第9章 11/2 文化祭夕方|一年の秘密が落ちた
十一月二日。
校内放送が途切れた瞬間、廊下のざわめきが「片付けの音」に塗り替わった。
ガムテープを引き裂く乾いた音。段ボールが擦れる音。鉄板の油が冷えていく匂い。紙コップの甘い残り香。
昼間の熱がまだ壁に貼りついてるのに、どこかで“帰る匂い”だけが先に動き出す。
「終わったぁぁ……俺、生きた……!」
売り場の奥から平野が飛び出してきて、腕を振り回した。
「死なねえよ」
左から梶山のツッコミが落ちる。短い。低い。切れ味だけで平野を止める。
「生きたって言っただろ! ほら見ろ、汗! 汗が証拠!」
「証拠とか言うな」
岩崎が笑いながら、レジ横のPOPを丁寧に剥がしていく。指先が無駄なく綺麗で、同じ作業でも“ちゃんとしてる”動きに見える。
「平野、汗が証拠なら祝嶺はどうなるの。無表情が証拠?」
「証拠、増やすなって」
俺が言うと、平野が「え、祝嶺しゃべった」とわざとらしく目を見開いて、岩崎が肩を揺らす。
「今の、ちゃんと会話だった」
「会話のハードル低いな」
「祝嶺は低い方がいい。急に高くすると落ちる」
「落とすなよ」
俺が言うと、梶山が段ボールを持ったまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
俺は投票箱を抱え直した。
紙が詰まって重い。重いものは残る。残るものは、なかったことにできない。
――それが怖いはずなのに、今日は紙の重さの中に、少しだけ嬉しさが混じってる気がした。
混じってるのが分かるくらい、俺の中に余裕ができてしまってる。最悪だ。
「祝嶺、それ腕やる」
梶山が覗き込まない距離で言って、投票箱の底に手を入れた。
「……大丈夫」
いつもの盾。言えば距離が保てる。薄い息ができる。
「大丈夫じゃない」
短く返されて、箱の重さが半分になる。
軽くなったはずなのに、胸の奥が変に熱い。
助けられた、と認めた瞬間に負けたみたいで腹が立つ。
「ほら、祝嶺。今の顔、助かったって顔」
岩崎が歌うみたいに言う。
「してない」
「してた。眉が一ミリ下がってた」
「一ミリとか言うな」
言い返したら、平野が勢いよく俺の顔を覗き込もうとして――
「近い」
梶山が手のひらで軽く押し返した。押し返すだけ。殴らない。なのに平野は止まる。
「え、俺だけ止められる! なんで!?」
「顔面がうるさい」
「顔面は黙れない!」
「黙らせる」
「暴君!」
「暴君じゃない。調整」
岩崎が「調整って便利な言葉」と笑って、平野が「俺を調整すな!」と雑巾を振り回し始めた。
「振るな。菌が舞う」
岩崎が雑巾を取り上げる。
平野は「菌って言うな!」と抗議して、でも大人しく床を拭き始める。切り替えが早い。そういうところが、嫌いになれない。
そこへ担任の井上が通りかかった。腕時計を見て、短く言う。
「片付け十分。返却と精算、先。明日朝の準備、残すな。以上」
以上で終わる。話が早い。
平野が手を挙げた。
「先生、十分って短すぎません!? 俺の情緒が追いつかない!」
「情緒は知らん。作業優先。以上」
「冷たっ!」
岩崎が肩をすくめる。
「井上、今日ずっと“作業優先”の顔してる」
「顔って言うな」
梶山が言って、俺は喉の奥で笑いそうになって止めた。
投票用紙を束にして、ホチキスで留める。
端を揃える。斜めになったら直す。
こういう“整える”作業は息ができる。
「祝嶺、数えるの速いよな」
平野が覗き込む。
「速くない」
「速い。俺、途中で『いま何枚目だっけ』ってなる」
「お前は途中で歌う」
梶山が背中越しに言う。
「歌ってない!」
「歌ってたよ。『パンは正義』」
岩崎がさらっと追撃して、平野が両手で顔を覆った。
「やめろ! 俺の黒歴史を文化祭の熱で蒸し返すな!」
笑い声が続く。
続いてしまうのが怖い。けど、怖いのに救われる。
購買担当の先生が票の束を見て目を丸くした。
「こんなに集まったの? 宣伝、上手かったね」
平野が胸を張る。
「俺のPOPが――」
「祝嶺のまとめ方が」
岩崎がさらっと被せた。
「人がどこで止まって、どこで引き返すか。あれ、当たってたもん」
喉が詰まった。
見られてる。気づかれてる。
それを“褒め”の形で投げてくるのが優しい。優しいから息が苦しい。
「……たまたま」
「たまたまって言う人、だいたい本物」
岩崎がにやっと笑う。
梶山が俺の手元を見て、短く言った。
「助かった」
それだけ。
それだけで胸が跳ねる。
跳ねたのが悔しくて、俺は紙の端を揃える速度を上げた。指が少しだけ震えて、ホチキスが斜めになった。
「曲がってる」
梶山が言って、指先で一ミリだけ押して真っ直ぐにした。
触れない。覗き込まない。
でも、ちゃんと直す。
「……ありがと」
俺の声が、思ったよりちゃんと出た。薄くじゃなく。
平野が目を見開く。
「出た! ありがとう!」
「騒ぐな」
梶山が言うと、平野が口を押さえて首を振った。
「騒がない! でも……出た!」
「結局、声でかい」
岩崎が笑って、ゴミ袋の口を縛った。
「今日の結論。平野は黙れない」
「黙れないのが俺の魅力!」
「魅力を一回しまえ」
岩崎が言う。梶山は何も言わないのに、平野が「はい」と直立する。逆に面白い。
俺はその端で、息を薄くしながら、少しだけ温かい。
――こういう瞬間がいちばん怖い。
増える。覚えてしまう。戻れなくなる。
*
「返却、俺と祝嶺で行く」
梶山が段ボールを持ち上げたまま言った。中身は貸し出しのコードとスタンドと小物。
全部“学校の物”で、全部“間違えたら怒られる物”。
「え、俺も行く!」
平野が手を挙げる。
「お前はゴミ捨て。あと明日の札、貼り直せ」
「俺、便利屋!?」
「便利」
「褒めてんの!?」
「知らん」
岩崎が手をひらひらさせる。
「私は写真撮っとく。看板、今日のうちに一枚だけ」
「記録」
梶山が言うと、岩崎が笑った。
「記録って言うと重い。今日は“思い出”でいい」
その言葉が胸に刺さる。重いのに、温かい。
平野がぶつぶつ言いながら走っていく背中に、岩崎が声を飛ばした。
「平野、転ぶなよ〜」
「転ばねえ! ……たぶん!」
残ったのは俺と梶山。
廊下が急に静かになる。笑い声が遠のくと、俺の中の音だけが大きくなる。
梶山は何も言わずに、歩く速度だけ合わせてくる。
それが、怖い。
怖いのに、ありがたい。
ありがたいと思ってしまうのが一番怖い。
廊下の途中、鉄研の展示室の前を通る。
中から梶山の知り合いらしい男子が顔を出した。
「梶山! 今日どう? 明日も手伝い要る?」
「要る。あとで」
「隣、誰?」
視線が俺に向く。
梶山が迷いなく言った。
「班の祝嶺」
“班の”が妙に安心する。
でも同時に、その言葉が通用しなくなる瞬間があることも知ってる。
「へえ。祝嶺、ありがとな。購買、めっちゃ混んでた」
男子はそれだけ言って引っ込んだ。
俺は小さく頷いた。
誰かに「ありがとな」って言われるのは慣れてない。
慣れないものが増えるのは怖いのに、今日は胸の奥が少しくすぐったい。
そのくすぐったさが梶山のせいだって気づくのが、一番まずい。
*
印刷室の前に着くと、紙の匂いが濃くなる。
機械の音が、いつもより大きい気がした。
カウンターの向こうに大塚がいた。無表情のまま、紙を揃えている。
「返却」
梶山が短く言う。
「申請書」
大塚も短い。
梶山が紙を出す。大塚が一瞬で目を走らせて、言った。
「学生証」
二文字で、胃がきゅっと縮んだ。
ポケットの中のケースが急に重い。
梶山が学生証を出す。大塚が確認して、返却チェックをつける。
「欠品なし。精算、ここ」
大塚がペンを差し出す。
梶山がサインする。
次は俺――のはずだった。
指が動かない。
動けば終わる。動かなくても、もう終わってる気がする。
そのとき、足音。
「間に合った!? 俺も返却あるって言われて――」
息を切らした平野が飛び込んできた。
「学生証」
大塚が即言う。
「はい! 平野!」
「名前、言わなくていい」
「冷たっ!」
平野の軽さが今は救いみたいで、でもそれに縋るのが恥ずかしい。
「祝嶺も出せよ。ほら」
平野が何も知らない顔で言う。
俺はポケットの中でケースを掴んだ。
出す。出さない。
どっちにしても喉の奥が痛い。
指が滑った。
落ちた。
乾いた音。
ケースが床で跳ねて、蓋が開く。
カードが表になって止まる。
息が止まった。
「うわ、ごめん! 拾う!」
平野が反射でしゃがんで、手を伸ばす。
「やめ――」
声が出ない。出たときには遅い。
平野がカードを持ち上げたまま固まった。
目が数字のところで止まっている。
数字を読む目になっている。
「……え?」
声が変に裏返る。
「これ……祝嶺……」
平野が顔を上げて、俺じゃなく梶山を見る。
助けて、って顔。
笑いにしていいのか分からない、って顔。
梶山は動かない。
怒ってない。怒ってないのに、空気が冷える。
冷えるのは、距離じゃない。逃げ道が消える感じ。
俺はカードを奪い取った。
乱暴にならないように、でも速く。指が震える。
「……違う」
嘘が勝手に出た。
「見間違い」
続けて言う。自分が嫌になる。
平野が慌てて首を振った。
「うん! 見間違いならいい! 俺、見間違いってことにする! するから! な!」
必死に明るくする。
明るいのに、声が震えてる。
大塚が無表情で言った。
「精算。続ける」
俺の世界が止まっても、印刷室の手続きは止まらない。
それが一番残酷で、でも助けにもなる。
“今ここで全部を説明しろ”って空気にならない。
空気がならないから、余計に怖い。
梶山がペンを受け取って、淡々とサインをした。
平野もペンを握る。手が震えて、字が少し歪む。
大塚が紙を回収して、言った。
「以上」
以上。
終わり。
終わったのに、終わってない。
*
廊下に出た瞬間、遠くの校門の方から笑い声が流れてきた。
一般公開が終わっただけで、校内にはまだ片付けの生徒が残っている。
みんな今日を“今日のまま”持ち帰ろうとしてる音。
俺だけ、置き去りになる。
平野が俺の前に回り込んだ。
「祝嶺、ごめん。ほんとごめん。俺、拾って、見て、口開いて――最悪だった」
謝り方が真面目すぎて、平野らしくない。
「……余計とかじゃない」
俺の声は薄い。薄くしたつもりなのに喉が震える。
「でもさ」
平野が無理に笑う。
「なんて言えば――」
言葉が途中で折れる。
折れたまま、平野は一歩引いた。
「ごめん。今日は……俺、喋ると壊す気がする」
平野がそう言って、笑い方だけ残して走り去った。
置いていかないために、先に逃げる。
その優しさが痛い。
二人になって、廊下の空気が濃くなる。
「なんで隠してた」
梶山が言った。
答えは長い。
長い答えを言ったら、“同級生”が終わる。
「隠してない」
また嘘が出た。
「隠してた」
梶山が言い切る。
俺は息を薄くしようとして、できなかった。
梶山が一歩、距離を詰める。
追い詰めない。覗き込まない。
でも、逃げ道を“見えなく”する。
「俺さ」
梶山が言った。
そこで、言葉を切った。
切るのが、ずるい。
「……嫌だ」
何が嫌なのか言わない。
言わないのに分かる。
崩れるのが嫌なんだ。
胸が痛い。
痛いのに嬉しい。
嬉しいのが一番怖い。
「……明日の準備、戻れよ」
俺は話を逸らした。最低の逃げ方。
「戻る」
梶山は短く言って、続けた。
「でも、今日はこのまま終わらせない」
その言い方に、背中がぞくっとした。
怖い、より先に、胸が跳ねる。
跳ねたことが、もっと怖い。
「終わってる」
俺は言った。
言ってしまえば、終わりにできると思った。
梶山は否定しない代わりに、言った。
「明日も、班は動く」
当たり前の確認みたいに。
でも、その当たり前が、俺の喉を締めた。
「……分かった」
言葉が勝手に出る。分かったのは、彼の言葉じゃない。
――明日も続く、ってこと。
「だから」
梶山が続ける。
「今日は帰れ。寝ろ」
命令じゃなくて、段取りみたいな声。
俺はそれに頷けない。頷いたら守られる。守られたら増える。
増えたら、失ったとき痛い。
「……帰る」
俺はそう言って、背を向けた。
「祝嶺」
梶山が呼ぶ。止まれない。止まったら終われない。
俺は歩きながら、握りしめた学生証の角が手のひらに食い込むのを感じた。
“痕”が残る。
残るのが怖いのに、残ってほしい自分がいる。
*
売り場に戻ると、岩崎が札を貼り直していた。
平野はゴミ袋を二つ抱えて戻ってきたところだった。
「遅い! 俺、さっきの件、頭の中で三回謝った!」
声量はいつも通りなのに、目だけ落ち着かない。
「頭の中で謝罪を稼ぐな」
岩崎がさらっと言う。
「稼いでない! 反省の回転数!」
「回転数で許しは増えない」
「ひどい!」
平野が俺を見て、言い方を探す顔をした。
探されるのが苦しい。
だから先に言った。
「……明日、ちゃんとやる」
何を、とは言わない。
でもそれだけで、平野の肩が少し落ちた。
「うん。明日。明日でいい」
平野が頷く。頷けるのが平野の強さだ。
岩崎が俺の目じゃなく、肩の少し外側に視線を置いて言う。
「今日は帰って寝な。明日、最終日、長いよ」
「……うん」
頷けた。ちゃんと頷けた。
梶山が札の端を指で押さえて、位置を直す。
「ここ、風で剥がれる。テープ増やせ」
「段取り男、助かる〜」
岩崎が言って、梶山は「今は仕事」とだけ返した。
平野が急に真顔になる。
「……祝嶺、明日も来いよ。来ないと困る。売り場回らない」
「困るのはお前の声」
梶山が言うと、平野が言い返しかけて飲み込んだ。
「……声、しまう。今日は」
その言い方が妙に優しくて、俺は目を逸らした。
逸らした瞬間に分かる。
俺はもう、みんなの目が怖いんじゃない。
――優しいのが怖い。
*
帰りの放送が流れて、片付けの生徒が一斉に動き出した。
靴箱が鳴る。鍵の音がする。廊下がざわつく。
俺は帰ろうとした。
帰れば終わる。薄い息に戻れる。
「祝嶺、先――」
平野が言いかけたところで、俺は一歩引いた。
「俺、先、帰る」
平野の顔が一瞬だけ固くなる。でもすぐ、いつもの笑い方に戻す。
「お、おう! 先帰れ! 風邪ひくなよ!」
無理してる声量だって分かる。分かるから痛い。
岩崎が軽く手を振る。
「道、気をつけて。……寒いから」
「……うん」
梶山は何も言わない。
言わないのに、背中に視線だけ刺さる。
刺さるのが嫌なのに、刺さってほしいみたいで、腹が立つ。
昇降口を抜けて外に出ると、夜の空気が刺さった。
十一月は夜が早い。
胸の奥だけ、まだ昼の熱が残ってるみたいにざわつく。
ポケットの中でスマホが震えた。
班の通知。
俺は見ないふりをした。
見たら“既読”が残る。
残ったら、今の俺がそのまま残る。
学生証を握りしめた手のひらが痛い。
痛いのに、手を開けない。
――昨日までは、痛いものは全部避けてきた。
避けてきたのに、今日は、避けられなかった。
歩きながら、さっきの梶山の声が頭に残る。
責める声じゃなかった。
引きずり出す声でもなかった。
ただ、“続き”を前提にした声だった。
続く。
続いてしまう。
怖い。
怖いのに――明日の朝、校門の匂いを俺が思い出してしまうのが、もっと怖い。
家の鍵を回す前に、もう一度スマホが震えた。
画面は見ない。
見ないまま、深く息を吸って、吐いた。
終わらせたい。
でも、終わらせたくない。
その矛盾だけを胸に押し込んで、俺はドアを開けた。
十一月二日。
校内放送が途切れた瞬間、廊下のざわめきが「片付けの音」に塗り替わった。
ガムテープを引き裂く乾いた音。段ボールが擦れる音。鉄板の油が冷えていく匂い。紙コップの甘い残り香。
昼間の熱がまだ壁に貼りついてるのに、どこかで“帰る匂い”だけが先に動き出す。
「終わったぁぁ……俺、生きた……!」
売り場の奥から平野が飛び出してきて、腕を振り回した。
「死なねえよ」
左から梶山のツッコミが落ちる。短い。低い。切れ味だけで平野を止める。
「生きたって言っただろ! ほら見ろ、汗! 汗が証拠!」
「証拠とか言うな」
岩崎が笑いながら、レジ横のPOPを丁寧に剥がしていく。指先が無駄なく綺麗で、同じ作業でも“ちゃんとしてる”動きに見える。
「平野、汗が証拠なら祝嶺はどうなるの。無表情が証拠?」
「証拠、増やすなって」
俺が言うと、平野が「え、祝嶺しゃべった」とわざとらしく目を見開いて、岩崎が肩を揺らす。
「今の、ちゃんと会話だった」
「会話のハードル低いな」
「祝嶺は低い方がいい。急に高くすると落ちる」
「落とすなよ」
俺が言うと、梶山が段ボールを持ったまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
俺は投票箱を抱え直した。
紙が詰まって重い。重いものは残る。残るものは、なかったことにできない。
――それが怖いはずなのに、今日は紙の重さの中に、少しだけ嬉しさが混じってる気がした。
混じってるのが分かるくらい、俺の中に余裕ができてしまってる。最悪だ。
「祝嶺、それ腕やる」
梶山が覗き込まない距離で言って、投票箱の底に手を入れた。
「……大丈夫」
いつもの盾。言えば距離が保てる。薄い息ができる。
「大丈夫じゃない」
短く返されて、箱の重さが半分になる。
軽くなったはずなのに、胸の奥が変に熱い。
助けられた、と認めた瞬間に負けたみたいで腹が立つ。
「ほら、祝嶺。今の顔、助かったって顔」
岩崎が歌うみたいに言う。
「してない」
「してた。眉が一ミリ下がってた」
「一ミリとか言うな」
言い返したら、平野が勢いよく俺の顔を覗き込もうとして――
「近い」
梶山が手のひらで軽く押し返した。押し返すだけ。殴らない。なのに平野は止まる。
「え、俺だけ止められる! なんで!?」
「顔面がうるさい」
「顔面は黙れない!」
「黙らせる」
「暴君!」
「暴君じゃない。調整」
岩崎が「調整って便利な言葉」と笑って、平野が「俺を調整すな!」と雑巾を振り回し始めた。
「振るな。菌が舞う」
岩崎が雑巾を取り上げる。
平野は「菌って言うな!」と抗議して、でも大人しく床を拭き始める。切り替えが早い。そういうところが、嫌いになれない。
そこへ担任の井上が通りかかった。腕時計を見て、短く言う。
「片付け十分。返却と精算、先。明日朝の準備、残すな。以上」
以上で終わる。話が早い。
平野が手を挙げた。
「先生、十分って短すぎません!? 俺の情緒が追いつかない!」
「情緒は知らん。作業優先。以上」
「冷たっ!」
岩崎が肩をすくめる。
「井上、今日ずっと“作業優先”の顔してる」
「顔って言うな」
梶山が言って、俺は喉の奥で笑いそうになって止めた。
投票用紙を束にして、ホチキスで留める。
端を揃える。斜めになったら直す。
こういう“整える”作業は息ができる。
「祝嶺、数えるの速いよな」
平野が覗き込む。
「速くない」
「速い。俺、途中で『いま何枚目だっけ』ってなる」
「お前は途中で歌う」
梶山が背中越しに言う。
「歌ってない!」
「歌ってたよ。『パンは正義』」
岩崎がさらっと追撃して、平野が両手で顔を覆った。
「やめろ! 俺の黒歴史を文化祭の熱で蒸し返すな!」
笑い声が続く。
続いてしまうのが怖い。けど、怖いのに救われる。
購買担当の先生が票の束を見て目を丸くした。
「こんなに集まったの? 宣伝、上手かったね」
平野が胸を張る。
「俺のPOPが――」
「祝嶺のまとめ方が」
岩崎がさらっと被せた。
「人がどこで止まって、どこで引き返すか。あれ、当たってたもん」
喉が詰まった。
見られてる。気づかれてる。
それを“褒め”の形で投げてくるのが優しい。優しいから息が苦しい。
「……たまたま」
「たまたまって言う人、だいたい本物」
岩崎がにやっと笑う。
梶山が俺の手元を見て、短く言った。
「助かった」
それだけ。
それだけで胸が跳ねる。
跳ねたのが悔しくて、俺は紙の端を揃える速度を上げた。指が少しだけ震えて、ホチキスが斜めになった。
「曲がってる」
梶山が言って、指先で一ミリだけ押して真っ直ぐにした。
触れない。覗き込まない。
でも、ちゃんと直す。
「……ありがと」
俺の声が、思ったよりちゃんと出た。薄くじゃなく。
平野が目を見開く。
「出た! ありがとう!」
「騒ぐな」
梶山が言うと、平野が口を押さえて首を振った。
「騒がない! でも……出た!」
「結局、声でかい」
岩崎が笑って、ゴミ袋の口を縛った。
「今日の結論。平野は黙れない」
「黙れないのが俺の魅力!」
「魅力を一回しまえ」
岩崎が言う。梶山は何も言わないのに、平野が「はい」と直立する。逆に面白い。
俺はその端で、息を薄くしながら、少しだけ温かい。
――こういう瞬間がいちばん怖い。
増える。覚えてしまう。戻れなくなる。
*
「返却、俺と祝嶺で行く」
梶山が段ボールを持ち上げたまま言った。中身は貸し出しのコードとスタンドと小物。
全部“学校の物”で、全部“間違えたら怒られる物”。
「え、俺も行く!」
平野が手を挙げる。
「お前はゴミ捨て。あと明日の札、貼り直せ」
「俺、便利屋!?」
「便利」
「褒めてんの!?」
「知らん」
岩崎が手をひらひらさせる。
「私は写真撮っとく。看板、今日のうちに一枚だけ」
「記録」
梶山が言うと、岩崎が笑った。
「記録って言うと重い。今日は“思い出”でいい」
その言葉が胸に刺さる。重いのに、温かい。
平野がぶつぶつ言いながら走っていく背中に、岩崎が声を飛ばした。
「平野、転ぶなよ〜」
「転ばねえ! ……たぶん!」
残ったのは俺と梶山。
廊下が急に静かになる。笑い声が遠のくと、俺の中の音だけが大きくなる。
梶山は何も言わずに、歩く速度だけ合わせてくる。
それが、怖い。
怖いのに、ありがたい。
ありがたいと思ってしまうのが一番怖い。
廊下の途中、鉄研の展示室の前を通る。
中から梶山の知り合いらしい男子が顔を出した。
「梶山! 今日どう? 明日も手伝い要る?」
「要る。あとで」
「隣、誰?」
視線が俺に向く。
梶山が迷いなく言った。
「班の祝嶺」
“班の”が妙に安心する。
でも同時に、その言葉が通用しなくなる瞬間があることも知ってる。
「へえ。祝嶺、ありがとな。購買、めっちゃ混んでた」
男子はそれだけ言って引っ込んだ。
俺は小さく頷いた。
誰かに「ありがとな」って言われるのは慣れてない。
慣れないものが増えるのは怖いのに、今日は胸の奥が少しくすぐったい。
そのくすぐったさが梶山のせいだって気づくのが、一番まずい。
*
印刷室の前に着くと、紙の匂いが濃くなる。
機械の音が、いつもより大きい気がした。
カウンターの向こうに大塚がいた。無表情のまま、紙を揃えている。
「返却」
梶山が短く言う。
「申請書」
大塚も短い。
梶山が紙を出す。大塚が一瞬で目を走らせて、言った。
「学生証」
二文字で、胃がきゅっと縮んだ。
ポケットの中のケースが急に重い。
梶山が学生証を出す。大塚が確認して、返却チェックをつける。
「欠品なし。精算、ここ」
大塚がペンを差し出す。
梶山がサインする。
次は俺――のはずだった。
指が動かない。
動けば終わる。動かなくても、もう終わってる気がする。
そのとき、足音。
「間に合った!? 俺も返却あるって言われて――」
息を切らした平野が飛び込んできた。
「学生証」
大塚が即言う。
「はい! 平野!」
「名前、言わなくていい」
「冷たっ!」
平野の軽さが今は救いみたいで、でもそれに縋るのが恥ずかしい。
「祝嶺も出せよ。ほら」
平野が何も知らない顔で言う。
俺はポケットの中でケースを掴んだ。
出す。出さない。
どっちにしても喉の奥が痛い。
指が滑った。
落ちた。
乾いた音。
ケースが床で跳ねて、蓋が開く。
カードが表になって止まる。
息が止まった。
「うわ、ごめん! 拾う!」
平野が反射でしゃがんで、手を伸ばす。
「やめ――」
声が出ない。出たときには遅い。
平野がカードを持ち上げたまま固まった。
目が数字のところで止まっている。
数字を読む目になっている。
「……え?」
声が変に裏返る。
「これ……祝嶺……」
平野が顔を上げて、俺じゃなく梶山を見る。
助けて、って顔。
笑いにしていいのか分からない、って顔。
梶山は動かない。
怒ってない。怒ってないのに、空気が冷える。
冷えるのは、距離じゃない。逃げ道が消える感じ。
俺はカードを奪い取った。
乱暴にならないように、でも速く。指が震える。
「……違う」
嘘が勝手に出た。
「見間違い」
続けて言う。自分が嫌になる。
平野が慌てて首を振った。
「うん! 見間違いならいい! 俺、見間違いってことにする! するから! な!」
必死に明るくする。
明るいのに、声が震えてる。
大塚が無表情で言った。
「精算。続ける」
俺の世界が止まっても、印刷室の手続きは止まらない。
それが一番残酷で、でも助けにもなる。
“今ここで全部を説明しろ”って空気にならない。
空気がならないから、余計に怖い。
梶山がペンを受け取って、淡々とサインをした。
平野もペンを握る。手が震えて、字が少し歪む。
大塚が紙を回収して、言った。
「以上」
以上。
終わり。
終わったのに、終わってない。
*
廊下に出た瞬間、遠くの校門の方から笑い声が流れてきた。
一般公開が終わっただけで、校内にはまだ片付けの生徒が残っている。
みんな今日を“今日のまま”持ち帰ろうとしてる音。
俺だけ、置き去りになる。
平野が俺の前に回り込んだ。
「祝嶺、ごめん。ほんとごめん。俺、拾って、見て、口開いて――最悪だった」
謝り方が真面目すぎて、平野らしくない。
「……余計とかじゃない」
俺の声は薄い。薄くしたつもりなのに喉が震える。
「でもさ」
平野が無理に笑う。
「なんて言えば――」
言葉が途中で折れる。
折れたまま、平野は一歩引いた。
「ごめん。今日は……俺、喋ると壊す気がする」
平野がそう言って、笑い方だけ残して走り去った。
置いていかないために、先に逃げる。
その優しさが痛い。
二人になって、廊下の空気が濃くなる。
「なんで隠してた」
梶山が言った。
答えは長い。
長い答えを言ったら、“同級生”が終わる。
「隠してない」
また嘘が出た。
「隠してた」
梶山が言い切る。
俺は息を薄くしようとして、できなかった。
梶山が一歩、距離を詰める。
追い詰めない。覗き込まない。
でも、逃げ道を“見えなく”する。
「俺さ」
梶山が言った。
そこで、言葉を切った。
切るのが、ずるい。
「……嫌だ」
何が嫌なのか言わない。
言わないのに分かる。
崩れるのが嫌なんだ。
胸が痛い。
痛いのに嬉しい。
嬉しいのが一番怖い。
「……明日の準備、戻れよ」
俺は話を逸らした。最低の逃げ方。
「戻る」
梶山は短く言って、続けた。
「でも、今日はこのまま終わらせない」
その言い方に、背中がぞくっとした。
怖い、より先に、胸が跳ねる。
跳ねたことが、もっと怖い。
「終わってる」
俺は言った。
言ってしまえば、終わりにできると思った。
梶山は否定しない代わりに、言った。
「明日も、班は動く」
当たり前の確認みたいに。
でも、その当たり前が、俺の喉を締めた。
「……分かった」
言葉が勝手に出る。分かったのは、彼の言葉じゃない。
――明日も続く、ってこと。
「だから」
梶山が続ける。
「今日は帰れ。寝ろ」
命令じゃなくて、段取りみたいな声。
俺はそれに頷けない。頷いたら守られる。守られたら増える。
増えたら、失ったとき痛い。
「……帰る」
俺はそう言って、背を向けた。
「祝嶺」
梶山が呼ぶ。止まれない。止まったら終われない。
俺は歩きながら、握りしめた学生証の角が手のひらに食い込むのを感じた。
“痕”が残る。
残るのが怖いのに、残ってほしい自分がいる。
*
売り場に戻ると、岩崎が札を貼り直していた。
平野はゴミ袋を二つ抱えて戻ってきたところだった。
「遅い! 俺、さっきの件、頭の中で三回謝った!」
声量はいつも通りなのに、目だけ落ち着かない。
「頭の中で謝罪を稼ぐな」
岩崎がさらっと言う。
「稼いでない! 反省の回転数!」
「回転数で許しは増えない」
「ひどい!」
平野が俺を見て、言い方を探す顔をした。
探されるのが苦しい。
だから先に言った。
「……明日、ちゃんとやる」
何を、とは言わない。
でもそれだけで、平野の肩が少し落ちた。
「うん。明日。明日でいい」
平野が頷く。頷けるのが平野の強さだ。
岩崎が俺の目じゃなく、肩の少し外側に視線を置いて言う。
「今日は帰って寝な。明日、最終日、長いよ」
「……うん」
頷けた。ちゃんと頷けた。
梶山が札の端を指で押さえて、位置を直す。
「ここ、風で剥がれる。テープ増やせ」
「段取り男、助かる〜」
岩崎が言って、梶山は「今は仕事」とだけ返した。
平野が急に真顔になる。
「……祝嶺、明日も来いよ。来ないと困る。売り場回らない」
「困るのはお前の声」
梶山が言うと、平野が言い返しかけて飲み込んだ。
「……声、しまう。今日は」
その言い方が妙に優しくて、俺は目を逸らした。
逸らした瞬間に分かる。
俺はもう、みんなの目が怖いんじゃない。
――優しいのが怖い。
*
帰りの放送が流れて、片付けの生徒が一斉に動き出した。
靴箱が鳴る。鍵の音がする。廊下がざわつく。
俺は帰ろうとした。
帰れば終わる。薄い息に戻れる。
「祝嶺、先――」
平野が言いかけたところで、俺は一歩引いた。
「俺、先、帰る」
平野の顔が一瞬だけ固くなる。でもすぐ、いつもの笑い方に戻す。
「お、おう! 先帰れ! 風邪ひくなよ!」
無理してる声量だって分かる。分かるから痛い。
岩崎が軽く手を振る。
「道、気をつけて。……寒いから」
「……うん」
梶山は何も言わない。
言わないのに、背中に視線だけ刺さる。
刺さるのが嫌なのに、刺さってほしいみたいで、腹が立つ。
昇降口を抜けて外に出ると、夜の空気が刺さった。
十一月は夜が早い。
胸の奥だけ、まだ昼の熱が残ってるみたいにざわつく。
ポケットの中でスマホが震えた。
班の通知。
俺は見ないふりをした。
見たら“既読”が残る。
残ったら、今の俺がそのまま残る。
学生証を握りしめた手のひらが痛い。
痛いのに、手を開けない。
――昨日までは、痛いものは全部避けてきた。
避けてきたのに、今日は、避けられなかった。
歩きながら、さっきの梶山の声が頭に残る。
責める声じゃなかった。
引きずり出す声でもなかった。
ただ、“続き”を前提にした声だった。
続く。
続いてしまう。
怖い。
怖いのに――明日の朝、校門の匂いを俺が思い出してしまうのが、もっと怖い。
家の鍵を回す前に、もう一度スマホが震えた。
画面は見ない。
見ないまま、深く息を吸って、吐いた。
終わらせたい。
でも、終わらせたくない。
その矛盾だけを胸に押し込んで、俺はドアを開けた。
