「あっ、ホントですね。そしたらジャージに着替えて帰ります。それじゃ、来週からよろしくお願いしますね!」
屋上から響く声は、花宮さんのものだとすぐにわかった。あの、ころころと転がるような調子は、鋼鉄の扉の隙間からでもはっきりと伝わってくる。
こちらに向かってきている――そう察した私は、ローファーの靴音が響かないように細心の注意を払いながら、柱の陰に身を潜めた。息を殺し、気配を消す。わずかに漏れた音は、幸いにも雨がかき消してくれたようだった。
花宮さんは私のそばを通り過ぎ、階段を一歩ずつ降りていく。その背中は、何度も屋上を振り返っていた。まるで、そこに誰かを置いてきたかのように。
屋上には、誰がいるのだろう。
あそこは、かつて涼太が千賀さんとふたりでフルートを練習していた場所。ふたりだけの蜜月の舞台。私はそのことを、痛いほどよく知っている。
まさか……そんなはずはない。
でも、花宮さんのフルートが急に上達した理由が、あの場所にあるのではないか――そんな予感が、私の胸をざわつかせた。
彼女の足音が遠ざかったのを確認してから屋上へと向かい、重い鋼鉄製の扉に手をかける。軋む金属音がして、宵闇に包まれた空間が目の前に広がった。
ここに足を踏み入れるのは、千賀さんが倒れたあの日以来だ。そう思い出した瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
目を凝らして闇の中を探る。けれど、そこには誰もいなかった。ふう、と小さく息を吐く。
花宮さんは、いったい誰と話していたのだろう。ここには誰もいないから、電話をしていたんじゃないかと思う。けれど、雨が降っているのに、わざわざ屋上で電話をする理由なんてないはず。
釈然としない気持ちを抱えたまま、私は屋上を後にした。
私の自宅は涼太の家のすぐ近くにある。モッコウバラのアーチをくぐり、芝生の整った庭を通りすぎてゆく。
和の趣を残した引き戸を開けると、燕尾服を着た服部が玄関に佇んでいた。私の姿を認めると、彼はほっとしたように表情を緩め、深々と頭を下げる。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
ちらとだけ目を合わせ、靴を脱ぎながら答えた。
「ただいま、服部。これからは火曜日と木曜日も帰りが遅くなるわ。コンクールが近いから、後輩を指導しなくちゃいけないの」
「左様でございますか。お嬢様もお忙しゅうございますね。――ところで、いずれの大学に進学されるか、お決まりになりましたでしょうか」
「ううん、まだ思案中よ。お母様には“人生の選択を楽しんでいる”って伝えてちょうだい」
「かしこまりました。前向きな意味で捉えられるよう、上手くお伝えいたします」
そのまま自室へ向かい、ベッドに身を投げ出した。身体から力が抜けて、手足がまるで他人のものみたいに動かない。花宮さんのあどけない笑顔が、ふいに脳裏に浮かんだ。
あの子……キュートでチャーミング。それに千賀先輩に似た、澄んだ旋律を持っている。涼太が惹かれるのも無理はない。先週の選考会の日、あなたの心は花宮さんのメロディに奪われてしまったのね。
どうして、私はこんなにも上手くいかないんだろう。本当に欲しいものを、何ひとつ手に入れたことがない。
毛布をぎゅっと握りしめる。肩が震え、小雨のような嗚咽がこぼれた。
涼太……。あなたは幼い頃から、私の唯一の心の支えだった。だから私は、あなたにふさわしい女性になろうと努力してきたつもり。凛として、綺麗に生きて、弱さを見せないように――自分を誇れるように、そう願い続けていた。
初恋は叶わないって、よく言うけれど。認めたくはないけれど、きっとそれは本当なのね。
たとえあなたが千賀先輩を忘れられなくて、あの子に惹かれていたとしても……それでも私は、想い続けていたかった。
私はきっと、あなたの思い出にしかなれない。でも、この想いは、そんなに簡単に片づけられるものじゃない……。
屋上から響く声は、花宮さんのものだとすぐにわかった。あの、ころころと転がるような調子は、鋼鉄の扉の隙間からでもはっきりと伝わってくる。
こちらに向かってきている――そう察した私は、ローファーの靴音が響かないように細心の注意を払いながら、柱の陰に身を潜めた。息を殺し、気配を消す。わずかに漏れた音は、幸いにも雨がかき消してくれたようだった。
花宮さんは私のそばを通り過ぎ、階段を一歩ずつ降りていく。その背中は、何度も屋上を振り返っていた。まるで、そこに誰かを置いてきたかのように。
屋上には、誰がいるのだろう。
あそこは、かつて涼太が千賀さんとふたりでフルートを練習していた場所。ふたりだけの蜜月の舞台。私はそのことを、痛いほどよく知っている。
まさか……そんなはずはない。
でも、花宮さんのフルートが急に上達した理由が、あの場所にあるのではないか――そんな予感が、私の胸をざわつかせた。
彼女の足音が遠ざかったのを確認してから屋上へと向かい、重い鋼鉄製の扉に手をかける。軋む金属音がして、宵闇に包まれた空間が目の前に広がった。
ここに足を踏み入れるのは、千賀さんが倒れたあの日以来だ。そう思い出した瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
目を凝らして闇の中を探る。けれど、そこには誰もいなかった。ふう、と小さく息を吐く。
花宮さんは、いったい誰と話していたのだろう。ここには誰もいないから、電話をしていたんじゃないかと思う。けれど、雨が降っているのに、わざわざ屋上で電話をする理由なんてないはず。
釈然としない気持ちを抱えたまま、私は屋上を後にした。
私の自宅は涼太の家のすぐ近くにある。モッコウバラのアーチをくぐり、芝生の整った庭を通りすぎてゆく。
和の趣を残した引き戸を開けると、燕尾服を着た服部が玄関に佇んでいた。私の姿を認めると、彼はほっとしたように表情を緩め、深々と頭を下げる。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
ちらとだけ目を合わせ、靴を脱ぎながら答えた。
「ただいま、服部。これからは火曜日と木曜日も帰りが遅くなるわ。コンクールが近いから、後輩を指導しなくちゃいけないの」
「左様でございますか。お嬢様もお忙しゅうございますね。――ところで、いずれの大学に進学されるか、お決まりになりましたでしょうか」
「ううん、まだ思案中よ。お母様には“人生の選択を楽しんでいる”って伝えてちょうだい」
「かしこまりました。前向きな意味で捉えられるよう、上手くお伝えいたします」
そのまま自室へ向かい、ベッドに身を投げ出した。身体から力が抜けて、手足がまるで他人のものみたいに動かない。花宮さんのあどけない笑顔が、ふいに脳裏に浮かんだ。
あの子……キュートでチャーミング。それに千賀先輩に似た、澄んだ旋律を持っている。涼太が惹かれるのも無理はない。先週の選考会の日、あなたの心は花宮さんのメロディに奪われてしまったのね。
どうして、私はこんなにも上手くいかないんだろう。本当に欲しいものを、何ひとつ手に入れたことがない。
毛布をぎゅっと握りしめる。肩が震え、小雨のような嗚咽がこぼれた。
涼太……。あなたは幼い頃から、私の唯一の心の支えだった。だから私は、あなたにふさわしい女性になろうと努力してきたつもり。凛として、綺麗に生きて、弱さを見せないように――自分を誇れるように、そう願い続けていた。
初恋は叶わないって、よく言うけれど。認めたくはないけれど、きっとそれは本当なのね。
たとえあなたが千賀先輩を忘れられなくて、あの子に惹かれていたとしても……それでも私は、想い続けていたかった。
私はきっと、あなたの思い出にしかなれない。でも、この想いは、そんなに簡単に片づけられるものじゃない……。



