを残す地平線を眺める。いつもと変わらない風景だった。
僕はずっと、その場所で時が過ぎるのを待っていた。ここにいれば、涼太がまた来てくれるかもしれない。ふたりで、もう一度演奏できるかもしれない。そんな希望だけが、僕をこの場所に留めていた。
屋上には、時折生徒たちが訪れた。けれど、僕の存在に気づく者は誰一人としていなかった。
孤独な日々のある夜――誰もいないはずの屋上に、人の気配が漂った。
群青の空を背に、ひとりの男性が佇んでいた。僕と同じくらいの身長で、やや細身の若い男性。足音もなく、静かに僕に近づいてくる。その顔を見た瞬間、僕は息を呑んだ。
「あなたは――瀧廉太郎さん、ですよね」
「その通りです。かつての名前ですが」
瀧は僕をまっすぐに見つめ、ためらいなく答えた。
「端的に申しますと、私は貴方を迎えに来ました。しかし意外なことですが、現代の医療は貴方に不要な未練を与えたようです。ですからもう少しだけ時間が要るのでしょう」
ああ、そういうことなのか。どこかで聞いたことがある。冥府に旅立つ時には、使者(死者)が迎えに来るのだと。でも、どうして音楽家が?
懐疑的な表情を察したのか、瀧は穏やかに言葉を継いだ。
「あなたはなぜ、自身がこのような運命を迎えることになったのか、ご存じないようですね。特別な能力を持って生まれた者に定められた、使命ともいえる運命を」
「使命ともいえる、運命……?」
抽象的な表現で意味がよくわからない。
「世界を描く旋律とは、人類が神より音楽を授かった時から続く、『悠久の約束』なのです」
瀧の声は、まるで遠い記憶を呼び起こすようだった。そのまま、彼はゆったりとした口調で語り始めた――僕たちの能力が生まれた神話について。
医師の声が届いたのは、ずっと後になってからだった。
一命はとりとめた、と。けれどそれ以来、僕は目を覚ますことができなかった。僕は、自分に起きたことをどうしても受け容れられず、ただ茫然と立ち尽くしていた。
医師の診断は、発作性不整脈と低酸素脳症による植物状態――そんなはずがない。僕はここにいる。手足も動くし、フルートだって演奏できる。何ひとつ変わったことなんて、ないはずなのに。
病室の壁際に立ち、ぼんやりと様子を眺めていた。突っ伏して泣きじゃくる母、椅子にうなだれて動けない涼太、彼を気遣う清井。
そして、ベッドには横たわる僕自身の姿があった。涼太が虚ろな目でぽつりとこぼす。
「俺は信じない……信じるもんか……」
そうだ、信じられるものか。僕たちはコンクールで演奏するんだ。これから一緒に全国を目指すんだよ。そうだろ、涼太?
僕の右手には、愛用のフルートが握られていた。涼太に気づいてもらいたくて、それを構えて息を吹き込む。いつもと変わらない音色が病室に響き渡った。
まぶたを閉じて、曲を奏で続ける。涼太が嬉しそうに聴き入ってくれる姿を思い描きながら。
けれど、目を開けた時、目の前の光景は何も変わっていなかった。誰も僕の演奏に気づいていなかった。
その瞬間、僕はようやく理解した。僕はもう、誰にも認知されることのない存在なのだと。
ははっ、魂だけがさまよっているって、こういうことなんだな。また、孤独が訪れたみたいだ。
落胆した僕は、ぼんやりとした意識のまま学校の屋上へ向かった。花壇の縁に腰を下ろし、かすかなオレンジを残す地平線を眺める。いつもと変わらない風景だった。
僕はずっと、その場所で時が過ぎるのを待っていた。ここにいれば、涼太がまた来てくれるかもしれない。ふたりで、もう一度演奏できるかもしれない。そんな希望だけが、僕をこの場所に留めていた。
屋上には、時折生徒たちが訪れた。けれど、僕の存在に気づく者は誰一人としていなかった。
孤独な日々のある夜――誰もいないはずの屋上に、人の気配が漂った。
群青の空を背に、ひとりの男性が佇んでいた。僕と同じくらいの身長で、やや細身の若い男性。足音もなく、静かに僕に近づいてくる。その顔を見た瞬間、僕は息を呑んだ。
「あなたは――瀧廉太郎さん、ですよね」
「その通りです。かつての名前ですが」
瀧は僕をまっすぐに見つめ、ためらいなく答えた。
「端的に申しますと、私は貴方を迎えに来ました。しかし意外なことですが、現代の医療は貴方に不要な未練を与えたようです。ですからもう少しだけ時間が要るのでしょう」
ああ、そういうことなのか。どこかで聞いたことがある。冥府に旅立つ時には、使者(死者)が迎えに来るのだと。でも、どうして音楽家が?
懐疑的な表情を察したのか、瀧は穏やかに言葉を継いだ。
「あなたはなぜ、自身がこのような運命を迎えることになったのか、ご存じないようですね。特別な能力を持って生まれた者に定められた、使命ともいえる運命を」
「使命ともいえる、運命……?」
抽象的な表現で意味がよくわからない。
「世界を描く旋律とは、人類が神より音楽を授かった時から続く、『悠久の約束』なのです」
瀧の声は、まるで遠い記憶を呼び起こすようだった。そのまま、彼はゆったりとした口調で語り始めた――僕たちの能力が生まれた神話について。



