Ⅱ こんなところで会うなんて
①
二学期始めの水曜日。夏の暑さが残っていて、施設までの自転車を漕げば汗が流れる。息が上がるけれど気持ちがいい。
お祖母ちゃんはロビーで車椅子に座っていた。僕を見つけて微笑んでくれる。僕は嬉しくなって手を振りながら傍に行った。
施設では、時々こうして高齢者が集まっている。みんなで日向ぼっこしているみたいで、穏やかな光景だ。
ふと隣を見れば、すごく歳の多いお爺さんがいた。その手を見ると手の甲に桜の花びらの模様がある。灰色で輪郭だけ描いてある。薄いけれど、きっと入れ墨だ。ドキッとした。
ヤクザなのかもしれない。怖い人かもしれない。お祖母ちゃんが近くにいて大丈夫だろうか。気になってチラチラ見てしまった。
「これなぁ、気になるか?」
ニコニコしながら、お爺さんが話しかけてきた。ヤクザには見えない優しい感じだ。僕は怖くてフルフル首を横に振った。お爺さんは話を続ける。
「これな、ソ連に彫られただよ。俺はな、シベリアに捕虜になっててな。夜になると、ソ連兵が入れ墨やるぞって。痛くても声を上げるなって言われて。死にたくないから我慢したなぁ。日本に、家に帰りたかっただよ。寒くても、熱が出ても、枕木の鉄を抜いて新しい枕木に鉄の杭を打ち込んで。線路は長くて終わりがなくてなぁ」
僕はびっくりしてしまった。ヤクザとかじゃない。この灰色の入れ墨は、お爺さんの辛い記憶だ。
「最近、夢に見るだよなぁ。腹ペコで死んでった奴らも夢に出て来るでなぁ」
じっと見てしまった自分が恥ずかしい。どうしよう。ごめんなさいを言うべきだろうか。でも、謝罪は違う気がする。
僕は深呼吸をして言葉を返した。
「あのぅ、もう、痛くはないですか?」
僕の声にお爺さんはしょぼくれた目を見開いた。ゆっくり僕の顔を見て微笑んでくれた。
「あぁ、痛かぁないよ」
大きくない僕の声はお爺さんに届いた。嬉しくて微笑みを返した。何故か心がホワッとした。
「お部屋に戻りましょうね」
職員のお姉さんが来てお爺さんの車いすを動かした。移動するお爺さんの手を見つめて、悲しい気持ちが押し寄せた。
「大丈夫よ。年寄りは、みぃんな色々あるものだから」
「うん……」
お祖母ちゃんが優しく言葉をかけてくれた。
「また、おいで。ありがとうね」
「うん。じゃ、また明日」
僕は色々と考えてしまい、下を向いて自転車置き場に向かった。
「おい」
急に僕に声が掛けられた。びっくりして飛び上がってしまった。
(え? 僕?)
心臓がドクドク鳴る。
(誰? 僕、何かした?)
緊張で身体が静止した。
「お前、同じクラスの影山修だろ」
ゆっくり振り返ると、同じクラスの和田学君がいた。学とかいて『がく』と読む。みんなからガッチャンと呼ばれているクラスの陽キャ男子だ。
短い茶髪を額が出るようにセットしている。すっと通った眉とたれ目が印象的。その瞳が迷いなく僕を見つめている。百八十センチを超す大きな身体が威圧を放つ。
和田君はいつもクラスの中心にいて、僕とは違いすぎるタイプだ。
――そんな彼が、なんで、ここにいる?
緊張で変な汗が滲む。
「影山、聞いてる?」
声がかけられるが、喉が震えて返事が出来ない。
「お前が話してたの、俺の曽祖父さん。百歳ジャストだぜ。俺さ、塾の前に時々ココに立ち寄ってんだよ。これ、クラスの奴には内緒な。今日は久しぶりに喋ってるジイさん見て、ちょっと嬉しかったな」
和田君は勝手に話をしている。僕はどうしていいか分からなくて、下を向いてやり過ごした。分けていた前髪をそっと元に戻す。
「お前は?」
聞かれても返事が出来ない。僕は小学生時代にいじめられてから、同級生と話す事が苦手だ。緊張して声が出なくなる。心臓がドクドク鳴りっぱなしだ。
早く立ち去ってください、そう心の中で願った。無言でいると上から頭をポンポンと軽く叩かれる。
「影山、ちょっと顔上げろよ。せっかく綺麗な顔してるのに勿体ない」
驚いて見上げると和田君と目が合った。大きな手が僕の顔に伸びてきて、前髪をしっかり分けられてしまう。視界が明るくなり、和田君の茶色い瞳がハッキリ見える。整った顔が間近に見えて息を飲んだ。和田君は艶めいたカッコよさがある。
「野生のリス? うん。小動物みたいだなぁ」
ふはは、と和田君が笑った。僕の顔が熱くなる。陽キャは何を考えているのか理解不能だ。
「ま、いいや。俺、塾が水曜日なんだ。塾前に寄るから、来週水曜日またここで」
和田君はそう言い捨てて、颯爽と自転車で去っていく。茶色い髪が日の光にあたりキラキラしていた。
僕は少しその場に立ち尽くして、ポンポンされた頭を自分で撫でてみた。頭を人に触られるなんて。和田君が話しかけてくるなんて。
今起きたことが信じられなくて、自分の頬をペチペチ叩いてみた。
コレは現実だ。
僕に向けられる言葉は意地悪な言葉が多いのに、和田君は違った。心臓のドキドキと頬の火照りが残っている。
来週、水曜日か。また考えることが出来てしまった。
その日の夜、第二次世界大戦後シベリア抑留の日本人のことを調べた。ケータイで調べながら、涙が出た。
僕は遠い過去の話だと思っていたけれど、和田君のお祖父さんは今もその苦しさを背負っている。苦しい思いを抱えて、優しい顔をしている。
桜の入れ墨を思い出して、涙が溢れた。
①
二学期始めの水曜日。夏の暑さが残っていて、施設までの自転車を漕げば汗が流れる。息が上がるけれど気持ちがいい。
お祖母ちゃんはロビーで車椅子に座っていた。僕を見つけて微笑んでくれる。僕は嬉しくなって手を振りながら傍に行った。
施設では、時々こうして高齢者が集まっている。みんなで日向ぼっこしているみたいで、穏やかな光景だ。
ふと隣を見れば、すごく歳の多いお爺さんがいた。その手を見ると手の甲に桜の花びらの模様がある。灰色で輪郭だけ描いてある。薄いけれど、きっと入れ墨だ。ドキッとした。
ヤクザなのかもしれない。怖い人かもしれない。お祖母ちゃんが近くにいて大丈夫だろうか。気になってチラチラ見てしまった。
「これなぁ、気になるか?」
ニコニコしながら、お爺さんが話しかけてきた。ヤクザには見えない優しい感じだ。僕は怖くてフルフル首を横に振った。お爺さんは話を続ける。
「これな、ソ連に彫られただよ。俺はな、シベリアに捕虜になっててな。夜になると、ソ連兵が入れ墨やるぞって。痛くても声を上げるなって言われて。死にたくないから我慢したなぁ。日本に、家に帰りたかっただよ。寒くても、熱が出ても、枕木の鉄を抜いて新しい枕木に鉄の杭を打ち込んで。線路は長くて終わりがなくてなぁ」
僕はびっくりしてしまった。ヤクザとかじゃない。この灰色の入れ墨は、お爺さんの辛い記憶だ。
「最近、夢に見るだよなぁ。腹ペコで死んでった奴らも夢に出て来るでなぁ」
じっと見てしまった自分が恥ずかしい。どうしよう。ごめんなさいを言うべきだろうか。でも、謝罪は違う気がする。
僕は深呼吸をして言葉を返した。
「あのぅ、もう、痛くはないですか?」
僕の声にお爺さんはしょぼくれた目を見開いた。ゆっくり僕の顔を見て微笑んでくれた。
「あぁ、痛かぁないよ」
大きくない僕の声はお爺さんに届いた。嬉しくて微笑みを返した。何故か心がホワッとした。
「お部屋に戻りましょうね」
職員のお姉さんが来てお爺さんの車いすを動かした。移動するお爺さんの手を見つめて、悲しい気持ちが押し寄せた。
「大丈夫よ。年寄りは、みぃんな色々あるものだから」
「うん……」
お祖母ちゃんが優しく言葉をかけてくれた。
「また、おいで。ありがとうね」
「うん。じゃ、また明日」
僕は色々と考えてしまい、下を向いて自転車置き場に向かった。
「おい」
急に僕に声が掛けられた。びっくりして飛び上がってしまった。
(え? 僕?)
心臓がドクドク鳴る。
(誰? 僕、何かした?)
緊張で身体が静止した。
「お前、同じクラスの影山修だろ」
ゆっくり振り返ると、同じクラスの和田学君がいた。学とかいて『がく』と読む。みんなからガッチャンと呼ばれているクラスの陽キャ男子だ。
短い茶髪を額が出るようにセットしている。すっと通った眉とたれ目が印象的。その瞳が迷いなく僕を見つめている。百八十センチを超す大きな身体が威圧を放つ。
和田君はいつもクラスの中心にいて、僕とは違いすぎるタイプだ。
――そんな彼が、なんで、ここにいる?
緊張で変な汗が滲む。
「影山、聞いてる?」
声がかけられるが、喉が震えて返事が出来ない。
「お前が話してたの、俺の曽祖父さん。百歳ジャストだぜ。俺さ、塾の前に時々ココに立ち寄ってんだよ。これ、クラスの奴には内緒な。今日は久しぶりに喋ってるジイさん見て、ちょっと嬉しかったな」
和田君は勝手に話をしている。僕はどうしていいか分からなくて、下を向いてやり過ごした。分けていた前髪をそっと元に戻す。
「お前は?」
聞かれても返事が出来ない。僕は小学生時代にいじめられてから、同級生と話す事が苦手だ。緊張して声が出なくなる。心臓がドクドク鳴りっぱなしだ。
早く立ち去ってください、そう心の中で願った。無言でいると上から頭をポンポンと軽く叩かれる。
「影山、ちょっと顔上げろよ。せっかく綺麗な顔してるのに勿体ない」
驚いて見上げると和田君と目が合った。大きな手が僕の顔に伸びてきて、前髪をしっかり分けられてしまう。視界が明るくなり、和田君の茶色い瞳がハッキリ見える。整った顔が間近に見えて息を飲んだ。和田君は艶めいたカッコよさがある。
「野生のリス? うん。小動物みたいだなぁ」
ふはは、と和田君が笑った。僕の顔が熱くなる。陽キャは何を考えているのか理解不能だ。
「ま、いいや。俺、塾が水曜日なんだ。塾前に寄るから、来週水曜日またここで」
和田君はそう言い捨てて、颯爽と自転車で去っていく。茶色い髪が日の光にあたりキラキラしていた。
僕は少しその場に立ち尽くして、ポンポンされた頭を自分で撫でてみた。頭を人に触られるなんて。和田君が話しかけてくるなんて。
今起きたことが信じられなくて、自分の頬をペチペチ叩いてみた。
コレは現実だ。
僕に向けられる言葉は意地悪な言葉が多いのに、和田君は違った。心臓のドキドキと頬の火照りが残っている。
来週、水曜日か。また考えることが出来てしまった。
その日の夜、第二次世界大戦後シベリア抑留の日本人のことを調べた。ケータイで調べながら、涙が出た。
僕は遠い過去の話だと思っていたけれど、和田君のお祖父さんは今もその苦しさを背負っている。苦しい思いを抱えて、優しい顔をしている。
桜の入れ墨を思い出して、涙が溢れた。


