夏休みの朝は、静かなくせに暑い。
蝉が本気で鳴く前から部屋がぬるくて、布団から出るだけで負けた気になる。
冷蔵庫の水を一口飲んで、スマホを見た。昨夜の通知が、まだ画面の上に残っている。
梶山:
「明日、鉄研の作業日。来る? 無理ならいい」
無理ならいい。
その言い方がずるい。断っても責めない顔をしてるのに、断ったら俺の方が逃げたみたいになる。
――違う。
俺が悪いわけじゃない。
ただ、行ったら増える。時間も、言葉も、思い出も。増えたら戻れなくなる。
そう思ってるのに、指はもう打っていた。
「いく」
送信。
既読。
すぐ返ってくる。
梶山:
「よし。暑いから飲み物。あと、汗拭くやつ」
命令みたいで、命令じゃない。
俺は「分かった」とだけ返して、スマホを伏せた。
文字が残るのが怖い。
でも、もう残ってる。
*
夏休みの校門は開いていて、部活の生徒だけがぽつぽつ入っていく。
校舎の中はひんやりして、外の熱が嘘みたいだった。
鉄研の部室は階段を上がった端。
扉の前に立った瞬間、胸が一回だけ詰まる。
ノックしようとした指が止まった。
扉が内側から開く。
「来た」
梶山が立っていた。
髪が少し湿ってる。白いTシャツの首元が夏の匂いをして、変に目が逸れた。
「……来た」
俺も同じ言葉を返してしまって、自分の語彙の薄さに腹が立つ。
「入れ」
梶山が横にずれて道を作る。
“どうぞ”とか言わないのに、入っていいって分かる。
部室に入ると、模型と道具の匂いがした。木材、塗料、紙。壁には路線図のポスターと写真。机の上には、作業途中のジオラマ。
「……うわ」
声が漏れた。
梶山が、ほんの少しだけ目を細める。
「今の顔、初めて見た」
「……なにが」
「祝嶺がちゃんと驚いてるとこ」
「うるさい」
「うるさくない」
軽い。
軽いのに、胸の奥が騒ぐ。こういうやり取りが“当たり前”になりかけてるのが怖い。
「お、梶山、連れてきたんだ」
奥の机から声がした。
部員が二人。片方は表情がよく動くタイプで、もう片方は静かに手元を整えている。
「祝嶺、だよな?」
動く方がニヤッとする。
「……祝嶺です」
俺が言うより先に、梶山が言いかけて止まって、俺を見る。
――名乗らせる気、あるんだ。
それだけで息が少し戻る。
「祝嶺。こっち、こいつら。……変なの言う方と、言わない方」
「紹介、雑!」
変なの言う方が抗議して、言わない方が小さく頷いた。
「手、洗う?」
言わない方が俺に聞く。声が小さいのに、言葉が丁寧だ。
「……洗う」
案内された洗面の場所へ行くと、梶山が後ろから低く言った。
「肩、上がってる」
「……暑いだけ」
「暑いのは全員。祝嶺だけじゃない」
責めない言い方。
なのに、当ててくる。ずるい。
*
手を洗って戻ると、顧問の浅野が部室に入ってきた。眠そうな顔のまま紙袋を机に置く。
「……お前ら早いな。今日は作業だけ。昼で切れ。暑いから」
「了解」
梶山の返事が速い。
浅野の視線が俺に来る。
「……そっち誰」
「同じクラス。手伝い」
梶山が短く言う。
“手伝い”って二文字が胸に落ちた。外の人間でも、ここにいていいみたいに聞こえる。
「……危ないの触るな。カッターは持つな。」
浅野はそれを流して、椅子に座って目を半分閉じる。寝る気だ。
梶山が作業表を指で叩く。
「今日、これ」
紙には箇条書き。
・展示の説明パネル作り
・ジオラマ清掃
・配線チェック
・写真の整理(文化祭用)
文化祭。
ちゃんと時間が進んでいく感じがして、少し怖い。俺の一年も、勝手に追いついてくるみたいで。
「祝嶺、文章」
梶山が言う。
「……普通」
「普通じゃない。短くまとめるの、上手い」
言い切るのが、ずるい。
俺の“平均点で息をする”場所を、軽く揺らしてくる。
「パネル、頼む」
頼むって言われると断れない。
いや、今日は――断りたくない。
「……何書くの」
「これ」
梶山が写真を何枚か並べる。去年の展示、模型、路線図。
見せ方が手慣れてる。こういうところで、梶山がちゃんと“好き”を持ってるのが分かって、胸が変になる。
「説明、短く。見て分かるやつ」
「……短く」
「うん。祝嶺の得意分野」
得意。
言われたくないのに、言われたい。
他の部員たちが道具を持って散る。
気づけば、梶山と俺は同じ机に残っていた。紙、定規、テープ、パネルの台紙。
作業=二人の時間。
そういう意味を、今さら理解してしまって心臓がうるさい。
*
「まず、タイトル」
梶山が台紙の上に指を置く。
「“鉄研展示”は無し。ダサい」
「……ダサい」
「ダサい」
「じゃあ何」
俺が言うと、梶山が一回だけ肩をすくめた。
「祝嶺が考えろ」
投げ方が上手い。
しかも、投げ返したくなる投げ方。
「……『走るのは模型だけじゃない』」
俺が言うと、梶山が一瞬固まった。
「何それ」
「……嫌ならいい」
「嫌じゃない」
即答。
即答されると、胸の奥が熱を持つ。
「むしろ、いい。……それ、文化祭っぽい」
文化祭っぽい、の言い方が少し照れてて、俺の方が困る。
「え、なにそれ、甘い」
後ろから声。
変なの言う方の部員が、配線の束を抱えたまま笑ってる。
「甘いって言うな」
梶山が止める。だけど今日は刺さらない。軽い。
「止める係、発動〜」
「部室で発動すんな」
「だって梶山、分かりやすい」
部員が笑って、静かな方が小さく「うるさい」と呟いた。
その“うるさい”が弱くて、逆に笑う。
俺は見出しを決めて、短い説明を作る。句点の位置、行間。読む人が息を詰めないように。
梶山は覗き込まない距離で見ている。
見てるのに、圧がない。ただ、“ちゃんと見てる”。
「ここ、もう一行削れる」
梶山が言う。
指が紙の端に触れる。俺の手に触れないギリギリ。
「……できる」
言って文を削る。削ると意味が残る。不思議だ。
「助かる」
「……別に」
言いかけて、舌が止まる。
この部室で“別に”を言うと、言い返される未来が見える。
梶山が俺の顔をちらっと見た。
「今、飲み込んだ?」
「……うるさい」
「今の、よかった」
短いのに、褒められてるのが分かる。
俺は視線を逸らして、定規を揃え直した。
「飲み物、ちゃんと飲め」
梶山が俺のペットボトルを指差す。
「……分かってる」
「分かってるなら、飲む」
命令じゃないのに従ってしまう。
喉が冷えて、息が少し深くなる。
静かだ。
静かなのに、梶山の存在が濃くて、胸が落ち着かない。
*
昼前。
ジオラマの埃を払うブラシを、静かな方の部員が差し出してきた。
「これ、使う?」
「……使う」
受け取ると、梶山が淡々と言った。
「優しいな、こいつ」
その“こいつ”は部員に向けた言葉なのに、俺の胸が勝手に温まる。
「褒めんな」
俺が言うと、梶山は目だけで笑った。
笑い方がずるい。
小さい駅舎。小さいホーム。小さい人。
小さい世界を丁寧に扱うと、ちゃんと“世界”になる。
「祝嶺、こういうの好き?」
梶山が聞く。
「……嫌いじゃない」
反射で“別に”を出しそうになって、引っ込めた。
言い直した瞬間、胸が跳ねる。
梶山が小さく頷く。
「そういう返事、好き」
「……今、さらっと言うな」
「さらっとじゃない」
そう言われて、俺の方が困る。
劇的じゃないのに、こういうのが一番ずるい。
俺の小さい「嫌いじゃない」を、ちゃんと“いい”に変えられる。
*
浅野が紙袋からパンを出して机に置いた。
「……昼。食え。」
梶山が袋の中を俺に見せた。
「選べ」
「……」
「迷うな。溶ける」
“溶ける”って言い方が妙にツボで、笑いそうになってこらえた。
「……それ」
指差すと、梶山はそれを取って俺に渡した。
「ほい」
いつも通りみたいに渡されて、俺だけが変に意識する。
「……ありがと」
言うと、変なの言う部員がすぐ反応する。
「今、ありがとう言った! この部室、成長装置!」
静かな方が小さく言う。
「祝嶺、礼儀ある」
「礼儀って言うな」
俺が言うと、梶山が被せた。
「祝嶺は元からそう」
元から。
そう言われると、救われるみたいで、怖いみたいで、胸が忙しい。
パンをかじったところで、変なの言う部員が唐突に言った。
「なあ、部の名簿作ろうぜ。年度で並べたら見やすいし。祝嶺、入学、何年度?」
空気が一瞬、乾いた。
喉の奥が詰まって、パンが紙みたいにぱさつく。
年度。数字。並べる。――見つかる。
俺が返事を探す前に、梶山が先に言った。
「名簿に年度はいらない。学年だけで足りる」
止め方が速い。でも押しつけない。
息が、戻る。
「え、でもさ。年度で並べたらキレイじゃん」
「キレイのために余計な情報集めるな」
梶山の声は低くない。淡々としてるだけだ。
浅野が目を開けて、眠そうに言った。
「……名簿に“見やすさ”求めるな。必要なのは人数と担当。以上」
「以上!」
誰かがすぐ真似して、浅野が指先だけで追い払う。
「……静かにしろ」
笑いが起きる。
俺は笑えない。
でも、梶山が止めたことだけが胸に残る。
守られたくないのに、守られると――増える。
最悪だ。
梶山が、俺にだけ聞こえる声で言った。
「悪い。今の、刺さった?」
「……別に」
反射で逃げそうになって、飲み込む。
梶山は続けない。
ただ、待つ。待てる距離で。
俺は息を吐いて、小さく言った。
「……嫌だった」
「うん」
短く頷く。
「分かった」
それだけ。掘らない。笑わない。
ただ受け取る。
その受け取り方で、胸の奥がきゅっと鳴って、俺は目を逸らした。
*
午後。
展示パネルは形になって、印刷の段階に入る。
梶山がプリンタのある棚を指差す。
「これ、印刷して切る」
“印刷”という単語の先に、学生証が浮かぶ。
個人カードの誕生日欄が浮かぶ。喉が乾く。
梶山は俺の顔を見て、ほんの一拍だけ置いた。
「俺がやる」
短い。でも、“無理しなくていい”が混じってる。
「……俺もやる」
口が勝手に言った。言った瞬間、後悔が追いかけてくるのに止められない。
梶山が一瞬だけ眉を上げた。驚いた顔。それが胸をくすぐる。
「……無茶はすんな」
「無茶じゃない」
「無茶に見える時がある」
言い方が、優しい方の刺さり方だった。
「じゃあ――一緒」
さらっと言われて、喉の奥が熱くなる。
一緒、って二文字が、俺の中の線を少しだけ柔らかくする。
プリンタの前で、梶山がデータを開く。
俺は横で紙を揃える。揃える作業は落ち着く。落ち着くのが怖い。
印刷が始まって、紙が吐き出される音がする。
ただの音なのに心臓がそれに合わせて跳ねる。
「祝嶺」
「……なに」
「手、冷やせ」
梶山が、冷えた缶を俺の手元に置いた。
「さっき、自販機で」
“持っとけ”じゃない。今日は違う言い方。
それだけで、俺は少しだけ楽になる。
缶を握ると、冷たさが指先から胸に落ちていく。
「……ありがと」
「うん」
それだけ。
それだけで、胸が跳ねる。
机に戻って、梶山が定規を押さえる位置を示す。
「ここ。手、刃の前に出すな」
「……分かった」
「“分かった”って言えた」
「うるさい」
「うるさくない。……いい」
俺は笑いそうになって、缶の水滴を指でなぞった。
触れないギリギリの距離で、指先が近い。
触れないのに、近い。
好きになる瞬間が増えていく。
増えるほど、秘密の匂いも濃くなる。
それでも今日、俺は逃げてない。
*
夕方。
作業は一区切りついて、部室の机の上が少しだけ綺麗になった。
浅野が目を覚まして、眠そうに言う。
「……今日、終わり。片付け。以上」
「以上〜」
また真似されて、浅野が「帰れ」とだけ言う。
部員たちが先に帰る準備を始める。
静かな方が小さく会釈した。
「おつかれ」
変なの言う方が手を振る。
「祝嶺、また来いよ。鉄研、平和だから」
「平和じゃない」
梶山が即答して、部員が笑って出ていく。
浅野も「鍵閉めるぞ」と廊下へ出た。
残ったのは――梶山と俺。
片付けの途中なのに、空気がもう“二人”に寄ってしまう。
梶山が机の上のパネルを指で叩く。
「良い」
「……何が」
「文章。見やすい。……助かった」
助かった、が胸の奥に落ちる。
「……向いてない」
反射で言うと、梶山が首を少し傾けた。
「じゃあ何」
「……分かんない」
嘘じゃない。
分かんないって言えたことに、自分で驚く。
梶山が少しだけ息を吐く。
「分かんなくていい。今は」
その言い方が、救いで、怖い。
「……さっき、止めてくれて」
俺が言う。誕生日の話。
梶山は頷く。
「踏まれたくなかっただけ」
「……俺が?」
「祝嶺が」
主語をはっきり言う。逃げ道がない。
でも、その“逃げ道のなさ”が、今日は少し温かい。
*
校舎を出ると、夕方の熱がまだ残っていた。
空は明るいのに、風だけ少し変わってる。
「今日、来てよかった?」
梶山が聞く。質問は軽いのに意味は重い。
「……よかった」
小さく言った。言った瞬間、心臓が跳ねた。
でも、逃げなかった。
梶山がほんの少し口元を緩める。
「うん。俺も」
“俺も”が胸に刺さる。痛いのに、嫌じゃない。
角を曲がるところで、梶山が言った。
「夏休み、また作業ある」
「……」
「来いとは言わない」
ずるい言い方。
「でも、来たら嬉しい」
嬉しい、って言葉を梶山が使うのが反則だ。
俺は返事ができなくて、缶を握り直した。冷たさが時間に負けて、少しずつぬるくなっていく。
*
家に着いて、学生証を裏返す。見ない。見せない。
でも今日は、裏返した手が少しだけ落ち着いていた。
スマホが震える。
梶山:
「今日はありがと。パネル、文化祭で目立つ」
文字が残る。残るのが怖い。
でも、残ってほしい気持ちもある。
俺は短く打つ。
「おつ。……助かった」
送信。既読。
少し間が空いて、返ってくる。
「それなら、いい」
その“いい”が、今日いちばん優しかった。
胸が跳ねて、悔しいのに、笑ってしまった。
――作業は、ただの作業じゃない。
気づいてしまった。
“二人の時間”が、少しずつ形になって残っていく。
残っていくほど、秘密の匂いも濃くなる。
それでも俺は、今日みたいな日をもう一回って思ってしまう。
その気持ちが、いちばん危ない。
でも――この危なさを、嫌だと思えない自分がいる。
八月は、思ったより早く過ぎた。
もう一度だけ鉄研に顔を出して、帰り道は少しだけ近かった。
LINEは増やさないようにしてるのに、隣に座る予感だけが増えていく。
夏休みが終わって、教室に戻る日が来る。
同じ席。
同じ“同級生”。
それが、怖い。
でも――逃げないで座れる気もしてしまう。
長いはずの夏が、もう終わりに向かっていた。
蝉が本気で鳴く前から部屋がぬるくて、布団から出るだけで負けた気になる。
冷蔵庫の水を一口飲んで、スマホを見た。昨夜の通知が、まだ画面の上に残っている。
梶山:
「明日、鉄研の作業日。来る? 無理ならいい」
無理ならいい。
その言い方がずるい。断っても責めない顔をしてるのに、断ったら俺の方が逃げたみたいになる。
――違う。
俺が悪いわけじゃない。
ただ、行ったら増える。時間も、言葉も、思い出も。増えたら戻れなくなる。
そう思ってるのに、指はもう打っていた。
「いく」
送信。
既読。
すぐ返ってくる。
梶山:
「よし。暑いから飲み物。あと、汗拭くやつ」
命令みたいで、命令じゃない。
俺は「分かった」とだけ返して、スマホを伏せた。
文字が残るのが怖い。
でも、もう残ってる。
*
夏休みの校門は開いていて、部活の生徒だけがぽつぽつ入っていく。
校舎の中はひんやりして、外の熱が嘘みたいだった。
鉄研の部室は階段を上がった端。
扉の前に立った瞬間、胸が一回だけ詰まる。
ノックしようとした指が止まった。
扉が内側から開く。
「来た」
梶山が立っていた。
髪が少し湿ってる。白いTシャツの首元が夏の匂いをして、変に目が逸れた。
「……来た」
俺も同じ言葉を返してしまって、自分の語彙の薄さに腹が立つ。
「入れ」
梶山が横にずれて道を作る。
“どうぞ”とか言わないのに、入っていいって分かる。
部室に入ると、模型と道具の匂いがした。木材、塗料、紙。壁には路線図のポスターと写真。机の上には、作業途中のジオラマ。
「……うわ」
声が漏れた。
梶山が、ほんの少しだけ目を細める。
「今の顔、初めて見た」
「……なにが」
「祝嶺がちゃんと驚いてるとこ」
「うるさい」
「うるさくない」
軽い。
軽いのに、胸の奥が騒ぐ。こういうやり取りが“当たり前”になりかけてるのが怖い。
「お、梶山、連れてきたんだ」
奥の机から声がした。
部員が二人。片方は表情がよく動くタイプで、もう片方は静かに手元を整えている。
「祝嶺、だよな?」
動く方がニヤッとする。
「……祝嶺です」
俺が言うより先に、梶山が言いかけて止まって、俺を見る。
――名乗らせる気、あるんだ。
それだけで息が少し戻る。
「祝嶺。こっち、こいつら。……変なの言う方と、言わない方」
「紹介、雑!」
変なの言う方が抗議して、言わない方が小さく頷いた。
「手、洗う?」
言わない方が俺に聞く。声が小さいのに、言葉が丁寧だ。
「……洗う」
案内された洗面の場所へ行くと、梶山が後ろから低く言った。
「肩、上がってる」
「……暑いだけ」
「暑いのは全員。祝嶺だけじゃない」
責めない言い方。
なのに、当ててくる。ずるい。
*
手を洗って戻ると、顧問の浅野が部室に入ってきた。眠そうな顔のまま紙袋を机に置く。
「……お前ら早いな。今日は作業だけ。昼で切れ。暑いから」
「了解」
梶山の返事が速い。
浅野の視線が俺に来る。
「……そっち誰」
「同じクラス。手伝い」
梶山が短く言う。
“手伝い”って二文字が胸に落ちた。外の人間でも、ここにいていいみたいに聞こえる。
「……危ないの触るな。カッターは持つな。」
浅野はそれを流して、椅子に座って目を半分閉じる。寝る気だ。
梶山が作業表を指で叩く。
「今日、これ」
紙には箇条書き。
・展示の説明パネル作り
・ジオラマ清掃
・配線チェック
・写真の整理(文化祭用)
文化祭。
ちゃんと時間が進んでいく感じがして、少し怖い。俺の一年も、勝手に追いついてくるみたいで。
「祝嶺、文章」
梶山が言う。
「……普通」
「普通じゃない。短くまとめるの、上手い」
言い切るのが、ずるい。
俺の“平均点で息をする”場所を、軽く揺らしてくる。
「パネル、頼む」
頼むって言われると断れない。
いや、今日は――断りたくない。
「……何書くの」
「これ」
梶山が写真を何枚か並べる。去年の展示、模型、路線図。
見せ方が手慣れてる。こういうところで、梶山がちゃんと“好き”を持ってるのが分かって、胸が変になる。
「説明、短く。見て分かるやつ」
「……短く」
「うん。祝嶺の得意分野」
得意。
言われたくないのに、言われたい。
他の部員たちが道具を持って散る。
気づけば、梶山と俺は同じ机に残っていた。紙、定規、テープ、パネルの台紙。
作業=二人の時間。
そういう意味を、今さら理解してしまって心臓がうるさい。
*
「まず、タイトル」
梶山が台紙の上に指を置く。
「“鉄研展示”は無し。ダサい」
「……ダサい」
「ダサい」
「じゃあ何」
俺が言うと、梶山が一回だけ肩をすくめた。
「祝嶺が考えろ」
投げ方が上手い。
しかも、投げ返したくなる投げ方。
「……『走るのは模型だけじゃない』」
俺が言うと、梶山が一瞬固まった。
「何それ」
「……嫌ならいい」
「嫌じゃない」
即答。
即答されると、胸の奥が熱を持つ。
「むしろ、いい。……それ、文化祭っぽい」
文化祭っぽい、の言い方が少し照れてて、俺の方が困る。
「え、なにそれ、甘い」
後ろから声。
変なの言う方の部員が、配線の束を抱えたまま笑ってる。
「甘いって言うな」
梶山が止める。だけど今日は刺さらない。軽い。
「止める係、発動〜」
「部室で発動すんな」
「だって梶山、分かりやすい」
部員が笑って、静かな方が小さく「うるさい」と呟いた。
その“うるさい”が弱くて、逆に笑う。
俺は見出しを決めて、短い説明を作る。句点の位置、行間。読む人が息を詰めないように。
梶山は覗き込まない距離で見ている。
見てるのに、圧がない。ただ、“ちゃんと見てる”。
「ここ、もう一行削れる」
梶山が言う。
指が紙の端に触れる。俺の手に触れないギリギリ。
「……できる」
言って文を削る。削ると意味が残る。不思議だ。
「助かる」
「……別に」
言いかけて、舌が止まる。
この部室で“別に”を言うと、言い返される未来が見える。
梶山が俺の顔をちらっと見た。
「今、飲み込んだ?」
「……うるさい」
「今の、よかった」
短いのに、褒められてるのが分かる。
俺は視線を逸らして、定規を揃え直した。
「飲み物、ちゃんと飲め」
梶山が俺のペットボトルを指差す。
「……分かってる」
「分かってるなら、飲む」
命令じゃないのに従ってしまう。
喉が冷えて、息が少し深くなる。
静かだ。
静かなのに、梶山の存在が濃くて、胸が落ち着かない。
*
昼前。
ジオラマの埃を払うブラシを、静かな方の部員が差し出してきた。
「これ、使う?」
「……使う」
受け取ると、梶山が淡々と言った。
「優しいな、こいつ」
その“こいつ”は部員に向けた言葉なのに、俺の胸が勝手に温まる。
「褒めんな」
俺が言うと、梶山は目だけで笑った。
笑い方がずるい。
小さい駅舎。小さいホーム。小さい人。
小さい世界を丁寧に扱うと、ちゃんと“世界”になる。
「祝嶺、こういうの好き?」
梶山が聞く。
「……嫌いじゃない」
反射で“別に”を出しそうになって、引っ込めた。
言い直した瞬間、胸が跳ねる。
梶山が小さく頷く。
「そういう返事、好き」
「……今、さらっと言うな」
「さらっとじゃない」
そう言われて、俺の方が困る。
劇的じゃないのに、こういうのが一番ずるい。
俺の小さい「嫌いじゃない」を、ちゃんと“いい”に変えられる。
*
浅野が紙袋からパンを出して机に置いた。
「……昼。食え。」
梶山が袋の中を俺に見せた。
「選べ」
「……」
「迷うな。溶ける」
“溶ける”って言い方が妙にツボで、笑いそうになってこらえた。
「……それ」
指差すと、梶山はそれを取って俺に渡した。
「ほい」
いつも通りみたいに渡されて、俺だけが変に意識する。
「……ありがと」
言うと、変なの言う部員がすぐ反応する。
「今、ありがとう言った! この部室、成長装置!」
静かな方が小さく言う。
「祝嶺、礼儀ある」
「礼儀って言うな」
俺が言うと、梶山が被せた。
「祝嶺は元からそう」
元から。
そう言われると、救われるみたいで、怖いみたいで、胸が忙しい。
パンをかじったところで、変なの言う部員が唐突に言った。
「なあ、部の名簿作ろうぜ。年度で並べたら見やすいし。祝嶺、入学、何年度?」
空気が一瞬、乾いた。
喉の奥が詰まって、パンが紙みたいにぱさつく。
年度。数字。並べる。――見つかる。
俺が返事を探す前に、梶山が先に言った。
「名簿に年度はいらない。学年だけで足りる」
止め方が速い。でも押しつけない。
息が、戻る。
「え、でもさ。年度で並べたらキレイじゃん」
「キレイのために余計な情報集めるな」
梶山の声は低くない。淡々としてるだけだ。
浅野が目を開けて、眠そうに言った。
「……名簿に“見やすさ”求めるな。必要なのは人数と担当。以上」
「以上!」
誰かがすぐ真似して、浅野が指先だけで追い払う。
「……静かにしろ」
笑いが起きる。
俺は笑えない。
でも、梶山が止めたことだけが胸に残る。
守られたくないのに、守られると――増える。
最悪だ。
梶山が、俺にだけ聞こえる声で言った。
「悪い。今の、刺さった?」
「……別に」
反射で逃げそうになって、飲み込む。
梶山は続けない。
ただ、待つ。待てる距離で。
俺は息を吐いて、小さく言った。
「……嫌だった」
「うん」
短く頷く。
「分かった」
それだけ。掘らない。笑わない。
ただ受け取る。
その受け取り方で、胸の奥がきゅっと鳴って、俺は目を逸らした。
*
午後。
展示パネルは形になって、印刷の段階に入る。
梶山がプリンタのある棚を指差す。
「これ、印刷して切る」
“印刷”という単語の先に、学生証が浮かぶ。
個人カードの誕生日欄が浮かぶ。喉が乾く。
梶山は俺の顔を見て、ほんの一拍だけ置いた。
「俺がやる」
短い。でも、“無理しなくていい”が混じってる。
「……俺もやる」
口が勝手に言った。言った瞬間、後悔が追いかけてくるのに止められない。
梶山が一瞬だけ眉を上げた。驚いた顔。それが胸をくすぐる。
「……無茶はすんな」
「無茶じゃない」
「無茶に見える時がある」
言い方が、優しい方の刺さり方だった。
「じゃあ――一緒」
さらっと言われて、喉の奥が熱くなる。
一緒、って二文字が、俺の中の線を少しだけ柔らかくする。
プリンタの前で、梶山がデータを開く。
俺は横で紙を揃える。揃える作業は落ち着く。落ち着くのが怖い。
印刷が始まって、紙が吐き出される音がする。
ただの音なのに心臓がそれに合わせて跳ねる。
「祝嶺」
「……なに」
「手、冷やせ」
梶山が、冷えた缶を俺の手元に置いた。
「さっき、自販機で」
“持っとけ”じゃない。今日は違う言い方。
それだけで、俺は少しだけ楽になる。
缶を握ると、冷たさが指先から胸に落ちていく。
「……ありがと」
「うん」
それだけ。
それだけで、胸が跳ねる。
机に戻って、梶山が定規を押さえる位置を示す。
「ここ。手、刃の前に出すな」
「……分かった」
「“分かった”って言えた」
「うるさい」
「うるさくない。……いい」
俺は笑いそうになって、缶の水滴を指でなぞった。
触れないギリギリの距離で、指先が近い。
触れないのに、近い。
好きになる瞬間が増えていく。
増えるほど、秘密の匂いも濃くなる。
それでも今日、俺は逃げてない。
*
夕方。
作業は一区切りついて、部室の机の上が少しだけ綺麗になった。
浅野が目を覚まして、眠そうに言う。
「……今日、終わり。片付け。以上」
「以上〜」
また真似されて、浅野が「帰れ」とだけ言う。
部員たちが先に帰る準備を始める。
静かな方が小さく会釈した。
「おつかれ」
変なの言う方が手を振る。
「祝嶺、また来いよ。鉄研、平和だから」
「平和じゃない」
梶山が即答して、部員が笑って出ていく。
浅野も「鍵閉めるぞ」と廊下へ出た。
残ったのは――梶山と俺。
片付けの途中なのに、空気がもう“二人”に寄ってしまう。
梶山が机の上のパネルを指で叩く。
「良い」
「……何が」
「文章。見やすい。……助かった」
助かった、が胸の奥に落ちる。
「……向いてない」
反射で言うと、梶山が首を少し傾けた。
「じゃあ何」
「……分かんない」
嘘じゃない。
分かんないって言えたことに、自分で驚く。
梶山が少しだけ息を吐く。
「分かんなくていい。今は」
その言い方が、救いで、怖い。
「……さっき、止めてくれて」
俺が言う。誕生日の話。
梶山は頷く。
「踏まれたくなかっただけ」
「……俺が?」
「祝嶺が」
主語をはっきり言う。逃げ道がない。
でも、その“逃げ道のなさ”が、今日は少し温かい。
*
校舎を出ると、夕方の熱がまだ残っていた。
空は明るいのに、風だけ少し変わってる。
「今日、来てよかった?」
梶山が聞く。質問は軽いのに意味は重い。
「……よかった」
小さく言った。言った瞬間、心臓が跳ねた。
でも、逃げなかった。
梶山がほんの少し口元を緩める。
「うん。俺も」
“俺も”が胸に刺さる。痛いのに、嫌じゃない。
角を曲がるところで、梶山が言った。
「夏休み、また作業ある」
「……」
「来いとは言わない」
ずるい言い方。
「でも、来たら嬉しい」
嬉しい、って言葉を梶山が使うのが反則だ。
俺は返事ができなくて、缶を握り直した。冷たさが時間に負けて、少しずつぬるくなっていく。
*
家に着いて、学生証を裏返す。見ない。見せない。
でも今日は、裏返した手が少しだけ落ち着いていた。
スマホが震える。
梶山:
「今日はありがと。パネル、文化祭で目立つ」
文字が残る。残るのが怖い。
でも、残ってほしい気持ちもある。
俺は短く打つ。
「おつ。……助かった」
送信。既読。
少し間が空いて、返ってくる。
「それなら、いい」
その“いい”が、今日いちばん優しかった。
胸が跳ねて、悔しいのに、笑ってしまった。
――作業は、ただの作業じゃない。
気づいてしまった。
“二人の時間”が、少しずつ形になって残っていく。
残っていくほど、秘密の匂いも濃くなる。
それでも俺は、今日みたいな日をもう一回って思ってしまう。
その気持ちが、いちばん危ない。
でも――この危なさを、嫌だと思えない自分がいる。
八月は、思ったより早く過ぎた。
もう一度だけ鉄研に顔を出して、帰り道は少しだけ近かった。
LINEは増やさないようにしてるのに、隣に座る予感だけが増えていく。
夏休みが終わって、教室に戻る日が来る。
同じ席。
同じ“同級生”。
それが、怖い。
でも――逃げないで座れる気もしてしまう。
長いはずの夏が、もう終わりに向かっていた。
