②
水曜日の朝。洗濯物を干しながらため息が出た。
天気は良いし、いつもなら元気をもらえる時間だけれど。
あれから和田君のお祖父さんには会っていない。ロビーに出てこないから会えない。気になるけれど、無関係の僕が部屋を探すことは出来ない。
それに和田君。来週水曜日にって声を掛けてきてから、一言も会話はない。学校では目も合わない。そのまま一週間経ってしまった。
今日は、施設の自転車置き場で待てばいいのだろうか。いや、また会ったら挨拶くらいしろよって意味なのかな。
もし僕が待っていたらキモイって言われるかもしれない。水曜日にって言ったのは冗談だったかもしれない。
僕は、どうしたらいいか分からない。堂々巡りの考えに、もう一つため息をついて空を見上げた。
ふと、和田君はお祖父さんの桜の入れ墨の事を知っているのかな、と思った。
「おはよ」
「おはよ! ユーチューブみた? 推し、動画アップしてたよね」
学校の朝は賑やか。色々な声が飛ぶが、僕はすべてをすり抜けて自分の机に着く。自分の机と、窓の外。見るところはそれくらいにしないと途端に悪口が飛ぶ。視線は下げておく。いつもの事、だったが。
目の前の椅子がガタンと鳴った。
「おはよ」
僕に向かって声が落ちてきた。びっくりして見上げると、和田君がいる。驚きすぎてポカンと見つめてしまった。
「影山、今日そのまま行く? どっか寄ってから?」
お祖母ちゃんの施設の話だ。そう分かったが、周りが全員こっちを見ているように思えて恥ずかしくなる。顔が熱くなり、汗がにじむ。
「そのまま行く?」
もう一度聞かれた。下を向いてコクリと小さくうなずく。これが僕の精一杯だ。
頭の中では、「おはよう」とか「そのまま行くよ」とか返事しなきゃと思っている。けれど緊張で声が出てこない。そんな自分をどうにも出来ない。
「うん。分かった」
和田君はガタンと音をたてて席を離れた。
遠くから「ガッチャン、あいつと知り合い?」など声が飛んでいる。それだけで僕の鼓動が速くなる。
すぐに話題が流れていったが、僕には変な緊張感が残っていた。その後の授業は、先生の声が全然頭に入らなかった。
放課後。気持ちがソワソワしながらお祖母ちゃんの施設に向かった。一応、教室を出る時に和田君を見たけれど、いつものように友達と喋っていた。僕のほうが早く着くかな、待っていればいいかな、そう思いながら施設まで来た。なんだかドキドキする。
「お、早いな」
和田君が自転車で風と共に現れた。施設の自転車置き場で会えた。本当に、来てくれた。
和田君の笑顔を見ると、待っていた時間の不安が一気に吹き飛び、心がホカホカした。僕に向けて普通の友達みたいに声をかけてくれる。ちょっと嬉しい。
「俺、ジイさんとこ行くけど、一緒に行かない? そのあと、影山のバアちゃんとこ行こうよ」
和田君の声に頷いて、(あれ?)と思った。僕がお祖母ちゃんのところに行くって知っている。どうしてだろう。
二人で黙って歩いた。僕は歩きながら前髪を分けた。
和田君のお爺さんは、お祖母ちゃんと同じフロアだった。和田君と部屋に入るとお爺さんは寝ていた。
「ジイさんさ、寝ていること多いんだよ。起きても、ボーっとしてる。だから、先週お前と話してるの見てビックリした」
先週、どこから見ていたのだろうか。首を傾げて和田君を見た。
今日のお爺さんは起きない。フゴーっと穏やかな顔で寝ている。その顔を見て、シベリアの夢じゃないといいな、そう思った。
お爺さんは小柄ながら骨格のしっかりしたがっちり体格だ。昔ながらの大工さんが似合いそう。
一方の和田君は、スラリとした長身で肩幅が広いスポーツマンタイプ。運動部には所属していないが、外部のスポーツクラブでテニスをしているって女子が騒いでいた。
和田君とお爺さんの顔と見比べてみた。全然、似ていない。そう考えて、ちょっと口元が緩んでしまった。
「何?」
和田君に顔をのぞかれた。近い! びっくりして後ろにのけ反った。勢いがついてバランスがとれなかった。背もたれのないスチール製の丸椅子から落ちそうになる。身体が止まらない。
「うわっ」
目を閉じて背中に来る衝撃に身構えた。
けれど、痛くない。いい匂いがする。
硬い身体を背中に感じた。目を開ければ、大きな腕が僕をすっぽり包んでいる。
転ぶはずの僕は、背中を支えられ、そのまま和田君の胸に抱き留められていた。
「びっくりした」
頭の上から声が降ってくる。こっちもびっくりだよ! ありえない状況に僕の口から謝罪が飛び出た。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい!」
「あ、いや。影山、悪い事してないじゃん。顔、真っ赤」
ふはは、と笑い、和田君が僕を解放した。
「影山、いい匂いするね。清潔な、いい匂い」
さらりと、すごいことを言う。僕は匂いの事では色々と苦労しているから、そこを話題に出来ない。和田君は嫌な匂いがしなかった。
和田君なら、匂いのことを口にしても許されるのだろう。僕とは違う世界の人だから。
「洗剤の、匂いだよ」
下を向いて、小さく答えた。
「あ、一歩前進。答えてくれるようになってんじゃん」
和田君は僕を見て楽しそうに笑う。こんな風に会話をするなんて思っていなかった。さわやかな笑顔がまぶしい。背中がムズムズする。
口元が、また緩んでしまった。
恥ずかしくて下を向いた。そんな僕に和田君がニコっと笑いかける。
「今日はジイさん起きないな。影山んちバアちゃんとこ、行こ」
僕は布団から出ているお爺さんの手を見つめた。桜の入れ墨のこと、和田君に言ってみようかな。そう悩むうちに和田君が立ち上がった。慌てて僕も後に続く。
寝ているお爺さんに、ぺこりと頭を下げた。
水曜日の朝。洗濯物を干しながらため息が出た。
天気は良いし、いつもなら元気をもらえる時間だけれど。
あれから和田君のお祖父さんには会っていない。ロビーに出てこないから会えない。気になるけれど、無関係の僕が部屋を探すことは出来ない。
それに和田君。来週水曜日にって声を掛けてきてから、一言も会話はない。学校では目も合わない。そのまま一週間経ってしまった。
今日は、施設の自転車置き場で待てばいいのだろうか。いや、また会ったら挨拶くらいしろよって意味なのかな。
もし僕が待っていたらキモイって言われるかもしれない。水曜日にって言ったのは冗談だったかもしれない。
僕は、どうしたらいいか分からない。堂々巡りの考えに、もう一つため息をついて空を見上げた。
ふと、和田君はお祖父さんの桜の入れ墨の事を知っているのかな、と思った。
「おはよ」
「おはよ! ユーチューブみた? 推し、動画アップしてたよね」
学校の朝は賑やか。色々な声が飛ぶが、僕はすべてをすり抜けて自分の机に着く。自分の机と、窓の外。見るところはそれくらいにしないと途端に悪口が飛ぶ。視線は下げておく。いつもの事、だったが。
目の前の椅子がガタンと鳴った。
「おはよ」
僕に向かって声が落ちてきた。びっくりして見上げると、和田君がいる。驚きすぎてポカンと見つめてしまった。
「影山、今日そのまま行く? どっか寄ってから?」
お祖母ちゃんの施設の話だ。そう分かったが、周りが全員こっちを見ているように思えて恥ずかしくなる。顔が熱くなり、汗がにじむ。
「そのまま行く?」
もう一度聞かれた。下を向いてコクリと小さくうなずく。これが僕の精一杯だ。
頭の中では、「おはよう」とか「そのまま行くよ」とか返事しなきゃと思っている。けれど緊張で声が出てこない。そんな自分をどうにも出来ない。
「うん。分かった」
和田君はガタンと音をたてて席を離れた。
遠くから「ガッチャン、あいつと知り合い?」など声が飛んでいる。それだけで僕の鼓動が速くなる。
すぐに話題が流れていったが、僕には変な緊張感が残っていた。その後の授業は、先生の声が全然頭に入らなかった。
放課後。気持ちがソワソワしながらお祖母ちゃんの施設に向かった。一応、教室を出る時に和田君を見たけれど、いつものように友達と喋っていた。僕のほうが早く着くかな、待っていればいいかな、そう思いながら施設まで来た。なんだかドキドキする。
「お、早いな」
和田君が自転車で風と共に現れた。施設の自転車置き場で会えた。本当に、来てくれた。
和田君の笑顔を見ると、待っていた時間の不安が一気に吹き飛び、心がホカホカした。僕に向けて普通の友達みたいに声をかけてくれる。ちょっと嬉しい。
「俺、ジイさんとこ行くけど、一緒に行かない? そのあと、影山のバアちゃんとこ行こうよ」
和田君の声に頷いて、(あれ?)と思った。僕がお祖母ちゃんのところに行くって知っている。どうしてだろう。
二人で黙って歩いた。僕は歩きながら前髪を分けた。
和田君のお爺さんは、お祖母ちゃんと同じフロアだった。和田君と部屋に入るとお爺さんは寝ていた。
「ジイさんさ、寝ていること多いんだよ。起きても、ボーっとしてる。だから、先週お前と話してるの見てビックリした」
先週、どこから見ていたのだろうか。首を傾げて和田君を見た。
今日のお爺さんは起きない。フゴーっと穏やかな顔で寝ている。その顔を見て、シベリアの夢じゃないといいな、そう思った。
お爺さんは小柄ながら骨格のしっかりしたがっちり体格だ。昔ながらの大工さんが似合いそう。
一方の和田君は、スラリとした長身で肩幅が広いスポーツマンタイプ。運動部には所属していないが、外部のスポーツクラブでテニスをしているって女子が騒いでいた。
和田君とお爺さんの顔と見比べてみた。全然、似ていない。そう考えて、ちょっと口元が緩んでしまった。
「何?」
和田君に顔をのぞかれた。近い! びっくりして後ろにのけ反った。勢いがついてバランスがとれなかった。背もたれのないスチール製の丸椅子から落ちそうになる。身体が止まらない。
「うわっ」
目を閉じて背中に来る衝撃に身構えた。
けれど、痛くない。いい匂いがする。
硬い身体を背中に感じた。目を開ければ、大きな腕が僕をすっぽり包んでいる。
転ぶはずの僕は、背中を支えられ、そのまま和田君の胸に抱き留められていた。
「びっくりした」
頭の上から声が降ってくる。こっちもびっくりだよ! ありえない状況に僕の口から謝罪が飛び出た。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい!」
「あ、いや。影山、悪い事してないじゃん。顔、真っ赤」
ふはは、と笑い、和田君が僕を解放した。
「影山、いい匂いするね。清潔な、いい匂い」
さらりと、すごいことを言う。僕は匂いの事では色々と苦労しているから、そこを話題に出来ない。和田君は嫌な匂いがしなかった。
和田君なら、匂いのことを口にしても許されるのだろう。僕とは違う世界の人だから。
「洗剤の、匂いだよ」
下を向いて、小さく答えた。
「あ、一歩前進。答えてくれるようになってんじゃん」
和田君は僕を見て楽しそうに笑う。こんな風に会話をするなんて思っていなかった。さわやかな笑顔がまぶしい。背中がムズムズする。
口元が、また緩んでしまった。
恥ずかしくて下を向いた。そんな僕に和田君がニコっと笑いかける。
「今日はジイさん起きないな。影山んちバアちゃんとこ、行こ」
僕は布団から出ているお爺さんの手を見つめた。桜の入れ墨のこと、和田君に言ってみようかな。そう悩むうちに和田君が立ち上がった。慌てて僕も後に続く。
寝ているお爺さんに、ぺこりと頭を下げた。


