カチ、カチ、と、規則的に進む時針の音。
それだけならいつものことだけど、蛇口から流れる水の音に違和感を覚えた。
あれ、水流しっぱなしになってる……? 止めてなかったっけ。
「っ!」
反射的に飛び起きると、キッチンの方から物音がした。寝ぼけ眼で向かうと、そこにはシンクの周りを掃除している帷がいた。
「ああ、起きた?」
「……すまん。休んでって言った俺が寝てたな……」
壁に手をつき、思わず高い声を上げる。
「えっ! 皿洗ってくれたの?」
シンクにためていた洗い物が一つもなくなり、全て水切りトレイに入っている。感動しつつ、同時に血の気が引いた。
「具合悪かったのに、そんな動いて大丈夫?」
「大丈夫だよ。お前が寝た後、俺もしばらく横になってたし。今はぴんぴんしてる」
「はああ……ありがとう。ごめんな」
「全然」と言って帷は手を拭き、荒れ放題だったテーブルも拭いてくれた。あまりに慣れているから、普段から家事をしてるんだろう。密かに感心してると、彼は部屋の隅に積み上げられたゴミ袋を見て、神妙な顔で尋ねた。
「いつも何食ってんだ?」
「色々食ってるよ。カップ焼きそばだろ、それからカップ麺のしょうゆ、味噌バター、とんこつに担々味」
「バリエーション豊かだけど、体壊しそうだな……」
帷は逡巡したのち、鞄を持ってドアへ向かった。
「ちょっと出掛けてくる。また戻ってきてもいいか?」
「えっ。いいけど、倒れない? むしろ一緒に行こうか?」
財布とスマホをポケットに突っ込み、彼の方へ駆け寄る。すると彼はどこか嬉しそうに口角を上げた。
「付き合ってくれるなら助かる。買い物行こう」
会ったのはせいぜい数時間前なのに。
名前しか知らない青年と、カートを押して食品売り場で買い物してる。いささか非現実的で、逆に笑えてきた。
自宅近くのスーパーはわりと安いことで知られているが、こんなにじっくり買い物したのは初めてかもしれない。帷は野菜の選び方を熟知していて、丁寧に教えてくれた(でもほとんど右から左に流れていった)。
「迷惑かけたから、飯作るよ」
家に戻ると、帷は台所に立ち、手際良く調理を始めた。
料理系男子だったか……。またまた密かに感心しながら、彼の隣に並んだ。
「むっちゃ有り難いけど。迷惑なんかじゃないのに」
「うーん。……じゃ、世話になったから」
帷はこちらを見ず、鍋の水を沸騰させた。
「お前、俺が女だったらやっぱり声かけてた?」
「お、おぉ。具合悪そうにしてたら、もちろん」
「そうか。そうだよな」
どこか可笑しそうに返し、帷は俺の方を向いた。
「お前はただの善意だろうけど。それされたら多分、大抵の娘は落ちると思うぞ」
「あはは! どうかな〜。告られたことないし」
女友達は多いけど、実は恋人がいたことがない。彼氏にするには頼りないと思われてるのだろう。
そう思ってひとり頷いていたが、帷は腰に手を当て、真剣な表情で告げた。
「実は今まで何度も告白されてたんじゃないのか。自分が気付いてないだけで」
「そこまで鈍感じゃないよ」
「そ。ま、俺は助かったから良いけど」
助かった……?
その言葉の意味が分からなかったけど、ツッコむタイミングを逃してしまった。
それからはただ、料理を作る帷を盗み見て。野菜たっぷりの、めちゃくちゃ美味しいシチューを一緒に食べた。
「美味い!!」
「良かった。いっぱい作ったから、明日の朝ご飯にしな」
「マジか……ありがとう! 久しぶりに手料理食った……」
感動しながら、焼きたてのパンと一緒にシチューを食べる。帷は少食で、ほとんど俺が食べてる姿を黙って眺めていた。
「もうこんな時間か。そろそろ本当に帰るな」
「え。あ、そうか……」
壁にかかった時計を見ると、もう二十ニ時近い。こんな時間にひとりで帰らせることが、逆に不安になってきた。
「な、なぁ。タクシー呼ぼうか? 金は俺が出すから」
「大丈夫だよ」
玄関で靴を履く帷に、しどろもどろに話しかける。
不思議だ。何で俺、こんな必死に……彼を引き止めようとしてるんだろう。
よく分からないけど、これで完全にお別れになるのが嫌なんだ。もっと彼と話したい。もっと知りたい、と思ってる。
いっそ泊まっていけば?
なんてことを、平気で考えてる。だがさすがに引かれそうで、口にすることはできなかった。
ドアを開けて、帷と一緒に外へ出る。夜とはいえ、やはり真夏。生温かい風が吹く熱帯夜だった。
「ここでいいよ。もう家入りな」
「うん……」
「心配してるなぁ。ハムスターみたい」
「ハム……!?」
どういう例えなのか分からず、硬直する。
そんな俺を見て、帷は口元を押さえ、肩を揺らした。こっちは本気で心配してるのに、何だか温度差が激しい。
思わず頬を膨らまし、彼に抗議した。
「心配すんのは普通だろ! 昼間には死んだ顔してる奴拾ったんだから!」
「あはは、そりゃそうか。はー……こんな笑ったの久しぶり」
帷はポケットに手を入れ、静かに空を見上げる。そしてゆっくり俺の方に近付き、秘密を打ち明けるように囁いた。
「でも、あんま知らない奴に入れ込むなよ。俺からしたら、お前の方がずっと危なっかしい」
「……」
割れ物に触れるかのように、そっと頬を撫でられる。指先が掠めた程度なのに、チリチリと痛んだ。
いや、この痛みは胸の方かもしれない。
「大丈夫だよ。……お前がいるうちは、守ってくれるんだろ?」
「ん? ……あぁ、もちろん」
「じゃあ頼む」
家の中からメモの切れ端を取ってきて、迎は自身の電話番号を書いた。それを帷の上着のポケットに突っ込む。
「教習所、まだ通うんだろ? 来る時は俺の家に遊びに来いよ。スマホ充電できるし、お菓子も飲み物もタダだから」
「ふはっ。休憩所ってこと?」
「そう」
即答すると、帷はそうだなー、と言って瞼を伏せた。
また会いたい。ただそれだけの気持ちで、繋ぎ止めようとしている。
俺はなんて悪い奴なんだ。
自己嫌悪に苛まれながら、外廊下の手すりに手をかける。
怖々しながら反応を待っていると、帷は鞄から取り出した眼鏡を掛け、笑った。
「オーケー。また来る。……ついでに、教習所に行くよ」
「逆だろ? 教習所ついでに来るんだろ」
「あはは、そうだな。間違えた」
メモを入れた方のポケットに手を入れ、帷は階段を降りていく。俺はその場に留まって、上から彼を覗き込んだ。
「またな、帷。おやすみ」
「ん。……おやすみ」
軽く手を振り、彼は去っていった。姿が見えなくなった後もしばらく竚んで、夏の暑さを感じていた。
いや、本当に熱い。
でも帷がいなくなってから、ようやく息を吸うことができた。


