一歳上、同級生。

 夏休みの朝は、静かなくせに暑い。
 蝉が本気で鳴く前から部屋がぬるくて、布団から出るだけで負けた気になる。

 冷蔵庫の水を一口飲んで、スマホを見た。昨夜の通知が、まだ画面の上に残っている。

 梶山:
「明日、鉄研の作業日。来る? 無理ならいい」

 無理ならいい。
 その言い方がずるい。断っても責めない顔をしてるのに、断ったら俺の方が逃げたみたいになる。

 ――違う。
 俺が悪いわけじゃない。
 ただ、行ったら増える。時間も、言葉も、思い出も。増えたら戻れなくなる。

 そう思ってるのに、指はもう打っていた。

「いく」

 送信。
 既読。
 すぐ返ってくる。

 梶山:
「よし。暑いから飲み物。あと、汗拭くやつ」

 命令みたいで、命令じゃない。
 俺は「分かった」とだけ返して、スマホを伏せた。

 文字が残るのが怖い。
 でも、もう残ってる。





 夏休みの校門は開いていて、部活の生徒だけがぽつぽつ入っていく。
 校舎の中はひんやりして、外の熱が嘘みたいだった。

 鉄研の部室は階段を上がった端。
 扉の前に立った瞬間、胸が一回だけ詰まる。

 ノックしようとした指が止まった。
 扉が内側から開く。

「来た」
 梶山が立っていた。
 髪が少し湿ってる。白いTシャツの首元が夏の匂いをして、変に目が逸れた。

「……来た」
 俺も同じ言葉を返してしまって、自分の語彙の薄さに腹が立つ。

「入れ」
 梶山が横にずれて道を作る。
 “どうぞ”とか言わないのに、入っていいって分かる。

 部室に入ると、模型と道具の匂いがした。木材、塗料、紙。壁には路線図のポスターと写真。机の上には、作業途中のジオラマ。

「……うわ」
 声が漏れた。

 梶山が、ほんの少しだけ目を細める。
「今の顔、初めて見た」

「……なにが」

「祝嶺がちゃんと驚いてるとこ」

「うるさい」

「うるさくない」

 軽い。
 軽いのに、胸の奥が騒ぐ。こういうやり取りが“当たり前”になりかけてるのが怖い。

「お、梶山、連れてきたんだ」
 奥の机から声がした。
 部員が二人。片方は表情がよく動くタイプで、もう片方は静かに手元を整えている。

「祝嶺、だよな?」
 動く方がニヤッとする。

「……祝嶺です」
 俺が言うより先に、梶山が言いかけて止まって、俺を見る。

 ――名乗らせる気、あるんだ。
 それだけで息が少し戻る。

「祝嶺。こっち、こいつら。……変なの言う方と、言わない方」

「紹介、雑!」
 変なの言う方が抗議して、言わない方が小さく頷いた。

「手、洗う?」
 言わない方が俺に聞く。声が小さいのに、言葉が丁寧だ。

「……洗う」

 案内された洗面の場所へ行くと、梶山が後ろから低く言った。

「肩、上がってる」

「……暑いだけ」

「暑いのは全員。祝嶺だけじゃない」

 責めない言い方。
 なのに、当ててくる。ずるい。





 手を洗って戻ると、顧問の浅野が部室に入ってきた。眠そうな顔のまま紙袋を机に置く。

「……お前ら早いな。今日は作業だけ。昼で切れ。暑いから」

「了解」
 梶山の返事が速い。

 浅野の視線が俺に来る。
「……そっち誰」

「同じクラス。手伝い」
 梶山が短く言う。

 “手伝い”って二文字が胸に落ちた。外の人間でも、ここにいていいみたいに聞こえる。

「……危ないの触るな。カッターは持つな。」

 浅野はそれを流して、椅子に座って目を半分閉じる。寝る気だ。

 梶山が作業表を指で叩く。
「今日、これ」

 紙には箇条書き。
・展示の説明パネル作り
・ジオラマ清掃
・配線チェック
・写真の整理(文化祭用)

 文化祭。
 ちゃんと時間が進んでいく感じがして、少し怖い。俺の一年も、勝手に追いついてくるみたいで。

「祝嶺、文章」
 梶山が言う。

「……普通」

「普通じゃない。短くまとめるの、上手い」

 言い切るのが、ずるい。
 俺の“平均点で息をする”場所を、軽く揺らしてくる。

「パネル、頼む」

 頼むって言われると断れない。
 いや、今日は――断りたくない。

「……何書くの」

「これ」
 梶山が写真を何枚か並べる。去年の展示、模型、路線図。
 見せ方が手慣れてる。こういうところで、梶山がちゃんと“好き”を持ってるのが分かって、胸が変になる。

「説明、短く。見て分かるやつ」

「……短く」

「うん。祝嶺の得意分野」

 得意。
 言われたくないのに、言われたい。

 他の部員たちが道具を持って散る。
 気づけば、梶山と俺は同じ机に残っていた。紙、定規、テープ、パネルの台紙。

 作業=二人の時間。
 そういう意味を、今さら理解してしまって心臓がうるさい。





「まず、タイトル」
 梶山が台紙の上に指を置く。

「“鉄研展示”は無し。ダサい」

「……ダサい」

「ダサい」

「じゃあ何」
 俺が言うと、梶山が一回だけ肩をすくめた。

「祝嶺が考えろ」

 投げ方が上手い。
 しかも、投げ返したくなる投げ方。

「……『走るのは模型だけじゃない』」
 俺が言うと、梶山が一瞬固まった。

「何それ」

「……嫌ならいい」

「嫌じゃない」
 即答。

 即答されると、胸の奥が熱を持つ。

「むしろ、いい。……それ、文化祭っぽい」

 文化祭っぽい、の言い方が少し照れてて、俺の方が困る。

「え、なにそれ、甘い」
 後ろから声。
 変なの言う方の部員が、配線の束を抱えたまま笑ってる。

「甘いって言うな」
 梶山が止める。だけど今日は刺さらない。軽い。

「止める係、発動〜」

「部室で発動すんな」

「だって梶山、分かりやすい」
 部員が笑って、静かな方が小さく「うるさい」と呟いた。

 その“うるさい”が弱くて、逆に笑う。

 俺は見出しを決めて、短い説明を作る。句点の位置、行間。読む人が息を詰めないように。

 梶山は覗き込まない距離で見ている。
 見てるのに、圧がない。ただ、“ちゃんと見てる”。

「ここ、もう一行削れる」
 梶山が言う。
 指が紙の端に触れる。俺の手に触れないギリギリ。

「……できる」
 言って文を削る。削ると意味が残る。不思議だ。

「助かる」

「……別に」
 言いかけて、舌が止まる。
 この部室で“別に”を言うと、言い返される未来が見える。

 梶山が俺の顔をちらっと見た。
「今、飲み込んだ?」

「……うるさい」

「今の、よかった」

 短いのに、褒められてるのが分かる。
 俺は視線を逸らして、定規を揃え直した。

「飲み物、ちゃんと飲め」
 梶山が俺のペットボトルを指差す。

「……分かってる」

「分かってるなら、飲む」

 命令じゃないのに従ってしまう。
 喉が冷えて、息が少し深くなる。

 静かだ。
 静かなのに、梶山の存在が濃くて、胸が落ち着かない。





 昼前。
 ジオラマの埃を払うブラシを、静かな方の部員が差し出してきた。

「これ、使う?」

「……使う」

 受け取ると、梶山が淡々と言った。
「優しいな、こいつ」

 その“こいつ”は部員に向けた言葉なのに、俺の胸が勝手に温まる。

「褒めんな」
 俺が言うと、梶山は目だけで笑った。
 笑い方がずるい。

 小さい駅舎。小さいホーム。小さい人。
 小さい世界を丁寧に扱うと、ちゃんと“世界”になる。

「祝嶺、こういうの好き?」
 梶山が聞く。

「……嫌いじゃない」
 反射で“別に”を出しそうになって、引っ込めた。
 言い直した瞬間、胸が跳ねる。

 梶山が小さく頷く。
「そういう返事、好き」

「……今、さらっと言うな」

「さらっとじゃない」
 そう言われて、俺の方が困る。
 劇的じゃないのに、こういうのが一番ずるい。
 俺の小さい「嫌いじゃない」を、ちゃんと“いい”に変えられる。





 浅野が紙袋からパンを出して机に置いた。

「……昼。食え。」

 梶山が袋の中を俺に見せた。
「選べ」

「……」

「迷うな。溶ける」

 “溶ける”って言い方が妙にツボで、笑いそうになってこらえた。

「……それ」
 指差すと、梶山はそれを取って俺に渡した。

「ほい」
 いつも通りみたいに渡されて、俺だけが変に意識する。

「……ありがと」

 言うと、変なの言う部員がすぐ反応する。
「今、ありがとう言った! この部室、成長装置!」

 静かな方が小さく言う。
「祝嶺、礼儀ある」

「礼儀って言うな」
 俺が言うと、梶山が被せた。

「祝嶺は元からそう」

 元から。
 そう言われると、救われるみたいで、怖いみたいで、胸が忙しい。

 パンをかじったところで、変なの言う部員が唐突に言った。
「なあ、部の名簿作ろうぜ。年度で並べたら見やすいし。祝嶺、入学、何年度?」

 空気が一瞬、乾いた。
 喉の奥が詰まって、パンが紙みたいにぱさつく。
 年度。数字。並べる。――見つかる。

 俺が返事を探す前に、梶山が先に言った。
「名簿に年度はいらない。学年だけで足りる」

 止め方が速い。でも押しつけない。
 息が、戻る。

「え、でもさ。年度で並べたらキレイじゃん」
「キレイのために余計な情報集めるな」
 梶山の声は低くない。淡々としてるだけだ。

 浅野が目を開けて、眠そうに言った。
「……名簿に“見やすさ”求めるな。必要なのは人数と担当。以上」

「以上!」
 誰かがすぐ真似して、浅野が指先だけで追い払う。
「……静かにしろ」

 笑いが起きる。
 俺は笑えない。
 でも、梶山が止めたことだけが胸に残る。

 守られたくないのに、守られると――増える。
 最悪だ。

 梶山が、俺にだけ聞こえる声で言った。
「悪い。今の、刺さった?」

「……別に」
 反射で逃げそうになって、飲み込む。

 梶山は続けない。
 ただ、待つ。待てる距離で。

 俺は息を吐いて、小さく言った。
「……嫌だった」

「うん」
 短く頷く。

「分かった」
 それだけ。掘らない。笑わない。
 ただ受け取る。

 その受け取り方で、胸の奥がきゅっと鳴って、俺は目を逸らした。





 午後。
 展示パネルは形になって、印刷の段階に入る。

 梶山がプリンタのある棚を指差す。
「これ、印刷して切る」

 “印刷”という単語の先に、学生証が浮かぶ。
 個人カードの誕生日欄が浮かぶ。喉が乾く。

 梶山は俺の顔を見て、ほんの一拍だけ置いた。
「俺がやる」

 短い。でも、“無理しなくていい”が混じってる。

「……俺もやる」
 口が勝手に言った。言った瞬間、後悔が追いかけてくるのに止められない。

 梶山が一瞬だけ眉を上げた。驚いた顔。それが胸をくすぐる。

「……無茶はすんな」

「無茶じゃない」

「無茶に見える時がある」

 言い方が、優しい方の刺さり方だった。

「じゃあ――一緒」
 さらっと言われて、喉の奥が熱くなる。
 一緒、って二文字が、俺の中の線を少しだけ柔らかくする。

 プリンタの前で、梶山がデータを開く。
 俺は横で紙を揃える。揃える作業は落ち着く。落ち着くのが怖い。

 印刷が始まって、紙が吐き出される音がする。
 ただの音なのに心臓がそれに合わせて跳ねる。

「祝嶺」

「……なに」

「手、冷やせ」
 梶山が、冷えた缶を俺の手元に置いた。

「さっき、自販機で」

 “持っとけ”じゃない。今日は違う言い方。
 それだけで、俺は少しだけ楽になる。

 缶を握ると、冷たさが指先から胸に落ちていく。

「……ありがと」

「うん」

 それだけ。
 それだけで、胸が跳ねる。

 机に戻って、梶山が定規を押さえる位置を示す。
「ここ。手、刃の前に出すな」

「……分かった」

「“分かった”って言えた」

「うるさい」

「うるさくない。……いい」

 俺は笑いそうになって、缶の水滴を指でなぞった。

 触れないギリギリの距離で、指先が近い。
 触れないのに、近い。

 好きになる瞬間が増えていく。
 増えるほど、秘密の匂いも濃くなる。

 それでも今日、俺は逃げてない。





 夕方。
 作業は一区切りついて、部室の机の上が少しだけ綺麗になった。

 浅野が目を覚まして、眠そうに言う。
「……今日、終わり。片付け。以上」

「以上〜」
 また真似されて、浅野が「帰れ」とだけ言う。

 部員たちが先に帰る準備を始める。

 静かな方が小さく会釈した。
「おつかれ」

 変なの言う方が手を振る。
「祝嶺、また来いよ。鉄研、平和だから」

「平和じゃない」
 梶山が即答して、部員が笑って出ていく。

 浅野も「鍵閉めるぞ」と廊下へ出た。

 残ったのは――梶山と俺。
 片付けの途中なのに、空気がもう“二人”に寄ってしまう。

 梶山が机の上のパネルを指で叩く。
「良い」

「……何が」

「文章。見やすい。……助かった」

 助かった、が胸の奥に落ちる。

「……向いてない」
 反射で言うと、梶山が首を少し傾けた。

「じゃあ何」

「……分かんない」
 嘘じゃない。
 分かんないって言えたことに、自分で驚く。

 梶山が少しだけ息を吐く。
「分かんなくていい。今は」

 その言い方が、救いで、怖い。

「……さっき、止めてくれて」
 俺が言う。誕生日の話。

 梶山は頷く。
「踏まれたくなかっただけ」

「……俺が?」

「祝嶺が」

 主語をはっきり言う。逃げ道がない。
 でも、その“逃げ道のなさ”が、今日は少し温かい。





 校舎を出ると、夕方の熱がまだ残っていた。
 空は明るいのに、風だけ少し変わってる。

「今日、来てよかった?」
 梶山が聞く。質問は軽いのに意味は重い。

「……よかった」
 小さく言った。言った瞬間、心臓が跳ねた。
 でも、逃げなかった。

 梶山がほんの少し口元を緩める。
「うん。俺も」

 “俺も”が胸に刺さる。痛いのに、嫌じゃない。

 角を曲がるところで、梶山が言った。
「夏休み、また作業ある」

「……」

「来いとは言わない」
 ずるい言い方。

「でも、来たら嬉しい」
 嬉しい、って言葉を梶山が使うのが反則だ。

 俺は返事ができなくて、缶を握り直した。冷たさが時間に負けて、少しずつぬるくなっていく。





 家に着いて、学生証を裏返す。見ない。見せない。
 でも今日は、裏返した手が少しだけ落ち着いていた。

 スマホが震える。

 梶山:
「今日はありがと。パネル、文化祭で目立つ」

 文字が残る。残るのが怖い。
 でも、残ってほしい気持ちもある。

 俺は短く打つ。
「おつ。……助かった」

 送信。既読。
 少し間が空いて、返ってくる。

「それなら、いい」

 その“いい”が、今日いちばん優しかった。
 胸が跳ねて、悔しいのに、笑ってしまった。

 ――作業は、ただの作業じゃない。
 気づいてしまった。
 “二人の時間”が、少しずつ形になって残っていく。
 残っていくほど、秘密の匂いも濃くなる。

 それでも俺は、今日みたいな日をもう一回って思ってしまう。
 その気持ちが、いちばん危ない。
 でも――この危なさを、嫌だと思えない自分がいる。

 八月は、思ったより早く過ぎた。
 もう一度だけ鉄研に顔を出して、帰り道は少しだけ近かった。

 LINEは増やさないようにしてるのに、隣に座る予感だけが増えていく。

 夏休みが終わって、教室に戻る日が来る。
 同じ席。
 同じ“同級生”。

 それが、怖い。
 でも――逃げないで座れる気もしてしまう。

 長いはずの夏が、もう終わりに向かっていた。