フィーネの旋律

 音楽室は、さっきまでの静粛な雰囲気が嘘みたいに、ざわめきに包まれていた。部員たちは互いに顔を見合わせて、麗先輩の意図や経緯を推し量ろうとしている。

「最後の演奏は、私が花宮さんに課題曲として伝えていた『想い出は銀の笛』です」

 その一言に、わたしははっとなった。

 そうか。麗先輩は、三人でフルートを奏でようと思って、この曲をわたしの課題曲に指定したんだ。でも、どうして……?

 高円寺先輩は麗先輩に小声で問いかけた。

「おい、どういうことなんだよ麗。なんでよりによってこの曲を花宮に演奏させるんだ」

 麗先輩は、迷いのない表情でさらりと答えた。

「涼太、あなたも先週、花宮さんが奏でたフルートの音色を聴いたでしょう? その音色に、何も感じなかったのかしら?」
「ああ、だけど花宮の言うことが正しいのなら、そんなはずはない」

 高円寺先輩は、まじまじとわたしの顔を見つめた。まるで、わたしを誰かと重ねているような、猜疑心を含んだ視線だった。その切れ長の目に捉えられた瞬間、わたしは思わず視線を逸らしてしまった。

「でも、これは花宮さんの選考会よ。私情は捨てて、あなた自身で彼女を評価してあげて」

 説得された高円寺先輩はしぶしぶながら納得し、フルートを構えた。

 演奏の準備が整うと、いやおうなしに音楽室に静寂が訪れる。その静けさがなおさら、わたしの胸をざわつかせる。

 壇の中央に立たされたわたしの左右には、高円寺先輩と麗先輩。ハイスペックなふたりにサンドイッチされて、緊張が爆発しそうだ。

 麗先輩はそんなわたしに気を遣ったのか、優しげな視線を向けて小声で囁いた。

「ごめんなさいね。それじゃあ、演奏しましょうか」
「はっ、はいっ! 演奏させていただきますっ!」

 三人による合奏が始まった。

 個性あふれる音符たちが、空間に放たれていく。音楽室の空気が、今まで以上に張り詰めて、皆が耳を澄ませているのがわかった。

 麗先輩のフルートの音色はビブラートが美しくて、まるで胸の奥に宿す複雑で繊細な感情をそのまま音にしているみたいだった。

 麗先輩の放つピュアブルーの音符が、軽やかに舞い広がる。

 音楽室の壁も、窓ガラスも、天井も、深く澄んだ音色に震えているようだった。

 ――なんて表現力なんだろう、すごい。

 わたしが麗先輩の音色の純度に圧倒されていると、反対側のフルートからは、真紅の熱を込めた音符が勢いよく吹き出していた。

 高円寺先輩の音は、あふれる情熱をためらいなく吐き出していて、真紅に燃えているように見えた。

 ――高円寺先輩も、やっぱり迫力あるなぁ。

 そして、三人目のパートであるわたしも、ふたりを追ってフルートを奏でる。澄んだ色の音符を放ちながら、自分なりの演奏で旋律の波を追いかけていく。

 でも、すぐに違和感が訪れた。

 ――あれ、なんかおかしい。

 千賀先輩と屋上でこの曲を奏でた時は、わたしの胸の鼓動や呼吸が、千賀先輩の旋律のリズムとぴったりだった。息を吸うように千賀先輩のメロディを掴まえて、息を吐くように自分の音符を生み出せていた。

 でも、今は違う。

 高円寺先輩や麗先輩のメロディと、ハーモニーを奏でられていない。ちぐはぐな音色から、抜け出せなくなっていく。

 わたし、ぜんぜん上手く演奏できてない……。

 でも、それはわたしの演奏が未熟だからじゃなかった。同じ楽曲を奏でているはずなのに、高円寺先輩と麗先輩の音色はまるで絡み合っていなくて、わたしの旋律は行き場を失っていた。

 麗先輩と高円寺先輩なら、どんな曲でも綺麗なハーモニーを奏でられると思っていた。けれど高円寺先輩に目をやると、麗先輩やわたしを意識することなく、ひとりで気の赴くままに演奏していた。

 いや、違う。ここにいない「誰か」と合奏しているつもりなんだ——そんな気配があった。わたしの音に対する感覚が、そう告げていた。

 四重奏の最後のパートは、きっとその人のために用意されている。

 高円寺先輩には、かつて一緒に演奏した「誰か」がいた。その人との合奏を、今も望んでいる。そして麗先輩は、そのことをよく理解している。わたしには、そう思えた。

 でも、どうして——わたしがその合奏に巻き込まれたんだろう?

 メロディを奏でながら、記憶の中から手がかりを探す。すると、先週喫茶店で言われた言葉が蘇った。

『私も涼太も、あなたのメロディがある人のそれにとても似ていることに気づいたの』

 不揃いなメロディが時間を奪っていくなかで、わたしの疑問はどんどん膨らんでいく。

 演奏に集中できないわたしとは対照的に、右側から叩きつけられる高円寺先輩の音色と、左側から吹きすさぶ麗先輩の音色は、どんどん高まりを見せていった。檀上を、いや、音楽室全体を揺るがすような壮大な響きに変わっていく。

 それは美しいけれど、調和のとれた不協和音はそれ以上に恐ろしかった。

 駄目だ。集中しなくちゃ、ついていけない。

 ステレオのように迫ってくる圧倒的な音の波に耐えながら、必死に自分のメロディを紡ごうとする。

 高円寺先輩の放つ烈風のような深紅の音符は、さらに勢いを増して渦を巻き、炎の嵐となってわたしに襲いかかる。麗先輩の繊細で大胆なビブラートを凝縮したピュアブルーの音符は、天を震わす吹雪となって容赦なくわたしに打ちつけてくる。

 ああっ……ふたりの勢いに、わたしの音色が押しつぶされるっ!

 心の中で悲鳴をあげた瞬間、音符たちはわたしの肌に触れて弾け散り、まるで花火が暴発したような衝撃が走った。

 高円寺先輩の放つ深紅の爆風が、わたしの意識に襲いかかる。

『俺はあなたをいつまでも愛しています、貴音さん、貴音さん、貴音さん……』

 えっ……!?

 貴音さんって……千賀先輩!?

 頭が真っ白になる。意味が、すぐには理解できなかった。常識も理性も、追いつかない。

 でも、高円寺先輩の熱を込めた演奏は、まるで求愛行動そのものだった。抱えきれない心の叫びを、音色で代弁しているような——そんな危うい熱意が、確かに感じられた。

 直後、麗先輩のピュアブルーの音符が砕け散り、氷のつぶてがわたしの意識に突き刺さる。

『涼太、愛しているよ。ずっと抱き続けたこの気持ち、どうか涼太に届いて——』

 ええっ!?

 麗先輩、高円寺先輩のことをそんなふうに……!?

 まるで、すがるような悲痛な叫び。わたしの心臓は驚きで跳ねあがった。

 麗先輩と高円寺先輩の親密な関係は、きっと高校生活の終わりとともに幕を閉じる。だから麗先輩は、青春の片隅に、高円寺先輩との思い出を刻みたかったんだ。

 でも、そのささやかな願いすら——高円寺先輩の千賀先輩への想いにかき消されて、蜃気楼のように掴めないものになってしまっていた。

 麗先輩は、このコンクールを、高円寺先輩との最後の思い出にするつもりだったんだ。

 ふたりの気持ちを知ってしまった瞬間、わたしの指先が震えだした。フルートを持つ手すらおぼつかなくて、息がうまく吸えない。胸が苦しくて、嫌な汗が全身から噴き出してくる。

 心臓が、プレスティッシモの速さで打ち鳴らされている。いまにも破裂しそうだった。冷静さを保とうとしても、乱れた旋律はもう元には戻らなかった。

 そして——ついに、やらかしてしまった。

 突然、フルートから奇妙な音色が飛び出した。

「ピィ〜ヒョロロ〜」

 しまったっ!

 先週の選考会ではなんとか封印していた、あの“お家芸”の音色が、音楽室に広がってしまった。しかも、よりによってこの場面で。

 麗先輩が演奏する手をぴたりと止める。高円寺先輩も、それに応じるように演奏を中断した。ふたりの音色が薄らいで、教室から消えていく。

 高円寺先輩も麗先輩も、申し合わせたようにフルートを唇から離す。音楽室の緊張した空気が一瞬で霧散した。中には“お家芸”を耳にして吹き出す部員さえいた。

「もう、演奏は終わりの時間です」

 麗先輩の放ったその一言が、すべてを強制終了させた。

 申し訳なさと恥ずかしさがいっぺんにこみ上げて、すがるように麗先輩に視線を送った。麗先輩は、自分で持ちかけた合奏の残念な結末に、言葉が見つからないようだった。高円寺先輩も、その場に立ちすくんだままでいた。

 わたしには、先週見せた“奇跡の演奏”の気配なんてあるはずもなかった。あの時の演奏は、音楽の神様がもたらした気まぐれだったんだ——そう思ってただ呆然とするしかなかった。