フィーネの旋律

 どうすればいいのか、まったくわからなかった。ただ、わたしを追い詰めるすべてから逃げ出したかった。

 気づけば、わたしは廊下を走っていた。とにかく遠くへ、どこでもいいから。

 息が苦しくなって、足を止めた。そこは、何度も来たことのある場所だった。屋上へ続く階段の前。

 雨が激しくなっていて、窓ガラスにぶつかる音が荒々しく響いていた。まるで、今は千賀先輩に会えるはずがないって、わたしに言い聞かせているみたいだった。

 屋上の閉ざされた扉を見上げてから、階段に腰を下ろしてうなだれる。

 高円寺先輩は、どうしてあんなに必死になって千賀先輩のことを聞き出そうとするんだろう。まるで姿を消した恋人を必死に探しているかのように。

 わたしは膝を抱えて、身を縮めた。これからどうすればいいのか、途方に暮れてしまった。

 その時、ローファーの足音が近づいてきた。

 誰だとしても、わたしは顔を伏せたままでいた。何も答えるつもりはなかった。誰にどう思われようと、千賀先輩との関係と、音符を掴むあの力――そのふたつの秘密だけは、絶対に知られたくなかった。

 足音はわたしの隣で止まった。誰かがそっと座る気配がした。

「はるか……」

 その声は菜摘だった。顔を上げず、黙ったまま彼女の言葉を待つ。

「昨日さ、赤城先輩に謝られたんだ。サクソフォンを隠したこと」

 その言葉に、肩が一瞬、びくりとこわばった。

 赤城先輩……菜摘に、正直に話していたんだ。

「それでね、はるかが赤城先輩のお母さんのお店で一緒に演奏して、嫌なお客さんを黙らせたっていう武勇伝を話してくれたよ」

 何も答えないでいると、ほんの数秒の沈黙のあと、菜摘の声が少しだけ鋭くなった。

「はるか、なんであたしに話してくれなかったの。あたしと友達のはずでしょ? 先輩にそういうことされたのは嫌だけど、あのあと素直に謝ってくれたんだよ。だけどはるかは自分のこと、あたしに何も話さないじゃん」

 菜摘の声が、わたしの胸を突いた。その痛みは、ただ耐えてやり過ごすしかない。

「だいたい、なんで高円寺先輩に告白されているわけ? あたし、はるかのしていることとか考えていること、ぜんぜん理解できないよ。あたしが高円寺先輩に憧れていること、知っているくせにっ!」

 その言葉に、わたしは思わず顔を上げた。

 菜摘は怒っているんじゃなかった。目に浮かんだのは、深く傷ついた人の表情だった。

「違うの、それは、あの……」

 しどろもどろに答えたけれど、それ以上、ちゃんとした言葉が出てこなかった。

 高円寺先輩の告白は、千賀先輩のことを聞き出すための作戦だったに違いない。だけど、それを説明するには、千賀先輩とのことも、高円寺先輩とのことも、そしてわたし自身の能力のことも、全部話さなきゃいけなくなる。

「裏でこそこそして、先輩たちと仲良くなろうとしていたんでしょ。この前、麗先輩にどこかへ連れて行かれたのは、高円寺先輩との逢引きを手伝ってもらっていたんでしょ」
「うっ……」

 逢引きなんて言葉は、さすがに言い過ぎだと思った。でも、否定することもできなかった。

「そうでなくちゃ三人で演奏するなんてことになるわけないもんね、そうでしょ。だいたい、この前、急に上手くなっていておかしいと思ったんだ。高円寺先輩に個人レッスンされていたんじゃない? 高円寺先輩もはるかもふたりとも、部活のない日は音楽室で自主練してないじゃん。あたし、気づいていたんだからねっ!」

 わたしは、部活のない日は屋上に行っていた。だから、音楽室で練習することはなかった。

 でも、高円寺先輩がなぜ音楽室にいなかったのか、その理由はわたしにもわからない。

「だから今日、演奏で失敗したのはわざとなんでしょ」

 菜摘の声が震えていた。

 そして、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。悔しさと寂しさが混ざった、崩れそうな顔。

「あたしね、はるかが上手く演奏できて本当に嬉しかったんだよ。ひょっとしたら一緒にコンクールに出られるかもって、そんなふうに期待していたんだよ。結局、あたしだけじゃん、盛り上がっていたの」

 わたしは、もう一度うつむいた。声にならないほど小さく、でも必死に言った。

「ごめんなさい……。わたし、どうしても自分のことは話せないの」
「何よそれ、友達なんかどうでもいいっていうの? ううん、はるかはあたしのこと、友達だと思ってないんでしょ。あたしを裏切ってもぜんぜん平気だったんだよね?」
「そっ、そんなことないよ……」
「もう、はるかなんていいから!」

 菜摘は叫ぶように言って、勢いよく立ち上がった。わたしを見下ろすその目は、冷たくて、悲しくて――。

「絶交ね!」

 菜摘が低い声でそう言い残し、踵を返して足早に去っていった。ローファーが床を弾く音が遠ざかって、やがて完全に消えた。

 それでも、わたしは突っ伏したまま、身じろぎひとつできなかった。

 怒るのも、当然だ。

 振り返ってみれば、全部、菜摘の言うとおりだった。

 わたしが抱えていた秘密が、誤解を生んで、何もかも壊してしまった。

 結局、わたしたちの間には、修復できないほどの亀裂が走った。

 ごめん、菜摘。わたし、何のために音楽やっているんだろ。ばかみたい。

 情けなくて、涙が滲んできた。

 誰かにすがりたかった。でも、わたしの気持ちを本当に理解してくれる人なんて、いるはずがない。

 そう思っていたのに、ひとりだけ、わたしの想いを共有できる人がいる。その姿が脳裏に浮かぶ。

 ――千賀先輩。

 その時だった。スカートのポケットでスマホが震えた。

 反射的に手を伸ばし、画面を確認する。高円寺先輩からの着信だった。

 ぎょっとして、指が止まる。無視するべきか、それとも出るべきか。数秒のあいだ、頭の中でぐるぐる迷った。

 でも、同じグループで合奏する先輩から、逃げ続けるわけにはいかない。覚悟を決めて、えいっ、と小さく声を出してから、画面をタップした。

 すぐに高円寺先輩の声が耳に届いた。

『あ……花宮か。俺だ、高円寺』

 慎重に言葉を選んで応じる。

「……はい、なんでしょうか」

『さっきは熱くなってすまなかった。だけどどうしても疑問に思うことがあって電話したんだ』

「わたしの方こそ、急に逃げ出して……ごめんなさい」

 そう言うと、高円寺先輩は一呼吸、間を置いた。

 疑問って、なんだろう……。千賀先輩との関係? それとも、音符を掴める能力のこと?

 でも、さっきの詰問を繰り返すような雰囲気ではない。わたしの胸に、得体の知れない不安がじわじわと広がっていく。

 ところが、高円寺先輩の言葉は、まったく予想していなかったものだった。

『君はもしかしたら、貴音さんが今どんな状況にあるのか、知らないのか?』

 その言い方は、まるで千賀先輩に何か悪いことが起きたかのようだった。

 菜摘に怒られて沈んだわたしの心に、さらに重たい暗雲が覆いかぶさる。

「千賀先輩に……何か、よくないことが起きたんですか!?」

 高円寺先輩は、言葉を慎重に選んでいるようだった。電話の向こうから、低く沈んだ声が届く。

『貴音さんはずっと入院しているんだ。だいぶ前から』

「えっ……?」

 わたしはスマホを耳に当てたまま、頭を抱えた。何を言われているのか、すぐには理解できなかった。入院しているのなら、制服を着て学校の屋上で演奏するなんてできるはずがないのだから。

『花宮は……知らなかったのか?』

 何も答えられずにいると、高円寺先輩はさらに言葉を重ねた。

『……意識が、戻らないんだ。二年(・・)も』

 千賀先輩が、意識不明? それも、二年前から……?

 その言葉が、わたしの中で現実として形を持った瞬間、手の力が抜けて、スマホが手のひらから滑り落ちた。

 床にぶつかる鋭い音が、わたしを現実に引き戻す。

 スマホからはまだ高円寺先輩の声が聞こえていたけれど、もうそれ以上、耳に入れることはできなかった。今まで描いていた千賀先輩の実像が、わたしの中で崩れていく音がする。

 誰もいないはずの屋上へ続く扉を見上げる。雨の雫がぱらぱらと窓に打ちつける音が、わたしの心を荒立てる。

 気づけば、冷えきった階段を駆け上がっていた。

 千賀先輩の、あの神秘的な雰囲気。音符が視えるという不思議な力。

 そして、高円寺先輩が千賀先輩を探し続けているのは、きっと――。

 鋼鉄製の扉のノブに手をかけ、力を込めて回す。いつもよりもずっと重く感じた。

 扉が開いた瞬間、雨音が一面に広がった。屋上の空は厚い雲に覆われていて、頼りだった月明かりさえ、今は姿を隠している。

 水たまりがあちこちにできていて、無数の波紋が広がりながら、水が跳ねる音を奏でていた。

 目を凝らすと、フェンスの手前に淡い人影が浮かび上がっていた。うっすらと光を放っているようで、その影はゆっくりと、わたしに視線を向ける。その影は、深い寂しさを漂わせているように、わたしには感じられた。

 闇夜の中で表情を読み取ることなんてできるはずがないのに――。

 漆黒の空から降り注ぐ雨粒が、その影を静かに通り抜けていった。思わずその影のそばに駆けてゆく。水溜まりに足を踏み入れた瞬間、ピシャッと悲鳴のように水が跳ねる。

 いつもの屋上とは違う、現実から切り離された別の世界のように感じられた。影の元にたどりついたところで、見上げてそっと語りかける。

「こんばんは、千賀先輩」

 闇の中で、千賀先輩は口角を上げて、わたしを迎えてくれた。

 わたしはいつもどおりの自分を演じながら、丁寧にお礼を伝えた。

「千賀先輩、おかげさまでコンクールのメンバーに選ばれました。けっして上手く演奏できたわけじゃなくて、先輩方の希望によるものだったみたいですけど。でも、本当にありがとうございます」

 深々と頭を下げてから、顔を上げて、口元を引き締めた。意を決して右手をすっと差し出す。

「もしよかったら、握手していただけませんか」

 その言葉には、わたし自身が真実を知る覚悟を込めたつもりだった。案の定、千賀先輩はわたしの手に視線を落とし、少しだけ後ずさった。

 足音は、聞こえなかった。

 しばらくの沈黙のあと、千賀先輩は静かに言う。

「――君は、ようやっと気づいたんだね」

 その言葉が胸に届いた瞬間、冷たい風がわたしの中を吹き抜けてゆく。

 千賀先輩を見つめながら、そっと言葉をこぼす。

「千賀先輩……ここにいる千賀先輩自身が、『音符』なんですね」

 その一言で、わたしは千賀先輩の存在が何なのか、理解していることを伝えたつもりだった。

 目の前にいるこの姿は、主の形を借りて魂を宿した『音符』そのものだったのだ。

 千賀先輩は黙ったまま、深くうなずいた。

「やっぱり、そうだったんですか……」

 差し出していた手は、握られることがなかった。千賀先輩はわたしをまっすぐに見つめている。

「そうだ。君が僕に触れると、僕は砕け散ってしまう。君の知る通り、音符は魂を乗せてこの世界を漂う。そして、いつかは消えてしまうんだ。僕はただ、その時を待つことしかできない、無力な存在なんだ」

 その告白は、まるで病に侵されて余命を悟った人の言葉のよう。わたしは胸が締めつけられるような思いだった。

 千賀先輩の瞳が、ほんの少し潤んでいるように見えた。遠くない未来に、きっと別れが訪れる。そう知らされてしまった。

「千賀先輩……かわいそう……」

 冷たい雨が制服に染み込んで、心の奥まで冷えきっていく。

「ありがとう、そう思ってくれて。君は優しい子だね」

 千賀先輩は静かに微笑んだ。そのあまりにも穏やかな笑顔がかえって切なくさせる。

「いつ気づいたんだい? ついこの前までは、そんな雰囲気はなかったはずだけど」

 不思議そうに尋ねる千賀先輩に、おずおずと答える。

「ごめんなさい。わたしが千賀先輩のことを知っているって、ついさっき高円寺先輩に気づかれてしまって……それで、千賀先輩が本当は二年前から意識不明だってことを教えてくれました。だから、わたしにフルートを教えてくれていた千賀先輩がどんな存在なのか、今になって気づいたんです」

 言葉を選びながら、わたしはそっと目を伏せた。でも、心の奥ではずっと感じていた。

「――本当は、千賀先輩の音色はこの世界のものとはちょっと違うなあって、思っていたんです。だって、とっても澄んでいるんですもの。素敵でしたよ」

 告白みたいで照れくさくなって、顔が熱くなってしまう。千賀先輩は、そんなわたしを見て、柔らかく微笑んでくれた。

「高円寺先輩は、千賀先輩が目覚めるのを待っているんです。どうしてこんなことになってしまったのかわからないですけど……千賀先輩は、もう元には戻れないんですか?」

 そう尋ねると、千賀先輩は雨の降りしきる空を見上げた。

「ああ、それは難しいことだ。一度音符となった者は、魂を繋ぎ止めることができないらしいんだ」

 その言葉に、わたしは黙り込んだ。千賀先輩の運命が悲しくて、別れしかない未来が悔しくて。

 でも、それでも――わたしの中にある想いは、どうしても伝えたかった。

 決心を固めてぱっと顔を上げる。心臓が木琴のように、ぽろろん、ぽろろんと音を立てていた。

「千賀先輩、聞いてほしいんです。わたし、フルートぜんぜん上手く吹けなかったのに、高円寺先輩と麗先輩と同じグループになっちゃったんです。このままじゃ、迷惑をかけちゃいます。だから……今後も、わたしにフルートの指導をしてほしいんです」

 千賀先輩は一瞬、たじろいだようだった。でもすぐに真顔に戻って説得するように言う。

「だったら高円寺に教えてもらえばいいじゃないか。あいつは面倒見、悪くないんだぞ」

 そうかもしれない。でも、もう退くつもりはなかった。

 わたしは息を整えて、思いきって言い返す。

「いっ、いえ、わたしは……わたしは千賀先輩に教えてほしいんです。だって、千賀先輩のことが、とっても好きになっちゃったんですから!」

 言い終えた瞬間、世界が止まったように感じた。

 顔は湯沸かし器みたいに熱くなって、手のひらには汗がにじんでいた。

 雨音が遠のいて、千賀先輩の返事が聞こえるまでの数秒間が、永遠みたいに長く感じられた。

 千賀先輩は、わたしの告白に驚いたようだった。でもすぐに顔を綻ばせ、しまいにはけたけたと笑い出した。

「ははっ、音符に告白するなんてすごい勇気だね。まったく、フルートでへんちくりんな音を出して震え上がっていた臆病な君とは別人みたいだ」
「あっ、あれ聴いていたんですかっ!」

 首から上が茹で上がったみたいに熱くなって、慌てて両手で顔を覆った。恥ずかしさで、耳まで燃え上がっているみたい。

「もうっ、わたしの黒歴史をからかわないでくださいっ!」
「ははっ、冗談だよ。でも、そうしたら毎日忙しくなりそうだな。君も僕も」
「えっ、それって……」

 ぱっと手を顔から離して、紅潮したまま目を丸くした。

「そっ、それって、まだわたしと一緒にいてくれるってことですかっ?」
「もちろんだよ。だって、君はまだ本物の『世界を描く旋律』を奏でられていないのだから」

 その言葉に、わたしは満面の笑みを浮かべて、うんうんと大きく首を縦に振った。

「はい、ちゃんとここに来ます! 部活のある日もない日も、先輩に会いに来ます!」
「じゃあ、今日は遅いからもう帰りなよ。制服がびしょびしょじゃないか。風邪ひくよ、病は生きる者の特権だけどさ」
「あっ、ホントですね。そしたらジャージに着替えて帰ります。それじゃ、来週からよろしくお願いしますね!」

 小躍りしながら何度も振り向いては頭を下げて、屋上を後にした。

 扉を閉める前にもう一度だけ、顔をひょっこりと出して微笑み、小さく手を振った。

 千賀先輩も、ゆったりと手を振り返してくれた。

 それから顔を引っ込めると、鋼鉄の扉がゆっくりと閉じていった。