十月の朝は、風だけ先に秋になってる。
制服の袖口から入り込む空気が、九月より少しだけ冷たい。
――冷たいのに、教室は暑い。
「文化祭ってさ、準備の時期がいちばん地獄じゃない?」
平野が机に突っ伏して言った。
「地獄って言うな。まだ始まってもない」
岩崎が笑いながら、髪を指でくるっと巻く。
「でも分かる。段ボールとガムテの匂いがすると、だいたい終わる」
「終わらないで」
平野が泣く真似をする。
「俺、今しかない空気を浴びたいんだよ。文化祭で!」
「浴びるな」
左隣の梶山が、さらっと止めた。
「止めるの早いって」
岩崎が即ツッコむ。
「保護者〜」
「保護者じゃねえ」
「じゃあ何」
梶山は一拍だけ置いて、面倒くさそうに言った。
「……止める役」
平野が腹を抱えて笑った。
「役って何だよ! 便利すぎ! 梶山、俺の口にチャック付けられるじゃん!」
「付けない」
「付けてるって。さっきからずっと」
「お前が勝手に開けてるだけ」
岩崎が肩を揺らして笑う。
「梶山、言い方が優しいのに容赦ない」
「褒めてないだろ、それ」
「褒めてる。たぶん」
また笑いが起きた。
俺は笑いそうになって、机の端を指で押さえた。
笑うと、何かが増える気がして、怖い。
でも最近、その“増える”が全部怖いわけじゃなくなってる。
それがいちばん怖い。
ホームルームのチャイム。
担任の井上が教壇に立った。
「連絡。文化祭、来月頭。クラス企画、今週中に決める」
短い。
黒板に、項目だけ書く。
・企画内容
・担当(会計/広報/制作/当日運営)
・提出物(企画書/掲示物案)
・印刷室使用予定(要申請)
「はい。案、出せ」
終わりじゃない。
珍しく“投げてくる”タイプの短さだ。
教室がざわつく。
前の方で誰かが言った。
「定番の喫茶でよくない?」
「お化け屋敷!」
「映えスポット!」
「鉄道クラスなんだから、駅っぽくしようぜ!」
案が飛び交う。
みんなの声が、秋の冷たさを押し返すみたいに熱い。
俺はその熱の端っこで、呼吸を薄くした。
薄くしておけば、目立たない。
目立たなければ、余計なものが増えない。
――増えない方が、いい。
ずっとそう思ってきたのに。
井上が黒板の横で腕を組んで言った。
「総合の課題、覚えてるな。あれ、活かしていい。むしろ活かせ」
その一言で、空気が変わった。
ざわざわの方向が、俺たち四人に寄る。
「え、総合⑤班のやつ?」
誰かが言って、平野が勢いよく顔を上げた。
「え、俺たち有名人? ついに?」
「有名人って言うな」
梶山が止める。
「言いたい!」
「言うな」
「ひどっ!」
岩崎が肘をついて、軽く笑ったまま教室の方を向く。
軽いのに、目がちゃんと全員を拾ってる。
「うち、購買の売上改善やってたじゃん。データもあるし、企画書もある」
「それ文化祭にしたら、準備が早い」
梶山が短く足す。
「購買って、あのパンのとこ?」
「そうそう。並ぶやつ」
「え、でも文化祭でパン売れるの?」
「売れないなら“展示”でもいいじゃん」
「でも地味じゃない?」
「地味じゃないようにするのが、うちらの仕事でしょ」
岩崎が、さらっと言い切る。
その“うちら”に、俺も含まれてる気がして、胸が一回跳ねた。
平野が勢いで手を挙げた。
「俺、当日呼び込みやる! 購買をテーマにするなら、声の力が必要!」
「声の力って言うな」
梶山が止める。
「声の力だろ!」
「うるさいだけ」
「うるさくない!」
「うるさい」
「ひどっ!」
教室が笑う。
笑いの中に、俺がいる。
岩崎が黒板に近い席の男子に声をかけた。
「喫茶案の人。喫茶って“何を売る”予定?」
「え、飲み物と…クッキー?」
「材料費と衛生管理、誰がやる?」
「……」
「当日運営、クラス全員巻き込める?」
「……巻き込める、と思う」
岩崎の言葉は柔らかいのに、刺さるところだけ刺す。
相手を潰さない。
でも逃げ道だけ塞ぐ。
梶山が黒板の「担当」を指でトンと叩いた。
「購買プロデュースなら、役割が多い。全員入れる」
「運営、装飾、呼び込み、会計補助、投票回収、案内、展示説明」
「展示説明って何?」
「購買の“改善案”を見せる」
「え、ちょっと面白そう」
クラスの前の方で、別の男子が言った。
「駅っぽくするの、好きなんだけど。購買って、駅みたいにできる?」
平野が即答する。
「できる! 並ぶの、ホームだし!」
「ホームって言うな」
梶山が止める。
「駅じゃない」
「でもさ、動線作るの梶山得意じゃん」
「得意」
「自分で言うの腹立つ」
「うるさい」
笑いがまた起きる。
教室の熱が、ひとつの方向にまとまっていく。
井上が言った。
「じゃあ、決める。案、二つに絞れ」
黒板に残ったのは、最終的に二案。
「喫茶」
「購買プロデュース(展示+投票+当日企画)」
「拍手で決める」
井上はそう言って、まず喫茶を指した。
ぱらぱら。
次に購買を指した瞬間、拍手が増えた。
平野が煽って、岩崎が笑って、梶山が「うるさい」で締める。
「……購買。決定」
井上が淡々と結論を置く。
「担当、今決めろ。以上」
以上。
やっぱり話が早い。
でも、今日はその早さが助かった。
迷う間に、怖くなる前に、決まったから。
*
放課後。
人が減った教室は急に広い。
広いのに、空気だけ妙に近い。
井上は教壇の上でプリントを配った。
企画書テンプレ。提出期限。印刷室申請書。
「購買プロデュースは“班”で動け。クラスは大枠。細部は班で作って持ってこい」
「班は……総合課題の班を基準にする。揉めないため。以上」
平野が小声で言った。
「はい決まり。俺ら四人、逃げ道なし」
岩崎が笑う。
「揉めないため、って先生が言うと強いよね」
梶山はプリントの端を揃えただけで、何も言わなかった。
俺も黙って紙を受け取った。
“理由”があると、断りづらい。。
「じゃ、総合⑤班は中核な」
井上が俺たちの方を見て言う。
「お前らが軸。ほかは当日運営と装飾で回す。以上」
以上で終わる。
終わったのに、平野が勝手に仕切り始めた。
「はい! 総合⑤班、集合! 俺たち、文化祭の主役!」
「主役って言うな」
梶山が止める。
「言いたい!」
「言うな」
「ひどっ!」
岩崎が指を折る。
「まず、当日の形を決める。購買そのまま再現は無理だから、展示と投票を軸にする」
「人気パン総選挙。投票で人を回す」
「それ、俺叫ぶやつ」
平野が張り切る。
「『一票入れてくださーい!』って」
「声量、印刷物が逃げる」
岩崎が笑う。
「逃げねえし!」
「逃げる」
「逃げない!」
「はい、落ち着け」
梶山が軽く切った。
梶山はノートを開いて、淡々と書き始めた。
「動線」
「入口、投票、展示、写真スポット、出口」
「写真スポット?」
平野が聞く。
「クラス全員が入れる場所作る。そこで当日運営」
梶山が言う。
「並びたくなる仕掛けが必要」
“並びたくなる”。
その言葉が、少しだけ嬉しかった。
俺のデータが、ただの数字じゃなく“人の動き”に変わっていく感じがする。
岩崎が俺を見る。
逃げ道を塞がない目線。
「祝嶺、データ係。アンケ結果、展示用にまとめて。グラフ、見やすいやつ」
「……」
「“無理”って言ってもいいよ?」
軽い声。なのに真ん中を突く。
俺は“無理”って言うのが怖い。
無理って言うと、理由を聞かれる。
理由は言えない。
「……できる」
小さく言った。
平野が即座に騒ぐ。
「祝嶺が“できる”言った!」
「事件!」
「事件って言うな」
梶山が言って――そのまま平野を見た。
平野が一拍で口を閉じる。
「……はい」
岩崎が笑った。
「素直」
岩崎が笑って、梶山が小さく息を吐いた。
その息が、なぜか嬉しい。
梶山が俺の方を見ないまま言う。
「文章、祝嶺」
「展示の説明、短く。読みやすく」
「……うん」
“うん”が出た。
出たことに自分で驚いて、ペンを揃えた。
揃えると、心が息をする。
そのとき、井上のプリントの太字が目に入った。
『印刷室使用時は学生証を提示。備品貸出も同様。』
学生証。
文字が目に入った瞬間、胃がきゅっと縮む。
指先が冷える。
「学生証、忘れたら終わりじゃん」
平野が何も知らずに笑った。
「俺、絶対忘れる自信ある」
「自信持つな」
岩崎が笑う。
「大塚さんに無表情で追い返されるよ」
「追い返されるのやだ!」
「やだって言うな」
梶山が止める。
「忘れなきゃいい」
忘れなきゃいい。
簡単みたいに言う。
――俺は、忘れたくないんじゃない。
“見せたくない”。
笑えないのがバレないように、俺は机の中を整え直した。
整えると、心が息をする。
……息をしたい。
印刷室は、息ができない場所だ。
*
そこから一週間。
文化祭の準備は、毎日少しずつ教室に積もっていく。
段ボール。模造紙。カラーペン。ガムテ。
机の上が制作室みたいになる。
「平野、それ“寄ってって!”の文字、でかすぎ」
岩崎が笑う。
「でかいのが正義!」
「正義って言うな」
梶山が止める。
「言いたい!」
「言うな」
「ひどっ!」
俺はアンケートをまとめて、グラフを作って、短い文章に削る。
削るのが、意外と楽しい。
言い切ると、迷いが減る。
岩崎が俺のスマホ画面を覗き込んだ。
距離が近い。
「祝嶺、ここ“売り切れが多い”より、“午後に消える”の方が刺さる」
「……午後に消える」
「うん。可愛い」
「可愛くない」
俺が言う前に、梶山が言った。
「好きとか言うな」
軽いトーン。冗談みたい。
でも止める速度が早い。
「え、嫉妬?」
岩崎が笑って、平野が「うおー!」と騒ぐ。
「ちげえ」
梶山が短く返す。
俺は笑いそうになって、喉の奥で止めた。
止めたのに、梶山の口元が少しだけ上がった。
それが、ずるい。
俺のデータは形になっていった。
「並ぶのが嫌」が多い。
「売り切れが多い」。
「新商品が分かりにくい」。
その結果を、文化祭の企画に落とし込む。
「だから、投票形式にする」
岩崎が言う。
「人気パン総選挙で、人を流す。並ぶのもイベント化」
「イベント化って便利な言葉」
平野が言う。
「全部イベントにすればいい」
「釣り銭が死ぬ」
梶山が即答。
「死ぬって言うな」
「死ぬ」
「死ぬ」
「うるさい」
梶山がノートに動線を書いて、机の上に置いた。
「入口ここ。投票ここ。展示ここ。写真ここ。出口ここ」
「……分かりやすい」
俺が言うと、梶山が小さく頷いた。
「祝嶺の文章も、分かりやすい」
反射で「別に」が出そうになって、飲み込む。
「……ありがと」
言い直した。
梶山が一瞬、目を細めた。
それだけで胸が跳ねる。
人を好きになる瞬間って、こういうのが積み重なる。
派手じゃないのに、逃げられない。
*
準備が進むほど、印刷物が増える。
ポスター。POP。投票用紙。展示パネル。値札。案内。
紙が増える。
紙が増えるほど、印刷室が近づく。
「印刷室、いつ行く?」
平野が気軽に言った。
その一言で、心臓が跳ねる。
跳ねるのが恥ずかしくて、俺はわざとシャーペンを持ち替えた。
「明日。放課後」
梶山が淡々と言う。
「申請、通した」
「梶山、仕事早」
岩崎が拍手する。
「さすが段取り男」
「段取り男って言うな」
「言いたい〜」
平野が笑う。
平野が俺を見る。
「祝嶺も来るよな? 展示の文章、祝嶺のやつだし」
軽い。軽いのに刺さる。
「……行く」
俺は言ってしまった。
言ってしまった自分が怖い。
でも、行かない理由を作る方がもっと怖い。
岩崎が微笑む。
「じゃ、四人で印刷室デビューだ」
「デビューって言うな」
「デビューだよ。大塚さんに認められたら大人」
「認められたくない」
「認められたいだろ」
平野が笑う。
「祝嶺、意外と褒められたいタイプ」
俺は「違う」と言いかけて、止めた。
違わない気がしたから。
梶山が、俺にだけ聞こえる声で言った。
「無理なら、俺が行く」
いつもの許可。救い。
でも今回は、救われたくない。
救われると、もっと好きになる。
「……大丈夫」
俺は言った。
大丈夫じゃないのに。
梶山は頷いた。
「じゃあ、俺が隣」
さらっと。
当たり前みたいに。
胸の奥が、変に熱くなった。
*
翌日、放課後。
印刷室へ向かう廊下は、いつもより長く感じた。
「緊張する〜」
平野がわざとらしく肩をすくめる。
「俺、大塚さんに怒られたら泣く」
「泣くな」
岩崎が笑う。
「泣いたら大塚さん、無表情のままティッシュ出してくれそう」
「それ、逆に怖い」
「怖くない」
「怖い」
「大塚さん、呼ぶぞ」
梶山が真顔で言った。
俺は会話に混ざれない。
混ざれないのが目立たないように、歩幅だけ合わせる。
梶山が小声で言った。
「呼吸、浅い」
「……してない」
「してる」
「……」
「深く」
命令みたいなのに、優しい。
俺は言われた通り、息を吸った。
扉を開けると、紙の匂いと機械の音。
そして、無表情。
「……用件」
大塚がカウンターの向こうで言った。
「文化祭の印刷です。申請済み」
梶山が言う。声が落ち着いてる。
「申請書」
大塚が手を出す。
梶山が紙を出す。
大塚が目を落として、すぐ言う。
「学生証」
短い。逃げ道がない。
平野が元気よく学生証を出した。
「はい! 俺、平野!」
「名前、言わなくていい」
大塚が無表情で返す。
岩崎も出す。
「はい。岩崎」
「……」
大塚が確認して、机の端に並べる。
次。
俺。
ポケットの中の学生証ケースが、急に重い。
指先が冷える。
――出さなきゃいけない。
でも出したら、そこに書いてある数字が見える。
俺の味方じゃない数字。
俺の手が、ポケットの中で止まった。
そのとき、梶山が言った。
「俺がまとめて出します」
さらっと。
最初からそう決めてたみたいに。
大塚が梶山を見る。
「本人確認」
「班の印刷物です。俺が管理します」
嘘じゃない範囲で、道を作る。
大塚は一拍だけ止まって、梶山の学生証を受け取った。
そして無表情で言う。
「機材触るの、指示通り。勝手に設定変えるな」
「はい」
梶山が即答。
俺は、やっと息ができた。
平野が小声で囁く。
「梶山、かっけえ……」
「平野、黙れ」
岩崎が笑いながら止める。
「今、雰囲気いいんだから」
「雰囲気って何!」
「雰囲気」
「祝嶺、顔白いけど大丈夫?」
岩崎が俺を見る。軽いトーン。目は真剣。
「……大丈夫」
言えた。
言えるくらいには、大丈夫だった。
印刷機が動き始めて、紙が吐き出される。
ポスターが一枚ずつ出てくるたび、平野がテンションを上げる。
「うわ、すげ! 岩崎のデザイン、神!」
「神って言うな」
岩崎が笑う。
「でも嬉しい」
「祝嶺のグラフも、めっちゃ見やすい!」
平野が叫ぶ。
「これ、購買の人見たら泣くぞ!」
「泣かない」
梶山が淡々と返す。
「でも刺さる」
刺さる。
その言葉が、俺の胸にも刺さる。
俺は出てくる紙を受け取って、角を揃える。
揃うと落ち着く。
落ち着くと、怖さが少し薄れる。
梶山が隣で言った。
「揃えるの、好きだな」
「……癖」
「いい癖」
それだけで、心臓が一回跳ねる。
優しいのに、軽い。
軽いのに、重い。
岩崎がわざと大きめの声で言う。
「はいはい、総合⑤班、良い感じ。尊い」
「尊いとか言うな」
梶山が即座に止める。
「声、落とせ」
「止めるの早いって」
岩崎が笑う。
平野が「声、落とせ出た!」と笑って、印刷室が一瞬だけ明るくなる。
大塚が無表情で言った。
「静かに。ここ、作業室」
「すみません!」
平野が即座に直立する。逆に面白い。
俺は笑いそうになって、喉の奥で止めた。
止めたのに、梶山の肩がほんの少し揺れた。
笑ってる。
その小ささが、妙に刺さって、胸がきゅっと縮む。
息の仕方を忘れる。
逃げる前に、もう捕まってる。
*
印刷が終わって、紙の束を抱えて教室へ戻る。
夕方の廊下は窓の光が斜めで、床に影が長い。
「やばい。文化祭、成功しそう」
平野が言う。
「俺、当日叫び倒す」
「叫び倒すな。声枯れる」
梶山が即ツッコミ。
「枯れたら枯れたでエモい」
「エモいって言うな」
岩崎が笑う。
教室に戻って、机の上にポスターを並べて確認する。
岩崎の色が映える。
俺のグラフが読みやすい。
梶山の動線が分かりやすい。
平野の呼び込み文言が、うるさい。
「これ、“絶対来て!”って書くのださくない?」
岩崎が指を指す。
「ださい?」
平野が目を丸くする。
「じゃあ、“来なきゃ損!”」
「損って言うな」
「じゃあ何!」
「“寄ってって!”」
「可愛い」
「可愛いとか言うな」
梶山がさらっと被せる。
「止めるの早いって」
岩崎が笑う。
「でも“寄ってって!”いいじゃん。祝嶺、どう思う?」
俺に振られる。
一瞬、逃げたい。
でも、逃げると余計に目立つ。
「……“寄ってって!”でいい」
言えた。
「祝嶺、意見言えた!」
平野が騒ぐ。
「成長!」
梶山が平野の額を指で軽く押した。
「言い方」
「え、なんで! 成長だろ!?」
岩崎が笑って助け舟を出す。
「“成長”じゃなくて、“助かった”でいいじゃん」
「助かった!」
平野が即座に言い直して、逆に満足そうに頷く。
梶山が、俺にだけ小声で言った。
「今の、よかった」
胸の奥がまた跳ねた。
跳ねたのが音にならないのが、いちばん助かる。
*
解散の流れになって、クラスメイトが当日運営の担当表を回している。
梶山がその場で、淡々と割り振る。
「装飾、四人。投票回収、二人。呼び込み、六人。会計補助、二人」
「おい、俺、呼び込みに入ってる!」
平野が笑う。
「適材適所!」
「適材適所って言うな」
「言いたい!」
「言うな」
「ひどっ!」
クラスが巻き込まれていく。
四人だけの企画じゃない。
クラスの企画になっていく。
――なのに、俺の中の怖さは消えない。
梶山が残って、掲示位置の確認のためにメジャーを出した。
メジャーが伸びる音。カチッと止まる音。
「祝嶺、残る?」
梶山が軽く聞いた。軽いのに意味が重い。
放課後の教室に二人。
それはもう、俺の中で“二人の時間”になってしまってる。
「……少しだけ」
俺は言った。
平野がニヤニヤする。
「はいはい。邪魔しませんよー」
「邪魔って言うな」
岩崎が笑う。
「でも祝嶺、ちゃんと帰れよ」
「……うん」
頷くと、岩崎が俺の机の端を指で叩いた。
「その“うん”、増えてる」
「……数えるな」
岩崎が笑って、平野の背中を押した。
「はいはい、撤収」
梶山がポスターを壁に当てて、位置を測る。
「ここ、目線」
「……うん」
「うん、で終わるなよ」
「……」
「冗談」
冗談みたいに言うのに、目線はまっすぐで逃げ道がない。
俺は目を逸らして、手元の紙を揃えた。
梶山が、ふっと言った。
「今日、助かった」
「……何が」
「印刷室。来てくれて」
来てくれて。
その言葉が胸を温かくする。
温かいのが怖い。
「……行くって言ったの、俺だし」
自分で言って、胸が痛い。こんな言い方、普段しない。
梶山が目を少しだけ細めた。
「そういうとこ」
「……何」
「好き」
反則。
俺は返せなくて、喉の奥が熱くなった。
梶山は追い詰めない。
追い詰めないのに、逃がさない。
その距離がいちばんずるい。
そして、梶山が言った。
「学生証」
短い二文字。
俺の指が止まる。
「今日、俺のだけで通ったけど」
「次、備品借りるときは全員分いるって大塚さん言ってた」
次。
全員分。
いる。
喉が乾く。
秋のはずの空気が、急に熱く感じる。
「……そう」
それだけがやっと出た。
梶山が声を落とす。
「無理なら、俺が言う」
また許可。救い。
でも、その救いは“今だけ”だ。
印刷室が近づくほど、逃げ道は減る。
文化祭が近づくほど、紙は増える。
紙が増えるほど、学生証が必要になる。
秘密の匂いが濃くなる。
俺はカバンの持ち手を握って言った。
「……大丈夫」
大丈夫じゃないのに。
梶山は一拍だけ止まって、頷いた。
「明日も、いつも通りでいい」
当たり前みたいに。
その当たり前が嬉しくて、嬉しいのが怖い。
*
家に帰って、学生証を机の端に置く。
裏返す。見ない。見せない。
でも今日は、裏返しても落ち着かない。
“次”が机の上にいる。
スマホが震える。
クラスの文化祭グループができていた。
通知が、止まらない。
平野:『購買プロデュース、優勝確定!!!!』
誰か:『装飾担当、段ボール足りる?』
誰か:『呼び込みのセリフ案出して』
岩崎:『ポスター修正した。確認して』
梶山:『明日、備品申請も行く。忘れ物するな』
最後の一文だけが、俺の胸に落ちた。
忘れ物するな。
――忘れたくないわけじゃない。
見せたくない。
俺は入力欄を見て、指が止まる。
返したら残る。
残るのが怖い。
それでも、短く打った。
『わかってる』
送信。既読。
すぐ返る。
『わかってる、で終わるなよ』
胸が跳ねて、悔しいのに、笑ってしまいそうになる。
笑ったら明日の怖さが薄れる気がして、笑えない。
文化祭は、たぶん成功する。
クラスの空気は、ちゃんと明るい。
俺たち四人の形も、できてる。
この二人を、ずっと見守っていたい――って、言われるような日々に、少しずつ近づいてる。
なのに。
印刷室が近づくほど、俺の秘密も近づいてくる。
裏返した学生証の角が、机の上で小さく光っていた。
――次は、それを表に出す。
そう思っただけで、喉の奥が痛くなる。
でも、梶山の「明日も隣」が、耳に残ったままだった。
隣が続くなら。
続いてほしいなら。
俺は、明日も“同級生”の顔をして、学生証を握る。
紙の匂いのする方へ。
印刷室までの距離が、昨日より短い。
制服の袖口から入り込む空気が、九月より少しだけ冷たい。
――冷たいのに、教室は暑い。
「文化祭ってさ、準備の時期がいちばん地獄じゃない?」
平野が机に突っ伏して言った。
「地獄って言うな。まだ始まってもない」
岩崎が笑いながら、髪を指でくるっと巻く。
「でも分かる。段ボールとガムテの匂いがすると、だいたい終わる」
「終わらないで」
平野が泣く真似をする。
「俺、今しかない空気を浴びたいんだよ。文化祭で!」
「浴びるな」
左隣の梶山が、さらっと止めた。
「止めるの早いって」
岩崎が即ツッコむ。
「保護者〜」
「保護者じゃねえ」
「じゃあ何」
梶山は一拍だけ置いて、面倒くさそうに言った。
「……止める役」
平野が腹を抱えて笑った。
「役って何だよ! 便利すぎ! 梶山、俺の口にチャック付けられるじゃん!」
「付けない」
「付けてるって。さっきからずっと」
「お前が勝手に開けてるだけ」
岩崎が肩を揺らして笑う。
「梶山、言い方が優しいのに容赦ない」
「褒めてないだろ、それ」
「褒めてる。たぶん」
また笑いが起きた。
俺は笑いそうになって、机の端を指で押さえた。
笑うと、何かが増える気がして、怖い。
でも最近、その“増える”が全部怖いわけじゃなくなってる。
それがいちばん怖い。
ホームルームのチャイム。
担任の井上が教壇に立った。
「連絡。文化祭、来月頭。クラス企画、今週中に決める」
短い。
黒板に、項目だけ書く。
・企画内容
・担当(会計/広報/制作/当日運営)
・提出物(企画書/掲示物案)
・印刷室使用予定(要申請)
「はい。案、出せ」
終わりじゃない。
珍しく“投げてくる”タイプの短さだ。
教室がざわつく。
前の方で誰かが言った。
「定番の喫茶でよくない?」
「お化け屋敷!」
「映えスポット!」
「鉄道クラスなんだから、駅っぽくしようぜ!」
案が飛び交う。
みんなの声が、秋の冷たさを押し返すみたいに熱い。
俺はその熱の端っこで、呼吸を薄くした。
薄くしておけば、目立たない。
目立たなければ、余計なものが増えない。
――増えない方が、いい。
ずっとそう思ってきたのに。
井上が黒板の横で腕を組んで言った。
「総合の課題、覚えてるな。あれ、活かしていい。むしろ活かせ」
その一言で、空気が変わった。
ざわざわの方向が、俺たち四人に寄る。
「え、総合⑤班のやつ?」
誰かが言って、平野が勢いよく顔を上げた。
「え、俺たち有名人? ついに?」
「有名人って言うな」
梶山が止める。
「言いたい!」
「言うな」
「ひどっ!」
岩崎が肘をついて、軽く笑ったまま教室の方を向く。
軽いのに、目がちゃんと全員を拾ってる。
「うち、購買の売上改善やってたじゃん。データもあるし、企画書もある」
「それ文化祭にしたら、準備が早い」
梶山が短く足す。
「購買って、あのパンのとこ?」
「そうそう。並ぶやつ」
「え、でも文化祭でパン売れるの?」
「売れないなら“展示”でもいいじゃん」
「でも地味じゃない?」
「地味じゃないようにするのが、うちらの仕事でしょ」
岩崎が、さらっと言い切る。
その“うちら”に、俺も含まれてる気がして、胸が一回跳ねた。
平野が勢いで手を挙げた。
「俺、当日呼び込みやる! 購買をテーマにするなら、声の力が必要!」
「声の力って言うな」
梶山が止める。
「声の力だろ!」
「うるさいだけ」
「うるさくない!」
「うるさい」
「ひどっ!」
教室が笑う。
笑いの中に、俺がいる。
岩崎が黒板に近い席の男子に声をかけた。
「喫茶案の人。喫茶って“何を売る”予定?」
「え、飲み物と…クッキー?」
「材料費と衛生管理、誰がやる?」
「……」
「当日運営、クラス全員巻き込める?」
「……巻き込める、と思う」
岩崎の言葉は柔らかいのに、刺さるところだけ刺す。
相手を潰さない。
でも逃げ道だけ塞ぐ。
梶山が黒板の「担当」を指でトンと叩いた。
「購買プロデュースなら、役割が多い。全員入れる」
「運営、装飾、呼び込み、会計補助、投票回収、案内、展示説明」
「展示説明って何?」
「購買の“改善案”を見せる」
「え、ちょっと面白そう」
クラスの前の方で、別の男子が言った。
「駅っぽくするの、好きなんだけど。購買って、駅みたいにできる?」
平野が即答する。
「できる! 並ぶの、ホームだし!」
「ホームって言うな」
梶山が止める。
「駅じゃない」
「でもさ、動線作るの梶山得意じゃん」
「得意」
「自分で言うの腹立つ」
「うるさい」
笑いがまた起きる。
教室の熱が、ひとつの方向にまとまっていく。
井上が言った。
「じゃあ、決める。案、二つに絞れ」
黒板に残ったのは、最終的に二案。
「喫茶」
「購買プロデュース(展示+投票+当日企画)」
「拍手で決める」
井上はそう言って、まず喫茶を指した。
ぱらぱら。
次に購買を指した瞬間、拍手が増えた。
平野が煽って、岩崎が笑って、梶山が「うるさい」で締める。
「……購買。決定」
井上が淡々と結論を置く。
「担当、今決めろ。以上」
以上。
やっぱり話が早い。
でも、今日はその早さが助かった。
迷う間に、怖くなる前に、決まったから。
*
放課後。
人が減った教室は急に広い。
広いのに、空気だけ妙に近い。
井上は教壇の上でプリントを配った。
企画書テンプレ。提出期限。印刷室申請書。
「購買プロデュースは“班”で動け。クラスは大枠。細部は班で作って持ってこい」
「班は……総合課題の班を基準にする。揉めないため。以上」
平野が小声で言った。
「はい決まり。俺ら四人、逃げ道なし」
岩崎が笑う。
「揉めないため、って先生が言うと強いよね」
梶山はプリントの端を揃えただけで、何も言わなかった。
俺も黙って紙を受け取った。
“理由”があると、断りづらい。。
「じゃ、総合⑤班は中核な」
井上が俺たちの方を見て言う。
「お前らが軸。ほかは当日運営と装飾で回す。以上」
以上で終わる。
終わったのに、平野が勝手に仕切り始めた。
「はい! 総合⑤班、集合! 俺たち、文化祭の主役!」
「主役って言うな」
梶山が止める。
「言いたい!」
「言うな」
「ひどっ!」
岩崎が指を折る。
「まず、当日の形を決める。購買そのまま再現は無理だから、展示と投票を軸にする」
「人気パン総選挙。投票で人を回す」
「それ、俺叫ぶやつ」
平野が張り切る。
「『一票入れてくださーい!』って」
「声量、印刷物が逃げる」
岩崎が笑う。
「逃げねえし!」
「逃げる」
「逃げない!」
「はい、落ち着け」
梶山が軽く切った。
梶山はノートを開いて、淡々と書き始めた。
「動線」
「入口、投票、展示、写真スポット、出口」
「写真スポット?」
平野が聞く。
「クラス全員が入れる場所作る。そこで当日運営」
梶山が言う。
「並びたくなる仕掛けが必要」
“並びたくなる”。
その言葉が、少しだけ嬉しかった。
俺のデータが、ただの数字じゃなく“人の動き”に変わっていく感じがする。
岩崎が俺を見る。
逃げ道を塞がない目線。
「祝嶺、データ係。アンケ結果、展示用にまとめて。グラフ、見やすいやつ」
「……」
「“無理”って言ってもいいよ?」
軽い声。なのに真ん中を突く。
俺は“無理”って言うのが怖い。
無理って言うと、理由を聞かれる。
理由は言えない。
「……できる」
小さく言った。
平野が即座に騒ぐ。
「祝嶺が“できる”言った!」
「事件!」
「事件って言うな」
梶山が言って――そのまま平野を見た。
平野が一拍で口を閉じる。
「……はい」
岩崎が笑った。
「素直」
岩崎が笑って、梶山が小さく息を吐いた。
その息が、なぜか嬉しい。
梶山が俺の方を見ないまま言う。
「文章、祝嶺」
「展示の説明、短く。読みやすく」
「……うん」
“うん”が出た。
出たことに自分で驚いて、ペンを揃えた。
揃えると、心が息をする。
そのとき、井上のプリントの太字が目に入った。
『印刷室使用時は学生証を提示。備品貸出も同様。』
学生証。
文字が目に入った瞬間、胃がきゅっと縮む。
指先が冷える。
「学生証、忘れたら終わりじゃん」
平野が何も知らずに笑った。
「俺、絶対忘れる自信ある」
「自信持つな」
岩崎が笑う。
「大塚さんに無表情で追い返されるよ」
「追い返されるのやだ!」
「やだって言うな」
梶山が止める。
「忘れなきゃいい」
忘れなきゃいい。
簡単みたいに言う。
――俺は、忘れたくないんじゃない。
“見せたくない”。
笑えないのがバレないように、俺は机の中を整え直した。
整えると、心が息をする。
……息をしたい。
印刷室は、息ができない場所だ。
*
そこから一週間。
文化祭の準備は、毎日少しずつ教室に積もっていく。
段ボール。模造紙。カラーペン。ガムテ。
机の上が制作室みたいになる。
「平野、それ“寄ってって!”の文字、でかすぎ」
岩崎が笑う。
「でかいのが正義!」
「正義って言うな」
梶山が止める。
「言いたい!」
「言うな」
「ひどっ!」
俺はアンケートをまとめて、グラフを作って、短い文章に削る。
削るのが、意外と楽しい。
言い切ると、迷いが減る。
岩崎が俺のスマホ画面を覗き込んだ。
距離が近い。
「祝嶺、ここ“売り切れが多い”より、“午後に消える”の方が刺さる」
「……午後に消える」
「うん。可愛い」
「可愛くない」
俺が言う前に、梶山が言った。
「好きとか言うな」
軽いトーン。冗談みたい。
でも止める速度が早い。
「え、嫉妬?」
岩崎が笑って、平野が「うおー!」と騒ぐ。
「ちげえ」
梶山が短く返す。
俺は笑いそうになって、喉の奥で止めた。
止めたのに、梶山の口元が少しだけ上がった。
それが、ずるい。
俺のデータは形になっていった。
「並ぶのが嫌」が多い。
「売り切れが多い」。
「新商品が分かりにくい」。
その結果を、文化祭の企画に落とし込む。
「だから、投票形式にする」
岩崎が言う。
「人気パン総選挙で、人を流す。並ぶのもイベント化」
「イベント化って便利な言葉」
平野が言う。
「全部イベントにすればいい」
「釣り銭が死ぬ」
梶山が即答。
「死ぬって言うな」
「死ぬ」
「死ぬ」
「うるさい」
梶山がノートに動線を書いて、机の上に置いた。
「入口ここ。投票ここ。展示ここ。写真ここ。出口ここ」
「……分かりやすい」
俺が言うと、梶山が小さく頷いた。
「祝嶺の文章も、分かりやすい」
反射で「別に」が出そうになって、飲み込む。
「……ありがと」
言い直した。
梶山が一瞬、目を細めた。
それだけで胸が跳ねる。
人を好きになる瞬間って、こういうのが積み重なる。
派手じゃないのに、逃げられない。
*
準備が進むほど、印刷物が増える。
ポスター。POP。投票用紙。展示パネル。値札。案内。
紙が増える。
紙が増えるほど、印刷室が近づく。
「印刷室、いつ行く?」
平野が気軽に言った。
その一言で、心臓が跳ねる。
跳ねるのが恥ずかしくて、俺はわざとシャーペンを持ち替えた。
「明日。放課後」
梶山が淡々と言う。
「申請、通した」
「梶山、仕事早」
岩崎が拍手する。
「さすが段取り男」
「段取り男って言うな」
「言いたい〜」
平野が笑う。
平野が俺を見る。
「祝嶺も来るよな? 展示の文章、祝嶺のやつだし」
軽い。軽いのに刺さる。
「……行く」
俺は言ってしまった。
言ってしまった自分が怖い。
でも、行かない理由を作る方がもっと怖い。
岩崎が微笑む。
「じゃ、四人で印刷室デビューだ」
「デビューって言うな」
「デビューだよ。大塚さんに認められたら大人」
「認められたくない」
「認められたいだろ」
平野が笑う。
「祝嶺、意外と褒められたいタイプ」
俺は「違う」と言いかけて、止めた。
違わない気がしたから。
梶山が、俺にだけ聞こえる声で言った。
「無理なら、俺が行く」
いつもの許可。救い。
でも今回は、救われたくない。
救われると、もっと好きになる。
「……大丈夫」
俺は言った。
大丈夫じゃないのに。
梶山は頷いた。
「じゃあ、俺が隣」
さらっと。
当たり前みたいに。
胸の奥が、変に熱くなった。
*
翌日、放課後。
印刷室へ向かう廊下は、いつもより長く感じた。
「緊張する〜」
平野がわざとらしく肩をすくめる。
「俺、大塚さんに怒られたら泣く」
「泣くな」
岩崎が笑う。
「泣いたら大塚さん、無表情のままティッシュ出してくれそう」
「それ、逆に怖い」
「怖くない」
「怖い」
「大塚さん、呼ぶぞ」
梶山が真顔で言った。
俺は会話に混ざれない。
混ざれないのが目立たないように、歩幅だけ合わせる。
梶山が小声で言った。
「呼吸、浅い」
「……してない」
「してる」
「……」
「深く」
命令みたいなのに、優しい。
俺は言われた通り、息を吸った。
扉を開けると、紙の匂いと機械の音。
そして、無表情。
「……用件」
大塚がカウンターの向こうで言った。
「文化祭の印刷です。申請済み」
梶山が言う。声が落ち着いてる。
「申請書」
大塚が手を出す。
梶山が紙を出す。
大塚が目を落として、すぐ言う。
「学生証」
短い。逃げ道がない。
平野が元気よく学生証を出した。
「はい! 俺、平野!」
「名前、言わなくていい」
大塚が無表情で返す。
岩崎も出す。
「はい。岩崎」
「……」
大塚が確認して、机の端に並べる。
次。
俺。
ポケットの中の学生証ケースが、急に重い。
指先が冷える。
――出さなきゃいけない。
でも出したら、そこに書いてある数字が見える。
俺の味方じゃない数字。
俺の手が、ポケットの中で止まった。
そのとき、梶山が言った。
「俺がまとめて出します」
さらっと。
最初からそう決めてたみたいに。
大塚が梶山を見る。
「本人確認」
「班の印刷物です。俺が管理します」
嘘じゃない範囲で、道を作る。
大塚は一拍だけ止まって、梶山の学生証を受け取った。
そして無表情で言う。
「機材触るの、指示通り。勝手に設定変えるな」
「はい」
梶山が即答。
俺は、やっと息ができた。
平野が小声で囁く。
「梶山、かっけえ……」
「平野、黙れ」
岩崎が笑いながら止める。
「今、雰囲気いいんだから」
「雰囲気って何!」
「雰囲気」
「祝嶺、顔白いけど大丈夫?」
岩崎が俺を見る。軽いトーン。目は真剣。
「……大丈夫」
言えた。
言えるくらいには、大丈夫だった。
印刷機が動き始めて、紙が吐き出される。
ポスターが一枚ずつ出てくるたび、平野がテンションを上げる。
「うわ、すげ! 岩崎のデザイン、神!」
「神って言うな」
岩崎が笑う。
「でも嬉しい」
「祝嶺のグラフも、めっちゃ見やすい!」
平野が叫ぶ。
「これ、購買の人見たら泣くぞ!」
「泣かない」
梶山が淡々と返す。
「でも刺さる」
刺さる。
その言葉が、俺の胸にも刺さる。
俺は出てくる紙を受け取って、角を揃える。
揃うと落ち着く。
落ち着くと、怖さが少し薄れる。
梶山が隣で言った。
「揃えるの、好きだな」
「……癖」
「いい癖」
それだけで、心臓が一回跳ねる。
優しいのに、軽い。
軽いのに、重い。
岩崎がわざと大きめの声で言う。
「はいはい、総合⑤班、良い感じ。尊い」
「尊いとか言うな」
梶山が即座に止める。
「声、落とせ」
「止めるの早いって」
岩崎が笑う。
平野が「声、落とせ出た!」と笑って、印刷室が一瞬だけ明るくなる。
大塚が無表情で言った。
「静かに。ここ、作業室」
「すみません!」
平野が即座に直立する。逆に面白い。
俺は笑いそうになって、喉の奥で止めた。
止めたのに、梶山の肩がほんの少し揺れた。
笑ってる。
その小ささが、妙に刺さって、胸がきゅっと縮む。
息の仕方を忘れる。
逃げる前に、もう捕まってる。
*
印刷が終わって、紙の束を抱えて教室へ戻る。
夕方の廊下は窓の光が斜めで、床に影が長い。
「やばい。文化祭、成功しそう」
平野が言う。
「俺、当日叫び倒す」
「叫び倒すな。声枯れる」
梶山が即ツッコミ。
「枯れたら枯れたでエモい」
「エモいって言うな」
岩崎が笑う。
教室に戻って、机の上にポスターを並べて確認する。
岩崎の色が映える。
俺のグラフが読みやすい。
梶山の動線が分かりやすい。
平野の呼び込み文言が、うるさい。
「これ、“絶対来て!”って書くのださくない?」
岩崎が指を指す。
「ださい?」
平野が目を丸くする。
「じゃあ、“来なきゃ損!”」
「損って言うな」
「じゃあ何!」
「“寄ってって!”」
「可愛い」
「可愛いとか言うな」
梶山がさらっと被せる。
「止めるの早いって」
岩崎が笑う。
「でも“寄ってって!”いいじゃん。祝嶺、どう思う?」
俺に振られる。
一瞬、逃げたい。
でも、逃げると余計に目立つ。
「……“寄ってって!”でいい」
言えた。
「祝嶺、意見言えた!」
平野が騒ぐ。
「成長!」
梶山が平野の額を指で軽く押した。
「言い方」
「え、なんで! 成長だろ!?」
岩崎が笑って助け舟を出す。
「“成長”じゃなくて、“助かった”でいいじゃん」
「助かった!」
平野が即座に言い直して、逆に満足そうに頷く。
梶山が、俺にだけ小声で言った。
「今の、よかった」
胸の奥がまた跳ねた。
跳ねたのが音にならないのが、いちばん助かる。
*
解散の流れになって、クラスメイトが当日運営の担当表を回している。
梶山がその場で、淡々と割り振る。
「装飾、四人。投票回収、二人。呼び込み、六人。会計補助、二人」
「おい、俺、呼び込みに入ってる!」
平野が笑う。
「適材適所!」
「適材適所って言うな」
「言いたい!」
「言うな」
「ひどっ!」
クラスが巻き込まれていく。
四人だけの企画じゃない。
クラスの企画になっていく。
――なのに、俺の中の怖さは消えない。
梶山が残って、掲示位置の確認のためにメジャーを出した。
メジャーが伸びる音。カチッと止まる音。
「祝嶺、残る?」
梶山が軽く聞いた。軽いのに意味が重い。
放課後の教室に二人。
それはもう、俺の中で“二人の時間”になってしまってる。
「……少しだけ」
俺は言った。
平野がニヤニヤする。
「はいはい。邪魔しませんよー」
「邪魔って言うな」
岩崎が笑う。
「でも祝嶺、ちゃんと帰れよ」
「……うん」
頷くと、岩崎が俺の机の端を指で叩いた。
「その“うん”、増えてる」
「……数えるな」
岩崎が笑って、平野の背中を押した。
「はいはい、撤収」
梶山がポスターを壁に当てて、位置を測る。
「ここ、目線」
「……うん」
「うん、で終わるなよ」
「……」
「冗談」
冗談みたいに言うのに、目線はまっすぐで逃げ道がない。
俺は目を逸らして、手元の紙を揃えた。
梶山が、ふっと言った。
「今日、助かった」
「……何が」
「印刷室。来てくれて」
来てくれて。
その言葉が胸を温かくする。
温かいのが怖い。
「……行くって言ったの、俺だし」
自分で言って、胸が痛い。こんな言い方、普段しない。
梶山が目を少しだけ細めた。
「そういうとこ」
「……何」
「好き」
反則。
俺は返せなくて、喉の奥が熱くなった。
梶山は追い詰めない。
追い詰めないのに、逃がさない。
その距離がいちばんずるい。
そして、梶山が言った。
「学生証」
短い二文字。
俺の指が止まる。
「今日、俺のだけで通ったけど」
「次、備品借りるときは全員分いるって大塚さん言ってた」
次。
全員分。
いる。
喉が乾く。
秋のはずの空気が、急に熱く感じる。
「……そう」
それだけがやっと出た。
梶山が声を落とす。
「無理なら、俺が言う」
また許可。救い。
でも、その救いは“今だけ”だ。
印刷室が近づくほど、逃げ道は減る。
文化祭が近づくほど、紙は増える。
紙が増えるほど、学生証が必要になる。
秘密の匂いが濃くなる。
俺はカバンの持ち手を握って言った。
「……大丈夫」
大丈夫じゃないのに。
梶山は一拍だけ止まって、頷いた。
「明日も、いつも通りでいい」
当たり前みたいに。
その当たり前が嬉しくて、嬉しいのが怖い。
*
家に帰って、学生証を机の端に置く。
裏返す。見ない。見せない。
でも今日は、裏返しても落ち着かない。
“次”が机の上にいる。
スマホが震える。
クラスの文化祭グループができていた。
通知が、止まらない。
平野:『購買プロデュース、優勝確定!!!!』
誰か:『装飾担当、段ボール足りる?』
誰か:『呼び込みのセリフ案出して』
岩崎:『ポスター修正した。確認して』
梶山:『明日、備品申請も行く。忘れ物するな』
最後の一文だけが、俺の胸に落ちた。
忘れ物するな。
――忘れたくないわけじゃない。
見せたくない。
俺は入力欄を見て、指が止まる。
返したら残る。
残るのが怖い。
それでも、短く打った。
『わかってる』
送信。既読。
すぐ返る。
『わかってる、で終わるなよ』
胸が跳ねて、悔しいのに、笑ってしまいそうになる。
笑ったら明日の怖さが薄れる気がして、笑えない。
文化祭は、たぶん成功する。
クラスの空気は、ちゃんと明るい。
俺たち四人の形も、できてる。
この二人を、ずっと見守っていたい――って、言われるような日々に、少しずつ近づいてる。
なのに。
印刷室が近づくほど、俺の秘密も近づいてくる。
裏返した学生証の角が、机の上で小さく光っていた。
――次は、それを表に出す。
そう思っただけで、喉の奥が痛くなる。
でも、梶山の「明日も隣」が、耳に残ったままだった。
隣が続くなら。
続いてほしいなら。
俺は、明日も“同級生”の顔をして、学生証を握る。
紙の匂いのする方へ。
印刷室までの距離が、昨日より短い。
