一歳上、同級生。

第9章 11/2 文化祭夕方|一年の秘密が落ちた

 十一月二日。
 校内放送が途切れた瞬間、廊下のざわめきが「片付けの音」に塗り替わった。
 ガムテープを引き裂く乾いた音。段ボールが擦れる音。鉄板の油が冷えていく匂い。紙コップの甘い残り香。
 昼間の熱がまだ壁に貼りついてるのに、どこかで“帰る匂い”だけが先に動き出す。

「終わったぁぁ……俺、生きた……!」
 売り場の奥から平野が飛び出してきて、腕を振り回した。

「死なねえよ」
 左から梶山のツッコミが落ちる。短い。低い。切れ味だけで平野を止める。

「生きたって言っただろ! ほら見ろ、汗! 汗が証拠!」
「証拠とか言うな」
 岩崎が笑いながら、レジ横のPOPを丁寧に剥がしていく。指先が無駄なく綺麗で、同じ作業でも“ちゃんとしてる”動きに見える。

「平野、汗が証拠なら祝嶺はどうなるの。無表情が証拠?」
「証拠、増やすなって」
 俺が言うと、平野が「え、祝嶺しゃべった」とわざとらしく目を見開いて、岩崎が肩を揺らす。

「今の、ちゃんと会話だった」
「会話のハードル低いな」
「祝嶺は低い方がいい。急に高くすると落ちる」
「落とすなよ」
 俺が言うと、梶山が段ボールを持ったまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 俺は投票箱を抱え直した。
 紙が詰まって重い。重いものは残る。残るものは、なかったことにできない。
 ――それが怖いはずなのに、今日は紙の重さの中に、少しだけ嬉しさが混じってる気がした。
 混じってるのが分かるくらい、俺の中に余裕ができてしまってる。最悪だ。

「祝嶺、それ腕やる」
 梶山が覗き込まない距離で言って、投票箱の底に手を入れた。

「……大丈夫」
 いつもの盾。言えば距離が保てる。薄い息ができる。

「大丈夫じゃない」
 短く返されて、箱の重さが半分になる。

 軽くなったはずなのに、胸の奥が変に熱い。
 助けられた、と認めた瞬間に負けたみたいで腹が立つ。

「ほら、祝嶺。今の顔、助かったって顔」
 岩崎が歌うみたいに言う。

「してない」
「してた。眉が一ミリ下がってた」
「一ミリとか言うな」
 言い返したら、平野が勢いよく俺の顔を覗き込もうとして――

「近い」
 梶山が手のひらで軽く押し返した。押し返すだけ。殴らない。なのに平野は止まる。

「え、俺だけ止められる! なんで!?」
「顔面がうるさい」
「顔面は黙れない!」
「黙らせる」
「暴君!」
「暴君じゃない。調整」
 岩崎が「調整って便利な言葉」と笑って、平野が「俺を調整すな!」と雑巾を振り回し始めた。

「振るな。菌が舞う」
 岩崎が雑巾を取り上げる。
 平野は「菌って言うな!」と抗議して、でも大人しく床を拭き始める。切り替えが早い。そういうところが、嫌いになれない。

 そこへ担任の井上が通りかかった。腕時計を見て、短く言う。

「片付け十分。返却と精算、先。明日朝の準備、残すな。以上」

 以上で終わる。話が早い。
 平野が手を挙げた。

「先生、十分って短すぎません!? 俺の情緒が追いつかない!」
「情緒は知らん。作業優先。以上」
「冷たっ!」

 岩崎が肩をすくめる。

「井上、今日ずっと“作業優先”の顔してる」
「顔って言うな」
 梶山が言って、俺は喉の奥で笑いそうになって止めた。

 投票用紙を束にして、ホチキスで留める。
 端を揃える。斜めになったら直す。
 こういう“整える”作業は息ができる。

「祝嶺、数えるの速いよな」
 平野が覗き込む。

「速くない」
「速い。俺、途中で『いま何枚目だっけ』ってなる」
「お前は途中で歌う」
 梶山が背中越しに言う。

「歌ってない!」
「歌ってたよ。『パンは正義』」
 岩崎がさらっと追撃して、平野が両手で顔を覆った。

「やめろ! 俺の黒歴史を文化祭の熱で蒸し返すな!」

 笑い声が続く。
 続いてしまうのが怖い。けど、怖いのに救われる。

 購買担当の先生が票の束を見て目を丸くした。

「こんなに集まったの? 宣伝、上手かったね」

 平野が胸を張る。

「俺のPOPが――」
「祝嶺のまとめ方が」
 岩崎がさらっと被せた。

「人がどこで止まって、どこで引き返すか。あれ、当たってたもん」

 喉が詰まった。
 見られてる。気づかれてる。
 それを“褒め”の形で投げてくるのが優しい。優しいから息が苦しい。

「……たまたま」
「たまたまって言う人、だいたい本物」
 岩崎がにやっと笑う。

 梶山が俺の手元を見て、短く言った。

「助かった」

 それだけ。
 それだけで胸が跳ねる。

 跳ねたのが悔しくて、俺は紙の端を揃える速度を上げた。指が少しだけ震えて、ホチキスが斜めになった。

「曲がってる」
 梶山が言って、指先で一ミリだけ押して真っ直ぐにした。
 触れない。覗き込まない。
 でも、ちゃんと直す。

「……ありがと」
 俺の声が、思ったよりちゃんと出た。薄くじゃなく。

 平野が目を見開く。

「出た! ありがとう!」
「騒ぐな」
 梶山が言うと、平野が口を押さえて首を振った。

「騒がない! でも……出た!」
「結局、声でかい」
 岩崎が笑って、ゴミ袋の口を縛った。

「今日の結論。平野は黙れない」
「黙れないのが俺の魅力!」
「魅力を一回しまえ」
 岩崎が言う。梶山は何も言わないのに、平野が「はい」と直立する。逆に面白い。

 俺はその端で、息を薄くしながら、少しだけ温かい。
 ――こういう瞬間がいちばん怖い。
 増える。覚えてしまう。戻れなくなる。



「返却、俺と祝嶺で行く」
 梶山が段ボールを持ち上げたまま言った。中身は貸し出しのコードとスタンドと小物。
 全部“学校の物”で、全部“間違えたら怒られる物”。

「え、俺も行く!」
 平野が手を挙げる。

「お前はゴミ捨て。あと明日の札、貼り直せ」
「俺、便利屋!?」
「便利」
「褒めてんの!?」
「知らん」

 岩崎が手をひらひらさせる。

「私は写真撮っとく。看板、今日のうちに一枚だけ」
「記録」
 梶山が言うと、岩崎が笑った。

「記録って言うと重い。今日は“思い出”でいい」

 その言葉が胸に刺さる。重いのに、温かい。

 平野がぶつぶつ言いながら走っていく背中に、岩崎が声を飛ばした。

「平野、転ぶなよ〜」
「転ばねえ! ……たぶん!」

 残ったのは俺と梶山。
 廊下が急に静かになる。笑い声が遠のくと、俺の中の音だけが大きくなる。

 梶山は何も言わずに、歩く速度だけ合わせてくる。
 それが、怖い。
 怖いのに、ありがたい。
 ありがたいと思ってしまうのが一番怖い。

 廊下の途中、鉄研の展示室の前を通る。
 中から梶山の知り合いらしい男子が顔を出した。

「梶山! 今日どう? 明日も手伝い要る?」
「要る。あとで」
「隣、誰?」

 視線が俺に向く。

 梶山が迷いなく言った。

「班の祝嶺」

 “班の”が妙に安心する。
 でも同時に、その言葉が通用しなくなる瞬間があることも知ってる。

「へえ。祝嶺、ありがとな。購買、めっちゃ混んでた」
 男子はそれだけ言って引っ込んだ。

 俺は小さく頷いた。
 誰かに「ありがとな」って言われるのは慣れてない。
 慣れないものが増えるのは怖いのに、今日は胸の奥が少しくすぐったい。
 そのくすぐったさが梶山のせいだって気づくのが、一番まずい。



 印刷室の前に着くと、紙の匂いが濃くなる。
 機械の音が、いつもより大きい気がした。

 カウンターの向こうに大塚がいた。無表情のまま、紙を揃えている。

「返却」
 梶山が短く言う。

「申請書」
 大塚も短い。

 梶山が紙を出す。大塚が一瞬で目を走らせて、言った。

「学生証」

 二文字で、胃がきゅっと縮んだ。
 ポケットの中のケースが急に重い。

 梶山が学生証を出す。大塚が確認して、返却チェックをつける。

「欠品なし。精算、ここ」
 大塚がペンを差し出す。

 梶山がサインする。

 次は俺――のはずだった。

 指が動かない。
 動けば終わる。動かなくても、もう終わってる気がする。

 そのとき、足音。

「間に合った!? 俺も返却あるって言われて――」
 息を切らした平野が飛び込んできた。

「学生証」
 大塚が即言う。

「はい! 平野!」
「名前、言わなくていい」
「冷たっ!」

 平野の軽さが今は救いみたいで、でもそれに縋るのが恥ずかしい。

「祝嶺も出せよ。ほら」
 平野が何も知らない顔で言う。

 俺はポケットの中でケースを掴んだ。
 出す。出さない。
 どっちにしても喉の奥が痛い。

 指が滑った。

 落ちた。

 乾いた音。
 ケースが床で跳ねて、蓋が開く。

 カードが表になって止まる。

 息が止まった。

「うわ、ごめん! 拾う!」
 平野が反射でしゃがんで、手を伸ばす。

「やめ――」
 声が出ない。出たときには遅い。

 平野がカードを持ち上げたまま固まった。
 目が数字のところで止まっている。
 数字を読む目になっている。

「……え?」

 声が変に裏返る。

「これ……祝嶺……」

 平野が顔を上げて、俺じゃなく梶山を見る。
 助けて、って顔。
 笑いにしていいのか分からない、って顔。

 梶山は動かない。
 怒ってない。怒ってないのに、空気が冷える。
 冷えるのは、距離じゃない。逃げ道が消える感じ。

 俺はカードを奪い取った。
 乱暴にならないように、でも速く。指が震える。

「……違う」
 嘘が勝手に出た。

「見間違い」
 続けて言う。自分が嫌になる。

 平野が慌てて首を振った。

「うん! 見間違いならいい! 俺、見間違いってことにする! するから! な!」
 必死に明るくする。
 明るいのに、声が震えてる。

 大塚が無表情で言った。

「精算。続ける」

 俺の世界が止まっても、印刷室の手続きは止まらない。
 それが一番残酷で、でも助けにもなる。
 “今ここで全部を説明しろ”って空気にならない。
 空気がならないから、余計に怖い。

 梶山がペンを受け取って、淡々とサインをした。
 平野もペンを握る。手が震えて、字が少し歪む。
 大塚が紙を回収して、言った。

「以上」

 以上。
 終わり。
 終わったのに、終わってない。



 廊下に出た瞬間、遠くの校門の方から笑い声が流れてきた。
 一般公開が終わっただけで、校内にはまだ片付けの生徒が残っている。
 みんな今日を“今日のまま”持ち帰ろうとしてる音。

 俺だけ、置き去りになる。

 平野が俺の前に回り込んだ。

「祝嶺、ごめん。ほんとごめん。俺、拾って、見て、口開いて――最悪だった」
 謝り方が真面目すぎて、平野らしくない。

「……余計とかじゃない」
 俺の声は薄い。薄くしたつもりなのに喉が震える。

「でもさ」
 平野が無理に笑う。

「なんて言えば――」
 言葉が途中で折れる。
 折れたまま、平野は一歩引いた。

「ごめん。今日は……俺、喋ると壊す気がする」
 平野がそう言って、笑い方だけ残して走り去った。
 置いていかないために、先に逃げる。
 その優しさが痛い。

 二人になって、廊下の空気が濃くなる。

「なんで隠してた」
 梶山が言った。

 答えは長い。
 長い答えを言ったら、“同級生”が終わる。

「隠してない」
 また嘘が出た。

「隠してた」
 梶山が言い切る。

 俺は息を薄くしようとして、できなかった。

 梶山が一歩、距離を詰める。
 追い詰めない。覗き込まない。
 でも、逃げ道を“見えなく”する。

「俺さ」
 梶山が言った。

 そこで、言葉を切った。
 切るのが、ずるい。

「……嫌だ」

 何が嫌なのか言わない。
 言わないのに分かる。
 崩れるのが嫌なんだ。

 胸が痛い。
 痛いのに嬉しい。
 嬉しいのが一番怖い。

「……明日の準備、戻れよ」
 俺は話を逸らした。最低の逃げ方。

「戻る」
 梶山は短く言って、続けた。

「でも、今日はこのまま終わらせない」

 その言い方に、背中がぞくっとした。
 怖い、より先に、胸が跳ねる。
 跳ねたことが、もっと怖い。

「終わってる」
 俺は言った。
 言ってしまえば、終わりにできると思った。

 梶山は否定しない代わりに、言った。

「明日も、班は動く」
 当たり前の確認みたいに。
 でも、その当たり前が、俺の喉を締めた。

「……分かった」
 言葉が勝手に出る。分かったのは、彼の言葉じゃない。
 ――明日も続く、ってこと。

「だから」
 梶山が続ける。

「今日は帰れ。寝ろ」
 命令じゃなくて、段取りみたいな声。

 俺はそれに頷けない。頷いたら守られる。守られたら増える。
 増えたら、失ったとき痛い。

「……帰る」
 俺はそう言って、背を向けた。

「祝嶺」
 梶山が呼ぶ。止まれない。止まったら終われない。

 俺は歩きながら、握りしめた学生証の角が手のひらに食い込むのを感じた。
 “痕”が残る。
 残るのが怖いのに、残ってほしい自分がいる。



 売り場に戻ると、岩崎が札を貼り直していた。
 平野はゴミ袋を二つ抱えて戻ってきたところだった。

「遅い! 俺、さっきの件、頭の中で三回謝った!」
 声量はいつも通りなのに、目だけ落ち着かない。

「頭の中で謝罪を稼ぐな」
 岩崎がさらっと言う。

「稼いでない! 反省の回転数!」
「回転数で許しは増えない」
「ひどい!」

 平野が俺を見て、言い方を探す顔をした。
 探されるのが苦しい。
 だから先に言った。

「……明日、ちゃんとやる」

 何を、とは言わない。
 でもそれだけで、平野の肩が少し落ちた。

「うん。明日。明日でいい」
 平野が頷く。頷けるのが平野の強さだ。

 岩崎が俺の目じゃなく、肩の少し外側に視線を置いて言う。

「今日は帰って寝な。明日、最終日、長いよ」
「……うん」
 頷けた。ちゃんと頷けた。

 梶山が札の端を指で押さえて、位置を直す。

「ここ、風で剥がれる。テープ増やせ」
「段取り男、助かる〜」
 岩崎が言って、梶山は「今は仕事」とだけ返した。

 平野が急に真顔になる。

「……祝嶺、明日も来いよ。来ないと困る。売り場回らない」
「困るのはお前の声」
 梶山が言うと、平野が言い返しかけて飲み込んだ。

「……声、しまう。今日は」
 その言い方が妙に優しくて、俺は目を逸らした。

 逸らした瞬間に分かる。
 俺はもう、みんなの目が怖いんじゃない。
 ――優しいのが怖い。



 帰りの放送が流れて、片付けの生徒が一斉に動き出した。
 靴箱が鳴る。鍵の音がする。廊下がざわつく。

 俺は帰ろうとした。
 帰れば終わる。薄い息に戻れる。

「祝嶺、先――」
 平野が言いかけたところで、俺は一歩引いた。

「俺、先、帰る」

 平野の顔が一瞬だけ固くなる。でもすぐ、いつもの笑い方に戻す。

「お、おう! 先帰れ! 風邪ひくなよ!」
 無理してる声量だって分かる。分かるから痛い。

 岩崎が軽く手を振る。

「道、気をつけて。……寒いから」
「……うん」

 梶山は何も言わない。
 言わないのに、背中に視線だけ刺さる。
 刺さるのが嫌なのに、刺さってほしいみたいで、腹が立つ。

 昇降口を抜けて外に出ると、夜の空気が刺さった。
 十一月は夜が早い。
 胸の奥だけ、まだ昼の熱が残ってるみたいにざわつく。

 ポケットの中でスマホが震えた。
 班の通知。
 俺は見ないふりをした。
 見たら“既読”が残る。
 残ったら、今の俺がそのまま残る。

 学生証を握りしめた手のひらが痛い。
 痛いのに、手を開けない。

 ――昨日までは、痛いものは全部避けてきた。
 避けてきたのに、今日は、避けられなかった。

 歩きながら、さっきの梶山の声が頭に残る。
 責める声じゃなかった。
 引きずり出す声でもなかった。
 ただ、“続き”を前提にした声だった。

 続く。
 続いてしまう。

 怖い。
 怖いのに――明日の朝、校門の匂いを俺が思い出してしまうのが、もっと怖い。

 家の鍵を回す前に、もう一度スマホが震えた。
 画面は見ない。
 見ないまま、深く息を吸って、吐いた。

 終わらせたい。
 でも、終わらせたくない。

 その矛盾だけを胸に押し込んで、俺はドアを開けた。