ヘブンリーブルー・スター

 文字を打つことが、俺の世界だった。
 小学校四年生のとき、姉ちゃんにお古のノートパソコンを貰って、その世界は一気に加速した。
 ノートにペンで書くよりもずっと早く、俺の頭の中の物語を現実にすることができる。
 それがめちゃくちゃ楽しくて、小学六年生になった今も、俺は毎晩自分の部屋の勉強机でノートパソコンを叩いていた。
「ちょっと、洸平! あんた早くお風呂入っちゃってよ」
「はーい、今入るー」
 一階から響いた母さんのちょっと苛立った声に、俺は慌てていい子の返事をした。邪魔されたくないというのが本音だけど、しかたないってわかってる。
 書いていた文章を保存して、ネットの投稿サイトを確認。二ヶ月ほど前に自分の小説を投稿するようになってからできた、俺の習慣だ。
 はっきり言って、めちゃくちゃ読まれているわけじゃない。でも、俺の書いた話を楽しんでいる人がいることはページビュー数を見たら明白で。俺はそのグラフを見て満足していた。
 ……それは、まぁ、感想とかレビューとか貰えたらうれしいけど。
 なんてことを夢見ながら、マイページをクリックした瞬間、俺は「あ」と声をこぼした。
『新しい感想が一件あります』
 赤字のメッセージにどきんと胸が高鳴る。逸る心を抑えきれず、そわそわとボタンを押して、――そして。
 俺は小さく「やった」と呟いた。
 はじめて貰った長文の感想メッセージ。丁寧で熱量のある文章からは「俺の書いた小説を好き」だという気持ちがにじんでいて。風呂に入ることなんて忘れて、俺は何度も何度も読み返した。
 メッセージの送信者は『宵』。
 それが俺と宵の出会いだった。


「おつかれさまでーす」
 コンコンと文芸部の扉を叩いて、部室に入る。
「お、洸平。おつかれ」
「このあいだは報告会休んですみせん。今日は部長だけっすか?」
「うん。このあともそんなに来ないんじゃないかな。みんな今は原稿に必死だから」
 そう応じた部長が、なにかの書類をまとめていた手を止めて、労わる調子でほほえんだ。
「あ、報告会はぜんぜんいいよ。連絡もらったし。バイト大変なんだってな」
「そうなんですよぉ。まぁ、しかたないんすけどね」
 はは、と軽く笑って、壁際に設置されている本棚の前に向かう。
 うちの高校の文芸部はそこそこの歴史があるらしく、本棚にも純文学からラノベまでさまざまな小説が並んでいるのだ。
 どの本を借りようかなぁと悩んでいると、専用スペースで作業をしていた部長が、「洸平」と俺を呼ぶ。
「今年の部誌は書評って聞いたけど、本当にそれでいいの? 去年の短編も俺はおもしろかったけどな」
「あざーっす」
 へらりと受け流し、俺は適当にラノベを手に取った。
「いや、本当、申し訳ないんすけど、ちょっと時間なくて。今回は書評にします。いいんですよね、書評でも」
 まぁ、書評って言っても、俺のおすすめ紹介みたいな感じになると思うんだけど。
「もちろん、書評でもぜんぜんいいよ。俺がちょっともったいなって思っただけだから」
「あざっす」
「それに、締め切りは守ってもらわないと困るしな」
「ですよね」
 時間がないのならしかたがないというそれに、苦笑を返す。ぱらぱらとページをめくっていると、部長も同じような苦笑をこぼした。
 たぶんだけど、締切守れない人も多いんだろうな。
「宵くんはもう提出済みなんだけどね。やっぱすごいわ、あの子」
「ですか? 楽しみっすね、文化祭」
「いや、まぁ、そうなんだけどさ」
「どうかしたんですか?」
 声のトーンに混じった困りごとの気配に、ちらりと視線を向ける。
 圧倒的に女子部員が多いことも一因なんだろうけど、部長の相談相手に選ばれることは間々あるのだった。
 案の定と言うべきか、わかりやすい溜息を吐いた部長が、「実はさ」と悩みごとを打ち明ける。
「宵くんの小説だけ別冊――というか個人誌にしたほうがいいんじゃないのっていう意見があって」
「あー……」
「林がさぁ、同じ文芸部の括りで一緒の紙面に載るのは恥ずかしいって言うんだよ」
「あー、ねぇ」
 副部長の林先輩は、なんというか、ちょっと繊細で、それでいてプライドが高いところのある女の人だ。
 べつに、努力家だし、悪い人じゃないんだけど。
 それに、去年の文化祭で出した部誌の中で俺が一番うまいなって思ったのは林先輩の話だった。
「ほら、宵先生が載ったらさ。話題性でみんな買うだろ? 実際、今年は刷る部数も大幅に増やす予定だしさ。それで、比べられたら嫌だって」
「あー……」
 まぁ、気持ちはわからなくもない。曖昧に唸った俺に、部長はまたひとつ溜息をこぼした。
「そうしたら、何人か女子が同調してさ。どうしようかなぁってちょっと悩んでんの」
「いや、でも!」
 女子に合わせたほうが楽だという方向に流れている雰囲気に、うっかり声がデカくなる。
 予想外の反応だったのか、「どうかした?」と部長が首をひねる。はっとして、俺は笑顔を取り繕った。
「えっと、その、あいつ、みんなで部活みたいなのに憧れがあったみたいで。純粋に、たぶん、すげぇ楽しんでるんだと思うんですよ」
「ああ、まぁ。正直、一番真面目に参加してるの宵くんだからなぁ」
 得心した様子にほっとして、話を続ける。
「でしょ? だから、できたら一緒にしてやってほしいんですけど。ほら、部誌なんだし。個人誌はさすがにちょっと」
「まぁ、なぁ」
「林先輩の気持ちもわかるんで、あれですけど」
 そう、本当に、よくわかる。誤魔化すていで笑い、俺は手元の本に視線を落とした。
「洸平は、宵くんとうちに入る前からの知り合いなんだよな」
「ああ、まぁ」
 出身中学は違うけど、昔から知っていて。だから、俺に懐いてるんですよ、それだけ。
 宵が入部する前に、俺はそんなふうに関係性を説明していた。まったくの嘘でもないけど、本当でもない。一種の防衛。
「昔からあんな感じですよ、あいつ。マジ悪いやつじゃないんですけどね」
「悪い子じゃないのは半年見たらわかるけどさ。あのさ、ちょっと嫌なこと聞いていい? 林たち説得する参考までに」
「いいっすよ、べつに。なんすか?」
「自分より年下のやつがさぁ、あっさりデビューしたら嫉妬しなかった?」
「あー……、そうっすね」
 まぁ、たしかに、世間一般的に嫌な質問だろうな、なんて。どこか他人ごとに感じたまま、俺はゆっくりと首をひねった。
 宵が俺の小説に感想を送ったことがきっかけで、ダイレクトメールでやりとりをするようになって。
 住んでいる場所が思いのほか近いとわかって、直接会うようになった。俺が中学生になったばかりのころだ。
 ――え、小説って、僕が書いてもいいんですか?
 そのころの宵は、小説を書いたことがなくて、小説は読むものだと信じていたみたいだった。
 俺の「宵も書いてみたら?」という提案に、心底驚いた顔をして、でも。
 ――一緒に書こ。俺が教えれることだったら、なんでも教えるし。
 そう笑って、先輩ぶって。一緒に宵の部屋で小説を書くようになった。原稿合宿だなんて言って、泊まったりしながら。
 そうして、俺は、誰よりも近くで宵が天才になっていくさまを見た。
「天才っているんだーって感じでしたよ」 
 そう、天才。俺とは違う生き物。理解して、身の程を知った。俺は違う。
「でも、それだけ」
「なんで、そんな達観できんの、洸平は」
 あっさり笑った俺に、部長は脱力したような声を出した。
「でも、仲良いもんなぁ、宵くんと。林に聞かせてやりて~」
「林先輩、なんの公募に出したとかぜんぶシークレットっすもんね」
 とは言え、その気持ちもよくわかるんだけど。
 はは、と何度目かの軽い笑い声を立てたのと同時に部室のドアが開き、俺と部長は会話を止めた。
「失礼します」
「お、宵くん。おつかれ」
「どうも。……あ、日生先輩」
 俺の存在に気づいたらしく、宵の声のトーンがぱっと華やぐ。部長に対しての儀礼的なそれと桁違いの親密度。
 マジこいつこういうとこ犬だよなぁと呆れていると、宵がとことこと近づいてきた。しかたなく、その顔を見上げて笑いかける。
「本選んでたの。おすすめある?」
「おすすめ……。先輩が今読んでるやつは? あ、ラノベ」
「そう、そう」 
 興味津々という調子に頷いて、俺は表紙を見せた。
「最近、一周回って王道ラノベもいいなーって時期」
「へぇ、俺も読んでみようかな」
「あー、まぁ、宵が好きかどうかはわかんないけど」
「大丈夫です」
「いや、なんなの、その自信」
 自信というか、謎の俺への信頼というか。覚えた居た堪れなさで、再びぱらりとページをめくる。
 ――でも、こいつ、そうなんだよなぁ。
 幾度目かの「あーあ」を呑み込んだタイミングで、部長がひょこりと顔を出した。鞄を手にしている様子から判じるに、もう帰るつもりらしい。
「なんだ、宵くん、ラノベも読むのか?」
 名指しを受けた宵が、「はい」と部長に顔を向ける。
「好きな文体なら」
「好きな文体……。そうか。宵くんが言うとすごいレベルが高そうだな」
「いや、レベルっていうか、わりとこいつ雑食なんですよ」
「はい、ラノベもですけど、児童書も一般文芸も、ネットの小説も。時間があったらなんでも読みます」
「へぇ、ネット」
「そうなんすよ」
 意外そうに頷いた部長に、俺は宵の言葉足らずを補足した。
「好きな文体っていうのも、本当にうまい下手じゃなくて、ガチでこいつの好みかどうかみたいな感じで」
「でも、文体が合わないと読めないじゃないですか」
「それはわかるけど。おまえ、わりと過敏なほうだと思うよ」
 だって、俺は、宵が執念深く自分の文章を修正していることを知っている。
 あそこまで必死なやつ、俺はおまえしか知らないよ。プロにとっては、あたりまえなのかもしれないけど。
 微妙な顔で黙り込んだ宵と俺を見て、部長は「じゃあ」と会話を切り上げた。
「俺、先帰るけど。ふたりカギ閉めお願いしていい?」
「いいっすよ。おつかれさまです」
 俺の隣で、宵もぺこりと頭を下げる。
 扉の閉まる音と、遠ざかっていく足音。しんと静まった部室の空気を冷たく感じながら、本棚を物色し始めた宵を窺う。
 宵の視線の先にあるのは、俺が今手に持っているラノベの作者の本だ。
「宵さぁ」
 目線を手元に戻し、できるだけなんでもないふうに呼びかける。
「仲良く部活したいなら、言い方ちょっと気をつけたほうがいいぞー。部長はそういうの気にする人じゃないけど」
「……はぁ」
 不承不承、というか、たぶん、いまひとつわかってないんだろうな、という調子だった。
 俺のほうを見る瞳も、なんだか少し不思議そう。しかたなく、俺はわかりやすく言い足した。
 なんで、こいつ、現実の人間の情緒には疎いんだろうな。小説の表現は、あんなに繊細できれいなのに。
「天才だから、で、不要な発言もぜんぶ許容されたいわけじゃないんだろ」
「ああ、……はい」
 わかりました、と宵が呟く。今度のそれは理解した声だった。
 会話が途切れ、本棚に向き直った宵が、手に取った本の表紙を見つめながら口を開く。
「ありがとうございます」
「いや、べつに。ただの説教だし」
「それだけじゃなくて、さっきも」
「ん?」
「部長と」
「ああ」
 なんだ、聞いてたのか、と答える代わりに、俺は小さく笑った。ふっとつられたように宵も笑う。
「日生さんは、いつも俺をふつうにしてくれる」
 ふつう。珍しく俺のほうを見ないまま、宵は続けた。
「俺が学校行ってなかったときも」
「ああ、まぁ。でも、宵は宵だし、俺、宵と喋ってんの好きだったからなぁ」
 そう。好きだった。純粋に、かつては。
「俺も」
 静かに応じた宵が、ぱらりと本をめくる。
「日生さん」
「うん、なに」
「俺、日生さんと同じ高校入れてよかったです」
 告白に、俺はちらりと宵を確認した。カーテンの開いた窓から差し込む光が、宵の黒い髪に天使の輪をつくっていた。
 出会ったころのまんまのような、さらさらの髪。その髪を見つめているあいだに、宵が静かに綴る。
「こうして一緒に部活できんの、すげぇうれしい」
「そっか」
「……まぁ、日生さんが書いてくれたらもっとうれしいんですけど」
 反応に困って、はは、と俺は笑った。
 もう、この話、やめてほしいんだけどな。何度も思ったことだったけれど、やっぱり今日も言えなくて。俺は手元の本に意識を戻した。
 でも、沈黙は長く続かなかった。また、宵が「日生さん」と俺を呼ぶ。
「俺、ずっとひとりだったじゃないですか」
「ん?」
「ずっとひとりで家にいて、べつにすることもなくて、ぼーっとするばっかりで。でも、そんなとき、日生さんの小説読んで『すげー』ってなって」
「おい、先生。語彙やべぇだろ」
 俺のからかいに宵は乗らなかった。変わらない淡々とした――それでいて、しっとりとした感情の乗った声で言う。
「そこから日生さんと喋ることが楽しくなって、日生さんに宵も小説書いたらって言ってもらって、本当に世界が変わったんです」
 世界が変わった、という言葉に、なんだかひどくドキリとした。からかって誤魔化すこともできず、じっと一文を見つめる。
「日生さんと一緒に俺の部屋で小説を書くのが、めちゃくちゃ楽しかった」
 俺だって、楽しかったよ。あのころは。たぶん、純粋に。自惚れて。
 宵と知り合って、宵の家に行くようになって、どんどんと一緒にいる時間が増えて、――それで。
 ぐっと本を持つ指先に力が入る。でも、宵はまったく気づかなかったみたいだった。
「だから、日生さんともっと一緒にやりたいって思って、面倒だったけど中学も通ったんです。不登校だと日生さんと同じ高校行けないって思ったから」
「あー、……なぁ。そうだよな」
 だから、がんばる、という宵の宣言は、かつて何度も聞いたものだった。
 そのたびに、大丈夫だよ、となんの根拠もない励ましをしたことも覚えている。でも。
 曖昧な相槌を打った俺に、宵がそっとはにかんだことがわかった。
「はじめて日生さんにコメント送ったときのこと、俺、今もはっきり覚えてます」
 いや、忘れろよ。そんなこと。
 そうやって笑い飛ばせばよかったのに、できなくて。俺はぎこちなく本を繰った。
 適当に笑うことも、適当に場を盛り上げることも得意なはずなのに。宵といると、たまにできなくなることがある。息が詰まることがある。
 俺は、それがすごく嫌だ。
「日生さんから返信があって、それだけで飛び跳ねるくらいうれしかったのに、そこからだんだんふつうにやりとりできるようになって、日生さんが近くに住んでるってわかって奇跡だと思った」
 なぁ。そんな奇跡みたいな偶然、なかったらよかったのにな。
 なにも言わないまま笑い、また一枚ページを繰る。静かな時間がふたりきりの部室に流れ、いつ帰ろうかなぁと考えていると、また宵が口を開いた。
「あの」 
 固さのあるそれに、しかたなく宵のほうを向く。俺は結局、小さなころを知る宵を邪険にできないのだ。
「日生さんが書かないのって、俺のせいですか」
 真剣な瞳の真ん中に俺が映っている。もし、ここで宵のせいだと言ったら、宵は書くことをやめるんじゃないだろうか。
 そんなわけがあっていいはずがないのに、なんだかそんな気がした。だから、俺はくしゃりと笑った。いつもの顔で。
「ばーか。んなわけねーだろ」
 宵のことが嫌いなわけじゃない。はじめて俺を「先生」にしてくれた小さい宵が好きだった。俺だって、宵と一緒に小説を書く熱中する時間が好きだった。
 今だって、そうだ。嫌いじゃない。嫌いなわけじゃない。宵に変な屈託を抱かせたくはない。
「たださぁ、なんていうの? 俺、小説書くの宵より前からやってたからさ。飽きた、じゃないけど、ほかにもやりたいことあるっつうか」
「…………はい」
「それだけ」
 それだけだよ、と俺は笑って繰り返した。本当にそれだけだったよかったのにな、と思いながら。