フィーネの旋律

 赤城先輩が向かったのは、最寄り駅の裏に広がる夜の繁華街だった。

 喧騒から逃れるように細い路地へ入ると、ようやく静けさが戻ってきた。

 赤城先輩はしばらく進み、古びた茶色い扉の前で足を止めた。扉の隣には小さな看板が立てかけられていて、お酒や料理のメニューが並んでいる。

「ここがあたしの家。お店の二階よ」

 引き戸を開けると、鈍く軋む音がした。

 とたん、ガハハハハハと、男性の遠慮なしの笑い声が響いてきた。覗き込むと、アロハシャツにパンチパーマの、いかにも柄の悪そうな男がカウンターを陣取っていた。痛いほど鼻につくタバコの匂い。充満した煙のせいで、空気が霞んで見える。

 見渡すと、八席程度の小料理屋で、客はその男ひとりだけだった。

 カウンターの向かいには、付け下げの着物を身にまとった女性の姿があった。頭上で束ねた長い髪、深紅に塗られた唇、紫のマスカラ。

「ただいま、お母さん。今日はお客さんがいるの」

 赤城先輩はカウンターに向かって挨拶した。

「ああ、おかえりなさい」

 母親は赤城先輩を一瞥すると、笑顔のひとつも見せずに視線を切った。

「お母さん、お店をやっているんですね」
「まあね。従業員はママひとりだけど」

 赤城先輩は、あまり誇らしげではない表情で答えると、店の奥へと足を進めていった。

 ちょうどアロハシャツの男の後ろを通り過ぎた時だった。

「きゃっ!」

 突然、赤城先輩が小さな悲鳴をあげて飛びのいた。すかさずスカートを押さえて男に振り向く。その表情を見たわたしはぎょっとした。

 赤城先輩は、厭なものを目にしたような、嫌悪感に満ちた顔つきをしていた。すれ違いざまに、お尻を触られたのだ。

 ――この人に対する感情だったんだ。

 すぐに気づいた。男はふてぶてしく笑っている。

「おいおい、そんなに嫌な顔するなよ。これもコミュニケーションってやつだ。だいたい、俺のおかげで学校に行けているんだろ」

 そう言って、またガハハとひとり、勝ち誇ったように笑い出す。

「早く上に行こうよ」
「は、はいっ」

 赤城先輩はうつむいて、品のない高笑いをやり過ごし、その場から足早に立ち去った。

 わたしも急ぎ足で赤城先輩を追いかけた。男とすれ違う瞬間は警戒していたけれど、わたしが手を出されることはなかった。

 通り過ぎてから振り向いたところ、赤城先輩の母は素知らぬふりをしていた。

 階段を上って、二階に辿り着く。木目調の廊下が延びていて、左壁沿いにふすまが三つ並んでいた。赤城先輩はそのひとつを開ける。

「あ……」

 雑然とした部屋だったけれど、そこに置かれていたものに、わたしは目を奪われた。部屋には、シロフォン、トランペット、リコーダーなど、さまざまな楽器があった。壁には楽曲の譜面が、ところ狭しと貼られていた。

 音楽に囲まれた空間。でも、そこに漂う空気はどこか張り詰めていて、不安を抱かずにはいられない。

「狭いけど、座って」

 赤城先輩が無造作に置かれた正方形のクッションを指差した。

「お借りします」

 返事をしてから、そっと腰を下ろした。部屋の中を見回して、思わず口にする。

「赤城先輩って、本当に音楽が好きなんですね」

 すると、赤城先輩が怪訝そうな顔で、わたしをまじまじと見た。

「あんたって、ただの馬鹿? それとも世間知らずのお人好し?」
「えっ、どういうことですか?」
「今日のことがあってこれ見たら、盗んだとか思わないの?」
「えっ、別に思いませんけど……」

 赤城先輩は素行が悪そうに見えるかもしれないけれど、音楽に対する姿勢は真面目だって、音符に触れて知っている。菜摘のサクソフォンも、盗んだのではなくて、隠しただけだってわかっていた。

 ハイカラトリオが麗先輩を褒めちぎっているのは、気に入られたいという下心があるからだけど、実力が伴っていないわけじゃない。

 むしろ、赤城先輩が吹くトランペットの滑らかなグリッサンドは、部員の誰にも真似できないほど熟達している。

「だって先輩、そんなことしないですもん。音色は正直ですってば」

 赤城先輩は真顔を崩さないまま、顔を赤らめた。楽器に目をやりながら、ぽつりと話し始める。

「じつはこの楽器ぜんぶ、頑張ってバイトして買ったんだ。ちょっと離れたところのファーストフードとかスーパーとか。一応、お金も貯めているんだ。早くここを出たいからさ」
「努力しているんですね、先輩。部活のない日はバイトなんですか」
「まあね。本当はもっと練習の時間がほしいけど。でも練習とバイトが大変っていうんじゃなくてさ」

 そう言って、ちょんちょんと床下を指差した。耳を澄ませると、また派手な笑い声が聞こえてきた。いつのまにか人数が増えている。

「いつもの連中が来たみたい。あいつのダチよ」
「あいつって……さっきのおじさん?」

 赤城先輩は渋い顔でうなずいた。

「うちのママは、わたしが小学生の時に離婚したんだけど、頭悪いのに意地だけあってさ。だから慰謝料とかもらわずにひとりで店を切り盛りして、わたしも育てるって威勢のいいこと言っていたみたい」

 それから、一呼吸おいて続けた。

「けどさ、駅近の飲食店なんて激戦じゃない? うち、いつもお客スカスカだし。ただ、ママはそれなり美人だから、あいつに目をつけられて出資してもらっているってわけ。情けないったらありゃしないでしょ」

 そこまで事情を話すと、今度は真剣な顔でわたしと視線を合わせてきた。

「あたし、どうしてもここを出ていく口実が必要なの。だから絶対、音楽大学に受かりたいんだ。それも特待生で」

 赤城先輩は言葉を詰まらせて、表情が崩れた。

「……だから実績が必要だったの」

 そうだったんだ。それで、なりふり構わずライバルを蹴落とそうとしたんだ。

「先輩の願いはわかりますけど、菜摘が今どんな気持ちか、わかっていますか。先輩の事情は、菜摘とは関係ないですよね」
「わかっているって! サクソフォン、明日ちゃんと返すし、ちゃんと謝るよ。菜摘と仲良しこよしのあんたにバレちゃったんだから、どうせもうおしまいだわ。あーあ、あたし運が悪かったわぁ」

 運が悪かった――そう言う赤城先輩は泣き出しそうだった。

「あたし、あいつに相当なめられているし、このままここにいたら何されるかわかんないしね。この前なんか、『逆らったらお前のママ助けてやんねーぞ』とか言い出すし」
「そうなんですか、ひどい……」

 わたしは言葉を失って、しばらく考え込んだ。赤城先輩の置かれた不遇な状況が胸に重くのしかかる。

 でも――。

 突然、ぱっと閃きが舞い降りた。

「そうだ、だったら音楽で見返してやりましょうよ!」
「はぁ? 音楽で、ってあんた、何考えているのよ」
「へへぇ〜。舐められないためには、赤城先輩のすごいところを見せつければいいんですよ!」

 わたしは困惑した赤城先輩に、悪戯っぽい笑顔を返してみせた。

 音楽の演奏って、ただの趣味じゃない。そこには奏者の想いが込められている。誰かにその熱意を伝える力だって、きっとある。

 だから、赤城先輩の音色で――あの人たちを黙らせてやればいい。