一歳上、同級生。

夏休みが終わって、教室の椅子の硬さが戻ってきた。
あの夜の「それなら、いい」は、スマホの履歴より先に胸に残ってる。
会ってない日が続いた分だけ、隣に座るのが怖くて——でも、座れた

九月の教室は、まだ夏の名残が居座ってる。
窓を開けても風がぬるくて、シャツが背中に貼りつく。

「暑すぎ。体育祭ってさ、どう考えてもこの暑さで体育祭ってバグってんだろ」
平野が机に突っ伏して呻いた。

「バグってるのは平野の体力配分」
岩崎が涼しい顔で言う。

「配分できるほど体力ねえ!」
「じゃあせめて声量だけ配分して」
「声は無限!」

くだらないのに、教室が少しだけ笑う。
夏休み明けの空気が、やっと“いつも”に戻っていく。

「祝嶺」
平野が顔だけ上げて、俺を指差した。

「今日、“普通”って言ったら罰な。ちゃんと『暑い』って言え」

「……暑い」

「出た! 祝嶺が感情を出した!」

「うるさい」

言った直後に気づく。
俺、最近「うるさい」を覚えてしまった。
前は、飲み込んでたのに。

左隣の梶山が、ノートを閉じながら小さく息を吐く。
笑った、というより——ほどけた、みたいな顔。
それが俺の胸にだけ引っかかって、目を逸らせなくなる。


 ホームルームのチャイムが鳴って、担任の井上が教壇に立った。

「連絡。体育祭、来月。係決める」

 短い。
 黒板に項目だけ書く。
 用具、招集、放送、記録、救護、応援。

「放送、四人。やるやつ」

 井上が言って、間もなく平野が手を挙げた。

「はい! 俺、声でかいです!」

「自覚あんの、偉い」
 岩崎が拍手する。

「放送、平野」
 井上が即決。

 岩崎も手を挙げる。

「私も。放送。体育祭って、言葉が大事だから」

「言葉が大事って何」
 平野が笑う。

「ポエマー?」

「うるさい。次言ったらマイクで殺す」

「怖っ」

「放送、岩崎」
 井上が即決。

 残り二人。
 教室がざわつく。
 誰もやりたがらないのが、顔に書いてある。

 梶山が、ほんの一拍遅れて手を挙げた。
 迷いがないふりをしてるけど、あれは“空気を読んでる”やつだ。

「放送、やります」

「放送、梶山」
 井上も迷わない。

 残り一人。
 嫌な予感が、背中から這い上がってくる。
 俺は机の中のペンの位置を揃えた。
 揃えたら、逃げられる気がした。

「祝嶺」
 井上が名前を呼ぶ。
 音が短くて、逃げ道がない。

「お前、記録得意だろ。放送の原稿、確認係やれ」

「……え」

「え、じゃない。以上。決定」

 以上。
 終わり。

 平野が後ろからすぐ囁いてくる。

「祝嶺、放送係じゃん! やば、名コンビ!」

「名コンビって言うな」

「言いたい」

「うるさい」

 岩崎が机をくるっと回して、口元を押さえた。

「ねぇ祝嶺。放送室で四人とか、距離近すぎて、尊い」

「尊いとか言うな」

 俺が言う前に、梶山が被せた。
 止める速度が早い。
 その“早さ”が、俺の胸を勝手に温める。

「梶山、また祝嶺守った」
 岩崎が楽しそうに言う。

「保護者〜」

「保護者じゃねえ」

「じゃあ何」

「……係」

「係って何」
 平野が爆笑した。

「梶山、言葉選びミスってる!」

 梶山は俺を見ない。
 見ないのに、机の端を軽く叩いて合図した。
 “逃げんな”みたいな、無言のやつ。

 俺は「別に」と返しかけてやめた。
 最近、その盾が薄くなってるのが自分で分かる。
 分かるのが怖い。


 放課後。
 四人で放送室に向かう。

 廊下の窓から見える校庭は、体育祭のラインを引く白い粉がまだ薄く残っていた。
 部活の声が混ざって、学校が少しだけ“イベントの顔”になる。

「放送室ってさ、秘密基地感あるよな」
 平野が先頭で歩きながら言う。

「秘密基地っていうより、冷房が効いてる神の部屋」
 岩崎が即答。
「私、そこだけ好き」

「本音」
 平野が笑う。

 梶山が淡々と言った。

「放送、やること多い。原稿、進行、曲、機材」

「曲?」
 平野が目を丸くする。
「体育祭で曲流すの? 盛り上げるやつ?」

「盛り上げる」
 梶山が頷く。
「入場、競技、表彰。タイミング大事」

 タイミング大事。
 梶山のそういうところは、いつ見ても“らしい”。

「梶山、絶対向いてる」
 岩崎が言う。
「段取り男」

「段取り男って、悪口?」
 平野が聞く。
「褒めてる?」

「褒めてる。祝嶺のことも褒めてる」
 岩崎がさらっと言って、俺を見る。
「祝嶺は、言葉を拾う男」

「拾ってない」

「拾ってる。私の“尊い”に反応した」

「してない」

「してた」

 岩崎の“してた”は、いつも当たる。
 当たるから、怖い。

 放送室の扉を開けると、空気が一段冷えた。
 機械の匂い。
 ケーブル。
 マイクが何本も並んでる。

「うわ、テンション上がる!」
 平野が真っ先にマイクを握りそうになる。

「触るな。落とすな」
 梶山が短く止めた。

「え、厳しい」

「壊すから」

「壊さないって!」

 奥から、眠そうな声が落ちた。

「……お前ら、放送係?」

 机に肘をついたまま、浅野が見上げている。
 鉄研顧問の浅野。眠そう、の人。

「はい」
 梶山が即答する。

「……体育祭は、うるさい」
 浅野がぼそっと言った。
「でも、機材はちゃんと扱え。落とすと死ぬ」

「死ぬって言うな」
 岩崎が笑う。
「でも分かりました、先生」

「先生って言うな……」
 浅野が眠そうに目を細めた。
「まぁいい。今日は説明だけ」

 説明が始まる。
 ケーブルの名前。
 スイッチの位置。
 音量のつまみ。
 “赤いボタンは押すな”。

「押したらどうなるんですか?」
 平野が聞く。

「……事故る」
 浅野が言う。
「校内放送、全部に流れる」

「やば。全校に俺の声流したい」

「やめろ」
 梶山が即答。

 俺は机の上に置かれた原稿の束を見た。
 紙。
 紙は残る。
 残るものが増えると、俺は嫌になるはずなのに。

 この束は、体育祭のための言葉だ。
 みんなが同じ方向を向くための言葉。
 そう思ったら、少しだけ胸が軽くなった。

 浅野が言った。

「原稿は、ここで作る。読み手と確認役、決めろ」

 梶山が即座に平野を指す。

「読み手、平野」

「おっけ! 俺、声でかい!」

「でかいだけじゃなく、聞き取りやすくしろ」

「注文多っ」

 岩崎が手を挙げる。

「私はアナウンスも読む。噛まない」

「自信」
 平野が拍手する。

 梶山が俺を見る。
 目がまっすぐで、逃げ道がない。

「祝嶺は、原稿チェック」

「……」

「嫌?」
 梶山が小声で聞く。

 嫌じゃない。
 嫌じゃないって言うと、残る。
 残るのが怖い。

「……別に」
 俺は結局、盾を出した。

 梶山は責めない。
 でも、口元だけ少しだけ上がった。

「別に、でいい」
 そして続ける。
「でも、頼る」

 頼る。
 その言葉が、俺の胸の奥に落ちた。
 落ちたのに、痛くない。
 温かい。

 浅野が眠そうに頷いた。

「……決まり。今日は触らせる。赤いボタン押すな」

「押さない押さない」
 平野が両手を挙げて笑う。

 岩崎が俺の肩に軽く触れて囁いた。

「祝嶺、こういうとき“いる”の、すごくいい」

「……いる」

「いる。ちゃんと」

 俺は返事ができなくて、原稿の束を整えた。
 整えると、心が息をする。
 でも今日は、その息が少しだけ深い。


 体育祭の準備期間は、日常の中に小さな非日常が混ざる。
 授業の後に、競技の練習。
 昼休みに、応援の打ち合わせ。
 放課後に、放送室。

 放送室は涼しくて、機械の音が一定で、外の騒がしさが少し遠い。
 そこが、俺は嫌いじゃないと思った。

「はい、テスト。平野、読め」
 梶山が原稿を平野に渡す。

「えーと、“次は二年――”」
 平野が読み始めた瞬間、噛んだ。
「……に、にねん、にねんいち――」

「噛んだ」
 岩崎が即判定。

「噛んだ」
 梶山も即判定。

「噛んでない!」

「噛んだ」

「噛んでないって!」

「噛んだ」
 梶山の声が淡々すぎて、余計に腹立つ。

 平野が机に突っ伏した。

「無理。俺、才能ない」

「あるよ」
 岩崎が即答。
「噛んだときの顔が面白い」

「それ才能じゃない」
 平野が泣く真似をする。

 俺は原稿を見て、赤ペンでチェックを入れた。
 読みやすいように、区切りに斜線。
 息継ぎの位置に小さな点。

 梶山がそれを見て言った。

「助かる」

「……別に」

「別にって言うとこ含めて、助かる」

 短い往復。
 “含めて”が胸に残って、心臓が一回だけ跳ねた。

 岩崎がにやにやして言った。

「祝嶺、そういうの弱いよね。“助かる”って言われるやつ」

「弱くない」

「弱い」

 梶山が、俺にだけ聞こえる声で言った。

「……それ、俺だけでいい」

 胸の奥が、もう一回だけ鳴った。

 何が。
 感情が。
 そう言われた気がして、俺は原稿をめくる手が少しだけ遅れた。

 “見られる”って、残る。
 だから怖い。
 怖いのに、梶山にだけは、逃げる理由が見つからない。

 体育祭の係仕事には、紙がつきものだった。
 進行表。タイムテーブル。競技順。
 印刷。配布。

 その日、浅野が原稿の束を指で叩いて言った。

「……これ、印刷。明日まで」
 眠そうなまま、さらっと地獄を落とす。

「明日!? 話が早すぎ!」
 平野が叫ぶ。

「話が早いのが、学校」
 岩崎が笑う。

「印刷、俺がやる」
 梶山が言った。

 俺の喉が乾く。
 印刷、って言葉の先にある場所が浮かぶ。
 印刷室。大塚。学生証。
 “次回。両名、学生証”。

 梶山が俺を見て、言葉を選ぶみたいに一拍置いた。

「祝嶺は、データだけ送って」
 短い。
 でも、“来なくていい”の優しさが混じってる。

「……分かった」
 俺は頷いた。
 頷けた自分が、悔しいのに救われる。

 平野がすぐ口を挟む。

「え、梶山だけ行くの? 俺も行く! 印刷室、怖い人いるんだろ」

「怖い人って言うな」
 岩崎が笑う。
「無表情が怖いだけ」

「無表情、怖いだろ!」
 平野が真剣。

 梶山が淡々と結論を言った。

「平野は残って練習。読むの」

「え、鬼」

「鬼じゃない」

「鬼だろ」

「話が早いだけ」

 岩崎が腹を抱えて笑った。

「梶山、井上化してる」

「してない」

「してる。語尾が“以上”になりそう」

「以上」

 梶山が真顔で言って、平野が吹き出した。

 俺も少しだけ笑いそうになって、喉の奥で止めた。
 止めたのに、梶山の目が一瞬だけ柔らかくなった。

 ……笑っていい、って言われたみたいで。
 胸がむず痒い。


 体育祭当日の朝は、学校が別の場所みたいだった。
 校庭にはテント。スピーカー。入場門。
 みんなの声が、いつもより少しだけ高い。

「おい祝嶺、ハチマキどっち巻くんだっけ?」
 平野が赤いハチマキをぶら下げて、目を泳がせてる。

「知らない」
 俺が即答すると、岩崎が「冷た」と笑った。

「祝嶺、巻けないんだよ」
 平野が俺を指す。
「見ろよ、こいつ。結び目とか無理なんだって」

「言うな」

「だって、今そうなってる」

「うるさい」

 梶山が俺の横に立って、ハチマキを取った。

「祝嶺、こっち」

「……」

「動くな」

 短い命令みたいな言い方。
 でも、嫌じゃない。

 梶山の指が、俺の後頭部で布を引く。
 髪に触れないように、触れるように。
 息が、勝手に浅くなる。

「きつい?」
 梶山が小声で聞く。

「……平気」

「平気って言うとき、平気じゃない」

「……」

「苦しいなら言え」

 言えない。
 言いたくない。
 でも、言ってもいい気がしてしまうのが怖い。

「……ちょい、きつい」
 俺が言った瞬間、自分で驚いた。
 ちゃんと言えた。

 梶山はすぐ結び目を少し緩める。
 手際が良い。
 そして、俺の耳元に小さく言った。

「それでいい」
 褒めるみたいに。

 平野がその瞬間を見逃さなかった。

「うわ、今の何!? ハチマキで距離詰めるの、ずる!」

「ずるくない」
 梶山が即答。

「ずるいよ」
 岩崎が笑う。
「祝嶺、顔赤い」

「赤くない」

「……赤い」

「うるさい」

 俺は顔を押さえたくなって、やめた。
 押さえたら余計に“赤い”になる。

 放送席に着くと、マイクと進行表が並んでいた。
 風で紙がめくれないようにクリップで留める。
 細かい作業は、落ち着く。

「祝嶺、これ、読む?」
 岩崎が原稿を差し出してくる。

「……俺?」

「うん。開会式の一行だけ。短いから」
 岩崎が笑う。
「祝嶺の声、意外といいんだよ。小さいけど、まっすぐ」

 まっすぐ。
 そう言われると、逃げられなくなる。

「無理」
 俺が言いかけた瞬間、梶山が横から言った。

「無理じゃない」
 短い。
 でも、圧じゃなくて“信頼”のやつ。

 平野が乗る。

「やれやれ! 祝嶺の声、全校に届けろ!」

「届けなくていい」

「いけるって! 今日の流れ!」

「流れとか言うな」

「言いたい!」

 岩崎が机を叩いた。

「はい決まり。祝嶺、ここだけ」
 原稿を指で示す。
「“本日は晴天のもと――”これだけ。噛んでも可愛い」

「可愛いとか言うな」
 梶山がすぐ止めた。

「止めるの早いって」
 岩崎が笑う。
「保護者〜」

「保護者じゃねえ」

「じゃあ何」

「……係」

 平野が腹を抱えて笑った。
「係、万能すぎ!」

 俺は原稿を受け取った。
 紙が指先に貼りつく。
 心臓がうるさい。

 好きになる瞬間って、たぶんここにもある。
 “怖い”の横に、誰かが立ってくれる瞬間。

 梶山が俺の隣に座った。
 肩が触れない距離。
 でも、近い。

「祝嶺」
 小声。

「……なに」

「呼吸、深く」

 それだけ言って、梶山は前を向いた。
 指示みたいなのに、優しい。

 俺は言われた通り、ゆっくり息を吸った。
 吸えた。
 それだけで、少しだけ勝てる気がした。


 開会式。
 マイクのスイッチが入る音が小さく鳴る。

 平野がいつもの勢いでアナウンスを入れて、校庭が一斉に反応する。
 岩崎の声は綺麗で、言葉が空気を整える。
 梶山は進行表を指で追って、次を間違えない。

 俺の番が近づく。

 岩崎が、俺にだけ見えるくらい小さく頷いた。
 平野が「いけ!」って口パクする。
 梶山は、俺を見ない。
 見ないまま、机の端に指を置いた。
 そこに、“いる”って合図みたいに。

 俺はマイクを握った。
 手が少しだけ震える。
 震えてるのが悔しいのに、離せない。

 そして言った。

「……本日は、晴天のもと――体育祭を、開催します」

 自分の声がスピーカーから返ってきて、心臓が跳ねた。
 でも、倒れなかった。
 噛まなかった。

 校庭のざわめきが、ほんの少しだけ“受け取った”感じになる。
 その瞬間、胸の奥が熱い。

 岩崎が机の下で親指を立てる。
 平野が「よっしゃ!」って小さくガッツポーズ。
 梶山が、視線を前に置いたまま言った。

「今の、良い」
 小声。俺にだけ。

 その一言で、胸の奥がもう一回跳ねた。
 嬉しい。
 嬉しいって感情が、ちゃんと形になるのが怖い。

「……別に」
 俺は盾を出しそうになって、出すのをやめた。

 代わりに、息だけ吐いた。
 梶山の口元が、ほんの少しだけ上がった。

 胸の奥が、きゅっと鳴る。
 気のせいにして、俺は目を逸らした。

 体育祭は忙しい。
 競技が続く。呼び出し。結果。次の準備。
 放送席はずっと小さく揺れていて、でも一番“中心”にいる気がする。

「祝嶺、次の競技、時間押してる。原稿、短くできる?」
 梶山が言う。
 その声が、頼りになる。

「……できる」
 俺が言うと、平野がすぐ突っ込む。

「祝嶺、今の“できる”かっこいい!」

「うるさい」

「でもかっこいい」

「うるさい」

 岩崎が笑って、マイク越しにさらっと言葉を整える。
 平野が盛り上げる。
 梶山が進行を崩さない。
 俺が紙を守る。

 四人の役割が噛み合って、校庭の空気がちゃんと回る。

 ……これ、楽しい。
 楽しいって思ってしまった。
 思ってしまったのに、嫌じゃない。

 昼の休憩で、ペットボトルの水を飲む。
 口の中が乾いてたのに、冷たい水が落ちていく。

 平野が叫ぶ。

「体育祭、最高! 俺、今、お祭りモード!」

「モードって言うな」

 梶山が言う。

「声がでかい」

「声がでかいのが俺だろ!」

「うるさい」

「祝嶺、今のうるさい、自然だったぞ!」

「言うな」

「言いたい」

 岩崎が俺を見て、少しだけ真面目な顔をした。

「祝嶺、今日、顔がちゃんと明るい」

「明るくない」

「明るい」

「……」

「ね、いいよ。それ」

 言葉が刺さる。
 刺さるのに、痛いより先に温かいのが来る。
 ――こういうのが、嬉しいってやつだと、遅れて分かった。

 梶山が、水を持ったまま言った。

「祝嶺、汗」
 タオルを差し出してくる。

 九月でもまだ暑い。
 汗が目の端に溜まってた。

「……いらない」

「貸すだけ」
 梶山がさらっと言って、笑った。

 六月の雨の日と同じ言い方。
 その“同じ”が、胸の奥をくすぐる。

 俺はタオルを受け取って、額を軽く押さえた。
 擦らない。押さえるだけ。

 平野が「うわ、同じやつだ」と言ってニヤニヤする。

「また“貸すだけ”言ってる! 梶山、それ口癖?」

「違う」

「口癖だって」

 梶山は平野を見ないまま、俺の方だけ見た。
「返すのは、俺が覚えとく」

「え、なにそれ過保護〜」
 岩崎が笑う。

「黙って食え」
 梶山が短く落とす。

「祝嶺、返すのいつ?」

「……あとで」

「あとでって、いつだよ!」

「今じゃない」

 岩崎が笑って言った。

「いいね。こういうの、ずっと見てたい」

 その言い方が、妙に柔らかくて。
 俺は返せなかった。

 梶山が俺にだけ聞こえる声で言う。

「返すのは、明日でいい」

 また予定が増える。
 増えるのが怖いのに、胸がちょっとだけ弾む。

「……うん」

 俺が言った瞬間、梶山が小さく息を吐いた。

「うん、で終わるなよ」

 またそれだ。
 俺は思わず笑いそうになって、喉の奥で止めた。
 止めたのに、梶山が笑った。
 俺のせいで笑った。

 好きになる瞬間って、こういうのだ。
 他人事みたいに思ってた言葉が、自分の中で急に現実になる瞬間。


 体育祭が終わる頃、夕方の風が少しだけ冷たくなる。
 校庭の熱が抜けて、みんなの声が落ち着く。

 片付け。
 スピーカーを戻す。ケーブルを巻く。
 放送室に機材を運ぶ。

「疲れた! 俺、今日、頑張った!」
 平野が肩を回しながら言う。
「祝嶺も頑張った! 梶山も頑張った! 岩崎も頑張った!」

「うるさいけど、今日は許す」
 岩崎が笑う。
「平野、いい声だった」

「だろ!」
 平野が満面の笑み。

 岩崎が俺を見る。

「祝嶺、最初の一行、完璧だった」

「……たまたま」

「たまたまで噛まないの、才能」

「才能とか言うな」
 俺が言うと、岩崎が嬉しそうに笑った。

 梶山が淡々と片付けをしながら言った。

「祝嶺、次も読める」

「次?」
 俺が聞くと、梶山がこっちを見た。

「文化祭」
 短い。
 当たり前みたいに言う。

 文化祭。
 またイベントが来る。
 また紙が増える。
 また印刷室が近づく。

 俺の喉が少しだけ乾いた。

 でも――今日は。
 今日は、楽しかった。
 楽しかったって言えないけど、心が知ってる。

「祝嶺」
 梶山が言う。
 声が少しだけ低い。

「今日、ずっと隣だった」

「……係だから」

「係じゃなくても、隣がいい」

 さらっと言う。
 さらっと言うのに、刺さる。

 俺は返せなかった。
 返せない代わりに、タオルを握り直した。

 岩崎がすぐ横で囁く。

「はい、今の。キュン」

「言うな」
 梶山が即座に止める。

「止めるの、早い」
 岩崎が笑う。
「でもいい。守ってるの、分かる」

 平野が「守ってるって何!? 俺も守って!」と騒ぐ。
 岩崎が「自分で守って」と即答して、みんなが笑った。

 笑いの中で、俺はふっと思う。

 このまま、ずっと。
 ずっと見守っていたい、って言われる世界にいたら、どうなるんだろう。

 秘密は、喉の奥にまだある。
 でも、今日みたいな日が増えるほど――
 その秘密が、邪魔になっていく気がする。

 帰り際、放送室の机の上に残った進行表を、俺は揃えて束にした。
 紙が、きちんと重なる。
 整えると、心が息をする。

 梶山が横で言った。

「それ、持つ?」

「……持たない」

「じゃあ、俺が持つ」
 さらっと。

 平野が背後から囁く。

「祝嶺、梶山に持たれすぎ」

「持たれてない」

「持たれてる」

 俺は一歩だけ前へ出て、列を詰めた。
「……ただ、並んでるだけ」

「それが持たれてるって言うんだよ」
 平野が楽しそうに笑う。

 岩崎が肩を揺らして言った。
「祝嶺、“ただ”が増えると危ないよ」

 俺は言い返そうとして、やめた。
 やめた代わりに、少しだけ笑った。

 梶山がそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。

 ……その顔を、もっと見たい。
 そんなことを思ってしまった自分に、俺はびびって、視線を逸らす。

 秋の入口の空は、まだ青い。
 体育祭の帰り道は、妙に明るい。

 明るいまま。
 このまま行けたらいいのに。

 そう思った瞬間、ポケットの中の学生証ケースが、太ももに当たった。
 硬い角。
 現実の角。

 俺は反射で、それを押さえる。

 梶山が隣で、何も言わずに歩幅を合わせた。
 合わせたって言わないくらい自然に。

 その自然さが、嬉しくて。
 嬉しいのが、怖い。

 でも――今日は。
 怖さより先に、温かさが来る日だった。