フィーネの旋律

 当初の予定よりもずいぶん長く待たされていた。フランクの「ヴァイオリン・ソナタ」が一曲終わるくらいの時間は、とうに過ぎている。

 その間、音楽室では皆がそれぞれの演奏を品評したり、出来栄えを語ったりして、自分の立ち位置を推し量っていた。

 そんな中で悲痛な顔をしているのは、わたしだけ。泣き出しそうなのを、必死でこらえている最中だ。

 ひーん……こんな演奏しかできなかったこと、千賀先輩に報告できっこないよぉ。バカバカバカ、はるかの馬鹿! 一発勝負なのに、余計なこと考えていたら駄目じゃない!

 両手のこぶしで自分の頭をぽかぽかと叩く。まさに自虐モード、完全開放中。わたしのために時間を割いてくれた千賀先輩に申し訳なさすぎる。

 ふと手を止めて思い出す。高円寺先輩と麗先輩の音符から放たれた、ふたりの本当の想いのこと。

 麗先輩、高円寺先輩のことが好きだったんだ。なのに、ぜんぜん振り向いてもらえなくて、心の中で呼びかけていたんだ。

 屋上に佇む千賀先輩の姿が、ふいに脳裏に浮かぶ。

 高円寺先輩は千賀先輩のことを……好き? 千賀先輩と高円寺先輩って、ひょっとして危ない関係……?

 駄目よ、ダメダメ! わたしは腐女子じゃありませんっ! それに、あの千賀先輩にかぎって、そんなことあるはずないもんっ!

 そのシチュエーションは、好奇心旺盛なわたしでさえ、すぐさま思考からかき消したくなるほどだった。フルーツジュースをシェイクするみたいに、勢いよく首をふりふりする。

 ふと、少し離れたところにいる赤城先輩の神妙な表情が目に映った。愛用のトランペットを抱きかかえながら、惜しむように音楽室を眺めている。

 泣き出してしまいそうな湿っぽさを漂わせていて、崩れないように理性で繋ぎ止めているような雰囲気だった。

 赤城先輩、とっても寂しそう。きっと、この選考会を最後にアンサンブル部を卒業するつもりなんだ。

 その時、音楽室の扉が開いた。廊下で打ち合わせをしていた麗先輩と高円寺先輩、それに山下先生が、いっせいに姿を現す。部員たちは皆、口を閉ざして姿勢を正した。

 麗先輩は壇上に足を運び、一度、部員たちを見回す。ゆっくりと手元のボードに視線を移し、厳かな口調で言葉を発した。

「それでは、コンクールのメンバーを発表します。まずは混成八重奏でひとつ、グループを作ります」

 その言葉に、皆は期待の表情を強めた。

 混成なら、楽器の制約でふるい落とされる可能性は低い。つまり、選ばれるのは実力次第。それに、八名という出場枠の広さは、誰にとっても希望だった。

 麗先輩は、メンバーに選んだ部員の名前を呼ぶ。

「まずは、水無月くん」
「はい」

 低くて力強い声が響いた。皆が立ち上がる男子生徒に目を向ける。

 二年生の水無月先輩は、繊細さと大胆さを兼ね備えたトロンボーン奏者。春のコンクールでもメンバーに選ばれていて、誰もが納得する実力者だ。ぎゅっと引き締めた口元が、意志の強さを物語っていた。

「それに、有賀くん、大野くん」

 小さく「よっしゃ」とふたつの声が弾ける。部員たちの視線が、羨望を込めてふたりに向けられる。サクソフォン、クラリネット、フルート——管楽器なら何でもこなせるオールラウンダーで、しかも演奏の精度は群を抜いている。

「男子は三人、あとの五人は女子よ」

 その配分は、部員の男女比を反映していて、山下先生のさりげない配慮が感じられた。麗先輩はさらに名前を読み上げる。

「深井さん、青山さん、緑川さん」

 女子三人はぱっと顔を輝かせて、歓喜の声をあげた。今のところ、名前を呼ばれたのは全員二年生。一年生の部員たちは落胆し、ため息をもらしていた。

 青山さんと緑川さんは、周囲に気を遣う様子もなく、立ち上がって高々と手を上げ、ハイタッチを交わす。手を合わせる心地よい音が響いたけれど、麗先輩の鋭い視線がふたりを刺した。気づいたふたりは気まずそうに顔を曇らせ、そそくさと椅子に腰を下ろす。

 赤城先輩は、顔を伏せたまま、ぴくりとも動かない。ハイカラトリオの中で、選ばれていないのは赤城先輩だけだった。

 麗先輩は、七人目のメンバーをさらりと告げる。

「それから、一年の山村さんです」

 やった! 菜摘の努力が報われたんだ!

 思いつめていた菜摘の表情が、ぱっと花開くように明るくなった。立ち上がって「やったぁ!」と素直に歓喜する。わたしも自分のことのように嬉しくなり、胸の前で小さく拳をふりふりした。

 菜摘の選出で、同級生たちの空気が一気に明るくなる。

 一方で、赤城先輩は両手で顔を覆い、肩を震わせていた。その様子に気づいたわたしは、複雑な気持ちになった。本当は、三人で一緒に演奏したかったんだろうな。でも、そうできなかったのは自分のせいだって、きっと後悔しているんだろうな。

 七名のメンバーが出そろったところで、麗先輩はさらに続ける。

「あと、このグループのリーダーは……」

 グループのリーダーは、高円寺先輩か麗先輩のどちらかだろう。けれど、麗先輩はいくばくかのためらいを見せた。

「赤城さん……」

 麗先輩の声が、静かに赤城先輩の名前を呼んだ。

 皆、赤城先輩の様子がおかしいことに麗先輩が気づいたのだと思ったようだった。実際、赤城先輩は両手で顔を覆い、こぼれる涙を必死に隠そうとしていた。

 けれど、麗先輩の表情には、どこか企みを宿した悪戯っぽさが漂っていた。その顔を見て、わたしはまさかと思う。

 次の瞬間、麗先輩が発した言葉に、音楽室がざわめいた。

「このグループのリーダーは、赤城さんですよ」

 やっぱり!

 それは、わたしの予想した「まさか」が的中したことを物語っていた。

 赤城先輩は、麗先輩の言葉が理解できないようで、あ然としていた。心の中で「どうして」って、何度も問いかけているのが、見ていてわかった。

 赤城先輩は昨日、麗先輩に謝罪して退部の意志を伝えていたはず。麗先輩はそれを受け取っていたはずなのに——それでも、赤城先輩をリーダーに選んだ。

 その意味が、荒波のように赤城先輩の心に押し寄せているのが、わたしにも伝わってきた。

 音楽室は色めき立っていた。青山さんと緑川さんが祝福の声をかけて、菜摘も「一緒に頑張りましょう、先輩!」って激励していた。

「これから大変よ。リーダーとして皆を取りまとめて、後輩の指導もしていくの。しばらくは部活に生活を奪われるわね」

 麗先輩の言葉に、赤城先輩はゆっくりと顔を上げた。

 その顔は、皆がぎょっとするほど崩れていた。涙がとめどなくあふれていて、鼻水まで顎に垂れていて。

 ひどく泣き崩れる赤城先輩に、部員たちは苦笑していたけれど、わたしは感極まって、もらい泣きしそうだった。

 よかった……山下先生、麗先輩、本当にありがとうございます。赤城先輩に、これからも続く音楽の時間をプレゼントしてくれて。

 わたしは、自分のことなんてそっちのけで、心の底から嬉しかった。

 麗先輩の慈愛に満ちた采配に、心が震えて鳥肌が立った。赤城先輩の未来が明るく開けていくのを感じて、わたしの胸も光に照らされたような感覚だった。

「今回の選考は、実力と情熱を勘案しました。この八名で頑張っていただきますので、課題曲は後ほど相談したいと思います」

 麗先輩はそう言ってから、少し間を置いて続けた。

「もうひとつのグループなんですけど……」

 音楽室に、ふたたび静寂が訪れる。

「皆さんにお願いがあります。この編成だけは、どうか私たちのわがままを聞いていただきたいのです」

 皆の視線が、高円寺先輩と麗先輩を行き来する。

 このふたりが、あえて同じ演奏グループになろうとしていることは、誰の目にも明らかだ。麗先輩の丁寧な話し方は、そのことを意味しているに違いない。

 でも、混成なのか、フルートの多重奏なのか。まだ選ばれていない二年生もいるから、期待感は失われていなかった。

「では、発表します。もう一グループのメンバーは——高円寺涼太、それから私、清井麗。あとは――」

 麗先輩は小さく息を吸い、名前を呼んだ。

「一年、花宮はるかさん」

 えっ?

 豆鉄砲を食らった鳩みたいに視線をきょろきょろさせた。自分の名前が呼ばれたなんて、聞き間違いだと思った。

 けれど、麗先輩のまっすぐな視線は――確かにわたしを捉えている。それに、あたりを見回すと、すべての視線がわたしに集中していることに気づいた。麗先輩を見て首をかしげると、麗先輩は迷いなくうなずいた。

「もう一グループは、その三人です」

 はああぁぁぁっ!?

 ざわっ——音楽室がざわめいた。しかも、強い反感を含んだざわめきだった。

 高校生活最後のコンクールなのに、今さっき失敗したばかりのわたしを選ぶなんて。

 皆には、その理由がまるでわからないはず。だって、一番わかっていないのが、このわたし自身なのだから。 高円寺先輩は迷いのない顔をして、壇上で説明する。

「最後のコンクール、俺と麗は実力とはまた別な理由があって、どうしてもこのグループで演奏してみたいと思っている。これは俺のわがままであり、麗の希望でもある。結果が悪かったとしても、俺たちは後悔しないし、それはすべて俺と麗の責任だ。だからこのグループを、俺たちの最後の思い出として譲ってほしいんだ」

 その言葉に続けて、麗先輩と高円寺先輩が深々と頭を下げた。

 すると、ざわめきは静まり、部員たちは黙ってふたりの姿を見つめていた。真摯な態度に、誰もが納得せざるを得なかったんだと思う。

 でも、わたしは——困惑するしかなかった。

 どうして、わたしなんだろう。どうして、あのふたりが、わたしを選んだのだろう。

 わたしの演奏は、さっきあんなふうに崩れてしまったのに。あんな音を出してしまったのに。

 壇の上のふたりを見つめながら、心の中で何度も問いかける。けれど答えの手掛かりなんて、見つかるはずもなかった。