強く、踏み込んで





アパートの外階段を上ろうとした迎風月(むかえかづき)は、綺麗なつむじを見つけて足を止めた。

( んん……? )

炎天下の昼下がり。大学から帰ると、石壁に背を預けるように、地べたに座っている青年がいた。
すぐ傍の自販機で買ったペットボトルを渡し、大丈夫か尋ねる。熱中症だったら救急車を呼ぼうと思ったけど、彼は『メンタルの方』、と言ってかぶりを振った。

メンタル。
なにか事情がありそうだが、緊急性がないことはホッとする。

青年は水をひと口飲んだ後、ぬれた口元を袖でぬぐった。

「ありがとう。……高校生?」
「いや、大学生。一年だけどね」
「そうか。じゃあ同い年だ」

彼は少し驚いた様子で顔を上げた。その反応から察するに、かなり幼く見えてたんだな、とショックを受ける。

でも彼の隣に置いてあるスマホに気付き、思わず指さした。

「ね、スマホ大丈夫? そんなアスファルトの上に置いてたらバッテリーやばいことになるよ」
「あぁ、大丈夫。ここに来る前に落っことして壊れたんだ。元々調子も悪かったし、仕方ない」

青年は傍に置いてたスマホを拾い、ひらひらと振ってみせる。でもなにか心残りがありそうに見えた。
何だろう。……あ。

「誰かに連絡しなきゃいけないんじゃないの?」

そう言うと、彼はまた目を見開いた。俯き口を閉ざしていたが……やがて気まずそうに頷く。

「場所は目の前なんだ」

でも、あそこに行くことすらしんどくなって。

そう言って、彼は前を指さす。顔を向けた先にあるのは道路を挟んだ先に広がるフェンスと、奥にそびえる白い建物。

俺の家の前にある自動車学校だった。

なるほど、そこに通ってる生徒か。
「気を遣わせてすまない」
青年は眼鏡を外し、小さなため息をもらした。前髪をかき上げる仕草は妙に色っぽく、同じ男なのにドキッとしてしまった。

「いいや。……欠席の連絡したいってことだよな? 任せろ、代わりに電話する!」
「え? あ、いや……」

すぐさまスマホのアドレス帳を開き、“既に”登録されてる電話番号に掛ける。
『はい、青空教習所です』
ワンコールで聞こえた電話受付の女性の声。その場に屈んで、青年に小声で問いかける。

「名前。名前教えて」

やる気が先走って、名前も訊かずに電話してしまった。
青年も少し面食らった様子だったが、

「……帷、幸耶」

自身の名前と電話番号が書かれたメモを渡してくれたので、彼の代わりに休みの連絡を入れた。

「はい、はい……すみません、失礼します」

通話を切り、影のかかった顔を覗き込む。

「もう大丈夫! 事務のお姉さんが、また来れるときに電話してってさ。お大事にって言ってたよ」
「そう……か。ありがとう」
「全然。それより、体調良くなるまでウチで休んできなよ。俺の部屋、ここの二階だから」

そう言うと彼は驚き、そこまでは甘えられないと答えた。しかしこちらとしては、家の前に座り込んでるひとを放っておくのは落ち着かない。
猛暑日で三十五度近くあるし、本当に熱中症になりそうだ。こうして話してる間も蒸し蒸しして、肌が焼けそうになる。

「決まり! ほらっ、早く」

それに、彼を見かけたのは初めてじゃないから。
半ば強引に彼の手を掴み、自分の方へ引き寄せた。







家に連れ帰った青年、帷幸耶(とばりゆきや)は同い年とは思えないほど大人びていた。知的な印象なのに、どこか野趣を帯びた瞳と、端正な顔立ち。気だるけだが背も高いので、きっと大学じゃモテてるに違いない。

「帷さんって、珍しい名前だな」
「迎も珍しいよ。というか、俺のことは呼び捨てでいい」
「ほんと? じゃ、俺のことも! 迎って呼んで!」

ベッドで寝ていいと言ったのに、帷は床に座った。グラスに冷たい麦茶を入れ、彼の前に差し出す。そして帷の真っ暗なスマホを取った。

「熱いから電源入れんのも怖いし、新しいの買わないとだな。必要なら俺のスマホ貸すよ」

スマホをローテーブルの上に置き、床に腰を下ろした。
帷は額を押さえ、静かに頷く。その目元は暗く、影がかかっていた。

「おい、マジで大丈夫? 家の人に連絡して、迎えに来てもらう?」
「いや、必要ない。……それより突然悪いな。もう出るよ」
「遠慮すんなって。俺一人暮らしだから、気にせず寛いでいいよ」

微笑むと、帷は眉を下げた。
「お前、知らない奴を家に上げんの怖くないのか?」
「全然」
「ははっ」
帷は立ち上がろうとしたものの、可笑しそうに肩を揺らした。
初めて自然な笑顔を見ることができて、嬉しいと思ったのは内緒だ。

実際、ずっとひとりだったから……家に話し相手がいること自体嬉しいし。

「心配になるな。警戒心なさ過ぎて」
「ん……? ちゃんとドアの鍵はかけてるよ」
「中に招き入れたら意味ないだろ。……まぁいいや。せめて俺がいる間は守るよ」

背もたれにしていたベッドに手を置き、帷は目を眇めた。

「ありがとな。迎」

優しい視線が向けられる。
何年ぶりだろう。……この、懐かしい感覚。

まるで子どもに語りかけるような声音だったけど、もっと聞きたい、と思ってしまった。瞼を伏せたらそのまま眠りに落ちてしまいそうだ。

「……」

実のところ、夢の世界に入りかけてる。
昨日も全然眠れなかった。大学は行けるようになったけど、まだ昔のように戻れてはいない。

気を遣われたくないから無理に笑い続けた。ひとりで考える時間をできるだけなくそうと、めいっぱいバイトのシフトも入れて。その反動が今頃来たのかもしれない。

「迎……?」

体が前に傾く。視界がどんどん狭まって、真っ暗になる。
最後に聞こえたのは、自分の名前を呼ぶ優しい声だけだった。