フィーネの旋律

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 十五歳、中学三年の秋。

「おい、涼太。明日は気晴らしに、そこの高校の学園祭でも見に行ったらどうだ」

 ワイングラスを手にした親父が、そんなことを言ってきた。

 俺はリビングでピアノを弾いていた。サティの《ジムノペディ第1番》。繊細な音色で、どこか遠くを見ているような曲。

「別に興味ないよ」

 弾く手を止めて答えた。正直、学園祭なんてどうでもよかった。

けれど、三つ下の妹である有紗が父の言葉に反応した。ぱっちりした目と丸い顔。にんまり笑って、俺の顔を覗き込んでくる。あいつのそういう顔には、いつも少しだけ弱い。

「お兄ちゃん、あたし行ってみたいんだけどなぁ。高校の学園祭って、大人の世界って感じじゃない? でもひとりで行く勇気ないから、一緒に来てほしいなぁ」

 ため息をついて、有紗の顔を見た。期待がそのまま顔に出ている。無下にはできなかった。

「……まぁ近場だし、少しくらいなら付き合ってもいいか」
「やったあ!」

 渋々了承した俺に、有紗は笑顔を広げ、余計なことを言い出した。

「ねえねえ、麗お姉ちゃんも誘ったらどうかなぁ」

 有紗は昔から、近所に住む麗に懐いている。麗の家に遊びに行くのも日常茶飯事だし、麗の飼い犬なんて、有紗の姿を見るだけで尻尾を振ってぐるぐる回り出すぐらいだ。

有紗は、麗と俺の関係がまんざらでもないと思い込んでいるらしく、妙な期待まで抱いている。だが、幼馴染同士が恋に落ちるなんて、どこかの恋愛小説か漫画の影響としか思えない。

麗と俺の縁が続いているのは、有紗の人懐っこさのおかげだ。妹が鎹になっている、ということでもある。だから、有紗が麗を誘うのはごく自然な流れで、俺には断る理由なんて見つけられなかった。

 翌日。有紗は右腕を俺の腕に、左腕を麗の腕に絡ませてご満悦。鼻歌まじりで、城西高校へ向かっていく。

 俺は麗に気を遣って、礼を言った。

「麗……悪いな。いつもこいつのお守りをしてもらって」
「ううん、いいのよ。可愛いじゃない。私も妹欲しかったなぁ」

 麗の声は、いつもより少し柔らかかった。

 麗が有紗に視線を向けると、有紗も麗を見上げて、むふふと笑った。

「両親は、相変わらず海外に行ったっきりなんだろ」

 麗は少しだけ肩をすくめて答える。

「そうね。でももうとっくに慣れたかな。小さい頃からそうだもん。服部がしっかりしているから、別に不自由はないんだけどね」

 服部──清井家に長年仕えている執事の名前だ。

 麗は目を細めて笑ったけど、その笑顔の奥に、隠しきれない寂しさが滲んでいた。

 一方の俺は、円満な家庭に育った。何ひとつ不自由のない、恵まれたエリート。――そう見えるらしい。

 でも、胸の奥にはいつも、やり切れない思いが渦巻いている。

 もしも俺がこのまま名門高校に進学し、順風満帆な人生を歩んだとしよう。けれどそれは、俺が生きるための手段でしかない。敷かれたレールの上を走って、設定されたゴールをクリアすることに、どうしても魅力を感じられない。

 いつからか、俺の中でくすぶり始めた感情がある。既存の世界を超えたいという熱。誰も見たことのない、俺だけの風景。既成概念に縛られない、自由な世界への渇望。

 俺はいったいどうすれば、この常識という牢獄から逃れられるのだろう。

 手のひらを空に掲げてみる。指の隙間からこぼれ落ちる日差しに、俺は目を細めた。