強く、踏み込んで



「死ぬ……」

暑い。年々凄まじくなる酷暑に殺される。
電気代がかさむから我慢してきたけど、もう限界だ。リモコンの温度設定を下げるという、苦渋の決断をした。

引っ越しをしたから貯金がすっからかんで、現在バイト三昧の日々。風月は冷水のシャワーを浴び、向日葵のグラスに麦茶を入れた。

「平和だ……」

暑いけど、暑い意外に問題はない。それはとても贅沢で、恵まれたこと。
ホッと息をつける時間に感謝しつつ、窓に広がる深い青を見上げた。

今日は完全にフリーだから、何しよう。
とりあえず洗濯でもするかと思っていると、スマホの着信音が鳴った。

「ん?」

電話なんて珍しい。一体誰からだろう。
手にとって画面に表示された名前を見る。その瞬間、時が止まった。

「あ……」

最後に連絡してから何ヶ月ぶりだろう。
忙しいかもと遠慮して、中々こちらから連絡できなかった。

声を聞くのもやっとだけど、ずっと想い続けた大事な存在。

「もしもし。……幸耶?」
『もしもし。久しぶり、風月』

電話を掛けてきたのは幸耶だった。久しぶりに聞いた声は以前と同じく透き通って、優しく鼓膜を揺さぶった。

「めずらしー。どうしたの? 元気?」
『元気だよ。俺としてはお前の方が心配でさ。ほとんど生存確認みたいな』
「もう……大丈夫だよ」

麦茶を飲み込み、不満をもらす。
心配性なのは相変わらずみたいだ。本当は電話を掛けてきてくれたことを素直に喜びたいのに、妙な意地が邪魔してツンツンしてしまう。

「何か変わったことあった? お兄さんは元気?」
『元気過ぎて困る。っていうか、俺あの家出ることにしようと思うんだ』
「え? 何で!」
『兄貴が婚約したんだ。そんで、もしかしたらあの家に住むかもしれなくて、追い出されそうなんだよ』

マジか。驚いて「大丈夫?」と訊くと、それは冗談だから大丈夫、と笑い声が聞こえた。
『俺も家を出ようかと思ってたし、ちょうどいいと思ったんだ。……それで、先輩のアドバイスも色々もらおうと思って』
「先輩」
『お前のこと。久しぶりに会えないか? ……今から』
うぐ。
思わず麦茶を吹き出しそうになり、慌ててタオルをとった。

「いいけど、めちゃくちゃ急だな! 何時に待ち合わせ?」
『お前の準備ができ次第かな〜。俺、今お前の家の前にいるんだよね』
「はっ!?」

急なんてもんじゃない。
幸耶は恐らく、用意周到だったんだろうけど……あまりに話がとんとん進んで怖かった。それに、
「俺、お前に今の住所教えたっけ?」
『あぁ、ちょっと前に夜中に電話してきたじゃん。二十歳になって飲めるようになったんだ〜、とか酔っぱらって』
「すみませんでした……」
言われてみると、そんなこともあった。
「すぐ用意するよ」
一旦電話を切り、急いで着替える。大して準備もせずにアパートの前へ出ると、見慣れない車が停まっていた。

「よ。久しぶり」
「久しぶり……」

幸耶だ。本物の。

当たり前なのにどこか非現実的で、フリーズしてしまった。
手を伸ばせば触れられる距離にいる。その事実を上手く飲み込めない。

「幸耶、車買ったの?」
「まさか。兄貴の借りてきた。だからちょっとドライブしよう」
「ふぁ〜。良いな!」

ドライブなんて久しぶりだ。
免許をとってからも、身辺整理に追われて行けずにいたから。
免許をとったらもっとバンバン乗りこなすもんだと思ってたのに、結局電車ばっか使ってるし。

「風月、親父さんの車は?」
「あー、叔父さんに預けてる。やっぱり維持費がきつくてね……」

助手席に乗り、シートベルトを締める。心なしか背筋がぴんと伸びて、膝の上の拳を握った。
「でも、いつか引き取りに行きたいと思ってる」
「……そうか」
幸耶は頷き、眼鏡を掛けた。エンジンをかけ、ゆっくり発進する。

おぉ……。

久しぶりに会ったことも現実感ないのに、幸耶が運転する車に乗っている。驚きの連続で処理が追いつかない。

喜びもだ。嬉しくて、どうしたってにやけてしまう。

「どこ行くの?」
「内緒。でも結構走るから、どっかで飲み物買ってくか」

ファーストフード店のドライブスルーに寄り、俺達はこの一年にあったことをたくさん話した。
俺は今の家や大学のこと、それからバイトのことを話した。幸耶もバイトをしながら新しくサークルに入り、忙しいが充実した日々を送っているようだった。

楽しそうで良かった。
彼のことだけが気掛かりだったから、密かに胸を撫で下ろす。

高速に入り、景色の見えない道を進む。
ルームミラーを一瞥して、ふと尋ねた。

「幸耶、どこ行ってもモテるだろ」
「何だよ、急に」

幸耶は吹き出し、それからシートに深くもたれる。

「お前の方がモテるだろ。……彼女できた?」
「できるわけない。幸耶は?」

笑い返して、窓際に手を置く。
俺が想ってるひとは昔から決まってるから……静かに告げると、幸耶は眼鏡を掛け直した。

「俺も、できるわけないな」






方角は北を目指してるのかと思ったけど、幸耶はやっぱりやめた、と行ってルートを変えた。
別に行き先はどこでも構わないのだけど、なにか考えがあるらしい。

この辺……大昔に来たことある。

確か、真夏に……父と。
懐かしさに胸を焦がしていると、風月、と名前を呼ばれた。

「ここからは、目閉じてて」
「……はい」

何か企んでるな。幸耶は、真面目だけどサプライズやシチュエーションにこだわるところがある。
面白くて言う通りにした。狭い車内で瞼を伏せ、車に揺られる。

幸せだな……。

こんな日をこれからも時々過ごせたら、もう何もいらない。本気でそう思うほど、心は満たされていた。

「っ」

幸耶はアクセルを強く踏み込んだ。上昇していくから坂道の手前だったんだろうけど、一応シートベルトを握る。

幸耶が普段どれぐらい運転してるかは分からないけど、目ぇ閉じてるとスリルあるな。

でもここへ来るまではずっと安定してたから、俺よりは乗ってそうだ。昔駐車が苦手って言ってたけど、全然問題もないし。

「お待たせ。到着」
「おっ。ありがとう、目開けていい?」
「どうしよ。俺が降りるまで待って」
「すごい引き伸ばすな……」

もはや執念というか、幸耶の気持ちの入れ方は半端じゃない。それだけ分かれば充分だけど……ここは大人しく、助手席のドアが開くまで待つことにした。

「はい。どうぞ」
「……ん」

ドアが開き、手を差し出される。
まるで馬車から降りるお姫様だ。少し照れくさかったけど、降り立ってすぐ目の前に広がる光景に息を飲んだ。

遠くに見えるのは日本で一番高い名峰と、山々の青い稜線。そしてその手前で咲き誇るのは、地平線まで広がるたくさんの向日葵だった。

「あ……っ」

何十万本もの向日葵が、太陽に向かって花を開いている。その明るさと美しさに目を奪われ、呆然と立ち尽くしてしまった。

それに、ここには来たことがある。
昔、父に連れてきてもらった向日葵畑。

俺はこの景色を見て、向日葵が大好きになったんだ。

「ごめん。風月の叔父さんから聞いちゃったんだ。お前が向日葵を好きな理由」

幸耶は隣に並び、眼前に広がる向日葵を眺めた。

「……大切な場所なんだ」

胸元を押さえる。目の前が潤んで、声がわずかに震えた。

「でも、ひとりで来る勇気がなかった。……連れてきてくれてありがとう……幸耶」

大好きで大好きで、何度も夢に見た場所。
けど思い出が溢れ、もっと苦しくなりそうで怖かった。記憶の中で何度も美化したし、逆に荒れてしまっているかも、と想像した。

行きたいけど行けなかった場所……。

前に屈み、乱暴に目元を擦る。幸耶は俺の頬にそっと触れ、手を掴んだ。

「辛いことまで思い出させるかもしれないと思って、正直かなり迷ったんだ。だから、踏み込んでごめん」
「いい。俺の場合、それでいつも救われてる」

そうだ。ここまで踏み込むのも勇気がいる。
幸耶はそれを分かっているんだ。嫌われるかも、もっと傷つけるかも、という不安と闘って、そして決断してくれた。

「ありがとう……」

大地を照りつける太陽の下で、涙をぬぐう。
どんな時も俺の気持ちを掬ってくれた青年に、何度も繰り返した。

幸耶は徐にかぶりを振り、下に屈んで俺と視線を合わせる。

「……俺、お前の力になりたいんだ。これからはもっと近くで、お前を支えたい」

繋がる手。彼の温もりが、内側まで伝わってくる。

「必ず幸せにする。俺と付き合ってくれ、風月」
「幸耶……」
「お前が好きだ。いつもお前のことを考えてるんだよ」

引くよな、と言われたので、俯きがちに答える。
「……俺もだ」
これも、昔からずっとしているやり取りだ。
俺達はいつも同じことでぐるぐる悩んでいる。くっついたり離れたり、試行錯誤しながら距離を確かめている。

大好きだからなんだ。

同性ということ、友人ということ……そのどれもが強固なもので、越えてはいけない一線だと言い聞かせていた。

けと幸耶は踏み込んでくれる。どんな時も、俺だけを一心に見つめて。

一度は止まった涙が、また堰を切ったように零れ落ちる
。もう周りの目なんて気にせず、頷きながら嗚咽した。

「俺も、幸耶が大好き……っ!」
「あはは。ありがとう」

幸耶ははにかみ、俺の頬を撫でた。一旦は車に隠れるように、小声で俺を見上げる。

「あ。あのさ、一人暮らしのアドバイス。……じゃなくて……一緒に住もう」
「うん」

また、新しい毎日が始まる。
それはあの向日葵のように、もっと鮮やかに色づくはずだ。

「改めて。宜しく、風月」

世界で一番愛しいひと。その眩しさに目を細めて頷くと、彼は照れくさそうに俺を抱き締めた。