フィーネの旋律

 音楽室は練習に熱中する部員たちの音色で賑わっていて、百花繚乱のように音符記号が舞い散っている。わたしはフルートをケースから取り出して構え、演奏の練習のふりをしながら、あたりに気を配る。

 この中の“想い”を掴み取れば、手がかりが見つかるかもしれない。

 乱雑な音色の集塊からひとつひとつを探っていくのは、途方もない作業だ。でも、それはわたしだけができること。

 口元を引き締めて手を掲げ、人差し指をまっすぐに立てる。人目を気にしながら、視界に流れ込んできた音符を次々とタップする。

 パチン、パチンと弾けて、込められた想いが飛び散る。

『だめだ、これじゃ選考会に間に合わねえよ』

 ――違う。

『朝、電車で会うあの人、彼女いるのかなぁ』

 ――違う、違う。

『ああ〜、次の数学の試験、絶対やばすぎる!』

 ――うーん、なかなか見つからないなぁ。

 群れの中の音符を、ひとつひとつ丁寧に探っていく。でも、どれも日常の悩みや雑念ばかりで、菜摘のサクソフォンに関係ありそうなものは見つからない。

 わたしが探しているのは、もっと別の感情。誰かの嫉妬、焦り、あるいは――罪悪感。

 音符の中に、それが隠れているはず。絶対に見つけてみせる。

 その時――一際目立つ音符が、わたしの目に止まった。

 その音符は薄暗く変色していて、まるで傷んだ柑橘のような色をしていた。

 ――ネガティブな思考にとりつかれている色だ!

 わたしは今までの経験から、心が濁ると音符も濁った色になることをよく知っていた。

 ――間違いない。あの音符の持ち主だ!

 緊張を隠しながら、そっとその音符に触れる。

 音符は力なく潰れるように弾けて、鈍い光があたりに飛び散った。同時に、その音符に込められていた想いがあらわになる。

『あいつは追い出さないと……』

 わたしは音符から放たれる嫌悪感を感じ取って、思わず目を伏せた。そして、その音符の源が誰の楽器なのか――心当たりがあった。

 ――赤城先輩だ。

 赤城先輩は、二年生のハイカラトリオのひとり。おもにトランペットを練習していて、いつもは明るく振舞っている。でも最近、赤城先輩の音符に込められた感情は、どこか落ち込んだものだったことを思い出した。

 この音符に閉じ込められていた不安定な感情は、単なる嫌がらせとは思えなかった。ひどい嫌悪感が、そこにはあった。

 ――でも、どうしてなんだろう。

 菜摘は先輩たちから恨みを買うような子じゃない。赤城先輩が菜摘に嫌悪感を抱く理由も、見つからない。

 菜摘の楽器を隠したのは、本当に赤城先輩なのかな?

 そんな矛盾を感じたから、わたしはその後も音符の詮索を続けていた。けれど結局のところ、疑わしいのは赤城先輩だけだった。

 だから、赤城先輩が練習を終えるのを見計らって、こっそりと後を追うことにした。

「それじゃあ、あたしはそろそろ帰るね。バーイ」
「おつかれー。あたしらはもうちょっと練習してくわ」

 ハイカラトリオの残りのふたり、青山先輩と緑川先輩に別れの挨拶を交わし、なにくわぬ顔で音楽室を去ろうとする。

 わたしは急いでフルートを片付けて、高円寺先輩と麗先輩に「すみません、わたしも今日は早めに帰ります」と挨拶をした。高円寺先輩の表情がやけに怪訝そうだったけれど、今はそれどころじゃなかった。

 赤城先輩は、とんとんと足音を響かせて階段を降りていく。わたしは気づかれないように距離を置き、後を追った。

 赤城先輩は一階の玄関を通り越して、さらに地下へと降りていった。

 地下一階には倉庫、ロッカー室、応接室、それに職員の宿直室がある。赤城先輩は迷いなくロッカー室へと入っていった。

 ロッカー室は個人用ではなくて、部活や学園祭の目的で使う共用スペース。かなりの数があって、何列にも区画分けされている。

 使用申請をした人が鍵を借りて使う仕組みで、大きな楽器を演奏する生徒の中には、ロッカーを借りて楽器を収納している人もいる。

 でも、わたしは赤城先輩がトランペットを音楽室に置いてきたのを、この目で見ていた。

 だから、ロッカーに仕舞うものなんてないはずだと思った。

 抜き足差し足忍び足で近づき、ロッカー室にすばやく滑り込む。照明は薄暗くて、赤城先輩以外の人の気配はなかった。

 鋼鉄製のロッカーが立ち並んでいるせいか、空気がやけに冷たく感じる。

 息を潜めて赤城先輩の動向をうかがう。まるで探偵みたいだと、自分の勇気に感心する。でも、自分の心臓の音がどんどん強くなっていって、静寂に支配されたロッカー室に響いてしまいそうだった。息苦しくなってくるけれど、じっと機会を待ち続ける。

 その時、並んだロッカーの向こう側から、キーッ、と扉を開く音が響いた。

 わたしはその瞬間を狙っていた。

 緊張のせいで氷のように硬直する足を、奮い立たせた勇気で溶かして飛び出す。

「赤城先輩、お疲れ様でしたー!」
「うわああああっ!」

 赤城先輩は突然現れたわたしに驚いて、飛び上がった。

 その直後、はっとした顔になって、開いたロッカーの扉を勢いよく閉じた。

「なっ、何よいきなり。終わったら寄り道しないでさっさと帰りなさいよ!」

 追い払うような言い方。その不自然な振舞いに、わたしは確信した。

 ――間違いない。あのロッカーの中だ!

 じりじりと赤城先輩に歩み寄る。赤城先輩はわたしの動向に目を向けつつ、ポケットから鍵を取り出してロッカーの鍵穴に差し込もうとした。

 そのタイミングを見計らい、赤城先輩の懐に飛び込んだ。

 施錠するよりも、わたしの手がほんの一瞬、早かった。

 鍵を差し込んだ赤城先輩の腕を掴んで引き寄せると、鋭い金属音が響いてロッカーの扉が開いた。

 すかさず中を覗き込む。

 ――あった!

 そこには、ピンクのストライプで彩られたサクソフォンのケースが置かれていた。わたしもよく知っている、菜摘の愛用のケースだ。

 赤城先輩を睨みつけたけれど、内心はひどく緊張していて、心臓がのどから飛び出しそうだった。

 でも、弱みを握った以上、引き下がるつもりはなかった。赤城先輩は慌てて後ずさりして、わたしから視線をそらす。その表情には、焦りが色濃く浮かんでいた。

「赤城先輩、あなただったんですね。菜摘のサクソフォンを隠したの」

 釘を刺すようにそう言うと、赤城先輩の視線はうろうろと宙をさまよった。

「このこと、山下先生に言いますから」

 毅然とした態度でそう告げると、赤城先輩はぼそっとこぼした。

「……選考会までには返すつもりだったのよ」
「そんなの言い逃れじゃないですか。盗んだのと一緒ですよ!」

 そう言って、ピンクのストライプのケースを指差す。

「どうして菜摘のこと、そんなに憎んでいるんですか」

 ところが、赤城先輩は疑問の混ざった表情で反応した。

「えっ、憎んでいる、って?」

 その意外な反応は、わたしの想像とは違っていた。嫌悪感を抱いている相手は、菜摘じゃなかったのだ。

「え……違うんですか?」
「菜摘には悪いことしたとは思うけれど、ここのところ勢いづいているから、ちょっとだけ動揺させようと思っただけだって」
「へっ、それだけですか?」

 虚を突かれ、思わず間抜けな声を出してしまった。

「それだけって、それ以外の理由があると思うの? わかるでしょ、選考会で落ちてもらわないと、そのぶんあたしたちの枠が減っちゃうじゃない」

 “あたしたち”――それは、ハイカラトリオのことを指しているはず。三人でコンクールに出場したい。その願いが、この行為の動機だったんだ。

 でも、その答えに新たな疑問が湧き上がる。

 赤城先輩の音符には、確かに強い嫌悪感が込められていた。けれど、その矛先は――菜摘じゃなかった。

 じゃあ、あの嫌悪感はいったい、誰に向けられていたの?

 一度芽を出したわたしの好奇心は、遠慮なくもりもりと育ち始めてしまう。赤城先輩の弱みを握ってしまった今、わたしはその感情を抑えることができなかった。

「このことは誰にも言いませんから、そのかわり、なんでこんなことをしたのか、本当の理由を教えてもらえますか。たぶん、赤城先輩には特別な事情があるんですよね?」

 赤城先輩は目を二倍にして驚いた。それからうつむいて考え込み、しばらくの後に顔を上げて真顔で返事をした。

「――じゃあ、これからあたしの家に来てほしいの」
「えっ……家にですか?」

 赤城先輩はうなずくと、ロッカーに鍵をかけて荷物をまとめた。そして、無言でわたしに背中を向け、早足で歩き出した。

 わたしはその背中を見つめながら、胸の奥がざわざわと騒ぎ始めるのを感じていた。

 この先に、何が待っているんだろう。でも、知りたい。赤城先輩の音符に込められていた、あの濁った感情の正体を。