「風月。訊きたいことがある」
「な、何?」
慌てて聞き返すと、彼は気まずそうに視線を膝に落とした。
「お前から言うまでは訊かないようにしてたんだ。その、人の事情にあまりずかずか踏み込むのはいけないと思って」
人の顔色や空気を窺う、彼らしい言葉だった。
まだ遠慮してることも分かったから、思いきって前に身を乗り出す。
「言ってよ。俺は大丈夫だから」
幸耶の瞳の色が陽炎のように揺れている。それがまるでかつての自分のようで、胸が苦しくなった。
……いや、今の俺は違うか。
もう全てを曝け出す覚悟はできている。
「幸耶に知られて困ることは、なくしていきたいんだ」
照れくさいことはもちろん、思い出すと胸が痛むことも。
彼とこれからも一緒にいる為に、ひとつずつ箱から取り出すことにした。
幸耶はハッとした顔で俺を見て、「ありがとう」と零した。
「風月の家族のこと、……知りたいと思って」
それは小さくて、震えていて、本当に迷いながら出した声だった。
「言いたくないなら言わなくていい。前は、何が何でも聞き出すみたいなこと言ったけど……家族のことじゃないから」
「うん……」
自分でも触れないようにしていた心の穴。
怖くて閉じ続けていたけど……ようやく向き合える。
「全然。むしろ踏みこんでくれてありがと」
もっと前の俺だったら、こんな上向きな気持ちにはなれなかったかもしれない。
けど幸耶に会って、凍っていた心はほぐれていった。
今なら、笑顔で話せる。
「最初に幸耶の家族のこと訊いて、踏み込んじゃったのは俺の方だもん。もっとグイグイ来ていいんたよ」
「無理だって」
幸耶は吹き出した。ベッドに背を預け、足を伸ばす。
「……お前、俺が帰ろうとする度に寂しそうにしてたし」
「う……」
大泣きしたことがあるし、否定はできない。でも恥ずかしくて、大声で叫びたい衝動に駆られる。
何とか心を鎮め、慎重に言葉を取り出していった。
「俺はさ。幸耶と逆で、お母さんがいないんだ。父親だけ」
ビー玉の入ったラムネを傾ける。きらきらと光が反射し、俺達の影を映した。
「母さんは俺を産んですぐ、病気で……だからずっと父さんと二人暮らしだった。がさつで適当で、とにかく騒がしくて。そんなだから寂しくもなかったんだよな」
父と息子の生活だから、ある程度お察しだと思う。
幸耶は静かに頷き、わずかに破顔した。
「仲良かったんだな」
「そうだな。不器用だけど、母親の分まで頑張ってる感じがした。全然休みないのに、たまの休日は必ずドライブに連れて行かれてさぁ」
眠い時まで叩き起こされるから、あの時は文句ばかり言ってしまった。今なら素直にありがとうと言えるのに。
不自然に黙ってしまったから、幸耶は苦しげに顔を歪めた。
「風月。お前の親父さんは……」
「うん。もういない」
察しのいい彼は、もう分かってるようだった。
俺が自分で一人暮らしを始めたのではなく、始めざるを得ない状況だったことを。
「幸耶のお母さんと同じだよ」
父は、仕事の帰りに飛ばしていた車に追突され、命を落とした。
俺はその連絡を受けても何が何だか分からなかった。
そんな、という絶望と、まさか、という希望が綯い交ぜになった。記憶は飛び飛びだけど、父は大丈夫と信じて病院へ向かった。
でも父は、もう誰の呼びかけにも反応しなかった。
日常が壊れるのは一瞬。
そんな当たり前のことを、その時に思い知った。
「ほんとに突然、その日が来るだろ。だから俺も幸耶の話を聞いた時、息ができなくなりそうだった。一番辛いのは亡くなった人だけど、残された側も、生きてる限り後悔していくことになるから」
「風月……」
膝を抱えて俯くと、幸耶は徐に首を横に振った。
「話してくれてありがとう。……頑張ったな」
ぽんぽんと頭を叩かれる。
まさかそこで労いの言葉を貰えるとは思ってなくて、笑ってしまった。
大変だったね、と言われることはあるけど。頑張ったと言われると、存外嬉しいことを知った。
「幸耶も、頑張ったじゃん」
「いや。俺は兄貴がいたから、複雑なことは代わりにやってもらえた。家もそのまま住めてるし」
でもお前は違うんだろ? と前髪を持ち上げられる。
「そうだな。引っ越して、何も整理できてない状態だった。大学入って数カ月……教習所もあとちょっとだったのに」
力なく肩を落とし、天井を見上げる。
「俺が免許とったら、親父をドライブに連れて行こうと思ってた」
「そうか」
「うん。でも事故の後、教習所に行けなくなった。行こうとすると足が竦んで……親父のことを考えちゃって」
引っ越し先を探していた時、たまたま教習所の目の前に安いアパートがあるのを見つけた。早急に引っ越さないといけなかったから、教習所にも通いやすいと思い部屋も借りた。
いずれは大学の近くにまた引っ越してもいい。今は一旦、父親の遺品や家財をまとめる必要があった。
「そんで結局、三カ月も不登校。何か、もういいか……って諦めてた」
でも、幸耶と出会い、その気持ちは変わった。
「お前が家に来てくれるようになって寂しくなくなったし、また教習所にも通おうって思えた。だから俺、お前には感謝してもしきれないんだ」
父はもういないけど、自分が行きたいところに運転して行きたい。
そしていつかは、幸耶とも一緒に。
「お前も、ほとんど変わらない時期にお父さんを亡くしてたんだな。それなのに押さえ込んでたのか」
「うん……まぁ俺は、元々がいい加減だから。急がなくていいことは今も先延ばしにしてるし、大丈夫だよ」
ただのメンタルの問題、と言うと、さっきより近くに引き寄せられた。正面を向いたまま、隣り合わせで密着する。
「メンタルが一番でかいだろ。無理すんな」
「幸耶……」
「限界きてるときは休まなきゃいけない。……教習所なんか行ってられないよな。何も知らないで余計なこと言って、すまなかった」
「いやいや! 話してないんだから当然だろ! 俺としては、もう慰めてもらうのも疲れてたっていうか……極力明かさないようにしてたから、いいんだ」
むしろそこまで察していたら怖い。
全力で否定するも、幸耶の顔はまだ辛そうだった。
「お前が泣いた夜も、やっぱりお父さんのこと?」
「……」
そっと髪を梳いて、彼は囁いた。
それほど遠くない記憶が蘇る。家に帰ろうとした幸耶を引き留めた、あの夜。
「……どうかな。確かに、毎日孤独で……先の見えない不安には駆られてたけど」
それだけではないように思う。
久しぶりに話の合う友人ができて、静まり返っていた家が賑やかになって。心から笑ったのは、父を亡くして以来初めてだった。
にも関わらず、幸耶と別れる際にどうしようもない孤独感に襲われた。
誰といても埋まらない穴。それを埋めてくれたのは幸耶で、……彼じゃないと駄目だった。
「できれば引かないでほしいんだけど。あの日はただ、幸耶が帰っちゃうことが……寂しかった」
「お前……」
すごく恥ずかしかったけど、意を決して告白した。
恐る恐る隣を見ると、案の定彼は顔を手で覆っていた。
「じ、自分でも分かってる。寂しくて泣くとか、情けないしダサいって!」
「いや……馬鹿にしてるとかじゃない。そうじゃなくて……」
幸耶は少しだけ手をどかす。その下の頬は、熱でもあるんじゃないかってほど真っ赤だ。
「帰ってほしくないって思われてたことが、シンプルに嬉しい」
「幸耶……」
驚いたけど、彼は呆れるどころか喜んでいた。耳まで赤くて心配になったけど、もしかすると俺もそんなに変わらないのかもしれない。
互いに照れくさくて爆発しそうな心境なんだ。それでもくっついて、気持ちを確かめ合ってる。
「あと、泣いてるお前も普通に可愛かった」
「忘れろ」
聞けば聞くほど羞恥心で沸騰しそうになる。
だけど同時に、泣きそうなほどホッとしていた。
拒絶されなくて良かった。……受け止めてもらった、という想いで胸がいっぱいだ。
「すごい偶然だよな。……あまり嬉しくない偶然だけど」
幸耶の方に手を伸ばす。目に掛かった前髪をすくい、彼に微笑んだ。
「でも俺、幸耶に会えたことは最後のご褒美だと思ってる」
「大袈裟だな。……って言いたいところだけど、俺も。お前に会わなかったら、マジで詰んでた」
「それはないだろ。お前要領良いもん」
「そんなことないぞ。それにメンタルに問題あったら何もできないよ。俺にとってはお前が、生きる糧みたいな……って言うと痛いか」
彼が笑ったので、俺もつられて笑った。
「いいじゃん。俺達以外いないんだし」
「……そうだな。……じゃ、もう一回言わせて。ありがとう、風月」
全てを受け止めるような、優しい眼差し。こんなにも温かい瞳で見られたのは初めてだ。息を飲み、彼を見返す。
「俺も。ていうか、何度でも言う。ありがとな、幸耶」
脆く儚い日常で彼と出会えた自分は、間違いなく幸福だ。
「本当に……偶然だけど、会えたのは奇跡だ」
俺達は不思議な縁で結ばれてる。
あまり人には言えないけど。と言うと、彼も「だな」、と言って笑った。
「風月。俺もまだ学生だから、そこまでお前の力になれないかもしれないけど……困ったことがあれば、すぐに言えよ」
「……ありがと」
柔い幸耶の髪に触れる。この温もりを忘れたくない、と改めて思った。
「幸耶も……遠慮しないで、何でも言って」
「あぁ。さんきゅー」
彼は頷き、それから唸った。
「なぁ。それじゃさっそく、ひとつ言ってもいい?」
「もちろん。何?」
「今夜は、俺の家に泊まってかない?」
「え」
思いがけない提案に、露骨に狼狽えてしまった。
嫌がってると思ったのか、幸耶は慌てながら手を振る。
「いや、嫌ならいい。用事あるなら早く帰らないとだし」
「ううん、何もない! でも……」
正直家に呼んでもらったことにも驚いていたのに、良いんだろうか。
「いきなり来て、迷惑じゃない?」
「迷惑なわけない。いつもお前の家で寛がせてもらってるだろ。兄貴も部屋に入れてもらったことあるし、たには俺の家で休んでほしいんだよ」
「そんなの気にしなくていいって。……でも、ほんとにいいの?」
「遠慮し過ぎ。……まぁ、それがお前の良いところだからな」
幸耶は俺の頭に手を置き、立ち上がった。
「でも今日は泊まり決定な。開封してない歯ブラシもあるし、問題ない」
「ははっ。ありがとう」
幸耶の家に初めて泊まる。突然のことで心の準備は何もできてない。
いや……友達なんだから、心の準備なんていらないか。
そう思うけど、やっぱり緊張してしまうのは……幸耶に抱く気持ちが、“友達”だけじゃないからだ。
好きなんだ。ひとりで浮かれ、光る未来を想像してしまうほど。


